<レクイエムバナナ番外読書編>
(1)ニューアイルランド戦記
(2)レイテ戦記
(3)憂鬱なる乗り物
(4)耐え難きを耐えのバナナ
(5)無気魂のバナナ
=====
2008/09/01
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ番外読書編(1)ニューアイルランド島戦記
父の戦地でのようすが知りたくて、ずいぶんとニューギニア戦記をさがしたのだけれど、激しい戦闘のあった地域の記録はあるのに、「捨て置かれた島、ニューアイルランド島」の戦時記録は、そう多くない。
以下の池田充男さんの戦記は、「伏見から平和を」という平和運動のサイトから引用させていただきました。
http://homepage3.nifty.com/hushimiheiwa/gyouji/ikeda.htm
==============
「ニューアイルランド島戦記」
池田充男
(2002年当時81歳 京都市伏見区深草)
私は一九四二年(昭和十七年)一月から長崎県佐世保の海兵団で水兵として新兵訓練を受け、同年四月から実戦に参加した。
南はソロモン諸島のツラギ攻略戦、北はアリューシャン列島のキスカの撤退作戦と、広範囲の戦闘に参加した。その間、二度も「敵」に乗艦を沈没させられた。多くの戦死傷者を見た。
もう乗る艦もないため、四四年、南太平洋のニューブリテン島のラバウルからニューアイルランド島のカビエン守備隊付けとして渡島した。
カビエンに着いたとたん、アメリカ軍機の機銃掃射を受け、クモの子を散らすように逃げる。
私たちは、円形の機銃座とヤシの丸太で囲った壕を構築して居住区とした。
住民たちはジャングルの奥深く逃げ込んでいた。そのうち食料を食いつくした。ジャングルを切り開いてイモ畑としたり、海水をくみ、塩を作った。雑草の中で食べられるものは汁の中に入れて食べた。
時々、アメリカ軍機がイモ畑の上空にきて急降下で機銃掃射をする。小銃での応戦では太刀打ちできない。アメリカ軍機の弾がプスプスブスブスと畑に突き刺さる。ひざをぶちぬかれ、ザクロの割れたような傷口の戦死者も出た。
食べ物不足を補うためにカエルを大小を問わず捕ったり、スコール後にパパイアの木に集まってきたカタツムリを捕ったりした。
しかし、やがて、兵士たちの体力は段々と失われ、あばら骨が見え出した。加えて熱帯マラリア、アミーバー赤痢、熱帯潰瘍にかかった。薬がないため、体力のないものは次々死んでいった。
熱帯潰瘍が大きくなり、その上、マラリアにかかったりすると高熱、寒気が続き、イモさえ食べられなくなり、寝たきりの状態になり、死を待つばかりになる。
熱帯腫瘍はカなどに刺されたりして傷口ができると段々広がってうずき、膿み、てのひらの大きさ以上にも傷口が広がる。
私も熱帯潰瘍にかかった。看護兵が、麻酔薬なしで傷口の肉をハサミで切り取った。苦痛を通り越した治療だった。
膿にハエが群がってうじ虫をわかせたまま死ぬ兵も多かった。生きているのにうじ虫をわかすという悲惨は戦地での極限状態に置かれ、目撃した者以外、想像もつかないだろう。 戦病死とされたこれらの兵は、こんな悲惨な死に方をして浮かばれないだろうと思う。前線でたたかった者の体験のひとこまである。
==========
<つづく>
2008/09/02
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ番外読書編(2)レイテ戦記
この夏に読んだニューアイルランド島サバイバルの記録。
連合軍の機銃掃射から逃げ回り、海岸に出れば、偵察艦隊から艦砲射撃を受ける。
食えるものは何でも食い、海水から塩をとって暮らしていても、しだいに栄養失調で衰弱し、熱帯の病に倒れる。生きながらウジ虫に体を食い荒らされ、骨と皮ばかりになって死ぬ。
ニューアイルランド島戦記を書き残した池田充男さんは、1921年生まれの海兵隊所属。
1919年生まれの父が所属していた陸軍とは別の部隊と思うけれど、ニューアイルランド島での自給自足生活は似たようなものだったろうと思う。
池田さんの戦記のほか、gooブログ「Message in a Bottle」に掲載されていた「伯父の戦記」を読んだ。
戦友会会報に執筆したという「戦記」を、筆者の死後、介護施設職員の甥御さんがブログに転載なさったものです。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/member/userbbs.cgi?ppid=haruniwa&mode=comment&art_no=929388
「Message in a Bottle」 http://blog.goo.ne.jp/non_b/
この「伯父の戦記」の中の、ニューアイルランド島上陸後の部分を、春庭bbs に引用させていただきました。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/member/userbbs.cgi?ppid=haruniwa&mode=comment&art_no=929388
