2008/08/15
春庭ことばのYa!ちまた>今日の確認
『日本国憲法前文 第二段』
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。
われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
『日本国憲法第9条』
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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春庭「レクイエムびるまの竪琴」
2008/08/15
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムびるまの竪琴(1)ビルマ
東南アジア諸国のなかで、タイ、フィリピン、ベトナムなどに比べるとなじみのない、現在のミャンマー。ミャンマーといっても、どこにあるか思い浮かばない世代の方、ビルマではどうだろうか。
現政権の軍事独裁政権に反対している人々は、今も自国を「ビルマ」と呼んでいる。
寒い時、「さぶい」と言う人と「さむい」と言う人があるように、mとbは交替可能な発音であり、「ビルマ・ミャンマー」は、発音は異なっても、同じものを指し示している。「ニホン・ニッポン」のようなもの。
英語の Burmaバーマも、中国語の緬甸(Mian diàn)も、語源は同じ。
ミャンマーについて、日本の人に知られていることといえば、、、、
民主化闘争のスーチーさんを弾圧し軟禁状態にしていること、2007年に軍兵士によって、ジャーナリスト長井健司さんが射殺されたこと。
かって、ビルマという国名で日本の人が思い浮かべたことといえば、圧倒的に『ビルマの竪琴』だった。
私は、竹山道雄の『ビルマの竪琴』を、学校図書館にあった本で読んだ。
小学校何年生だったのか忘れたけれど、安田昌二が水島上等兵を演じた映画も見た。
安田昌二の水島上等兵の印象が強かったせいか、市川崑監督が1985年に中井貴一を水島に起用して自らリメイクした作品を見ることはなかった。
リメイク作品公開から後、13年後の今年、市川崑 が2008年2月13日に亡くなり、2月15日に、追悼放映された『ビルマの竪琴』を見た。
原作者の竹山道雄は、ビルマへ行ったことも、従軍体験をしたこともない人であり、一高教授、大学教授としてドイツ文学研究などに携わってきた。
『ビルマの竪琴』は、竹山道雄にとって唯一の「長編児童文学」であり、作者のあとがきとして「自分はビルマに行ったことがないが、復員した人の話を聞いた。ビルマに残された白骨化したままに放置されている日本軍兵士の話などをきいて、小説にしあげた」という意味のことばを書いている。
だから、ビルマ文化のや風俗の記述において、正確な記述ではないとしても、そこを責められるべきとは思わない。
ただ、ひとつ、決定的な問題点は、ビルマ仏教では、僧侶が音楽に携わることは戒律で禁じられており、僧衣を着たものが竪琴を鳴らすことはあり得ない、ということ。
水島が復員兵たちに書き残した手紙によれば、部隊とのお別れの前に、水島は正式に僧侶になっている。
日本に復員する井上部隊の兵たちにお別れを告げる水島上等兵は、「仰げば尊し」を奏でて、「帰るわけにはいかない」という心中を吐露する。
正式な僧侶であるならば、戒律を破ることは僧をやめることになり、人前で竪琴を弾くことはあり得ない。
<つづく>
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2008年08月16日
ぽかぽか春庭「ビルマ仏教」
2008/08/16
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムびるまの竪琴(2)ビルマ仏教
竹山が想像でビルマを書いたことは、小説作法として責められはしないのだが、この決定的な部分だけは、書き直したほうがよかったと思う。
ビルマの人がこの部分を読んで感じるのは「ビルマ仏教への冒涜」になるからだ。
映画的な脚色として、正式な僧侶になるのは、部隊と別れてから、ということにしてもよかったのだろうが、そうしていないのは、脚本家も監督も「ビルマの僧にとって、音楽は破戒である」ということを、少しも気にしていなかったから。
1956年にはもちろん、1985年当時も、それほどビルマは日本にとって遠い存在だった。
市川崑監督の『ビルマの竪琴』は、映画としてよくできていると思う。
このお話では、音楽学校出身の井上隊長指導の合唱が物語の要になっている。
また、水島上等兵の奏でる竪琴の音が、ストーリーの推進役だから、本を読んだとき以上に音楽の持つ力が身に染みた。
それだけに、「あれでは、ビルマ仏教にとって破戒僧」という点が残念至極。
1985年リメーク版をみたとき、1956年の映画をみたときにはわからなかったことが、いくつか、私には気になった。
