婆力(1)チンパンジーにババアなし
(2)おばあさんが人類を救う
(3)経験を伝えるおばあさん
(4)いないいないバァ
(5)バァリキ
(6)経験値
2008/05/24
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>婆力(1)チンパンジーにババアなし?
「ばあさんになったけれど学生」の春庭が、婆力の話をします。
婆力というのも春庭造語。馬力のだじゃれ。老人力の類語です。赤瀬川源平が「ぼける」ことを「老人力がついた」と表現したのにならって、ばあさんになったことを「婆力がついた」と言うことにしました。
老いの脳力ドリルには、ことばを鍛えるのが一番。婆力ますますUP。
俳句川柳短歌などはもちろん、音読写経、読み聞かせ。ことばを鍛える方法はいくらでもある。
かって、ケニアですごしたころ、あこがれの女性霊長類研究者だったジェーン・グドールさん。
彼女の近影をみたら、髪は白くなっていたけれど、とてもすてきだった。またまたあこがれました。こんなふうにすてきなオールドレディになりたいなあ。
でもね~、皺と白髪がふえるだけの我が姿、現実はなかなか厳しい。
かって、「演劇人類学・芸能人類学」という分野をめざし、フィールドワークを行うつもりでケニアへ出かけ、結局1年間遊び暮らしただけで帰国。ナイロビで出会った夫と結婚ののちは、今のとおりのしょうもないぐうたらバァさんになっております。
夫よ、私を指して「ごま塩髪を染めてごまかしているバァさん」と言うなかれ。そういうアンタは総入れ歯のじいさんでしょうが。
演劇人類学研究の夢は、はかなく散りましたが、今でも、ケニアでの人類学研究やタンザニアでのチンパンジー類人猿研究などの記事が載ると、読みふけってしまいます。
京都大学霊長類研究所は、アフリカでのチンパンジーやゴリラの研究のほか、幸島の「猿の芋洗い文化伝承」、犬山のモンキーセンター隣接の研究所の「コミュニケーション能力を修得したチンパンジー、アイちゃん」などの報告によって、一般の人にも広く知られた研究を発表してきました。
2007年12月18日の新聞に「チンパンジー閉経期なし」という記事がでていました。
京都大学霊長類研究所やハーバード大学らの国際共同研究によって、アフリカチンパンジー観察の結果、チンバンジーの雌は10代での初産から、50歳の寿命ぎりぎりまで出産をつづけ生殖能力がなくなるのと、寿命がおわるのはほぼ同時であることが確認されたという。
1998年に、ユタ大学の人類学者クリスティン・ホークス教授らは、
『 閉経後の女性は、人類独自に進化した存在で、孫の世話してくれる女性がいると子孫の存続に有利になる 』という研究結果を発表しました。
「おばあさん仮説」と呼ばれています。
惑星学者の松井孝典は、このホークスらの「おばあさん仮説」にもとづいて、
『 ヒトの女性が生物としては例外的に生殖可能年齢を超えて生存することで「おばあさん」が集団の記憶装置としての役割を果たし、そのことで文明の誕生が可能になった。しかし(文明が発達しすぎた)結果として、ヒトの文明が地球環境を蝕む結果をももたらしている 』という説を展開しました。
ところが、この松井おばあさん論を、曲解した男がいる。
松井との対談でこの理論を知ったのち、強引に「ババア有害理論」をのべ、さらに「私が言ってるんじゃなくて松井先生が言ったことばです」と、裁判でも述べている人。現東京都知事。
『週刊女性』2001年11月6日号の「石原慎太郎都知事吠える」などでの都知事発言。
『 これは僕がいってるんじゃなくて、松井孝典がいってるんだけど、“文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものは「ババア」”なんだそうだ。“女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄で罪です”って。
男は80、90歳でも生殖能力があるけれど、女は閉経してしまったら子供を生む能力はない。そんな人間が、きんさん・ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害だって…。なるほどとは思うけど、政治家としてはいえないわね(笑い)。まあ、半分は正鵠を射て、半分はブラックユーモアみたいなものだけど、そういう文明ってのは、惑星をあっという間に消滅させてしまうんだよね。 』
とんでもない曲解でした。
<つづく>
2008/05/25
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>婆力(2)おばあさんが人類を救う