池田充男さん、また「non_bさんの伯父さん」の記録に感謝します。
それでも父は、ニューアイルランド島から、生きて戻った。
ニューギニア戦線に20万人従軍して2万人のみ生還という、生存者たった1割の中に残ったのだ。
私の叔父(母の弟)は、フィリピンの戦地から戻らなかった。
フィリピンのジャングルの奥深く、病死体となって木の根に横たわったのか、弾にあたった「名誉の戦死」だったのか、飢えてジャングルを敗走したあげく餓死したのか。
あるいはまた、1本のバナナをめぐって、奪い合いのあげく殺されたのか。
叔父の骸は、白くさらされたまま、フィリピンの島の地に眠っている。
先の大戦について書き残された作品のなかでも、私にとっては、大岡昇平の一連の従軍の記録「野火」「レイテ戦記」などが、もっとも深く心に残る作品群だ。第一級の文学作品であることだけでなく、舞台がフィリピンだからだろうと思う。
先の戦争で亡くなった方々、家族のために国のためにと散っていった思いは、貴い。
しかし、どのように戦局が推移したのか、事実を知れば知るほど、「なぜ、これほど無謀な戦争が実行されたのかと、驚愕する。
軍事研究戦略研究などしたこともなく、まったく素人の私でも、戦時記録をよむと「そんな無茶な!」と叫びたくなるような戦術、作戦が続き、なんでこういう決定になるのか、という決定が次々に繰り出される。
職業軍人なら、もう少し戦争を冷静に科学的に考えるべきだったし、「大和魂を持っていれば勝てる」「気魂で勝つ」なんてこと言い始めた時点で、軍人としての能力のなさを自覚すべきだった。
と、いまさら言ってもおそい。彼らは職業軍人ではなくて、「特殊一神教の信者軍人」だったのだから。
司馬遼太郎は、『私の雑記帖』の冒頭、「大正生まれの故老」に、明治の軍人と比べたときの昭和の軍人を「集団的政治発狂集団」と、断じている。戦車隊に従軍し、日本の軍部体制を身をもって経験した作家の言である。
次回、司馬の戦車談。
<つづく>
2008/09/03
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ番外読書編(3)憂鬱なる乗り物
この夏読んだ本の一冊、司馬遼太郎のエッセイ『私の雑記帖』
この中の、「戦車・この憂鬱なる乗り物」を紹介する。
司馬は、新聞記者として活躍した冷静な目で、自分が所属した戦車部隊と戦車の構造について書き残している。
戦車開発について。
戦車にもっとも必要な構造は、相手からの攻撃に耐える防御力である。しかし、軍部は、大きな砲を戦車にのせるだけで目的を果たしたと考えた。戦車らしさの見た目優先。
戦車にもっとも必要な防御を無視し、敵の一撃で撃破されてしまうようなペナペナの車体であったのだと、司馬は記している。
攻撃は、敵に発見される前にできるだけ。
1度でも攻撃してしまえば、敵前から姿を隠すことはできず、敵の攻撃を防ぐ方法はない。乗員が死ぬことを前提とした戦車であったと、司馬は書いている。飛行機零戦や人間魚雷と同じ発想。
どのような他の言説があろうと、この戦車開発一事をもってしても、日本が無謀で愚かな戦争を行ったことは明らかだ。
味方の人的損害を最小限にとどめつつ相手に損害を与えようとするのが戦争であって、最初から味方の命を粗末にしている発想で、勝てるわけがない。
防御第一であるべき戦車の車体をペナペナに仕上げてよしとしていた感覚で、日本の戦争指導者たちは、見かけだけ強そうなペナペナの「日本丸」を仕上げて、国民を乗せていた。国民は、見かけの立派さに歓喜の声を上げ、転覆必死とも知らず乗り込んでいた。
司馬遼太郎は書いている。
堅牢であるべき戦車の車体に疑問を感じてヤスリでこすってみたら、いとも簡単にヤスリですり減ってしまった。
「日本丸」の乗組員のうち、船体をヤスリでこすって確かめようとした人も、いたことはいたのだろうが、たいていはヤスリを持ち出した時点で、逮捕拷問され死んでいった。
愚かな戦争に粛々と殉じた人たちが、家族を思い国の将来を思っていたことは貴い事実にちがいない。しかし、死んでいった人々が、いかに高潔な純粋な心をもっていたかという一事でもって、「愚かな戦争をしてしまった」という事実を隠蔽してはならない。
「天皇は立憲君主国の法に従って行動したのであって、立憲君主としての自己責任は果たした」という観点があることは知っている。
昭和天皇自身、1981年の記者会見で、自分自身で決断したのは、二・二六事件の処理と敗戦受諾の2回だけで、あとは憲法の規定に従い、内閣の決定を承認しただけだ、と述べている。
それでもなお、昭和天皇の発言や行動の記録を読むとき、積極的に戦局に関与していたこともわかる。
たとえば、太平洋戦争開戦直後の1941年12月25日には「南洋を見たし、日本の領土となる処なれば支障なからむ(南洋をみてみたい。日本の領土になるのだからさしさわりはないだろう)」と、側近に語っている。(小倉庫次侍従日記より)
その後は、南洋方面の軍事、たとえば、1942年のガダルカナル戦局に対して積極的に発言関与を繰り返した。