画面をみて、すぐに「あ、このロケ地はミャンマーではなくてタイだな、この石造りの寺院もタイのお寺だな」とわかった。
2005年にタイへいき、アユタヤの寺院などを見たせいもあるだろうし、ここ数年つづけてミャンマーからの留学生を受け持ち、ミャンマーとタイの文化風俗の差について詳しくなった、という理由もあるだろう。
たとえば、水島上等兵が僧侶になって着る僧衣は、タイ仏教式の着付け方であり、ビルマ僧の着付け方ではない。
ミャンマーの人がみれば、「このお坊さんのふりをしている人は、タイから来たのか、それともどこかの部隊からの脱走兵なのか。少なくともビルマ人ではない」と、すぐにわかるらしい。
すぐに脱走兵とわかる水島の僧衣であっても、食べ物を寄進するほど、ビルマの人々は深く仏教に帰依している、ということもできるし、並んで托鉢に歩くお坊さんたちがそろって「タイからやってきた、タイ式着付けのお坊さんの集団」であっても、やはり自分たちの食べ物を削ってもお坊さまたちに米でも野菜でも報謝するだろう。
このように信心深いビルマの人々を描くにあたって、原作と映画で描き方がことなっていて、不満な点がある。
1956年版と1985年リメーク版の両方に同じ役で出演している唯一の人、北林谷栄。
彼女は、カタコトの日本語ができるビルマ人老婆の役で、井上部隊に野菜やバナナを運び、物々交換で靴下やナイフなど、日本製の品物と取りかえる。
この老婆の描き方も、ビルマの人々にとっては、残念に思われる人物像なのだ。
<つづく>
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2008年08月17日
ぽかぽか春庭「ビルマの喜捨生活」
2008/08/17
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムびるまの竪琴(3)ビルマの喜捨生活
老婆が日本兵と取りかえた日本製品は、ビルマでは高額で売れるものばかり。野菜やバナナはただ同然。交換風景だけを映画にしたなら、老婆はあこぎな商売をしているように、ビルマ人には見えてしまう。
原作では「ビルマ人は、少しでも余裕があれば、お寺に寄進します」と書かれていて、この老婆も持ち金はお寺に寄付すると書かれている。
しかし映画では、老婆がもうけた金をすべてお寺に寄進してしまうところは描かれていなかった。
1956年版のは、もう細部を思い出せないので、もしかしたら、旧版にはあったのかもしれないが、1985年リメーク版では老婆の寄進シーンは、少なくともテレビ放映ではなかった。
そうすると、老婆は、ただ金儲けのために売り買いをする、がめつい商売人に見えてしまい、やはりビルマ人からみると、「ビルマ仏教文化への侮辱」に感じられるという。
そんな、がめつい人は、ビルマ人じゃないって思うのだって。
商売をして儲けがでたら、自分が食べるためにとっておくほかは、寺院へ寄進する、というのがビルマ人の生き方であり、自分だけがうまいものを食べたりよい服をきたりしたところで、そんなことは軽蔑の対象になるだけで、まわりの人から尊敬されない。
回りの人の尊敬を得られなければ、生きていても無意味であり、幸福な人生とは言えない。
北林谷栄が演じた老婆の描かれ方は、ビルマの人々にとっては、「商売だけしているあのような人がビルマ人の代表のように思われたら恥ずかしい」と、感じてしまうらしい。
せめて、1シーンでもいいから、老婆がお寺でお坊さんに寄進するシーンを入れて欲しかった。
ビルマ人の生活を反映できる程度には「ビルマ仏教文化」を画面に映して欲しい。
ビルマ人の生きかたを誤解させてしまうのであれば、せっかくビルマを舞台にした映画を撮影してはいるのに、残念なことだ。
もちろん、ビルマ人のなかにも「ガメツイ人」「したたかな人」はいるにちがいない。しかし、ビルマ人にとって「仏教精神をもって生き、一生を利他の心ですごす」のがの自己イメージなのだ。
異文化理解について学生に教えることも仕事の大切な一部である私にとっては、「ある国に関わる表現をするならば、その国と国民を尊び、文化や生活を尊重し、その国の人々が納得できる画面を撮影してほしい」ということが、私の願いです。
<つづく>
11:19 コメント(7) ページのトップへ
2008年08月18日
ぽかぽか春庭「王様とわたし」
2008/08/18
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムびるまの竪琴(4)王様とわたし
映画では北林谷栄が演じた「日本婆さん」について原作(新潮文庫版)では、
「このばあさんは、信心深いビルマ人の中でもことに信心深い人でした。日本軍の御用商人のようになってずいぶんもうけたはずなのに、それをみなお寺に寄付してしまって、自分はいつも貧乏でした」と、書いてある。
映画は、この「ビルマ人婆さん」の姿を「ただのがめつい商売人」に脚色したことになる。
竹山道雄は、巻末の「ビルマの竪琴ができるまで」に、自分がビルマの社会風俗について何も知らず、『世界地理風俗体系』や「ビルマ写真帖」を参考にした」と、述べている。