都知事発言は、明らかに松井孝典の発言をねじ曲げて解釈しています。
松井先生は、「人類文明が発展したのは、おばあさんがいたおかげ」「人類文明が発展したせいで、地球環境をむしばむ結果も出てきた」という説を述べた。
それを、読解力ゼロ男は、「生殖能力のないババァは地球にとって悪しき弊害」と曲解したのです。
このような読解力しか持ち合わせていない人をトップとしなければならない都民は不幸です。といっても、選んだのは都民だよね。
2007年3月18日に私が中国へ行くときにはまだ公示前(3月22日告示)で、不在者投票ができず、4月、「ババァ有害論」の都知事が再選されたという報を読みました。
チンバンジーの雌が、閉経後、まもなく寿命がつきるという点について。
江戸時代農村の標準的家族では、女性は結婚し、平均20.6歳で初産。以後20年間出産し、平均40.3歳で末子を出産。
乳幼児死亡率の高さにより、江戸270年間に人口増加はごくわずかの上昇にとどまっています。
(この乳児死亡率の高さ、人口増加率の低さは、「間引き」の習慣による、という研究もありますが、それはまた別のお話。間引きとは、生まれてすぐに、赤ん坊を「生まれなかったことにする」ということです)
末子が10歳になるころ、女性は平均51.8歳で、長子に初孫が産まれるので、初孫の出産を手伝い、末子とともに子育てを手伝う。
平均55.6歳で死去。
人類学が「おばあさん仮説」と呼ぶ期間。これを江戸時代の女性ライフサイクルにあてはめれば、自分自身が40歳で出産したのちに閉経し、寿命がつきる55歳までの15年間をさすことになる。この15年間は、チンパンジーにはなく、ヒトにはあった「閉経後の寿命」です。
この15年間に、人間の女性は、自分が経験してきた人生のあれこれを、子や孫に教えてすごしました。
この平均的ライフスタイルから見て取れること。
兄弟姉妹の中で、年長者として生まれた子どもは、母親の子育てを手伝い、末子として生まれた子どもは、姉や兄の子の子育てを手伝うことにより、現代の若い母親のように「赤ん坊をだっこするのは、我が子が初めて」というような「初心者母」は、いなかった。
母は、自分の生んだ末子の子育てが手をはなれるころに、初孫の誕生をむかえ、出産や子育てを手伝う。孫が七五三を迎えるころに自分の寿命がつきる。
このライフスタイルの、「おばあさん仮説」の15年間は、人類文明にとって、大きな意味を持っていたといえるでしょう。
<つづく>
2008/05/26
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>婆力(3)経験を伝えるおばあさん
もちろん、チンパンジーの雌も、人間の女性のように、子に自分の経験を教えたでしょう。おいしい木の実がとれる場所と時期を教えたり、シロアリの釣り方を教えたり。
しかし、ヒトとチンバンジーの「経験の伝え方」で、決定的に異なっていたことがあります。チンパンジーと人間の進化と文明とを隔てたものは何か。
それは、人間の女性は、子育てをするときに、自分の経験を「コトバ」として伝えることができた、という点です。
石器や火の使用など、文化を持った人類ではあるが、原生人類の直接の先祖ではないと言われるネアンデルタール人。彼らの脳の容積は、原生人類とほぼ同じです。
しかし、原生人類と大きく異なるところ。口とのどの構造です。
アメリカのリーバーマンによると。
ネアンデルタール人は、「舌と口腔からなる発声器官がヒトに比べて不十分である。何種類もの音を発声するためには、喉頭から咽頭にいたる空間的スペースが足りない。だから古い人類は、現代人並みの巧みな発音は不可能である」という説を出しています。
骨格化石から復元されたネアンデルタール人の喉仏は、かなり喉の上部に寄っていて、気道の距離が発声に対して十分でなく、特に「あいうえお」といった母音が発音できなかったであろうと言われています。
母音の発音が明瞭でなく数種類の子音だけでは、音の分節が限られます。
ネアンデルタール人が発音できたのは10~15種類の子音だけだったろうと、人類学者、解剖学者たちは推測しています。
子音の単音だけなので、発声できる単語の種類は限られます。語彙はおそらく100語もなかったことでしょう。
100くらいの単語だと、最低限どんな表現が可能だっただろうかと想像してみます。「mm~」が食べ物をさし、「bb~」が否定を表す、と想像した場合、「mm~」と発声して一定の方向をさすと、「あっちに食べ物があるぞ」ということを表現でき、「bb~mm」と言うと、「それは食べ物じゃない」「そっちの方向には食べ物がない」などの表現が可能、、、、としても、日常生活の経験をすべて伝えるには不足だったことでしょう。