軍幹部や内閣首脳に「勝てるのか」と再三の御下問があったとき、「勝てます」と答えざるを得なかったのは、天皇の希望を察知しての返答ではなかったか。
天皇が「南洋領土」を自分自身の「希望の土地」としていたため、軍幹部は南洋からの撤退を決断することが出来なかった。
ガダルカナルは撤退の機を失い、2万人の兵士が餓死。
フィリピンで、ビルマで、インドネシアで、満州で、死者は増え続けた。
南洋やインドシナで餓死した兵が出た時点、前線への補給ができなくなった時点で、すでに敗戦決定なのに、東京が空襲されても、大阪神戸が火の海になっても、「気魂があれば勝てる」と、さらなる非戦闘員の死を増やした軍部。
私には戦争論の難しいことはわからない。
私はただ、南の島で1本のバナナをも口にすることもできずに餓死していった兵を悼むのみ、フィリピンに眠る叔父をしのぶのみ。
<つづく>
2008/09/04
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ番外読書編(4)耐え難きを耐えのバナナ
夏の読書。
今日も、平和な時代の「4本200円のバナナ」を手に、夏の本たちをめくる。
「無農薬樹上完熟バナナ1本1000円」には手が出せないけれど、農薬たっぷりだったのであろう4本200円のバナナでも、小腹を満たすには役立つ。
何より皮をむく手間がいらない。読みながら食べるには一番の果物です。
江戸城明け渡しののち、天璋院篤姫所有のミシンがどうなったのかを探るための関連読書として、榊原喜佐子『徳川慶喜家の子ども部屋』を読んだ。
(天璋院篤姫が、日本で最初にミシンを所有した女性であったことを、2008/01/25のカフェ日記「日々雑記いろいろあらーな」に書いた。
NHKの『篤姫』では、8月10日放送の桜田門外の変の放送の回で、篤姫はミシンをつかって袱紗を縫い、仇敵の井伊直弼にプレゼントしていた。
夏休み中にレポートを4つ仕上げなければならない。そのうちのひとつが、「外来語ミシン」の成立過程をまとめる「ミシン考」という語彙論レポートなのだ。
『徳川慶喜家の子ども部屋』の著者は、徳川慶喜の孫で、高松宮妃の妹。
古い奥女中の昔語りを聞いた、として、ミシンの行方でも書いてないかという興味での読書だったが、ミシンについての収穫無し。
そのかわり、戦争末期におきた「機密漏洩榊原事件」の経緯について知った。
喜佐子の夫、榊原政春は、軍機密を書き写し、1944年の段階ですべての物資が戦争遂行するには不足し、敗戦必死状態となっていることを書き留めた。
その情報が天皇にまで伝わり、東条英機への御下問があったため、東条は機密漏洩に激怒。榊原政春は東条の命によって憲兵に連行された。
が、喜佐子の姉が高松宮妃であることから、高松宮が密かに背後で動き、激戦地への左遷などは免れた、と、喜佐子は戦時秘話として書き残している。
他に記録が残されていない「秘話」なのだから、事実関係を確かめてはいないけれど、少なくとも榊原夫妻の間では、「榊原事件」が高松宮によってもみ消されたことは、暗黙の了解事項となっていた。
東条英機は、自分にたてつく人間を片端から激戦地へ転勤させることで有名だった。
戦後、東条ひとりが戦争責任者代表のようになり、彼を弁護する人が多くはなかったのも、権力闘争の末、権力をつかむまで、また権力者として政局トップにいる間にあまりにも多く敵をつくり、自分に刃向かう者を、「激戦地への転勤」というやり方で死に追いやっていたからだ。
高松宮は東条英機をたいへん嫌っていた。
細川護貞(近衞文麿元首相の秘書官・元首相細川護煕の父)が、大戦後証言した話によると、高松宮黙認を得て、東条英機暗殺計画もあったという。暗殺実施の直前、東条が辞任したため、計画のみで終わったが。
表沙汰にされずに終わった「榊原事件」という秘話が教えるところとは、何か。
昭和天皇は、戦争続行が不可能な状態になっていたことを、早い段階で理解していたということ。
天皇無謬論の通説では、「天皇は国民と同じように情報を遮断された状態におかれ、軍部が大丈夫、勝てるというのを鵜呑みにしていた。天皇は何も知らされなかったのだから、責任はない」という言説が流布している。
しかし、最近の、昭和天皇側近の日記、メモなどが相次いで発表され、明らかにされてきた事柄や、「榊原政春軍機密漏洩事件」なども考えあわせると、天皇は戦局の推移を把握していたと見るべきだ。
ガダルカナルの2万の兵の餓死。ビルマインド戦線では無知無謀なインパール作戦によって3万の兵が餓死。
戦死者でなく、これほど多数の「餓死者」を出した軍隊の例は、世界史上まれである。
8月6日9日の原爆投下を受け、ようやくポツダム宣言受諾決定。
「集まってラジオを皆でいっしょに聞いたけれど、何を言っているのかさっぱりわからなかった」と、母が語っていた終戦詔勅を、国民は頭をたれ夏の直射を受けながら聞いた。
今まで、テレビの戦争時代のドラマなどでたびたび「耐え難きをたえ、忍びがたきをしのび~」という部分だけを聞いていたけれど、この夏、はじめて全文を聞いた。
