2008/09/25
ぽかぽか春庭やちまた日記>姪の結婚(1)車いすに寄り添って
夫の姉の長女は、大学看護科卒業後、看護師をしています。私にとっては義理の姪。
「車椅子の青年」と結婚することになり、6月に結婚式を行うというお知らせは、3月の法事の前に、姑から聞いていました。
その姪から結婚式の招待状がきたのは4月。
ぜひお祝いしたいと思って、出席すると返信しました。
夫は「法事も結婚式も出ない」という偏屈方針の人間です。亡くなった最愛のお姉さんの長女といえども、結婚式には出席しないというのです。「自分の娘の結婚式も断固出席拒否」という偏屈もの。
姑は6月に検査と胃の治療があり、結婚式の日は入院中でした。私が「母方の親族代理」の形で出席しようと思いました。
ところが。
ジューンブライドを、楽しみにしていたのに、5月20日に骨折してしまいました。
泣き泣き這ってでも仕事に行かねばならず、心身そうとう参ってしまったので、式には欠席するというお知らせを出しました。
「生まれつきの障害」というのが、どのようなことなのか、私は聞かされていませんが、互いに理解し合い、お相手の方と愛をはぐくんだのでしょう。
看護師としてボランティア活動をするなかで知りあい、結婚までたどりついたふたりを式には出席できなかったけれど、遠くから祝福しました。
おめでとうございます。
私とおなじ年生まれのあなたのお母さんにとって、あなたはかけがえのない最初の子供でした。
あなたのお母さんの死から8年がたちます。50歳の誕生日を目前にしての最期でした。
ホスピスで人生最後のひとときをすごしたお母さん。
長女として、妹弟を気遣いながらお母さんの看病に献身し、あなたは看護師をめざすようになったのでしたね。
大学で看護学を学ぶ間、マザーテレサのいた病院をたずねて、インドへ出かけていったと聞いて、あなたの行動力にびっくりしたこともありました。
今は、立派な看護師さんになりました。
心から信頼できるお相手と巡り会い、こうして愛をはぐくんできたことを、お母さんは空から見守っていてくれると思います。
末永くお幸せに。
<つづく>
2008/09/26
ぽかぽか春庭やちまた日記>姪の結婚(2)軽井沢で挙式
8月末、姉の次女の結婚式に出席しました。
ミクシィでの呼び名はペコです。
私は、ぺこが3歳になるころまで、姉とひとつ屋根の下に住んでいましたので、「親戚のおばさん」というよりも「ママといっしょに子育てをしたママ代理」のつもりでいます。
ペコは幼い頃、体が弱くて、姉がどれほど子育てに心砕いたか、姉の子育てを手伝った伯母も亡き今では、赤ん坊のころのペコの育ってきた過程を知っているのは、今や私だけです。
私は母親を23歳で亡くしましたが、ペコも、母親を早くになくしました。
私の姉が2002年4月になくなる少し前、ペコは、2002年1月に父親を失っています。ペコは、25歳になる直前、父と母を3ヶ月のうちにふたりともなくしてしまったのでした。
ぺこの父親と私の姉は、ぺこが6年生のときに離婚しました。
父方に引き取られたペコは、父親の再婚相手との仲がうまくいかず、つらい思春期をおくりました。
このころは、「勉強をおばちゃんに教わりたいから」という名目で、しょっちゅう我が家に泊まりにきていました。勉強は口実で、息抜きがしたかったのでしょう。
姉にとって鬼姑だった人は、結婚当初から姉と仲がよくなくて、孫娘が、ママの家に泊まりにいくのを快く思いませんでした。息子と離婚した元ヨメは、離婚したあとも憎くくてたまらなかったのかもしれません。
姉への評価があがったのは、息子が二番目のヨメとも別れたあとになってからのこと。ふたりのヨメを比べれば、まだ最初のほうがましだったと思えるようになったのでしょう。
しかし、なぜか私のことはずっと気に入ってくれて、ぺこが私の家にくることは許していました。
姉にとっては鬼姑でしたが、私には親切な遠縁のおばさん、という感じでした。