また、1952年には、『ビルマの竪琴』英訳本を読んだビルマ人新聞記者に、「宗教関係にまちがったところがあるが、ビルマ人は宗教についてきわめて敏感だから、この本をビルマに紹介するときにはこの点に気をつけるように」といわれたと書いている。
竹山自身、自分の記述に間違いが多かったと承知していたのであり、ビルマ文化ビルマ仏教について間違っている点を改める必要があることを認識していたのだ。
原作では、水島は肩の上にオウムをのせて連れ歩いているとなっていたことについて。リメイク版の映画では、水島が連れているビルマ人少年がオウムを肩にのせて歩いていた。
「出家者は、鳥や動物を肩にのせたりしない」という点については、ビルマ人仏教文化を考慮したことが伺える。
「お別れの竪琴を弾くシーンのあとに得度する」という脚色をすることを、市川が考慮したのかどうか。
そのようなことはまったく気にしなかったのか、考慮した上であえて無視したのか、私にはわからないことであるけれど、せっかくビルマと日本をつなぐ映画となる可能性があったのに、このままではビルマの人には見てもらえない映画になってしまっていることは残念です。
その国の人に見せたら、侮辱することになってしまうという映画、たとえば『王様と私』
タイのチュラロンコン王がモデルとなっている『王様と私』は、私も好きな映画のひとつ。ダンスシーンも楽しい。私には、ユル・ブリンナーのシャム王が印象深い。
リメーク版の『アンナとシャム王』も作られた。
しかし、タイの人にとって、シャム王とイギリス人家庭教師の女性がダンスを踊ることなど、とても考えられないことであり、タイ宮廷に対する侮辱、と受け取られる。
『王様と私』『アンナとシャム王』、両作ともにタイ国内での上映は、今も禁止。
日本人や欧米人が、「王様だって、外国人女性とダンスしたっていいじゃないの」と思うとしたら、それはただ自分たちの文化の価値観を異文化に対して押しつけているだけのこと。
伊勢神宮のなかで、天皇が外国人女性を侍らせて、酒を飲んでどんちゃん騒ぎをし、歌って踊るシーンを含む映画が撮影されて、「これが天皇が伊勢神宮にお参りするようすです」と、外国に紹介されたとします。
「日本人は、天皇が酒飲んで伊勢神宮のなかで歌って踊ることもあるだろうよ、と、理解を示しますか。そんなことはありえない、と思うんじゃないですか」と、タイの国王夫妻を尊敬するタイ人留学生は言う。
「タイの王様が外国人女性とダンスを踊るのは、日本人にとっての、伊勢神宮でのどんちゃん騒ぎ、のようなものです」
「ザ・ディ・アフター・トゥモロー」に描かれた東京市街光景のあまりのでたらめさに、これは日本をおちょくるために、わざとこれほどキッチュな風景にしているのか、と思うほどだったことについて
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/kotoba0702b.htm
に書いたのでご笑読あれ。
ハリウッドが描くアジアやアフリカなど、偏見と独断にみちた描写ばかりであるのに比べれば、『ビルマの竪琴』に描かれたビルマは、まだしも良心的なのかもしれない。
また、『ビルマの竪琴』は、日本で上映するための映画であり、日本人はビルマとタイの仏教の差など気にしていないから、そんな細かいところまで気にすることはない、というのも、制作側のひとつの考え方であるだろう。
市川崑監督の作品として、画面の映像の作られ方はとてもすばらしい。それだけに、ビルマ文化をもう少し考慮した脚色があったなら、ビルマでの上映も可能になったのにと、惜しく思う。
<つづく>
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2008年08月19日
ぽかぽか春庭「泰緬鉄道」
2008/08/19
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムびるまの竪琴(4)泰緬鉄道
『ビルマの竪琴』の映画を見た人に、東南アジアの光景の美しさに心あらわれ、音楽の美しさに心うたれる。
景色も音楽も美しいために、よりいっそう三角山の戦闘場面のあとに残された日本人兵士の死体の山は大きな衝撃をもって受け取られたことと思う。
しかし、日本人戦死以上に、ビルマには大きな死体の山があった。別のストーリーであるから、映画ではこちらの死については語られない。
日本がビルマの地に強硬敷設した泰緬鉄道(タイビルマ国境鉄道)のために、タイ人18万人、ビルマ人18万人、マレー人8万人、マレーインド人4万人が徴用された。
これらアジア人徴用労働者「ロームシャ」の多くが死んでいったのである。
日本軍が徴用労働者を「労務者」と呼んだことから、インドネシア語で「Romushaロームシャ」というのは「強制労働させられる」という意味の外来語になっている。