昭和天皇の独特の発音と、耳で聞いたのではまったく意味不明な文語文体。ききしにまさる「何言っているのかわからない」放送だ。
「国体護持」という語だけは、はっきり聞き取れるので、「国体護持のためにみながまんしてこれからもがんばれ」という内容だ、と誤解した人がいたのもわかる。
You Tube サイトでも、さまざまな種類の「玉音放送」を聞くことができる。
終戦詔勅の全文と現代語訳つきのバージョンをリンク。(リンククリックすると、YouTubeトップページへ飛ぶので、下記URLをURLバーにコピペするとよい)
http://jp.youtube.com/watch?v=LSD9sOMkfOo&feature=related
戦記を読み、玉音放送をきき、この夏は亡き人々を思うこと多かった。
と、いっても、私は、バナナなど食いながら、ぐうたらと寝そべって本を読み散らしているばかりなのだが、、、、、。
<つづく>
2008/09/05
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ番外読書編(5)無気魂のバナナ
国立公文書館から、東条英機メモが発表された。
ポツダム宣言受諾に至る背景として「国政指導者及び国民の無気魂」を挙げるなど、責任を転嫁している心境のメモである。
「国民が無気魂だったから、戦争にまけたのだ」と、最高権力者だった者が敗戦を国民のせいにしているのを読み、唖然とした。こういう指導者に「国体護持」を吹き込まれて、多くの若者が散っていった。
将校たち参謀幹部たちの回想録やメモが明らかにされるのを見るにつけ、国のトップたちが自らこぞって国を滅ぼすほうへ向かったのだという感を強くする。
戦争を記録した第一級の作品のひとつ、吉田満『戦艦大和ノ最期』。
これから先、これらの作品を読み継いでいくことが、私にできる「夏の祈り」となる。
「大和~」の作品中、21歳になる「臼淵大尉の持論」として記録されたことば。
========
「進歩のない者は決して勝たない。負けて目ざめることが最上の道だ。
日本は進歩ということを軽んじ過ぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、本当の進歩を忘れていた。敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか。今目覚めずしていつ救われるか。俺たちはその先導になるのだ。日本の新生にさきがけて散る。まさに本望じゃないか」(「作戦発動」より)
========
この、死を覚悟した、わずか21歳の若者が到達した「死んでいこうとする理由」に対して、私たちは「本当に目ざめている」と、言い切れるのか。
「ふつうの国」を待望する人々、すなわち「日本がふつうの軍隊を保有し、戦争ができるふつうの国家として再生する」ことを願う人たちに、抗することができているのか。
戦争できることが「ふつう」というならば、私は「戦争放棄」を明記した憲法9条の「フツーじゃない」ことを誇りに思うし、「戦争放棄」こそを世界の「ふつう」にしていきたいと、願っている。
アフガニスタンで活動していた伊藤和也さんが無惨にも殺されたあと、伊藤さんが所属していたペシャワールの会の代表中村哲医師は、「昔は日本人によい印象を持っていてくれたアフガンの人々。しかし、アフガニスタンを爆撃する米軍に日本が加担するようになってから、日本人への厳しい目が増えた。せっかくボランティアが地元に根をおろして信頼関係を築いてきても、それをぶちこわしにしてしまう」という意味の発言をしている。
しかし、町村官房長官は、「尊い犠牲を今回、NGOの方からお1人出てしまったわけでありますけれども、そうであればあるほどですね、このテロとの戦いに日本が引き続き積極的にコミットしていく」と述べた。(2008/08/28)
現地で活動している中村医師のことばは無視され、ますます戦争への加担を増やすという発言、これではボランティア活動は、さらに危険が増してしまうだろう。
テロをなくすには、現地に根ざした活動が必要であり、人々の貧困をなんとかしようと農業指導をしていた伊藤さんの意志を引き継ぐことが必要だと思うのに、そのような活動への援助は考慮せず、「米軍と共同の戦いへのコミット」を積極的にするというのでは、伊藤さんの霊も悲しむだろう。
シリーズのオチとして「よしもとばなな」読みました、と、書きたかったのだけれど、、、、。
ばなな初期の作品はほとんど読んでいるけれど、「吉本」を「よしもと」に変えて以後の最近の作品には、とんとご無沙汰。
「バナナを読みながら、このシリーズを終わりにする」と、オチを書けないのは残念ながら、1本50円バナナをぱくっとひとくち。
今日もぐうたら無気魂の私が食らうバナナ。
うん、たいしてうまくないけれど、平和の味である。
無気魂で暮らしていても、なんとか生き延びられる。
<おわり>
(1)ニューアイルランド戦記
(2)レイテ戦記
(3)憂鬱なる乗り物
(4)耐え難きを耐えのバナナ
(5)無気魂のバナナ
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2008/09/01