チンパンジーに手話によるコミュニケーション能力がある、とされる実験には賛否両論がありますが、私はネアンデルタール人は、音声によるコミュニケーションより、手真似、ジェスチャーによるコミュニケーションを発達させていたのではないかと、想像しています。
2007年10月30日、雌のチンパンジー「ワショー」が死にました。
ワショーは、セントラル・ワシントン大学が実験を続けていたチンパンジーで、「手話を250語獲得し、自分で文を創出する力を持っていた」と言われています。
私は、単語250語を獲得することはチンパンジーにも可能であるけれど、その数少ない単語で「自分で表現を創出する能力」は、どれほど可能だったか、疑問を持っています。
<つづく>
2008/05/27
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>婆力(4)いないいないバァ
言語表現を自分で表出するには、「象徴作用」ができていなければならない。
「マネッコ」ができるというのが、言語の象徴作用の前段階です。
人間の子どもは、2歳くらいになれば、まねっこが理解できます。
眠そうになった子を見た親が、「ネンネ」と声にださなくても、寝るマネをしてみせると、子どもはそのジェスチャーが、「ふとんに入って寝ること」を意味しているのだと理解し、自分のふとんの中に潜り込みます。
おなかがすいたとき、チンパンジーが手に何かを持っているふりをして、それを食べるマネをして、「何か食べたい」という意志を伝えることができて、はじめて「おなかがすいているから何か食べたい」という表現ができたといえます。
「食べ物」という意味の単語の手話をしたとしても、それは、ネズミが「このボタンを押すと食べ物が出てくる」という記憶を持つことができるのと同じことです。
二語文が作り出せてはじめて「言語表出能力がある」といえるのです。
人間の子どもは、2歳くらいになると、二語を組み合わせて文を創出できるようになります。
子どもが、「みじゅ(水)」「じゅす(ジュース)」という語と「のむ(飲む)」という語を修得したとします。
ある日、親が「水のむ?」と、子どもに話しかけたとする。
子どもはそれまで一度も「ジュース飲む」という表現を親から聞いたことがなかったとしても、そのとき飲みたいのがジュースであるなら「みじゅ、ない。じゅすのむ」と、言えたりするのです。
「ジュース飲む」という名詞と動詞を組み合わせた文を、自分の能力だけで創出するのです。
「パパ」「ママ」という単語と「いる/いない」という単語を覚えれば、教えなくてもそれらを組み合わせて「パパいない」「ママいる」「ママいない」という二語文(文法を持った文)を創出できるのです。
この「いる」「いない」の感覚を発達させるに適した遊びが「いないいないバァ」ですが、チンパンジーの子どもは、この遊びをしない。
さて、母音が発音できるとどうなるか。
母音とはのどの奥の声帯をふるわせ、口の中のどこにも息をじゃまされないで、口から外へ息を吐き出すことによって音声を作り出す音です。
母音と子音を組み合わせれば、音の種類は拡大します。
<つづく>
2008/05/28
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>婆力(5)バァリキ
日本語の場合、5つの母音と14種類の子音の組み合わせで、114~115の音節が発音できます。
114種類の音の順列組み合わせは、限りなく大きく、あらゆることがらを音声で表現できるようになります。「115(一音節)+115×115(二音節)+115×115×115(三音節)+115×115×115×115(四音節)、、、、、、、」無限大まで拡大できます。
ことばを「音」として表現できるようになった現生人類は、自分たちの経験を「音声」で子孫に伝えることが出来、食料の確保にも子育てにも、大いに「経験」を生かすことができるようになりました。
さまざまな経験を経てきた「おばあさん」が、子どもたちに語りながら、いっしょに食料調達や子育てに参加することで、「母性の時代」の人類は、豊かに発展することができました。
外に狩りにでかける男たちは、また別のコトバを伝えあったでしょうが、狩猟採集時代の人間のコミュニケーションにおいては、母と子との会話のほうが、ずっとこまやかな情報交換がなされたのではないかと、私は想像します。
