20160409
ミンガラ春庭ミャンマースーベニール>ビルマの古写真(5)宝物といっしょに
日本の近代、明治も20年代後半になってくると写真が大衆化していき、貧乏だった樋口一葉の一家も、一葉と母、妹邦子が三人そろって写真におさまっています。(樋口一葉記念館などで見ることができるほか、一葉関連の書籍にはたいてい載っています)。
ビルマで、写真館で撮影してもらうことが一般化するのは、もう少し年代が遅れていたのではないかと思います。
王国時代英領時代のビルマで、一般の人が写真を撮る機会は、そう多くはなかったろうと思います。19世紀末に撮影されたビルマ古写真の多くは、キリスト教宣教師が少数民族を教宣する際に撮影したもの、あるいは英領支配層が統治地域を撮影したものなどです。
国立博物館で王国時代の最後の王と王妃の写真を見ましたけれど、王族や大臣、お金持ちの写真のほか、一般の人が写真を写す機会を得られるようになったのはいつごろからか、と思います。
現代のミャンマー、空前の写真ブームです。それというのも、ケータイが数年の間に一気に庶民にまで広まり、ケータイカメラで撮影することが、ここ数年のブームになっているのです。乗車賃200チャット20円のバスにのっている人たちも、みなケータイを持っており、カメラを扱ったこともなかった人たちが、いっせいにケータイを向けてシャッターを押しています。
これまで、光学カメラはむろんのこと、お買い得になったデジタルカメラも、一般の庶民には高嶺の花の利器でしたから、写真リテラシーがなく、写真の撮り方がまだまだ下手です。
たとえば、シュエダゴンパヤーのてっぺんまで入れて、友人と私を撮ってほしいと、ミャンマー人に頼みます。仏塔(パヤー)のてっぺんまでいれると、人物は胸から上くらいしか入らないのですが、胸のところに手をおいて、人物はここから上を撮り、仏塔の上までいれてほしいと、ジェスチャーや英語で頼むのですが、さっぱり通じません。(ミャンマー語を学べって話ですね)。
人物がファインダーに見えたら、人物をど真ん中に撮る以外のカメラワークはこの世になきがごとく、必ず人物を丸々中心に写し、あれほど頼んでいた仏塔は、真ん中あたりでちょん切れている。他のカメラワークも同様。人物をはじっこに入れて、カラウェイパレスを中心にしてとってほしい、なんてこと頼んでも、こちらの意図した構図にはなりません。
当地の観光地でシャッターを人に頼むときは、できるだけ望遠付きの一眼レフあたりを持っている外国人観光客に頼みます。こちらが写してほしいアングルを理解してシャッターを押してくれますから。英語通じるし。(だから、ミャンマー語を学べって)
現在のミャンマーの人々は、はじめて手にした「写真を自由に写す」というアクションが楽しくてたまらない。オン先生に同行したときも、こんなところ撮らなくてもいいと思うところでも大量に写真を撮り、メール添付で大量に「先生の写真を送ります」と、くださる。親切謝するに余りあれども、こちらから見ると、大半はボツ写真です。
手ぶれ防止機能など、日本のデジカメ基本機能が、当地のケータイカメラにはまだないので、多くが手ぶれ写真です。帰国後の今では、それもミャンマーの思い出のひとつだなあと、オン先生撮影写真をながめています。チェズーティンバデェー、ありがとう、オン先生。
オン先生撮影の写真。オン先生とともにすごした時間も私の宝物です。
デジカメ普及後、日本の人々の写真撮影技術は、格段によくなりました。各地での写真教室で「花をきれいに撮影する方法」「かわいらしく生き生きした子供の撮り方」などを学ぶ人も多いし、各種撮影コンクールも多い。写真を見慣れていて、構図の感覚が育っています。さまざまなブログ中の写真も、上手なカメラワークが多いです。