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ番外読書編(1)ニューアイルランド島戦記
父の戦地でのようすが知りたくて、ずいぶんとニューギニア戦記をさがしたのだけれど、激しい戦闘のあった地域の記録はあるのに、「捨て置かれた島、ニューアイルランド島」の戦時記録は、そう多くない。
以下の池田充男さんの戦記は、「伏見から平和を」という平和運動のサイトから引用させていただきました。
http://homepage3.nifty.com/hushimiheiwa/gyouji/ikeda.htm
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「ニューアイルランド島戦記」
池田充男
(2002年当時81歳 京都市伏見区深草)
私は一九四二年(昭和十七年)一月から長崎県佐世保の海兵団で水兵として新兵訓練を受け、同年四月から実戦に参加した。
南はソロモン諸島のツラギ攻略戦、北はアリューシャン列島のキスカの撤退作戦と、広範囲の戦闘に参加した。その間、二度も「敵」に乗艦を沈没させられた。多くの戦死傷者を見た。
もう乗る艦もないため、四四年、南太平洋のニューブリテン島のラバウルからニューアイルランド島のカビエン守備隊付けとして渡島した。
カビエンに着いたとたん、アメリカ軍機の機銃掃射を受け、クモの子を散らすように逃げる。
私たちは、円形の機銃座とヤシの丸太で囲った壕を構築して居住区とした。
住民たちはジャングルの奥深く逃げ込んでいた。そのうち食料を食いつくした。ジャングルを切り開いてイモ畑としたり、海水をくみ、塩を作った。雑草の中で食べられるものは汁の中に入れて食べた。
時々、アメリカ軍機がイモ畑の上空にきて急降下で機銃掃射をする。小銃での応戦では太刀打ちできない。アメリカ軍機の弾がプスプスブスブスと畑に突き刺さる。ひざをぶちぬかれ、ザクロの割れたような傷口の戦死者も出た。
食べ物不足を補うためにカエルを大小を問わず捕ったり、スコール後にパパイアの木に集まってきたカタツムリを捕ったりした。
しかし、やがて、兵士たちの体力は段々と失われ、あばら骨が見え出した。加えて熱帯マラリア、アミーバー赤痢、熱帯潰瘍にかかった。薬がないため、体力のないものは次々死んでいった。
熱帯潰瘍が大きくなり、その上、マラリアにかかったりすると高熱、寒気が続き、イモさえ食べられなくなり、寝たきりの状態になり、死を待つばかりになる。
熱帯腫瘍はカなどに刺されたりして傷口ができると段々広がってうずき、膿み、てのひらの大きさ以上にも傷口が広がる。
私も熱帯潰瘍にかかった。看護兵が、麻酔薬なしで傷口の肉をハサミで切り取った。苦痛を通り越した治療だった。
膿にハエが群がってうじ虫をわかせたまま死ぬ兵も多かった。生きているのにうじ虫をわかすという悲惨は戦地での極限状態に置かれ、目撃した者以外、想像もつかないだろう。 戦病死とされたこれらの兵は、こんな悲惨な死に方をして浮かばれないだろうと思う。前線でたたかった者の体験のひとこまである。
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<つづく>
2008/09/02
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ番外読書編(2)レイテ戦記
この夏に読んだニューアイルランド島サバイバルの記録。
連合軍の機銃掃射から逃げ回り、海岸に出れば、偵察艦隊から艦砲射撃を受ける。
食えるものは何でも食い、海水から塩をとって暮らしていても、しだいに栄養失調で衰弱し、熱帯の病に倒れる。生きながらウジ虫に体を食い荒らされ、骨と皮ばかりになって死ぬ。
ニューアイルランド島戦記を書き残した池田充男さんは、1921年生まれの海兵隊所属。
1919年生まれの父が所属していた陸軍とは別の部隊と思うけれど、ニューアイルランド島での自給自足生活は似たようなものだったろうと思う。
池田さんの戦記のほか、gooブログ「Message in a Bottle」に掲載されていた「伯父の戦記」を読んだ。
戦友会会報に執筆したという「戦記」を、筆者の死後、介護施設職員の甥御さんがブログに転載なさったものです。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/member/userbbs.cgi?ppid=haruniwa&mode=comment&art_no=929388
「Message in a Bottle」 http://blog.goo.ne.jp/non_b/
この「伯父の戦記」の中の、ニューアイルランド島上陸後の部分を、春庭bbs に引用させていただきました。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/member/userbbs.cgi?ppid=haruniwa&mode=comment&art_no=929388
