2014/02/11
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(16)番外、建物の写真撮影について
くちかずこさんからのコメント「写真、どなたかに撮影してもらったのですか?」というお尋ねがあったので、お答えします。「春庭が建物写真をUPする場合、基本、春庭撮影の素人写真」です。
しかし、建物によっては、内部写真の撮影が禁止のものも多く、どうしても内部の写真を紹介したいときは、ネットから写真をお借りした写真を「借り物」としてUPしています。
春庭自身を撮した写真は、石や切り株などの上にカメラを置いてセルフタイマーで撮影したか、周囲の人に「すみません、シャッター押してください」と頼んだ写真。旧前田邸の室内で撮影したのは、新人ボランティアガイドさんが移してくれました。旧山本邸の前の写真は、たしかセルフタイマーだったように思います。自分が写っていない建物の写真は、春庭撮影です。古いほうのデジカメで撮したときは、日付の入れ方をしりませんでした。今のカメラは、息子に日付が出るように設定してもらったので、撮影日がわかります。自分のメモとして写真を撮っているので、日付が入ったほうが記録としてはいいと思っています。
ここでちょいと、公益財団法人の建物管理について、文句を言っておきたいです。
建築写真は、専門家のすばらしい写真集も出版されています。適切な照明と見やすいアングルで上手に撮れている写真。美しい建物のようすがわかります。
でも、私は私自身がこの目で見た記録として素人なりに建物の写真を撮りたい。
しかし、自治体が直接管理している施設は「撮影自由」のところがあるのにたいして、財団法人管理だと、「撮影者の心無い行為によって建物が痛んだりしたら大変。財産である建物の価値を減じてはならじ」と、思うのか、やたらに「内部の写真撮影禁止」という措置をしているところが多いです
絵画や彫刻ならば、作者の死後50年で著作権が消滅します。西洋美術館、近代美術館、東京国立博物館では、それらの作品の撮影について「フラッシュ禁止、三脚禁止」などの条件をつけながらも許可し、撮影してはならない作品の前には「撮影禁止」のマークを出しています。私は、この措置は「人類公共の文化」のありかたとして、妥当なものと思います。
ルーブル美術館は、モナリザでもミロのビーナスでも、撮影自由ですし、申し込みをして許可されれば、模写も自由です。人類財産の公開は、こうあるべきです。
公益財団法人の管理下にある美術館博物館は「申し込みをして身分証明しえた者」には、模写も撮影も許可すべきだと考えます。
前にも書きましたが、私は、文化財として公開している家や、国や自治体から文化財認定を受けて家の補修改築に補助金を受けている建物は、少なくても外観の撮影は許可すべきだし、内部公開している建物については、フラシュや三脚の禁止と、人物の撮影禁止を盛り込めば、撮影していいのではないかと考えています。
ですから「館内撮影禁止」と書かれている場所でも、顔認識ができるような人物が入り込んでいない場合、「確信的」に、室内などを勝手に撮影してきました。
前後左右、まったく車の影も見えない道路でも、きちんと「赤信号は止まれ」という交通規則を守る人がいます。「決められた規則には従う」ことを実践している人たち。私は、自分自身の考えでそうしているなら、その信念は尊重すべきだと考えます。
しかし、「いま渡って危ないか危なくないか」ということを自分で判断するのが面倒だから、いつも信号通りにしている、というだけならば、1930~40年代の「大日本小市民」がそうであったように、「ごく普通に暮らしていたのに、あらまあ、いつのまにか戦争になっていたなあ」ということにもなるやもしれません。自分で考えること、自分のことは自分で決めること。という基本がこのごろ崩れてきて、「上意下達」だったり「自己決定の放棄」に見える出来事が続いています。
私は、「法律は弱者を守るために存在する」という考え方の持ち主です。憲法は、国民にたいして圧倒的な権力を持つ国家権力が暴走しないよう、国民を苦しめないように、規制をかけるための最高の法規です。他の法律も、常に弱い立場の者の見方をするために存在するのだと思っています。