35年前に写真ジャーナリストをめざしてケニアに行ったタカ氏。地方新聞の記者として写真撮影はしてきたので、ケニア写真も私が撮ったのよりはカメラの腕は上等。でも、ポリシーとして白黒写真フィルムでしか撮らないタカ氏だったので、アルバムに貼ってあるタカ氏撮影写真は色なしです。(タカ氏新聞記者の時代は、新聞写真はほとんどが白黒だったのでね)
たいていの旅行者が、地元の人を撮影してもそれっきりなのですが、タカ氏は田舎やナイロビで撮影した人の写真を現像してもらうと、必ずもう一度その土地を訪れ、写真をプレゼントしていました。タカ氏が言うには、「写真というおみやげを持って行けば、必ず前より親しくつきあってくれるから」と、ギブアンドテークを強調していましたが、地元の人々への誠実さがなければ、撮影した写真を必ずプレゼントする、という行動はとれないだろうと思ったことでした。その土地に行けないときは、プリントして郵送していたのです。
この誠実さ、結婚後の妻に対しては、いっこうに発揮されなかったことが残念なところでしたけれど。
「田舎の人を撮影してあげると、たいてい、家の中から、その家でもっとも価値のある品物を持ち出して、それを抱えて、ほら、これといっしょに撮ってくれって言うんだ」と、タカ氏。ラジオが家の中で最も価値あるという人はラジオを抱えて写してもらうし、時計がもっとも値段が高い品物であるときは、目覚まし時計を得意げに胸に掲げる。
家の中に何もないという田舎の家で、子供を撮影したときのこと。子供は、家の中から「キンボ」というラードの缶を持ち出して、ラード缶を抱えて写真におさまりました。その子の家の中でいちばん値段の高い物がラード缶だった、というのは、せつなくもおかしくあたたかいエピソードとして、ケニアの思い出の中で35年たっても忘れないことのひとつです。
ビルマの古写真に、壺や飾り箱、電話、ランプなどの貴重品が人物といっしょに写されています。家族写真などの場合、家の中のいちばんよいものを人のまわりに並べて記念として写したい気持ち、わかります。
絵はがきの「家族」も、ほんとうの家族としたら、写真撮影をする余裕のあった上流家族ですし、モデル撮影かもしれません。
家の中でもっとも高価な調度品であろう、蓄音機とつり下げ型のランプと金漆細工の器が9人の女性とともに映っています。左手前の女性は葉巻を手にしています。上流家庭のマダムと使用人達とも考えられますが、マダムを取り囲む女性達の衣装は、少数民族のものと思います。なんらかの元ネタ写真を合成した絵はがきとも考えられます。
古写真の中の人々にとっての、さまざまな「よい物」。漆塗りの器、絹のシェードを貼ったランプ、大きなラッパ型の蓄音機、などなど。
19世紀末、20世紀初頭のビルマで、写真を写す余裕のある家族ですから、お宝もいろいろある家庭でしたろうけれど、もしかしたら、写真場備え付けの撮影用備品という可能性もあります。目をこらして見つめると、異なる写真のなかの器が同じものだったりしています。同じような品物も出回っている、ということもありますけれど、写真場の備品ということも考えられますね。
座っている女性の横の道具類、背景のついたてなど、貴重な品だったろうと思います。
傘は大事な小道具
男性肖像。葉巻も大事な小道具のひとつ。どんな身分の男性だったのでしょうか。
まだまだ写真技術が未発達だったころの写真、写されるほうも「非日常」の気分があったと思います。
大事なものを持ったり、まわりに並べたりした写真撮影。残された映像にも、その時代の大切な家財道具と人々の晴れがましい顔、いくらか緊張した顔、、、、。
古い写真の中のビルマの人々。撮影のときは、晴れがましい思いをしながら、じっとしていたことでしょうね。貴重な姿を残してくれて、ありがとう、という気持ちで写真を見せてもらいました。