池田充男さん、また「non_bさんの伯父さん」の記録に感謝します。
それでも父は、ニューアイルランド島から、生きて戻った。
ニューギニア戦線に20万人従軍して2万人のみ生還という、生存者たった1割の中に残ったのだ。
私の叔父(母の弟)は、フィリピンの戦地から戻らなかった。
フィリピンのジャングルの奥深く、病死体となって木の根に横たわったのか、弾にあたった「名誉の戦死」だったのか、飢えてジャングルを敗走したあげく餓死したのか。
あるいはまた、1本のバナナをめぐって、奪い合いのあげく殺されたのか。
叔父の骸は、白くさらされたまま、フィリピンの島の地に眠っている。
先の大戦について書き残された作品のなかでも、私にとっては、大岡昇平の一連の従軍の記録「野火」「レイテ戦記」などが、もっとも深く心に残る作品群だ。第一級の文学作品であることだけでなく、舞台がフィリピンだからだろうと思う。
先の戦争で亡くなった方々、家族のために国のためにと散っていった思いは、貴い。
しかし、どのように戦局が推移したのか、事実を知れば知るほど、「なぜ、これほど無謀な戦争が実行されたのかと、驚愕する。
軍事研究戦略研究などしたこともなく、まったく素人の私でも、戦時記録をよむと「そんな無茶な!」と叫びたくなるような戦術、作戦が続き、なんでこういう決定になるのか、という決定が次々に繰り出される。
職業軍人なら、もう少し戦争を冷静に科学的に考えるべきだったし、「大和魂を持っていれば勝てる」「気魂で勝つ」なんてこと言い始めた時点で、軍人としての能力のなさを自覚すべきだった。
と、いまさら言ってもおそい。彼らは職業軍人ではなくて、「特殊一神教の信者軍人」だったのだから。
司馬遼太郎は、『私の雑記帖』の冒頭、「大正生まれの故老」に、明治の軍人と比べたときの昭和の軍人を「集団的政治発狂集団」と、断じている。戦車隊に従軍し、日本の軍部体制を身をもって経験した作家の言である。
次回、司馬の戦車談。
<つづく>
2008/09/03
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ番外読書編(3)憂鬱なる乗り物
この夏読んだ本の一冊、司馬遼太郎のエッセイ『私の雑記帖』
この中の、「戦車・この憂鬱なる乗り物」を紹介する。
司馬は、新聞記者として活躍した冷静な目で、自分が所属した戦車部隊と戦車の構造について書き残している。
戦車開発について。
戦車にもっとも必要な構造は、相手からの攻撃に耐える防御力である。しかし、軍部は、大きな砲を戦車にのせるだけで目的を果たしたと考えた。戦車らしさの見た目優先。
戦車にもっとも必要な防御を無視し、敵の一撃で撃破されてしまうようなペナペナの車体であったのだと、司馬は記している。
攻撃は、敵に発見される前にできるだけ。
1度でも攻撃してしまえば、敵前から姿を隠すことはできず、敵の攻撃を防ぐ方法はない。乗員が死ぬことを前提とした戦車であったと、司馬は書いている。飛行機零戦や人間魚雷と同じ発想。
どのような他の言説があろうと、この戦車開発一事をもってしても、日本が無謀で愚かな戦争を行ったことは明らかだ。
味方の人的損害を最小限にとどめつつ相手に損害を与えようとするのが戦争であって、最初から味方の命を粗末にしている発想で、勝てるわけがない。
防御第一であるべき戦車の車体をペナペナに仕上げてよしとしていた感覚で、日本の戦争指導者たちは、見かけだけ強そうなペナペナの「日本丸」を仕上げて、国民を乗せていた。国民は、見かけの立派さに歓喜の声を上げ、転覆必死とも知らず乗り込んでいた。
司馬遼太郎は書いている。
堅牢であるべき戦車の車体に疑問を感じてヤスリでこすってみたら、いとも簡単にヤスリですり減ってしまった。
「日本丸」の乗組員のうち、船体をヤスリでこすって確かめようとした人も、いたことはいたのだろうが、たいていはヤスリを持ち出した時点で、逮捕拷問され死んでいった。
愚かな戦争に粛々と殉じた人たちが、家族を思い国の将来を思っていたことは貴い事実にちがいない。しかし、死んでいった人々が、いかに高潔な純粋な心をもっていたかという一事でもって、「愚かな戦争をしてしまった」という事実を隠蔽してはならない。
「天皇は立憲君主国の法に従って行動したのであって、立憲君主としての自己責任は果たした」という観点があることは知っている。
昭和天皇自身、1981年の記者会見で、自分自身で決断したのは、二・二六事件の処理と敗戦受諾の2回だけで、あとは憲法の規定に従い、内閣の決定を承認しただけだ、と述べている。
それでもなお、昭和天皇の発言や行動の記録を読むとき、積極的に戦局に関与していたこともわかる。
たとえば、太平洋戦争開戦直後の1941年12月25日には「南洋を見たし、日本の領土となる処なれば支障なからむ(南洋をみてみたい。日本の領土になるのだからさしさわりはないだろう)」と、側近に語っている。(小倉庫次侍従日記より)
その後は、南洋方面の軍事、たとえば、1942年のガダルカナル戦局に対して積極的に発言関与を繰り返した。