男たちは獣を追いながら、「走れ!」「石投げろ」なんてことをいいあうくらいで、こまやかなコトバを交わしあうヒマはなかったのではないかしら。
住まいのいろりを囲んでの語り合いにおいて、男たちは母親に仕切られながらすごしたことでしょう。
しかし、人類が豊かさを獲得し、歴史時代になったあと、土地の争奪において、「武力」が「女性の経験」より優先する時代がやってきました。
「支配と所有」を優先する「男性原理」は、21世紀の今日まで続き、今に至るまで戦争によって優位に立とうとする人間は、争いを続けています。
わたくしの娘と息子は、今のところまったくモテず、私は将来も、孫を持つことがないかもしれませんが、年齢だけは着実に「おばあさん」になってきています。
生物学的な孫には恵まれないとしても、できることなら、私は、私のことばを語りつぎ、豊かな「ことばの文化」を伝えたいと思っています。
「人は老いて衰えると、ものをうまく忘れたりする力、つまり老人力がつくと考えるべきである」という逆転の発想から「老人力」ということばが生まれ、赤瀬川原平の本『老人力』もベストセラーになりました。
<つづく>
2008/05/29
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>婆力(6)経験値
「生殖能力のないババァは、地球に有害」という愚かな発言をする知事が、トップとして君臨する都市に住んでいる私ですが、「老人力」とならんで「婆力」を身につけたいと思っています。「馬力バリキ」ならぬ「婆力バァリキ」
ゲームの世界では「経験値」というものが、ゲームの成否を左右するものとしてゲーマーたちは高い「経験値」を手に入れようと日夜コントローラーをたたいています。
「婆力」はこの「経験値」に近いものと考えてもいいし、「老人力」のように、「耳が遠くなった→老人力がついて、不都合なことを聞かずにすむようになった」という逆転発想の力だと思ってもいい。
今月、2月11日は、私の祝日暦によると「神話と伝説の日」です。
「おばあさんが経験を伝えることによって人類文化が発展した」という「おばあさん仮説」が、都知事の頭のなかでは「生殖能力のないババアがのさばっていて地球を滅ぼす」と誤変換されてしまったように、「日本の最初のスメラミコトは、年のはじめに即位した」という伝承が「建国記念日」に誤変換されてしまった。
私は日本語母語話者として、「神話と伝説の日」を設けることには賛成です。
私たちの母語、日本語は、古代に豊かな「ことば語りの文化」を持ち、女性を中心とする一族(稗田阿礼の一族など)が、それを記憶し伝えてきた。
『古事記』を語り伝えた稗田阿礼は、私のイメージでは、経験豊かなおばあさんです。年をとっても、豊かな響きの声で、朗々と神と人の世の話を語り伝えている姿。
その「語り」を、大陸の文字文化を修得した男性が、苦心して文字化したのが『古事記』『日本書紀』です。
『日本書紀』は、当時のアジア共通の「知識人の言葉」だった中国語(漢文)で書かれています。
『古事記』は、漢字を日本語の音を表す表音文字(万葉仮名)として用いたり、意味を翻訳して、日本語語彙に漢字を当てました。
文字化に際し、多くの伝承が変容しました。
最初のオオキミ(王)即位の日、というのも、当時の大陸の知識を援用して、「重大なことが行われる年回り」を算出し、その年の元旦に即位した、ということにしただけで、ほんとうにこの日に即位したわけではありません。
古事記日本書紀の執筆者が、中国や朝鮮半島から伝えられた知識をもとに計算しただけです。
私の1974年提出の卒論タイトルは『古事記』でしたから、今も『古事記』関連の書をときどき読みます。
2007年読書の収穫のひとつは、神野志隆光『漢字テキストとしての古事記』でした。
「日本語言語文化」を追求している春庭にとって、文字表記論からいっても、古代文学論からいっても、たいへん示唆にとんだ著作でした。
このような有意義な日本語言語文化論をもっともっと知りたい。極めていきたい。
春庭、ハイパワー「婆力」をめざして、ことばを交わしことばを伝えていきたいと思っています。
私はわたしなりに日本語の豊かなひろがりを追求し、経験を積み上げ続けていきたいと思っています。
春庭バァリキ、今年も全開です。
<おわり>
(2)おばあさんが人類を救う
(3)経験を伝えるおばあさん
(4)いないいないバァ
(5)バァリキ
(6)経験値
2008/05/24
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>婆力(1)チンパンジーにババアなし?