父親が再婚相手とも別れたあとは、ぺこ自身が成長したこともあって、我が家に泊まりにくることはなくなりましたが、私にとって、大切な姉の忘れ形見であることは今もかわりありません。
そのペコが、5月には結納をすませ、8月末に結婚式をあげました。
軽井沢に親しい友人や家族があつまっての、なごやかな式とパーティでした。
ペコが結婚にあたって、一番気がかりにしていたことは、おばあちゃんのこと。姉には鬼姑にあたっていた人ですが、ペコにとっては、育ての親です。
おばあちゃんを残して結婚できないという理由で、これまで何度かあった結婚話を断ってきました。
ペコにとっては、おばあちゃんを一人にして、遠方へ嫁ぐのは不安だったのです。
8月に挙式したお婿さんは、「おばあちゃんと同居」という条件を承諾した人だそうです。
親と同居ということさえ、なかなか承知してもらえない昨今なのに、長男だというのに、よくぞ「マスオさん」になることを承知してくれたと思います。
<つづく>
2008/09/27
ぽかぽか春庭やちまた日記>姪の結婚(3)祝婚歌
8月末の軽井沢は静かで、とてもよい環境でした。
数日間、夕方から夜にかけて激しい雷雨が続いた天候だったのですが、8月30日は、ときおり雨がぱらついただけで、フラワーシャワーもブーケトスも皆でできました。
披露宴のお食事、おいしかった。メニューは、和風テイストのフランス料理。15000円コース。私がこれまでに食べたきた料理、コースだって5千円止まりだから、たぶん、私が一生のうちに食べた一番高い料理になったと思う。
信州サーモンの菊花和え
上田産トリュフ入り信州野菜のテリーヌモザイク仕立て
身蟹入り南禅寺蒸し
活帆立貝のカダイフ揚げ、サフランリゾット添えバジル風味
和牛ロースのシャトー仕立て
舞茸ご飯
パイナップルのムースパッションソース
パン
コーヒー
さらに、ケーキカットでふたりが分けたケーキもふるまわれ、おまけのデザートもあり、もうおなかいっぱいでした。
結婚する若い人たち。幸福になってほしい。心から祝い、心から願っています。
お祝いのことばのかわりに、ペコの結婚式に詩を読むつもりでした。しかし、当日、急遽飛び入りスピーチをして、「今は亡きペコの両親」について紹介しました。
会場一同しんみりして、あれっ、めでたいお祝いの席をしめっぽくして、顰蹙だったかなと心配しましたが、ペコの親族一同には好評でした。
ペコとその姉も「泣けた!感動」と言いました。
お祝いに読むつもりだった詩は、「祝婚歌」という詩です。
吉野弘(よしのひろし1926~)は、山形県酒田市生まれの詩人。
私の舅は、山形の米沢、姑は高畠の生まれ。同じ山形でも山側の米沢地区と、海沿いの庄内地区は、江戸時代は藩が異なり、文化圏が少し異なります。でも、同じ山形出身の詩人である吉野弘の詩を、義理姪の結婚式で朗読しました。
私が吉野弘の名に親しんだのは、合唱が好きだったゆえ。
小学校中学校のとき、合唱部でした。渡される楽譜の、作詞者としてその名を見ていたからです。
姪二人の結婚を祝して、吉野弘の詩『祝婚歌』を紹介します。
吉野弘(『贈る歌』花神社)より「祝婚歌」
二人が睦まじくいるためには
愚かでいるほうがいい
立派すぎないほうがいい
立派すぎることは
長持ちしないことだと気付いているほうがいい
完璧をめざさないほうがいい
完璧なんて不自然なことだと
うそぶいているほうがいい
二人のうちどちらかが
ふざけているほうがいい
ずっこけているほうがいい
互いに非難することがあっても
非難できる資格が自分にあったかどうか
あとで
疑わしくなるほうがいい
正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気付いているほうがいい
立派でありたいとか
正しくありたいとかいう
無理な緊張には
色目を使わず
ゆったり ゆたかに
光を浴びているほうがいい
健康で 風に吹かれながら
生きていることのなつかしさに
ふと 胸が熱くなる
そんな日があってもいい
そして
なぜ胸が熱くなるのか
黙っていても
二人にはわかるのであってほしい