軍幹部や内閣首脳に「勝てるのか」と再三の御下問があったとき、「勝てます」と答えざるを得なかったのは、天皇の希望を察知しての返答ではなかったか。
天皇が「南洋領土」を自分自身の「希望の土地」としていたため、軍幹部は南洋からの撤退を決断することが出来なかった。
ガダルカナルは撤退の機を失い、2万人の兵士が餓死。
フィリピンで、ビルマで、インドネシアで、満州で、死者は増え続けた。
南洋やインドシナで餓死した兵が出た時点、前線への補給ができなくなった時点で、すでに敗戦決定なのに、東京が空襲されても、大阪神戸が火の海になっても、「気魂があれば勝てる」と、さらなる非戦闘員の死を増やした軍部。
私には戦争論の難しいことはわからない。
私はただ、南の島で1本のバナナをも口にすることもできずに餓死していった兵を悼むのみ、フィリピンに眠る叔父をしのぶのみ。
<つづく>
2008/09/04
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ番外読書編(4)耐え難きを耐えのバナナ
夏の読書。
今日も、平和な時代の「4本200円のバナナ」を手に、夏の本たちをめくる。
「無農薬樹上完熟バナナ1本1000円」には手が出せないけれど、農薬たっぷりだったのであろう4本200円のバナナでも、小腹を満たすには役立つ。
何より皮をむく手間がいらない。読みながら食べるには一番の果物です。
江戸城明け渡しののち、天璋院篤姫所有のミシンがどうなったのかを探るための関連読書として、榊原喜佐子『徳川慶喜家の子ども部屋』を読んだ。
(天璋院篤姫が、日本で最初にミシンを所有した女性であったことを、2008/01/25のカフェ日記「日々雑記いろいろあらーな」に書いた。
NHKの『篤姫』では、8月10日放送の桜田門外の変の放送の回で、篤姫はミシンをつかって袱紗を縫い、仇敵の井伊直弼にプレゼントしていた。
夏休み中にレポートを4つ仕上げなければならない。そのうちのひとつが、「外来語ミシン」の成立過程をまとめる「ミシン考」という語彙論レポートなのだ。
『徳川慶喜家の子ども部屋』の著者は、徳川慶喜の孫で、高松宮妃の妹。
古い奥女中の昔語りを聞いた、として、ミシンの行方でも書いてないかという興味での読書だったが、ミシンについての収穫無し。
そのかわり、戦争末期におきた「機密漏洩榊原事件」の経緯について知った。
喜佐子の夫、榊原政春は、軍機密を書き写し、1944年の段階ですべての物資が戦争遂行するには不足し、敗戦必死状態となっていることを書き留めた。
その情報が天皇にまで伝わり、東条英機への御下問があったため、東条は機密漏洩に激怒。榊原政春は東条の命によって憲兵に連行された。
が、喜佐子の姉が高松宮妃であることから、高松宮が密かに背後で動き、激戦地への左遷などは免れた、と、喜佐子は戦時秘話として書き残している。
他に記録が残されていない「秘話」なのだから、事実関係を確かめてはいないけれど、少なくとも榊原夫妻の間では、「榊原事件」が高松宮によってもみ消されたことは、暗黙の了解事項となっていた。
東条英機は、自分にたてつく人間を片端から激戦地へ転勤させることで有名だった。
戦後、東条ひとりが戦争責任者代表のようになり、彼を弁護する人が多くはなかったのも、権力闘争の末、権力をつかむまで、また権力者として政局トップにいる間にあまりにも多く敵をつくり、自分に刃向かう者を、「激戦地への転勤」というやり方で死に追いやっていたからだ。
高松宮は東条英機をたいへん嫌っていた。
細川護貞(近衞文麿元首相の秘書官・元首相細川護煕の父)が、大戦後証言した話によると、高松宮黙認を得て、東条英機暗殺計画もあったという。暗殺実施の直前、東条が辞任したため、計画のみで終わったが。
表沙汰にされずに終わった「榊原事件」という秘話が教えるところとは、何か。
昭和天皇は、戦争続行が不可能な状態になっていたことを、早い段階で理解していたということ。
天皇無謬論の通説では、「天皇は国民と同じように情報を遮断された状態におかれ、軍部が大丈夫、勝てるというのを鵜呑みにしていた。天皇は何も知らされなかったのだから、責任はない」という言説が流布している。
しかし、最近の、昭和天皇側近の日記、メモなどが相次いで発表され、明らかにされてきた事柄や、「榊原政春軍機密漏洩事件」なども考えあわせると、天皇は戦局の推移を把握していたと見るべきだ。
ガダルカナルの2万の兵の餓死。ビルマインド戦線では無知無謀なインパール作戦によって3万の兵が餓死。
戦死者でなく、これほど多数の「餓死者」を出した軍隊の例は、世界史上まれである。
8月6日9日の原爆投下を受け、ようやくポツダム宣言受諾決定。
「集まってラジオを皆でいっしょに聞いたけれど、何を言っているのかさっぱりわからなかった」と、母が語っていた終戦詔勅を、国民は頭をたれ夏の直射を受けながら聞いた。
今まで、テレビの戦争時代のドラマなどでたびたび「耐え難きをたえ、忍びがたきをしのび~」という部分だけを聞いていたけれど、この夏、はじめて全文を聞いた。