連合国の捕虜6万2千人も鉄道建設の労働に当てられて、うち1万2619人が死亡した。英語圏では、この鉄道は「泰緬鉄道Thai-Burma Railway 」ではなく、「死の鉄道Death Railway」という名で知られている。
捕虜の死者数は、連合国側の調査ではっきりしているが、ロームシャの死者は、調査が行き届かず、一説では約半数が亡くなったと言われている。
鉄道建設にあたった徴用労働者は、ひどい労働環境と栄養不足のために、コレラが流行すると半数は病死してしまったのだ。25万人の死屍累々。
戦闘によって戦死した兵士も、死にたくて死んだのではないだろうが、強制労働につかされたあげくコレラで死ぬことになった人々も、死にたくて死んだのではない。
この強制労働に対しても、強制ではない、労働者募集に応募してきた現地人を採用した正式な労働契約である、という説を述べる人もいる。
沖縄戦末期の住民自害に対して「あれは、住民が自主的に死を選んだのだ。軍の命令ではない」と反論した軍関係者遺族との論争があったのと同じ経緯と私は思う。
少なくとも、日本で、ひとつの工場に勤務する労働者の半数が死に至るような工場があったとして、その労働条件が妥当だったと言い切れる労務管理者がいるだろうか。
「鉄道建設を行った徴用労働者=ロームシャのうち死に至った人々も、日本軍によって死に追いやられた人々だ」と私は思うし、これらの人々も供養してやらなければ、せっかくの水島の「亡き人々を弔うためにビルマに残る」という決意も、ビルマの人々の心には伝わらないだろう。
ビルマにおける日本人戦没者数は14万人にのぼるという。しかし、その数を上回る15万人のビルマ人が、戦争のために亡くなっている。
戦争による非戦闘員死者は、太平洋戦争でも中国戦線でも、各地に被害を広げていた。
1938~1943年に繰り返された重慶空爆。アジアで最初の無差別爆撃であり、非戦闘員市民を巻き込んで多数の犠牲者がでた。太平洋戦争末期、米軍の空爆によって、多数の日本市民が犠牲になったことは、語り継いでいくべきと思うが、アジアで無差別空爆をはじめたのは、日本軍であることも忘れてはいけない。
日本軍初年兵は、「度胸をつけさせる」という訓練のために、銃剣で生きている人を突き刺すよう、命令された。
南洋の島で、補給を断たれた兵士が、飢えに耐えかねて、一本のバナナやキャッサバ芋をめぐって現地の人を殺してしまった、ということも起きた。
私は1994年7月に、現在は博物館になっているハルピンの元七三一部隊実験室を訪問した。
また、平頂山博物館を訪れた。平頂山にある村で、女性も赤ん坊も全員が虐殺されたときの折り重なって死んでいる死体をそのまま展示している。
平頂山事件についてウィキペディア解説
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%A0%82%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6
(平頂山事件について、本多勝一『中国の旅』1972などの著作を参照してください)
広島長崎など、戦争の犠牲となった日本の方々を悼むとともに、これらのアジア全域にわたる戦争の犠牲者への思いも深くしたい。
8月、日本の夏は死者をとむらう日々が続く。
戦争で亡くなった人、空襲や原爆で亡くなった人を弔うと同時に、日本がアジア各地で死に至らしめた数百万人の人々にも思いをこめる夏にすべく、私は祈り続けたい。
<おわり>
もんじゃ(文蛇)の足跡:
>投稿者shimin21( 2008-08-19 06:46)
シナの傀儡のような本田勝一に平和を語る資格はないと私は思っている。問題を誇張することが本当に平和を願う態度か疑問を持っている。真実を語ることはやぶさかではない、しかし、日本が悪いことしたというだけで平和が達成できるのでしょうか・・・?>
拙文をUPした直後のコメントをありがとうございます。はじめましてshimin21さん。
カフェ日記タイトルをチェックし、戦争に関わりそうなタイトルがあるとすかさずコメントを入れる方々がいるのは知っておりましたが、ほんとにすばやい反応で、びっくり。
春庭は、ただ、亡くなった方々のために祈りたいだけです。
世の中には、本多勝一が嫌いという方もいるだろうし、先の戦争について「悪いことをした」と書くことに心おだやかでない方もいるでしょう。いろいろな意見を出し合うことは必要です。
ただ、論争したい方がいたら、ここではなく、他にサイトをたてておこなってください。
この文章は、論争提起のためでなく、静かな祈りのために書きましたので。(2008-08-19 07:20)
simin21さんの日記冒頭にある文章
>日本の文化や歴史が占領史観によってゆがめられ、捏造されてきました。この間違った歴史観を正していく行動を国民の側から進めなければなりません。私たちはこの書き込みの中で考えを同じくする人たちがネットワークをつくり、未来の日本のために正しい文化と伝統及び歴史を広めることを心がけて行こうと思います。それには憲法を改正し、自主憲法を創ることが必要です。
人権擁護法案に反対する!