<おわり>
ぽかぽか春庭やちまた日記>姪の結婚(1)車いすに寄り添って
夫の姉の長女は、大学看護科卒業後、看護師をしています。私にとっては義理の姪。
「車椅子の青年」と結婚することになり、6月に結婚式を行うというお知らせは、3月の法事の前に、姑から聞いていました。
その姪から結婚式の招待状がきたのは4月。
ぜひお祝いしたいと思って、出席すると返信しました。
夫は「法事も結婚式も出ない」という偏屈方針の人間です。亡くなった最愛のお姉さんの長女といえども、結婚式には出席しないというのです。「自分の娘の結婚式も断固出席拒否」という偏屈もの。
姑は6月に検査と胃の治療があり、結婚式の日は入院中でした。私が「母方の親族代理」の形で出席しようと思いました。
ところが。
ジューンブライドを、楽しみにしていたのに、5月20日に骨折してしまいました。
泣き泣き這ってでも仕事に行かねばならず、心身そうとう参ってしまったので、式には欠席するというお知らせを出しました。
「生まれつきの障害」というのが、どのようなことなのか、私は聞かされていませんが、互いに理解し合い、お相手の方と愛をはぐくんだのでしょう。
看護師としてボランティア活動をするなかで知りあい、結婚までたどりついたふたりを式には出席できなかったけれど、遠くから祝福しました。
おめでとうございます。
私とおなじ年生まれのあなたのお母さんにとって、あなたはかけがえのない最初の子供でした。
あなたのお母さんの死から8年がたちます。50歳の誕生日を目前にしての最期でした。
ホスピスで人生最後のひとときをすごしたお母さん。
長女として、妹弟を気遣いながらお母さんの看病に献身し、あなたは看護師をめざすようになったのでしたね。
大学で看護学を学ぶ間、マザーテレサのいた病院をたずねて、インドへ出かけていったと聞いて、あなたの行動力にびっくりしたこともありました。
今は、立派な看護師さんになりました。
心から信頼できるお相手と巡り会い、こうして愛をはぐくんできたことを、お母さんは空から見守っていてくれると思います。
末永くお幸せに。
<つづく>
2008/09/26
ぽかぽか春庭やちまた日記>姪の結婚(2)軽井沢で挙式
8月末、姉の次女の結婚式に出席しました。
ミクシィでの呼び名はペコです。
私は、ぺこが3歳になるころまで、姉とひとつ屋根の下に住んでいましたので、「親戚のおばさん」というよりも「ママといっしょに子育てをしたママ代理」のつもりでいます。
ペコは幼い頃、体が弱くて、姉がどれほど子育てに心砕いたか、姉の子育てを手伝った伯母も亡き今では、赤ん坊のころのペコの育ってきた過程を知っているのは、今や私だけです。
私は母親を23歳で亡くしましたが、ペコも、母親を早くになくしました。
私の姉が2002年4月になくなる少し前、ペコは、2002年1月に父親を失っています。ペコは、25歳になる直前、父と母を3ヶ月のうちにふたりともなくしてしまったのでした。
ぺこの父親と私の姉は、ぺこが6年生のときに離婚しました。
父方に引き取られたペコは、父親の再婚相手との仲がうまくいかず、つらい思春期をおくりました。
このころは、「勉強をおばちゃんに教わりたいから」という名目で、しょっちゅう我が家に泊まりにきていました。勉強は口実で、息抜きがしたかったのでしょう。
姉にとって鬼姑だった人は、結婚当初から姉と仲がよくなくて、孫娘が、ママの家に泊まりにいくのを快く思いませんでした。息子と離婚した元ヨメは、離婚したあとも憎くくてたまらなかったのかもしれません。
姉への評価があがったのは、息子が二番目のヨメとも別れたあとになってからのこと。ふたりのヨメを比べれば、まだ最初のほうがましだったと思えるようになったのでしょう。
しかし、なぜか私のことはずっと気に入ってくれて、ぺこが私の家にくることは許していました。
姉にとっては鬼姑でしたが、私には親切な遠縁のおばさん、という感じでした。