日本では50年で消滅する肖像権なので、100年前の画像をこうして拝借し並べることに問題はないと思いますが、問題は、現在でもミャンマーの法律には肖像権も著作権もないこと。学科長がなんの遠慮もお断りもなくfacebookにUPした私の顔、100年後の人が見たらどんなふうに感じるでしょうか。100年前のミャンマーに、変顔のセヤマー(女教師)がいたんだなあと、笑ってくださいますように。
セヤマーHAL、教員宿舎最後の夜に
<おわり>
ミンガラ春庭ミャンマースーベニール>ビルマの古写真(5)宝物といっしょに
日本の近代、明治も20年代後半になってくると写真が大衆化していき、貧乏だった樋口一葉の一家も、一葉と母、妹邦子が三人そろって写真におさまっています。(樋口一葉記念館などで見ることができるほか、一葉関連の書籍にはたいてい載っています)。
ビルマで、写真館で撮影してもらうことが一般化するのは、もう少し年代が遅れていたのではないかと思います。
王国時代英領時代のビルマで、一般の人が写真を撮る機会は、そう多くはなかったろうと思います。19世紀末に撮影されたビルマ古写真の多くは、キリスト教宣教師が少数民族を教宣する際に撮影したもの、あるいは英領支配層が統治地域を撮影したものなどです。
国立博物館で王国時代の最後の王と王妃の写真を見ましたけれど、王族や大臣、お金持ちの写真のほか、一般の人が写真を写す機会を得られるようになったのはいつごろからか、と思います。
現代のミャンマー、空前の写真ブームです。それというのも、ケータイが数年の間に一気に庶民にまで広まり、ケータイカメラで撮影することが、ここ数年のブームになっているのです。乗車賃200チャット20円のバスにのっている人たちも、みなケータイを持っており、カメラを扱ったこともなかった人たちが、いっせいにケータイを向けてシャッターを押しています。
これまで、光学カメラはむろんのこと、お買い得になったデジタルカメラも、一般の庶民には高嶺の花の利器でしたから、写真リテラシーがなく、写真の撮り方がまだまだ下手です。
たとえば、シュエダゴンパヤーのてっぺんまで入れて、友人と私を撮ってほしいと、ミャンマー人に頼みます。仏塔(パヤー)のてっぺんまでいれると、人物は胸から上くらいしか入らないのですが、胸のところに手をおいて、人物はここから上を撮り、仏塔の上までいれてほしいと、ジェスチャーや英語で頼むのですが、さっぱり通じません。(ミャンマー語を学べって話ですね)。
人物がファインダーに見えたら、人物をど真ん中に撮る以外のカメラワークはこの世になきがごとく、必ず人物を丸々中心に写し、あれほど頼んでいた仏塔は、真ん中あたりでちょん切れている。他のカメラワークも同様。人物をはじっこに入れて、カラウェイパレスを中心にしてとってほしい、なんてこと頼んでも、こちらの意図した構図にはなりません。
当地の観光地でシャッターを人に頼むときは、できるだけ望遠付きの一眼レフあたりを持っている外国人観光客に頼みます。こちらが写してほしいアングルを理解してシャッターを押してくれますから。英語通じるし。(だから、ミャンマー語を学べって)
現在のミャンマーの人々は、はじめて手にした「写真を自由に写す」というアクションが楽しくてたまらない。オン先生に同行したときも、こんなところ撮らなくてもいいと思うところでも大量に写真を撮り、メール添付で大量に「先生の写真を送ります」と、くださる。親切謝するに余りあれども、こちらから見ると、大半はボツ写真です。
手ぶれ防止機能など、日本のデジカメ基本機能が、当地のケータイカメラにはまだないので、多くが手ぶれ写真です。帰国後の今では、それもミャンマーの思い出のひとつだなあと、オン先生撮影写真をながめています。チェズーティンバデェー、ありがとう、オン先生。
オン先生撮影の写真。オン先生とともにすごした時間も私の宝物です。
デジカメ普及後、日本の人々の写真撮影技術は、格段によくなりました。各地での写真教室で「花をきれいに撮影する方法」「かわいらしく生き生きした子供の撮り方」などを学ぶ人も多いし、各種撮影コンクールも多い。写真を見慣れていて、構図の感覚が育っています。さまざまなブログ中の写真も、上手なカメラワークが多いです。
