2014/02/13
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(18)飛鳥山の渋沢栄一邸
岩崎家など明治時代に財閥としてのし上がった家や、華族皇族の残した大邸宅にいささか斜めに構えた見方をしてきたひねくれ者の春庭。明治の財界人のなかで、なぜか渋沢栄一(1840-1931)にだけはあまり反感を持たず、素直にその事跡を受け止める気になります。
明治財界人のなかで、栄一は「自家の繁栄」だけに執着せず、社会活動に力を注いだということもあります。著書『論語と算盤』のなかで「道徳経済合一説」を述べ、晩年は福祉や教育に力を注ぎました。
栄一の後を継いだ孫の敬三(1896-1963)も社会文化への貢献を果たし、特に民俗学民族学への寄与は大きいものでした。民俗文化研究を続けた宮本常一(みやもとつねいち1907-1981)らは、敬三のもとで在野の研究者として民俗調査を続けました。研究拠点であった日本常民文化研究所は、神奈川大学移管後は、網野善彦らに受け継がれています。
一方、栄一の長男篤二は、公家華族橋本伯爵家出身の妻と結婚したものの、一子敬三をもうけたのちは、放蕩三昧。ついには廃嫡され、芸者玉蝶を囲う気ままな暮らしを選びました。廃嫡されたといっても、篤二が玉蝶と遊蕩生活を続けた家は、のちに実業家松岡清次郎が買い取り、現在の松岡美術館になっている土地ですから、庶民のせがれが放蕩して勘当されたというのとはケタが違いますが。
渋沢家の本邸は、深川から三田に移築されましたが、篤二廃嫡後は敬三が引き継ぎ、洋館を増築しました。現在は青森県三沢市に移築されているので、見学に行きたいと思っています。
栄一は、1901年(明治34)に飛鳥山に渋沢家別邸「曖依村荘(あいいそんそう)」を建て、亡くなる1931年(昭和6)まで住みました。
曖依村荘は東京大空襲で焼け落ち、現在は跡地に渋沢史料館が建てられています。
飛鳥山別邸内の建物のうち、「晩香廬」と「青淵文庫」は戦災をかろうじてかいくぐり、一般公開されています。
晩香廬は、栄一喜寿の祝いに贈られた洋風茶室で、清水組技師長田辺淳吉の設計。
晩香廬の室内。2012年に訪問したとき、下の写真を写しました。この時は「建物の外からフラッシュを使わずに撮影するのは許可」といわれたのですが、2013年には、外から内部を写すのも不可」と変わっていました。
「青淵文庫」は栄一の傘寿祝いに、弟子たち「竜門会」に集う人々から贈られた書庫(1階は閲覧室)
栄一が収集した論語はじめ漢籍が書庫に収められています。
渋沢栄一は、賓客を晩香廬でもてなしました。渋沢史料館の保存フィルムには、タゴールらが訪れたときの記録が残されており、史料館1階のホールで上映されています。
2013年11月に青淵文庫でミュージアムコンサートが開催された際は、氏名住所を書いて申し込みをした人々の集まりであったためか、室内撮影が許可されました。
こんなお部屋で一日読書をしていたら、がさつな私も少しは落ち着いた気分になれるんじゃないでしょうか。
青淵文庫1階閲覧室
建物めぐり、2月後半から3月くらいに「横浜と鎌倉の洋館」シリーズと「コンドル、レツル、ヴォーリズ、ライト、レーモンド、ル・コルビジェ」シリーズを予定しています。
<おわり>
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(18)飛鳥山の渋沢栄一邸
岩崎家など明治時代に財閥としてのし上がった家や、華族皇族の残した大邸宅にいささか斜めに構えた見方をしてきたひねくれ者の春庭。明治の財界人のなかで、なぜか渋沢栄一(1840-1931)にだけはあまり反感を持たず、素直にその事跡を受け止める気になります。
明治財界人のなかで、栄一は「自家の繁栄」だけに執着せず、社会活動に力を注いだということもあります。著書『論語と算盤』のなかで「道徳経済合一説」を述べ、晩年は福祉や教育に力を注ぎました。
栄一の後を継いだ孫の敬三(1896-1963)も社会文化への貢献を果たし、特に民俗学民族学への寄与は大きいものでした。民俗文化研究を続けた宮本常一(みやもとつねいち1907-1981)らは、敬三のもとで在野の研究者として民俗調査を続けました。研究拠点であった日本常民文化研究所は、神奈川大学移管後は、網野善彦らに受け継がれています。
一方、栄一の長男篤二は、公家華族橋本伯爵家出身の妻と結婚したものの、一子敬三をもうけたのちは、放蕩三昧。ついには廃嫡され、芸者玉蝶を囲う気ままな暮らしを選びました。廃嫡されたといっても、篤二が玉蝶と遊蕩生活を続けた家は、のちに実業家松岡清次郎が買い取り、現在の松岡美術館になっている土地ですから、庶民のせがれが放蕩して勘当されたというのとはケタが違いますが。
渋沢家の本邸は、深川から三田に移築されましたが、篤二廃嫡後は敬三が引き継ぎ、洋館を増築しました。現在は青森県三沢市に移築されているので、見学に行きたいと思っています。
栄一は、1901年(明治34)に飛鳥山に渋沢家別邸「曖依村荘(あいいそんそう)」を建て、亡くなる1931年(昭和6)まで住みました。
曖依村荘は東京大空襲で焼け落ち、現在は跡地に渋沢史料館が建てられています。
飛鳥山別邸内の建物のうち、「晩香廬」と「青淵文庫」は戦災をかろうじてかいくぐり、一般公開されています。
晩香廬は、栄一喜寿の祝いに贈られた洋風茶室で、清水組技師長田辺淳吉の設計。
晩香廬の室内。2012年に訪問したとき、下の写真を写しました。この時は「建物の外からフラッシュを使わずに撮影するのは許可」といわれたのですが、2013年には、外から内部を写すのも不可」と変わっていました。
「青淵文庫」は栄一の傘寿祝いに、弟子たち「竜門会」に集う人々から贈られた書庫(1階は閲覧室)
栄一が収集した論語はじめ漢籍が書庫に収められています。
渋沢栄一は、賓客を晩香廬でもてなしました。渋沢史料館の保存フィルムには、タゴールらが訪れたときの記録が残されており、史料館1階のホールで上映されています。
2013年11月に青淵文庫でミュージアムコンサートが開催された際は、氏名住所を書いて申し込みをした人々の集まりであったためか、室内撮影が許可されました。
こんなお部屋で一日読書をしていたら、がさつな私も少しは落ち着いた気分になれるんじゃないでしょうか。
青淵文庫1階閲覧室
建物めぐり、2月後半から3月くらいに「横浜と鎌倉の洋館」シリーズと「コンドル、レツル、ヴォーリズ、ライト、レーモンド、ル・コルビジェ」シリーズを予定しています。
<おわり>