弱者にとっての悪法は、法律ではない、ということを「障害者自立支援法」の成立のときに思い知らされました。「自立支援」を標榜しながら成立したこの法律によって、真に自立できた障害者を、私はまだ知りません。単に障害者援助金を減らしたい、という予算のためだけの法だったように思います。
現在は高齢者への予算がどんどん減らされていく時代になりました。高齢者の医療補助は健康保険介護保険、2倍になるそうですね。
話が広がってしまいました。もとにもどすと、私は、「人類文化は皆で享受し、皆で守るもの」という信念のもと、保存運動や維持活動にもエールを送り、作品を保護しつつ写真を撮りたいと思っています。
先日訪問した鎌倉近代文学館(旧前田侯爵家鎌倉別邸)も、館内撮影禁止でした。バチバチ自由に写真を撮っている女性がいたので、お尋ねすると「私は新聞記者ですから」と胸を張っておっしゃる。報道機関には撮影を許可が出るのを知って、係りの人に「身分証明書などで姓名明らかにして申し込みをすれば、撮影許可が出るでしょうか」と質問したら「いいえ、一般の方の撮影はご遠慮願っています」という説明でした。
「一般人は”報道を行う記者”に比べると下等生物なんだわあ」と、思いましたが、「ご遠慮願う」ということなら、遠慮しなけりゃいいんじゃん、と思って、人がいない時、室内を撮影しました。なぜならば、「この建物のお部屋を撮影した絵葉書があれば買いたいのですが」という申し込みに対し、「ありません」というそっけないお返事だったので、絵葉書もない、ということなら、写真撮っちゃダメって言われても、遠慮しないことにしたのです
管理している財団法人が「写真を撮るな」と規定するのは、管理の都合上必要なのだろうと察します。しかし、禁止を承知で、「ここなら誰にも迷惑をかけることもなく、建物を傷めることもない」と確信して写真をとるのは、私の自主的な判断によります。
自分で、考えて自分で行動するので、何らかの責めを負うのも自分です。責任はとります。
ときには、「決まりを守ることは金科玉条、絶対のものである」と考える人がいて、「おい、ここは撮影禁止だぞ!」と、大犯罪者を見つけたという勢いで注意してくださる御仁がおられます。外国で軍事施設の写真を撮っていると逮捕されることがありますが、それとは事情がことなりましょう。
決まりを破るものを告発する人、きっとこういう人は、ナチ時代、隠れ家にひっそり暮らしているユダヤ人を告発したり、スターリン時代に「ここに反スターリン的な言動をしている者がいるぞ」と密告した人と同じ体質なんだろうなあ、と思います。
こういう人には、吉野弘(1926-2014)の『祝婚歌』を朗読してあげることにしましょう。
「互いに非難することがあっても、非難できる資格が自分にあったかどうか あとで疑わしくなるほうがいい
正しいことを言うときは 少しひかえめにするほうがいい
正いことを言うときは 相手を傷つけやすいものだと 気づいているほうがいい 」
という詩を読んであげることにすればよいだけ。むろん、自分でも繰り返し読んで自戒しなければなりませんけれど。私、どうして「もひかえめにするほうがいい」というところがうまくできないんでね。いつも大音声。
先日見た再放送の「知られざるロシアアヴァンギャルド」にとても勇気づけられました。スターリン時代に弾圧され粛清されていったロシアアヴァンギャルドの画家たち。多くの芸術家も市民もスターリンの権力を恐れていたなか、弾圧をかいくぐってロシアアヴァンギャルド画家の作品を収集し続けたひとりの男、イゴール・サヴィツキー。
サヴィツキーは、抑圧されたロシア・アヴァンギャルドの作品を収集し、中央アジアのカラカルパクスタン共和国の首都ヌクスに美術館を建てて保存しました。
多くの画家が「反スターリン的である」として銃殺刑に処せられたり、シベリア強制収容所送りになったとき、危険を冒しても作品を保護し続けたサヴィツキー。スターリン側から見たら、「スターリンの意向に違反する行為」だったわけです。
また、別の例をあげれば、杉原千畝は外務省からの訓令に違反して、ユダヤ人たちにビザを発行しました。
こういう崇高な例とはいっしょにすることもできないですけれど、「撮影はご遠慮願います」なんて言われたって、私はめげない、ってことです。
まあ、早い話が、私が撮影したい時に「ここは撮影禁止ですよ」なんて言われることに腹が立つ、というだけのことでして。
最後にひとこと、私の信念では、本日は決して「建国の日」ではなく、「神話と伝説の日」です。