「ばあさんになったけれど学生」の春庭が、婆力の話をします。
婆力というのも春庭造語。馬力のだじゃれ。老人力の類語です。赤瀬川源平が「ぼける」ことを「老人力がついた」と表現したのにならって、ばあさんになったことを「婆力がついた」と言うことにしました。
老いの脳力ドリルには、ことばを鍛えるのが一番。婆力ますますUP。
俳句川柳短歌などはもちろん、音読写経、読み聞かせ。ことばを鍛える方法はいくらでもある。
かって、ケニアですごしたころ、あこがれの女性霊長類研究者だったジェーン・グドールさん。
彼女の近影をみたら、髪は白くなっていたけれど、とてもすてきだった。またまたあこがれました。こんなふうにすてきなオールドレディになりたいなあ。
でもね~、皺と白髪がふえるだけの我が姿、現実はなかなか厳しい。
かって、「演劇人類学・芸能人類学」という分野をめざし、フィールドワークを行うつもりでケニアへ出かけ、結局1年間遊び暮らしただけで帰国。ナイロビで出会った夫と結婚ののちは、今のとおりのしょうもないぐうたらバァさんになっております。
夫よ、私を指して「ごま塩髪を染めてごまかしているバァさん」と言うなかれ。そういうアンタは総入れ歯のじいさんでしょうが。
演劇人類学研究の夢は、はかなく散りましたが、今でも、ケニアでの人類学研究やタンザニアでのチンパンジー類人猿研究などの記事が載ると、読みふけってしまいます。
京都大学霊長類研究所は、アフリカでのチンパンジーやゴリラの研究のほか、幸島の「猿の芋洗い文化伝承」、犬山のモンキーセンター隣接の研究所の「コミュニケーション能力を修得したチンパンジー、アイちゃん」などの報告によって、一般の人にも広く知られた研究を発表してきました。
2007年12月18日の新聞に「チンパンジー閉経期なし」という記事がでていました。
京都大学霊長類研究所やハーバード大学らの国際共同研究によって、アフリカチンパンジー観察の結果、チンバンジーの雌は10代での初産から、50歳の寿命ぎりぎりまで出産をつづけ生殖能力がなくなるのと、寿命がおわるのはほぼ同時であることが確認されたという。
1998年に、ユタ大学の人類学者クリスティン・ホークス教授らは、
『 閉経後の女性は、人類独自に進化した存在で、孫の世話してくれる女性がいると子孫の存続に有利になる 』という研究結果を発表しました。
「おばあさん仮説」と呼ばれています。
惑星学者の松井孝典は、このホークスらの「おばあさん仮説」にもとづいて、
『 ヒトの女性が生物としては例外的に生殖可能年齢を超えて生存することで「おばあさん」が集団の記憶装置としての役割を果たし、そのことで文明の誕生が可能になった。しかし(文明が発達しすぎた)結果として、ヒトの文明が地球環境を蝕む結果をももたらしている 』という説を展開しました。
ところが、この松井おばあさん論を、曲解した男がいる。
松井との対談でこの理論を知ったのち、強引に「ババア有害理論」をのべ、さらに「私が言ってるんじゃなくて松井先生が言ったことばです」と、裁判でも述べている人。現東京都知事。
『週刊女性』2001年11月6日号の「石原慎太郎都知事吠える」などでの都知事発言。
『 これは僕がいってるんじゃなくて、松井孝典がいってるんだけど、“文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものは「ババア」”なんだそうだ。“女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄で罪です”って。
男は80、90歳でも生殖能力があるけれど、女は閉経してしまったら子供を生む能力はない。そんな人間が、きんさん・ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害だって…。なるほどとは思うけど、政治家としてはいえないわね(笑い)。まあ、半分は正鵠を射て、半分はブラックユーモアみたいなものだけど、そういう文明ってのは、惑星をあっという間に消滅させてしまうんだよね。 』
とんでもない曲解でした。
<つづく>
2008/05/25
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>婆力(2)おばあさんが人類を救う
都知事発言は、明らかに松井孝典の発言をねじ曲げて解釈しています。