北朝鮮の日本人「拉致」をゆるすな!>
という文と、春庭の考え方が異なることは、過去ログをよんでいただければわかることなので、いくら論争しても、一致点は見いだせないでしょう。
8月15日の「確認」に書いた通り、春庭は、9条を守りたいと考える者です。
挑発にのってあげられるほど暇でなくて、ごめんなさいね。
以後、この件に関してsimin21さんやそのお仲間さん方のコメント不要です。ご自身のサイト内で、ご自由に「間違った歴史観」を正すべく論争してください。(2008-09-19 07:40)
春庭ことばのYa!ちまた>今日の確認
『日本国憲法前文 第二段』
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。
われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
『日本国憲法第9条』
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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春庭「レクイエムびるまの竪琴」
2008/08/15
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムびるまの竪琴(1)ビルマ
東南アジア諸国のなかで、タイ、フィリピン、ベトナムなどに比べるとなじみのない、現在のミャンマー。ミャンマーといっても、どこにあるか思い浮かばない世代の方、ビルマではどうだろうか。
現政権の軍事独裁政権に反対している人々は、今も自国を「ビルマ」と呼んでいる。
寒い時、「さぶい」と言う人と「さむい」と言う人があるように、mとbは交替可能な発音であり、「ビルマ・ミャンマー」は、発音は異なっても、同じものを指し示している。「ニホン・ニッポン」のようなもの。
英語の Burmaバーマも、中国語の緬甸(Mian diàn)も、語源は同じ。
ミャンマーについて、日本の人に知られていることといえば、、、、
民主化闘争のスーチーさんを弾圧し軟禁状態にしていること、2007年に軍兵士によって、ジャーナリスト長井健司さんが射殺されたこと。
かって、ビルマという国名で日本の人が思い浮かべたことといえば、圧倒的に『ビルマの竪琴』だった。
私は、竹山道雄の『ビルマの竪琴』を、学校図書館にあった本で読んだ。
小学校何年生だったのか忘れたけれど、安田昌二が水島上等兵を演じた映画も見た。
安田昌二の水島上等兵の印象が強かったせいか、市川崑監督が1985年に中井貴一を水島に起用して自らリメイクした作品を見ることはなかった。
リメイク作品公開から後、13年後の今年、市川崑 が2008年2月13日に亡くなり、2月15日に、追悼放映された『ビルマの竪琴』を見た。
原作者の竹山道雄は、ビルマへ行ったことも、従軍体験をしたこともない人であり、一高教授、大学教授としてドイツ文学研究などに携わってきた。
『ビルマの竪琴』は、竹山道雄にとって唯一の「長編児童文学」であり、作者のあとがきとして「自分はビルマに行ったことがないが、復員した人の話を聞いた。ビルマに残された白骨化したままに放置されている日本軍兵士の話などをきいて、小説にしあげた」という意味のことばを書いている。
だから、ビルマ文化のや風俗の記述において、正確な記述ではないとしても、そこを責められるべきとは思わない。
ただ、ひとつ、決定的な問題点は、ビルマ仏教では、僧侶が音楽に携わることは戒律で禁じられており、僧衣を着たものが竪琴を鳴らすことはあり得ない、ということ。
水島が復員兵たちに書き残した手紙によれば、部隊とのお別れの前に、水島は正式に僧侶になっている。
日本に復員する井上部隊の兵たちにお別れを告げる水島上等兵は、「仰げば尊し」を奏でて、「帰るわけにはいかない」という心中を吐露する。
正式な僧侶であるならば、戒律を破ることは僧をやめることになり、人前で竪琴を弾くことはあり得ない。
<つづく>
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2008年08月16日
ぽかぽか春庭「ビルマ仏教」
2008/08/16
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムびるまの竪琴(2)ビルマ仏教
竹山が想像でビルマを書いたことは、小説作法として責められはしないのだが、この決定的な部分だけは、書き直したほうがよかったと思う。
ビルマの人がこの部分を読んで感じるのは「ビルマ仏教への冒涜」になるからだ。
映画的な脚色として、正式な僧侶になるのは、部隊と別れてから、ということにしてもよかったのだろうが、そうしていないのは、脚本家も監督も「ビルマの僧にとって、音楽は破戒である」ということを、少しも気にしていなかったから。
1956年にはもちろん、1985年当時も、それほどビルマは日本にとって遠い存在だった。
市川崑監督の『ビルマの竪琴』は、映画としてよくできていると思う。
このお話では、音楽学校出身の井上隊長指導の合唱が物語の要になっている。
また、水島上等兵の奏でる竪琴の音が、ストーリーの推進役だから、本を読んだとき以上に音楽の持つ力が身に染みた。