父親が再婚相手とも別れたあとは、ぺこ自身が成長したこともあって、我が家に泊まりにくることはなくなりましたが、私にとって、大切な姉の忘れ形見であることは今もかわりありません。
そのペコが、5月には結納をすませ、8月末に結婚式をあげました。
軽井沢に親しい友人や家族があつまっての、なごやかな式とパーティでした。
ペコが結婚にあたって、一番気がかりにしていたことは、おばあちゃんのこと。姉には鬼姑にあたっていた人ですが、ペコにとっては、育ての親です。
おばあちゃんを残して結婚できないという理由で、これまで何度かあった結婚話を断ってきました。
ペコにとっては、おばあちゃんを一人にして、遠方へ嫁ぐのは不安だったのです。
8月に挙式したお婿さんは、「おばあちゃんと同居」という条件を承諾した人だそうです。
親と同居ということさえ、なかなか承知してもらえない昨今なのに、長男だというのに、よくぞ「マスオさん」になることを承知してくれたと思います。
<つづく>
2008/09/27
ぽかぽか春庭やちまた日記>姪の結婚(3)祝婚歌
8月末の軽井沢は静かで、とてもよい環境でした。
数日間、夕方から夜にかけて激しい雷雨が続いた天候だったのですが、8月30日は、ときおり雨がぱらついただけで、フラワーシャワーもブーケトスも皆でできました。
披露宴のお食事、おいしかった。メニューは、和風テイストのフランス料理。15000円コース。私がこれまでに食べたきた料理、コースだって5千円止まりだから、たぶん、私が一生のうちに食べた一番高い料理になったと思う。
信州サーモンの菊花和え
上田産トリュフ入り信州野菜のテリーヌモザイク仕立て
身蟹入り南禅寺蒸し
活帆立貝のカダイフ揚げ、サフランリゾット添えバジル風味
和牛ロースのシャトー仕立て
舞茸ご飯
パイナップルのムースパッションソース
パン
コーヒー
さらに、ケーキカットでふたりが分けたケーキもふるまわれ、おまけのデザートもあり、もうおなかいっぱいでした。
結婚する若い人たち。幸福になってほしい。心から祝い、心から願っています。
お祝いのことばのかわりに、ペコの結婚式に詩を読むつもりでした。しかし、当日、急遽飛び入りスピーチをして、「今は亡きペコの両親」について紹介しました。
会場一同しんみりして、あれっ、めでたいお祝いの席をしめっぽくして、顰蹙だったかなと心配しましたが、ペコの親族一同には好評でした。
ペコとその姉も「泣けた!感動」と言いました。
お祝いに読むつもりだった詩は、「祝婚歌」という詩です。
吉野弘(よしのひろし1926~)は、山形県酒田市生まれの詩人。
私の舅は、山形の米沢、姑は高畠の生まれ。同じ山形でも山側の米沢地区と、海沿いの庄内地区は、江戸時代は藩が異なり、文化圏が少し異なります。でも、同じ山形出身の詩人である吉野弘の詩を、義理姪の結婚式で朗読しました。
私が吉野弘の名に親しんだのは、合唱が好きだったゆえ。
小学校中学校のとき、合唱部でした。渡される楽譜の、作詞者としてその名を見ていたからです。
姪二人の結婚を祝して、吉野弘の詩『祝婚歌』を紹介します。
吉野弘(『贈る歌』花神社)より「祝婚歌」
二人が睦まじくいるためには
愚かでいるほうがいい
立派すぎないほうがいい
立派すぎることは
長持ちしないことだと気付いているほうがいい
完璧をめざさないほうがいい
完璧なんて不自然なことだと
うそぶいているほうがいい
二人のうちどちらかが
ふざけているほうがいい
ずっこけているほうがいい
互いに非難することがあっても
非難できる資格が自分にあったかどうか
あとで
疑わしくなるほうがいい
正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気付いているほうがいい
立派でありたいとか
正しくありたいとかいう
無理な緊張には
色目を使わず
ゆったり ゆたかに
光を浴びているほうがいい
健康で 風に吹かれながら
生きていることのなつかしさに
ふと 胸が熱くなる
そんな日があってもいい
そして
なぜ胸が熱くなるのか
黙っていても
二人にはわかるのであってほしい
<おわり>