松井先生は、「人類文明が発展したのは、おばあさんがいたおかげ」「人類文明が発展したせいで、地球環境をむしばむ結果も出てきた」という説を述べた。
それを、読解力ゼロ男は、「生殖能力のないババァは地球にとって悪しき弊害」と曲解したのです。
このような読解力しか持ち合わせていない人をトップとしなければならない都民は不幸です。といっても、選んだのは都民だよね。
2007年3月18日に私が中国へ行くときにはまだ公示前(3月22日告示)で、不在者投票ができず、4月、「ババァ有害論」の都知事が再選されたという報を読みました。
チンバンジーの雌が、閉経後、まもなく寿命がつきるという点について。
江戸時代農村の標準的家族では、女性は結婚し、平均20.6歳で初産。以後20年間出産し、平均40.3歳で末子を出産。
乳幼児死亡率の高さにより、江戸270年間に人口増加はごくわずかの上昇にとどまっています。
(この乳児死亡率の高さ、人口増加率の低さは、「間引き」の習慣による、という研究もありますが、それはまた別のお話。間引きとは、生まれてすぐに、赤ん坊を「生まれなかったことにする」ということです)
末子が10歳になるころ、女性は平均51.8歳で、長子に初孫が産まれるので、初孫の出産を手伝い、末子とともに子育てを手伝う。
平均55.6歳で死去。
人類学が「おばあさん仮説」と呼ぶ期間。これを江戸時代の女性ライフサイクルにあてはめれば、自分自身が40歳で出産したのちに閉経し、寿命がつきる55歳までの15年間をさすことになる。この15年間は、チンパンジーにはなく、ヒトにはあった「閉経後の寿命」です。
この15年間に、人間の女性は、自分が経験してきた人生のあれこれを、子や孫に教えてすごしました。
この平均的ライフスタイルから見て取れること。
兄弟姉妹の中で、年長者として生まれた子どもは、母親の子育てを手伝い、末子として生まれた子どもは、姉や兄の子の子育てを手伝うことにより、現代の若い母親のように「赤ん坊をだっこするのは、我が子が初めて」というような「初心者母」は、いなかった。
母は、自分の生んだ末子の子育てが手をはなれるころに、初孫の誕生をむかえ、出産や子育てを手伝う。孫が七五三を迎えるころに自分の寿命がつきる。
このライフスタイルの、「おばあさん仮説」の15年間は、人類文明にとって、大きな意味を持っていたといえるでしょう。
<つづく>
2008/05/26
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>婆力(3)経験を伝えるおばあさん
もちろん、チンパンジーの雌も、人間の女性のように、子に自分の経験を教えたでしょう。おいしい木の実がとれる場所と時期を教えたり、シロアリの釣り方を教えたり。
しかし、ヒトとチンバンジーの「経験の伝え方」で、決定的に異なっていたことがあります。チンパンジーと人間の進化と文明とを隔てたものは何か。
それは、人間の女性は、子育てをするときに、自分の経験を「コトバ」として伝えることができた、という点です。
石器や火の使用など、文化を持った人類ではあるが、原生人類の直接の先祖ではないと言われるネアンデルタール人。彼らの脳の容積は、原生人類とほぼ同じです。
しかし、原生人類と大きく異なるところ。口とのどの構造です。
アメリカのリーバーマンによると。
ネアンデルタール人は、「舌と口腔からなる発声器官がヒトに比べて不十分である。何種類もの音を発声するためには、喉頭から咽頭にいたる空間的スペースが足りない。だから古い人類は、現代人並みの巧みな発音は不可能である」という説を出しています。
骨格化石から復元されたネアンデルタール人の喉仏は、かなり喉の上部に寄っていて、気道の距離が発声に対して十分でなく、特に「あいうえお」といった母音が発音できなかったであろうと言われています。
母音の発音が明瞭でなく数種類の子音だけでは、音の分節が限られます。
ネアンデルタール人が発音できたのは10~15種類の子音だけだったろうと、人類学者、解剖学者たちは推測しています。
子音の単音だけなので、発声できる単語の種類は限られます。語彙はおそらく100語もなかったことでしょう。
100くらいの単語だと、最低限どんな表現が可能だっただろうかと想像してみます。「mm~」が食べ物をさし、「bb~」が否定を表す、と想像した場合、「mm~」と発声して一定の方向をさすと、「あっちに食べ物があるぞ」ということを表現でき、「bb~mm」と言うと、「それは食べ物じゃない」「そっちの方向には食べ物がない」などの表現が可能、、、、としても、日常生活の経験をすべて伝えるには不足だったことでしょう。