それだけに、「あれでは、ビルマ仏教にとって破戒僧」という点が残念至極。
1985年リメーク版をみたとき、1956年の映画をみたときにはわからなかったことが、いくつか、私には気になった。
画面をみて、すぐに「あ、このロケ地はミャンマーではなくてタイだな、この石造りの寺院もタイのお寺だな」とわかった。
2005年にタイへいき、アユタヤの寺院などを見たせいもあるだろうし、ここ数年つづけてミャンマーからの留学生を受け持ち、ミャンマーとタイの文化風俗の差について詳しくなった、という理由もあるだろう。
たとえば、水島上等兵が僧侶になって着る僧衣は、タイ仏教式の着付け方であり、ビルマ僧の着付け方ではない。
ミャンマーの人がみれば、「このお坊さんのふりをしている人は、タイから来たのか、それともどこかの部隊からの脱走兵なのか。少なくともビルマ人ではない」と、すぐにわかるらしい。
すぐに脱走兵とわかる水島の僧衣であっても、食べ物を寄進するほど、ビルマの人々は深く仏教に帰依している、ということもできるし、並んで托鉢に歩くお坊さんたちがそろって「タイからやってきた、タイ式着付けのお坊さんの集団」であっても、やはり自分たちの食べ物を削ってもお坊さまたちに米でも野菜でも報謝するだろう。
このように信心深いビルマの人々を描くにあたって、原作と映画で描き方がことなっていて、不満な点がある。
1956年版と1985年リメーク版の両方に同じ役で出演している唯一の人、北林谷栄。
彼女は、カタコトの日本語ができるビルマ人老婆の役で、井上部隊に野菜やバナナを運び、物々交換で靴下やナイフなど、日本製の品物と取りかえる。
この老婆の描き方も、ビルマの人々にとっては、残念に思われる人物像なのだ。
<つづく>
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2008年08月17日
ぽかぽか春庭「ビルマの喜捨生活」
2008/08/17
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムびるまの竪琴(3)ビルマの喜捨生活
老婆が日本兵と取りかえた日本製品は、ビルマでは高額で売れるものばかり。野菜やバナナはただ同然。交換風景だけを映画にしたなら、老婆はあこぎな商売をしているように、ビルマ人には見えてしまう。
原作では「ビルマ人は、少しでも余裕があれば、お寺に寄進します」と書かれていて、この老婆も持ち金はお寺に寄付すると書かれている。
しかし映画では、老婆がもうけた金をすべてお寺に寄進してしまうところは描かれていなかった。
1956年版のは、もう細部を思い出せないので、もしかしたら、旧版にはあったのかもしれないが、1985年リメーク版では老婆の寄進シーンは、少なくともテレビ放映ではなかった。
そうすると、老婆は、ただ金儲けのために売り買いをする、がめつい商売人に見えてしまい、やはりビルマ人からみると、「ビルマ仏教文化への侮辱」に感じられるという。
そんな、がめつい人は、ビルマ人じゃないって思うのだって。
商売をして儲けがでたら、自分が食べるためにとっておくほかは、寺院へ寄進する、というのがビルマ人の生き方であり、自分だけがうまいものを食べたりよい服をきたりしたところで、そんなことは軽蔑の対象になるだけで、まわりの人から尊敬されない。
回りの人の尊敬を得られなければ、生きていても無意味であり、幸福な人生とは言えない。
北林谷栄が演じた老婆の描かれ方は、ビルマの人々にとっては、「商売だけしているあのような人がビルマ人の代表のように思われたら恥ずかしい」と、感じてしまうらしい。
せめて、1シーンでもいいから、老婆がお寺でお坊さんに寄進するシーンを入れて欲しかった。
ビルマ人の生活を反映できる程度には「ビルマ仏教文化」を画面に映して欲しい。
ビルマ人の生きかたを誤解させてしまうのであれば、せっかくビルマを舞台にした映画を撮影してはいるのに、残念なことだ。
もちろん、ビルマ人のなかにも「ガメツイ人」「したたかな人」はいるにちがいない。しかし、ビルマ人にとって「仏教精神をもって生き、一生を利他の心ですごす」のがの自己イメージなのだ。
異文化理解について学生に教えることも仕事の大切な一部である私にとっては、「ある国に関わる表現をするならば、その国と国民を尊び、文化や生活を尊重し、その国の人々が納得できる画面を撮影してほしい」ということが、私の願いです。
<つづく>
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2008年08月18日
ぽかぽか春庭「王様とわたし」
2008/08/18
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムびるまの竪琴(4)王様とわたし
映画では北林谷栄が演じた「日本婆さん」について原作(新潮文庫版)では、
「このばあさんは、信心深いビルマ人の中でもことに信心深い人でした。日本軍の御用商人のようになってずいぶんもうけたはずなのに、それをみなお寺に寄付してしまって、自分はいつも貧乏でした」と、書いてある。
映画は、この「ビルマ人婆さん」の姿を「ただのがめつい商売人」に脚色したことになる。
竹山道雄は、巻末の「ビルマの竪琴ができるまで」に、自分がビルマの社会風俗について何も知らず、『世界地理風俗体系』や「ビルマ写真帖」を参考にした」と、述べている。
