2014/02/09
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(15)山本記念館(旧山本有三邸)
私邸の保存、所有者が自治体や博物館に建物を寄贈することで保存が決まることが多いですが、元の土地にそのまま保存し記念館博物館文学館などとして利用する方法、別の公園やテーマパークに移築復元する方法があると述べました。
記念館として保存されているひとつが、三鷹の土地にそのまま保存され、所有者山本有三の記念館として公益財団法人が管理している山本有三記念館。
この洋館、当初は清田龍之助邸でした。清田龍之助(せいたりゅうのすけ1880-1943)は、立教大学を卒業したあと、米国オハイオー州ケニオン大学とエール大学に留学。帰国後は東京高等商業学校(現・一橋大学)教授として、英作文・英文購読・商業英語の指導にあたりました。一度退職し、キッコーマン醤油の濱口商事で総支配人して働き、実業家として成功しました。しかし、濱口商事の事業がうまくいかなくなったのち、再び東京高等商業学校で教職についたとのことです。
清田は、1926(大正15)年にこの家を竣工、1931(昭和6)年まで住みましたが、清田が事業から引退する際、競売にかけられました。
記念館の建物説明でも、設計者施工者不明とあります。屋根裏ロフト利用の地上2階建て、地下1階。一部は木造で、他の部分はRC(鉄筋コンクリート)の混構造。
山本有三(1887-1974)は、『路傍の石』『女の一生』『米百俵』などの作品で知られ、参議院議員も努めて文化勲章を受けた、功成り名遂げた文学者です。
山本有三は、1936(昭和11)年に土地建物込で購入。それまで住んでいた吉祥寺から隣町の三鷹に引っ越しました。当時の三鷹は、1930年に中央線三鷹駅が開業して、田畑や林が広がる田園地帯から東京のベッドタウンへと変貌を遂げている最中。駅の南口から徒歩10分ほどの山本有三邸の周辺にも家が立ち並ぶようになりました。
山本が1936(昭和11)年から1946(昭和21)年まで家族とともに暮らした洋館は、戦災にあわなかったために、戦後は米軍によって接収されましたが、返還後山本一家はこの洋館には戻りませんでした。
一説によると。米軍将校が他の接収住宅でも行われたように、ペンキを家中に塗りたくったことに辟易し、もとの状態に戻すには修復費用だけで新築の一軒家が買えるくらいかかるらしいと聞いて、居住をあきらめた、ということですが、まあ、そういうこともあったかもしれないと思うものの、山本の日記とか家族の証言記録で確認したわけではありません。
1956(昭和31)年山本有三は家を東京都に寄贈。東京都の施設(教育研究所分館、都立有三青少年文庫など)として利用されできました。
現在の管理者は、公益財団法人です。自治体所有の建物が財団法人管理になると、とたんに内部撮影禁止措置となります。写真をめぐっていろいろ面倒なことになるよりは、一律撮影禁止にしてしまったほうが、管理が簡単だ、ということだろうと思います。
おうちの前に座っている家なき子HAL
三鷹の山本有三記念館も、内部撮影禁止でした。内部写真を見たいかたは、下記HPへ。
http://mitaka.jpn.org/yuzo/about.php 記念館公式HP
建築関係者とかなら、許可されて写真撮影ができるみたいです。
http://yuwakai.org/dokokai3/idesanzuihitu2007/idesan20080105/YamamotoYuuzou.htm
(山本有三記念館の建物紹介)
http://isidora.sakura.ne.jp/aries/ken270.html
<つづく>