昭和天皇の独特の発音と、耳で聞いたのではまったく意味不明な文語文体。ききしにまさる「何言っているのかわからない」放送だ。
「国体護持」という語だけは、はっきり聞き取れるので、「国体護持のためにみながまんしてこれからもがんばれ」という内容だ、と誤解した人がいたのもわかる。
You Tube サイトでも、さまざまな種類の「玉音放送」を聞くことができる。
終戦詔勅の全文と現代語訳つきのバージョンをリンク。(リンククリックすると、YouTubeトップページへ飛ぶので、下記URLをURLバーにコピペするとよい)
http://jp.youtube.com/watch?v=LSD9sOMkfOo&feature=related
戦記を読み、玉音放送をきき、この夏は亡き人々を思うこと多かった。
と、いっても、私は、バナナなど食いながら、ぐうたらと寝そべって本を読み散らしているばかりなのだが、、、、、。
<つづく>
2008/09/05
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ番外読書編(5)無気魂のバナナ
国立公文書館から、東条英機メモが発表された。
ポツダム宣言受諾に至る背景として「国政指導者及び国民の無気魂」を挙げるなど、責任を転嫁している心境のメモである。
「国民が無気魂だったから、戦争にまけたのだ」と、最高権力者だった者が敗戦を国民のせいにしているのを読み、唖然とした。こういう指導者に「国体護持」を吹き込まれて、多くの若者が散っていった。
将校たち参謀幹部たちの回想録やメモが明らかにされるのを見るにつけ、国のトップたちが自らこぞって国を滅ぼすほうへ向かったのだという感を強くする。
戦争を記録した第一級の作品のひとつ、吉田満『戦艦大和ノ最期』。
これから先、これらの作品を読み継いでいくことが、私にできる「夏の祈り」となる。
「大和~」の作品中、21歳になる「臼淵大尉の持論」として記録されたことば。
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「進歩のない者は決して勝たない。負けて目ざめることが最上の道だ。
日本は進歩ということを軽んじ過ぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、本当の進歩を忘れていた。敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか。今目覚めずしていつ救われるか。俺たちはその先導になるのだ。日本の新生にさきがけて散る。まさに本望じゃないか」(「作戦発動」より)
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この、死を覚悟した、わずか21歳の若者が到達した「死んでいこうとする理由」に対して、私たちは「本当に目ざめている」と、言い切れるのか。
「ふつうの国」を待望する人々、すなわち「日本がふつうの軍隊を保有し、戦争ができるふつうの国家として再生する」ことを願う人たちに、抗することができているのか。
戦争できることが「ふつう」というならば、私は「戦争放棄」を明記した憲法9条の「フツーじゃない」ことを誇りに思うし、「戦争放棄」こそを世界の「ふつう」にしていきたいと、願っている。
アフガニスタンで活動していた伊藤和也さんが無惨にも殺されたあと、伊藤さんが所属していたペシャワールの会の代表中村哲医師は、「昔は日本人によい印象を持っていてくれたアフガンの人々。しかし、アフガニスタンを爆撃する米軍に日本が加担するようになってから、日本人への厳しい目が増えた。せっかくボランティアが地元に根をおろして信頼関係を築いてきても、それをぶちこわしにしてしまう」という意味の発言をしている。
しかし、町村官房長官は、「尊い犠牲を今回、NGOの方からお1人出てしまったわけでありますけれども、そうであればあるほどですね、このテロとの戦いに日本が引き続き積極的にコミットしていく」と述べた。(2008/08/28)
現地で活動している中村医師のことばは無視され、ますます戦争への加担を増やすという発言、これではボランティア活動は、さらに危険が増してしまうだろう。
テロをなくすには、現地に根ざした活動が必要であり、人々の貧困をなんとかしようと農業指導をしていた伊藤さんの意志を引き継ぐことが必要だと思うのに、そのような活動への援助は考慮せず、「米軍と共同の戦いへのコミット」を積極的にするというのでは、伊藤さんの霊も悲しむだろう。
シリーズのオチとして「よしもとばなな」読みました、と、書きたかったのだけれど、、、、。
ばなな初期の作品はほとんど読んでいるけれど、「吉本」を「よしもと」に変えて以後の最近の作品には、とんとご無沙汰。
「バナナを読みながら、このシリーズを終わりにする」と、オチを書けないのは残念ながら、1本50円バナナをぱくっとひとくち。
今日もぐうたら無気魂の私が食らうバナナ。
うん、たいしてうまくないけれど、平和の味である。
無気魂で暮らしていても、なんとか生き延びられる。
<おわり>