また、1952年には、『ビルマの竪琴』英訳本を読んだビルマ人新聞記者に、「宗教関係にまちがったところがあるが、ビルマ人は宗教についてきわめて敏感だから、この本をビルマに紹介するときにはこの点に気をつけるように」といわれたと書いている。
竹山自身、自分の記述に間違いが多かったと承知していたのであり、ビルマ文化ビルマ仏教について間違っている点を改める必要があることを認識していたのだ。
原作では、水島は肩の上にオウムをのせて連れ歩いているとなっていたことについて。リメイク版の映画では、水島が連れているビルマ人少年がオウムを肩にのせて歩いていた。
「出家者は、鳥や動物を肩にのせたりしない」という点については、ビルマ人仏教文化を考慮したことが伺える。
「お別れの竪琴を弾くシーンのあとに得度する」という脚色をすることを、市川が考慮したのかどうか。
そのようなことはまったく気にしなかったのか、考慮した上であえて無視したのか、私にはわからないことであるけれど、せっかくビルマと日本をつなぐ映画となる可能性があったのに、このままではビルマの人には見てもらえない映画になってしまっていることは残念です。
その国の人に見せたら、侮辱することになってしまうという映画、たとえば『王様と私』
タイのチュラロンコン王がモデルとなっている『王様と私』は、私も好きな映画のひとつ。ダンスシーンも楽しい。私には、ユル・ブリンナーのシャム王が印象深い。
リメーク版の『アンナとシャム王』も作られた。
しかし、タイの人にとって、シャム王とイギリス人家庭教師の女性がダンスを踊ることなど、とても考えられないことであり、タイ宮廷に対する侮辱、と受け取られる。
『王様と私』『アンナとシャム王』、両作ともにタイ国内での上映は、今も禁止。
日本人や欧米人が、「王様だって、外国人女性とダンスしたっていいじゃないの」と思うとしたら、それはただ自分たちの文化の価値観を異文化に対して押しつけているだけのこと。
伊勢神宮のなかで、天皇が外国人女性を侍らせて、酒を飲んでどんちゃん騒ぎをし、歌って踊るシーンを含む映画が撮影されて、「これが天皇が伊勢神宮にお参りするようすです」と、外国に紹介されたとします。
「日本人は、天皇が酒飲んで伊勢神宮のなかで歌って踊ることもあるだろうよ、と、理解を示しますか。そんなことはありえない、と思うんじゃないですか」と、タイの国王夫妻を尊敬するタイ人留学生は言う。
「タイの王様が外国人女性とダンスを踊るのは、日本人にとっての、伊勢神宮でのどんちゃん騒ぎ、のようなものです」
「ザ・ディ・アフター・トゥモロー」に描かれた東京市街光景のあまりのでたらめさに、これは日本をおちょくるために、わざとこれほどキッチュな風景にしているのか、と思うほどだったことについて
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/kotoba0702b.htm
に書いたのでご笑読あれ。
ハリウッドが描くアジアやアフリカなど、偏見と独断にみちた描写ばかりであるのに比べれば、『ビルマの竪琴』に描かれたビルマは、まだしも良心的なのかもしれない。
また、『ビルマの竪琴』は、日本で上映するための映画であり、日本人はビルマとタイの仏教の差など気にしていないから、そんな細かいところまで気にすることはない、というのも、制作側のひとつの考え方であるだろう。
市川崑監督の作品として、画面の映像の作られ方はとてもすばらしい。それだけに、ビルマ文化をもう少し考慮した脚色があったなら、ビルマでの上映も可能になったのにと、惜しく思う。
<つづく>
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2008年08月19日
ぽかぽか春庭「泰緬鉄道」
2008/08/19
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムびるまの竪琴(4)泰緬鉄道
『ビルマの竪琴』の映画を見た人に、東南アジアの光景の美しさに心あらわれ、音楽の美しさに心うたれる。
景色も音楽も美しいために、よりいっそう三角山の戦闘場面のあとに残された日本人兵士の死体の山は大きな衝撃をもって受け取られたことと思う。
しかし、日本人戦死以上に、ビルマには大きな死体の山があった。別のストーリーであるから、映画ではこちらの死については語られない。
日本がビルマの地に強硬敷設した泰緬鉄道(タイビルマ国境鉄道)のために、タイ人18万人、ビルマ人18万人、マレー人8万人、マレーインド人4万人が徴用された。
これらアジア人徴用労働者「ロームシャ」の多くが死んでいったのである。
日本軍が徴用労働者を「労務者」と呼んだことから、インドネシア語で「Romushaロームシャ」というのは「強制労働させられる」という意味の外来語になっている。
連合国の捕虜6万2千人も鉄道建設の労働に当てられて、うち1万2619人が死亡した。英語圏では、この鉄道は「泰緬鉄道Thai-Burma Railway 」ではなく、「死の鉄道Death Railway」という名で知られている。
捕虜の死者数は、連合国側の調査ではっきりしているが、ロームシャの死者は、調査が行き届かず、一説では約半数が亡くなったと言われている。