チンパンジーに手話によるコミュニケーション能力がある、とされる実験には賛否両論がありますが、私はネアンデルタール人は、音声によるコミュニケーションより、手真似、ジェスチャーによるコミュニケーションを発達させていたのではないかと、想像しています。
2007年10月30日、雌のチンパンジー「ワショー」が死にました。
ワショーは、セントラル・ワシントン大学が実験を続けていたチンパンジーで、「手話を250語獲得し、自分で文を創出する力を持っていた」と言われています。
私は、単語250語を獲得することはチンパンジーにも可能であるけれど、その数少ない単語で「自分で表現を創出する能力」は、どれほど可能だったか、疑問を持っています。
<つづく>
2008/05/27
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>婆力(4)いないいないバァ
言語表現を自分で表出するには、「象徴作用」ができていなければならない。
「マネッコ」ができるというのが、言語の象徴作用の前段階です。
人間の子どもは、2歳くらいになれば、まねっこが理解できます。
眠そうになった子を見た親が、「ネンネ」と声にださなくても、寝るマネをしてみせると、子どもはそのジェスチャーが、「ふとんに入って寝ること」を意味しているのだと理解し、自分のふとんの中に潜り込みます。
おなかがすいたとき、チンパンジーが手に何かを持っているふりをして、それを食べるマネをして、「何か食べたい」という意志を伝えることができて、はじめて「おなかがすいているから何か食べたい」という表現ができたといえます。
「食べ物」という意味の単語の手話をしたとしても、それは、ネズミが「このボタンを押すと食べ物が出てくる」という記憶を持つことができるのと同じことです。
二語文が作り出せてはじめて「言語表出能力がある」といえるのです。
人間の子どもは、2歳くらいになると、二語を組み合わせて文を創出できるようになります。
子どもが、「みじゅ(水)」「じゅす(ジュース)」という語と「のむ(飲む)」という語を修得したとします。
ある日、親が「水のむ?」と、子どもに話しかけたとする。
子どもはそれまで一度も「ジュース飲む」という表現を親から聞いたことがなかったとしても、そのとき飲みたいのがジュースであるなら「みじゅ、ない。じゅすのむ」と、言えたりするのです。
「ジュース飲む」という名詞と動詞を組み合わせた文を、自分の能力だけで創出するのです。
「パパ」「ママ」という単語と「いる/いない」という単語を覚えれば、教えなくてもそれらを組み合わせて「パパいない」「ママいる」「ママいない」という二語文(文法を持った文)を創出できるのです。
この「いる」「いない」の感覚を発達させるに適した遊びが「いないいないバァ」ですが、チンパンジーの子どもは、この遊びをしない。
さて、母音が発音できるとどうなるか。
母音とはのどの奥の声帯をふるわせ、口の中のどこにも息をじゃまされないで、口から外へ息を吐き出すことによって音声を作り出す音です。
母音と子音を組み合わせれば、音の種類は拡大します。
<つづく>
2008/05/28
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>婆力(5)バァリキ
日本語の場合、5つの母音と14種類の子音の組み合わせで、114~115の音節が発音できます。
114種類の音の順列組み合わせは、限りなく大きく、あらゆることがらを音声で表現できるようになります。「115(一音節)+115×115(二音節)+115×115×115(三音節)+115×115×115×115(四音節)、、、、、、、」無限大まで拡大できます。
ことばを「音」として表現できるようになった現生人類は、自分たちの経験を「音声」で子孫に伝えることが出来、食料の確保にも子育てにも、大いに「経験」を生かすことができるようになりました。
さまざまな経験を経てきた「おばあさん」が、子どもたちに語りながら、いっしょに食料調達や子育てに参加することで、「母性の時代」の人類は、豊かに発展することができました。