<つづく>
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(16)番外、建物の写真撮影について
くちかずこさんからのコメント「写真、どなたかに撮影してもらったのですか?」というお尋ねがあったので、お答えします。「春庭が建物写真をUPする場合、基本、春庭撮影の素人写真」です。
しかし、建物によっては、内部写真の撮影が禁止のものも多く、どうしても内部の写真を紹介したいときは、ネットから写真をお借りした写真を「借り物」としてUPしています。
春庭自身を撮した写真は、石や切り株などの上にカメラを置いてセルフタイマーで撮影したか、周囲の人に「すみません、シャッター押してください」と頼んだ写真。旧前田邸の室内で撮影したのは、新人ボランティアガイドさんが移してくれました。旧山本邸の前の写真は、たしかセルフタイマーだったように思います。自分が写っていない建物の写真は、春庭撮影です。古いほうのデジカメで撮したときは、日付の入れ方をしりませんでした。今のカメラは、息子に日付が出るように設定してもらったので、撮影日がわかります。自分のメモとして写真を撮っているので、日付が入ったほうが記録としてはいいと思っています。
ここでちょいと、公益財団法人の建物管理について、文句を言っておきたいです。
建築写真は、専門家のすばらしい写真集も出版されています。適切な照明と見やすいアングルで上手に撮れている写真。美しい建物のようすがわかります。
でも、私は私自身がこの目で見た記録として素人なりに建物の写真を撮りたい。
しかし、自治体が直接管理している施設は「撮影自由」のところがあるのにたいして、財団法人管理だと、「撮影者の心無い行為によって建物が痛んだりしたら大変。財産である建物の価値を減じてはならじ」と、思うのか、やたらに「内部の写真撮影禁止」という措置をしているところが多いです
絵画や彫刻ならば、作者の死後50年で著作権が消滅します。西洋美術館、近代美術館、東京国立博物館では、それらの作品の撮影について「フラッシュ禁止、三脚禁止」などの条件をつけながらも許可し、撮影してはならない作品の前には「撮影禁止」のマークを出しています。私は、この措置は「人類公共の文化」のありかたとして、妥当なものと思います。
ルーブル美術館は、モナリザでもミロのビーナスでも、撮影自由ですし、申し込みをして許可されれば、模写も自由です。人類財産の公開は、こうあるべきです。
公益財団法人の管理下にある美術館博物館は「申し込みをして身分証明しえた者」には、模写も撮影も許可すべきだと考えます。
前にも書きましたが、私は、文化財として公開している家や、国や自治体から文化財認定を受けて家の補修改築に補助金を受けている建物は、少なくても外観の撮影は許可すべきだし、内部公開している建物については、フラシュや三脚の禁止と、人物の撮影禁止を盛り込めば、撮影していいのではないかと考えています。
ですから「館内撮影禁止」と書かれている場所でも、顔認識ができるような人物が入り込んでいない場合、「確信的」に、室内などを勝手に撮影してきました。
前後左右、まったく車の影も見えない道路でも、きちんと「赤信号は止まれ」という交通規則を守る人がいます。「決められた規則には従う」ことを実践している人たち。私は、自分自身の考えでそうしているなら、その信念は尊重すべきだと考えます。
しかし、「いま渡って危ないか危なくないか」ということを自分で判断するのが面倒だから、いつも信号通りにしている、というだけならば、1930~40年代の「大日本小市民」がそうであったように、「ごく普通に暮らしていたのに、あらまあ、いつのまにか戦争になっていたなあ」ということにもなるやもしれません。自分で考えること、自分のことは自分で決めること。という基本がこのごろ崩れてきて、「上意下達」だったり「自己決定の放棄」に見える出来事が続いています。
私は、「法律は弱者を守るために存在する」という考え方の持ち主です。憲法は、国民にたいして圧倒的な権力を持つ国家権力が暴走しないよう、国民を苦しめないように、規制をかけるための最高の法規です。他の法律も、常に弱い立場の者の見方をするために存在するのだと思っています。