鉄道建設にあたった徴用労働者は、ひどい労働環境と栄養不足のために、コレラが流行すると半数は病死してしまったのだ。25万人の死屍累々。
戦闘によって戦死した兵士も、死にたくて死んだのではないだろうが、強制労働につかされたあげくコレラで死ぬことになった人々も、死にたくて死んだのではない。
この強制労働に対しても、強制ではない、労働者募集に応募してきた現地人を採用した正式な労働契約である、という説を述べる人もいる。
沖縄戦末期の住民自害に対して「あれは、住民が自主的に死を選んだのだ。軍の命令ではない」と反論した軍関係者遺族との論争があったのと同じ経緯と私は思う。
少なくとも、日本で、ひとつの工場に勤務する労働者の半数が死に至るような工場があったとして、その労働条件が妥当だったと言い切れる労務管理者がいるだろうか。
「鉄道建設を行った徴用労働者=ロームシャのうち死に至った人々も、日本軍によって死に追いやられた人々だ」と私は思うし、これらの人々も供養してやらなければ、せっかくの水島の「亡き人々を弔うためにビルマに残る」という決意も、ビルマの人々の心には伝わらないだろう。
ビルマにおける日本人戦没者数は14万人にのぼるという。しかし、その数を上回る15万人のビルマ人が、戦争のために亡くなっている。
戦争による非戦闘員死者は、太平洋戦争でも中国戦線でも、各地に被害を広げていた。
1938~1943年に繰り返された重慶空爆。アジアで最初の無差別爆撃であり、非戦闘員市民を巻き込んで多数の犠牲者がでた。太平洋戦争末期、米軍の空爆によって、多数の日本市民が犠牲になったことは、語り継いでいくべきと思うが、アジアで無差別空爆をはじめたのは、日本軍であることも忘れてはいけない。
日本軍初年兵は、「度胸をつけさせる」という訓練のために、銃剣で生きている人を突き刺すよう、命令された。
南洋の島で、補給を断たれた兵士が、飢えに耐えかねて、一本のバナナやキャッサバ芋をめぐって現地の人を殺してしまった、ということも起きた。
私は1994年7月に、現在は博物館になっているハルピンの元七三一部隊実験室を訪問した。
また、平頂山博物館を訪れた。平頂山にある村で、女性も赤ん坊も全員が虐殺されたときの折り重なって死んでいる死体をそのまま展示している。
平頂山事件についてウィキペディア解説
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%A0%82%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6
(平頂山事件について、本多勝一『中国の旅』1972などの著作を参照してください)
広島長崎など、戦争の犠牲となった日本の方々を悼むとともに、これらのアジア全域にわたる戦争の犠牲者への思いも深くしたい。
8月、日本の夏は死者をとむらう日々が続く。
戦争で亡くなった人、空襲や原爆で亡くなった人を弔うと同時に、日本がアジア各地で死に至らしめた数百万人の人々にも思いをこめる夏にすべく、私は祈り続けたい。
<おわり>
もんじゃ(文蛇)の足跡:
>投稿者shimin21( 2008-08-19 06:46)
シナの傀儡のような本田勝一に平和を語る資格はないと私は思っている。問題を誇張することが本当に平和を願う態度か疑問を持っている。真実を語ることはやぶさかではない、しかし、日本が悪いことしたというだけで平和が達成できるのでしょうか・・・?>
拙文をUPした直後のコメントをありがとうございます。はじめましてshimin21さん。
カフェ日記タイトルをチェックし、戦争に関わりそうなタイトルがあるとすかさずコメントを入れる方々がいるのは知っておりましたが、ほんとにすばやい反応で、びっくり。
春庭は、ただ、亡くなった方々のために祈りたいだけです。
世の中には、本多勝一が嫌いという方もいるだろうし、先の戦争について「悪いことをした」と書くことに心おだやかでない方もいるでしょう。いろいろな意見を出し合うことは必要です。
ただ、論争したい方がいたら、ここではなく、他にサイトをたてておこなってください。
この文章は、論争提起のためでなく、静かな祈りのために書きましたので。(2008-08-19 07:20)
simin21さんの日記冒頭にある文章
>日本の文化や歴史が占領史観によってゆがめられ、捏造されてきました。この間違った歴史観を正していく行動を国民の側から進めなければなりません。私たちはこの書き込みの中で考えを同じくする人たちがネットワークをつくり、未来の日本のために正しい文化と伝統及び歴史を広めることを心がけて行こうと思います。それには憲法を改正し、自主憲法を創ることが必要です。
人権擁護法案に反対する!
北朝鮮の日本人「拉致」をゆるすな!>
という文と、春庭の考え方が異なることは、過去ログをよんでいただければわかることなので、いくら論争しても、一致点は見いだせないでしょう。
8月15日の「確認」に書いた通り、春庭は、9条を守りたいと考える者です。
挑発にのってあげられるほど暇でなくて、ごめんなさいね。
以後、この件に関してsimin21さんやそのお仲間さん方のコメント不要です。ご自身のサイト内で、ご自由に「間違った歴史観」を正すべく論争してください。(2008-09-19 07:40)