外に狩りにでかける男たちは、また別のコトバを伝えあったでしょうが、狩猟採集時代の人間のコミュニケーションにおいては、母と子との会話のほうが、ずっとこまやかな情報交換がなされたのではないかと、私は想像します。
男たちは獣を追いながら、「走れ!」「石投げろ」なんてことをいいあうくらいで、こまやかなコトバを交わしあうヒマはなかったのではないかしら。
住まいのいろりを囲んでの語り合いにおいて、男たちは母親に仕切られながらすごしたことでしょう。
しかし、人類が豊かさを獲得し、歴史時代になったあと、土地の争奪において、「武力」が「女性の経験」より優先する時代がやってきました。
「支配と所有」を優先する「男性原理」は、21世紀の今日まで続き、今に至るまで戦争によって優位に立とうとする人間は、争いを続けています。
わたくしの娘と息子は、今のところまったくモテず、私は将来も、孫を持つことがないかもしれませんが、年齢だけは着実に「おばあさん」になってきています。
生物学的な孫には恵まれないとしても、できることなら、私は、私のことばを語りつぎ、豊かな「ことばの文化」を伝えたいと思っています。
「人は老いて衰えると、ものをうまく忘れたりする力、つまり老人力がつくと考えるべきである」という逆転の発想から「老人力」ということばが生まれ、赤瀬川原平の本『老人力』もベストセラーになりました。
<つづく>
2008/05/29
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>婆力(6)経験値
「生殖能力のないババァは、地球に有害」という愚かな発言をする知事が、トップとして君臨する都市に住んでいる私ですが、「老人力」とならんで「婆力」を身につけたいと思っています。「馬力バリキ」ならぬ「婆力バァリキ」
ゲームの世界では「経験値」というものが、ゲームの成否を左右するものとしてゲーマーたちは高い「経験値」を手に入れようと日夜コントローラーをたたいています。
「婆力」はこの「経験値」に近いものと考えてもいいし、「老人力」のように、「耳が遠くなった→老人力がついて、不都合なことを聞かずにすむようになった」という逆転発想の力だと思ってもいい。
今月、2月11日は、私の祝日暦によると「神話と伝説の日」です。
「おばあさんが経験を伝えることによって人類文化が発展した」という「おばあさん仮説」が、都知事の頭のなかでは「生殖能力のないババアがのさばっていて地球を滅ぼす」と誤変換されてしまったように、「日本の最初のスメラミコトは、年のはじめに即位した」という伝承が「建国記念日」に誤変換されてしまった。
私は日本語母語話者として、「神話と伝説の日」を設けることには賛成です。
私たちの母語、日本語は、古代に豊かな「ことば語りの文化」を持ち、女性を中心とする一族(稗田阿礼の一族など)が、それを記憶し伝えてきた。
『古事記』を語り伝えた稗田阿礼は、私のイメージでは、経験豊かなおばあさんです。年をとっても、豊かな響きの声で、朗々と神と人の世の話を語り伝えている姿。
その「語り」を、大陸の文字文化を修得した男性が、苦心して文字化したのが『古事記』『日本書紀』です。
『日本書紀』は、当時のアジア共通の「知識人の言葉」だった中国語(漢文)で書かれています。
『古事記』は、漢字を日本語の音を表す表音文字(万葉仮名)として用いたり、意味を翻訳して、日本語語彙に漢字を当てました。
文字化に際し、多くの伝承が変容しました。
最初のオオキミ(王)即位の日、というのも、当時の大陸の知識を援用して、「重大なことが行われる年回り」を算出し、その年の元旦に即位した、ということにしただけで、ほんとうにこの日に即位したわけではありません。
古事記日本書紀の執筆者が、中国や朝鮮半島から伝えられた知識をもとに計算しただけです。
私の1974年提出の卒論タイトルは『古事記』でしたから、今も『古事記』関連の書をときどき読みます。
2007年読書の収穫のひとつは、神野志隆光『漢字テキストとしての古事記』でした。
「日本語言語文化」を追求している春庭にとって、文字表記論からいっても、古代文学論からいっても、たいへん示唆にとんだ著作でした。
このような有意義な日本語言語文化論をもっともっと知りたい。極めていきたい。
春庭、ハイパワー「婆力」をめざして、ことばを交わしことばを伝えていきたいと思っています。
私はわたしなりに日本語の豊かなひろがりを追求し、経験を積み上げ続けていきたいと思っています。
春庭バァリキ、今年も全開です。
<おわり>