弱者にとっての悪法は、法律ではない、ということを「障害者自立支援法」の成立のときに思い知らされました。「自立支援」を標榜しながら成立したこの法律によって、真に自立できた障害者を、私はまだ知りません。単に障害者援助金を減らしたい、という予算のためだけの法だったように思います。
現在は高齢者への予算がどんどん減らされていく時代になりました。高齢者の医療補助は健康保険介護保険、2倍になるそうですね。
話が広がってしまいました。もとにもどすと、私は、「人類文化は皆で享受し、皆で守るもの」という信念のもと、保存運動や維持活動にもエールを送り、作品を保護しつつ写真を撮りたいと思っています。
先日訪問した鎌倉近代文学館(旧前田侯爵家鎌倉別邸)も、館内撮影禁止でした。バチバチ自由に写真を撮っている女性がいたので、お尋ねすると「私は新聞記者ですから」と胸を張っておっしゃる。報道機関には撮影を許可が出るのを知って、係りの人に「身分証明書などで姓名明らかにして申し込みをすれば、撮影許可が出るでしょうか」と質問したら「いいえ、一般の方の撮影はご遠慮願っています」という説明でした。
「一般人は”報道を行う記者”に比べると下等生物なんだわあ」と、思いましたが、「ご遠慮願う」ということなら、遠慮しなけりゃいいんじゃん、と思って、人がいない時、室内を撮影しました。なぜならば、「この建物のお部屋を撮影した絵葉書があれば買いたいのですが」という申し込みに対し、「ありません」というそっけないお返事だったので、絵葉書もない、ということなら、写真撮っちゃダメって言われても、遠慮しないことにしたのです
管理している財団法人が「写真を撮るな」と規定するのは、管理の都合上必要なのだろうと察します。しかし、禁止を承知で、「ここなら誰にも迷惑をかけることもなく、建物を傷めることもない」と確信して写真をとるのは、私の自主的な判断によります。
自分で、考えて自分で行動するので、何らかの責めを負うのも自分です。責任はとります。
ときには、「決まりを守ることは金科玉条、絶対のものである」と考える人がいて、「おい、ここは撮影禁止だぞ!」と、大犯罪者を見つけたという勢いで注意してくださる御仁がおられます。外国で軍事施設の写真を撮っていると逮捕されることがありますが、それとは事情がことなりましょう。
決まりを破るものを告発する人、きっとこういう人は、ナチ時代、隠れ家にひっそり暮らしているユダヤ人を告発したり、スターリン時代に「ここに反スターリン的な言動をしている者がいるぞ」と密告した人と同じ体質なんだろうなあ、と思います。
こういう人には、吉野弘(1926-2014)の『祝婚歌』を朗読してあげることにしましょう。
「互いに非難することがあっても、非難できる資格が自分にあったかどうか あとで疑わしくなるほうがいい
正しいことを言うときは 少しひかえめにするほうがいい
正いことを言うときは 相手を傷つけやすいものだと 気づいているほうがいい 」
という詩を読んであげることにすればよいだけ。むろん、自分でも繰り返し読んで自戒しなければなりませんけれど。私、どうして「もひかえめにするほうがいい」というところがうまくできないんでね。いつも大音声。
先日見た再放送の「知られざるロシアアヴァンギャルド」にとても勇気づけられました。スターリン時代に弾圧され粛清されていったロシアアヴァンギャルドの画家たち。多くの芸術家も市民もスターリンの権力を恐れていたなか、弾圧をかいくぐってロシアアヴァンギャルド画家の作品を収集し続けたひとりの男、イゴール・サヴィツキー。
サヴィツキーは、抑圧されたロシア・アヴァンギャルドの作品を収集し、中央アジアのカラカルパクスタン共和国の首都ヌクスに美術館を建てて保存しました。
多くの画家が「反スターリン的である」として銃殺刑に処せられたり、シベリア強制収容所送りになったとき、危険を冒しても作品を保護し続けたサヴィツキー。スターリン側から見たら、「スターリンの意向に違反する行為」だったわけです。
また、別の例をあげれば、杉原千畝は外務省からの訓令に違反して、ユダヤ人たちにビザを発行しました。
こういう崇高な例とはいっしょにすることもできないですけれど、「撮影はご遠慮願います」なんて言われたって、私はめげない、ってことです。
まあ、早い話が、私が撮影したい時に「ここは撮影禁止ですよ」なんて言われることに腹が立つ、というだけのことでして。
最後にひとこと、私の信念では、本日は決して「建国の日」ではなく、「神話と伝説の日」です。
<つづく>