35年前に写真ジャーナリストをめざしてケニアに行ったタカ氏。地方新聞の記者として写真撮影はしてきたので、ケニア写真も私が撮ったのよりはカメラの腕は上等。でも、ポリシーとして白黒写真フィルムでしか撮らないタカ氏だったので、アルバムに貼ってあるタカ氏撮影写真は色なしです。(タカ氏新聞記者の時代は、新聞写真はほとんどが白黒だったのでね)
たいていの旅行者が、地元の人を撮影してもそれっきりなのですが、タカ氏は田舎やナイロビで撮影した人の写真を現像してもらうと、必ずもう一度その土地を訪れ、写真をプレゼントしていました。タカ氏が言うには、「写真というおみやげを持って行けば、必ず前より親しくつきあってくれるから」と、ギブアンドテークを強調していましたが、地元の人々への誠実さがなければ、撮影した写真を必ずプレゼントする、という行動はとれないだろうと思ったことでした。その土地に行けないときは、プリントして郵送していたのです。
この誠実さ、結婚後の妻に対しては、いっこうに発揮されなかったことが残念なところでしたけれど。
「田舎の人を撮影してあげると、たいてい、家の中から、その家でもっとも価値のある品物を持ち出して、それを抱えて、ほら、これといっしょに撮ってくれって言うんだ」と、タカ氏。ラジオが家の中で最も価値あるという人はラジオを抱えて写してもらうし、時計がもっとも値段が高い品物であるときは、目覚まし時計を得意げに胸に掲げる。
家の中に何もないという田舎の家で、子供を撮影したときのこと。子供は、家の中から「キンボ」というラードの缶を持ち出して、ラード缶を抱えて写真におさまりました。その子の家の中でいちばん値段の高い物がラード缶だった、というのは、せつなくもおかしくあたたかいエピソードとして、ケニアの思い出の中で35年たっても忘れないことのひとつです。
ビルマの古写真に、壺や飾り箱、電話、ランプなどの貴重品が人物といっしょに写されています。家族写真などの場合、家の中のいちばんよいものを人のまわりに並べて記念として写したい気持ち、わかります。
絵はがきの「家族」も、ほんとうの家族としたら、写真撮影をする余裕のあった上流家族ですし、モデル撮影かもしれません。
家の中でもっとも高価な調度品であろう、蓄音機とつり下げ型のランプと金漆細工の器が9人の女性とともに映っています。左手前の女性は葉巻を手にしています。上流家庭のマダムと使用人達とも考えられますが、マダムを取り囲む女性達の衣装は、少数民族のものと思います。なんらかの元ネタ写真を合成した絵はがきとも考えられます。
古写真の中の人々にとっての、さまざまな「よい物」。漆塗りの器、絹のシェードを貼ったランプ、大きなラッパ型の蓄音機、などなど。
19世紀末、20世紀初頭のビルマで、写真を写す余裕のある家族ですから、お宝もいろいろある家庭でしたろうけれど、もしかしたら、写真場備え付けの撮影用備品という可能性もあります。目をこらして見つめると、異なる写真のなかの器が同じものだったりしています。同じような品物も出回っている、ということもありますけれど、写真場の備品ということも考えられますね。
座っている女性の横の道具類、背景のついたてなど、貴重な品だったろうと思います。
傘は大事な小道具
男性肖像。葉巻も大事な小道具のひとつ。どんな身分の男性だったのでしょうか。
まだまだ写真技術が未発達だったころの写真、写されるほうも「非日常」の気分があったと思います。
大事なものを持ったり、まわりに並べたりした写真撮影。残された映像にも、その時代の大切な家財道具と人々の晴れがましい顔、いくらか緊張した顔、、、、。
古い写真の中のビルマの人々。撮影のときは、晴れがましい思いをしながら、じっとしていたことでしょうね。貴重な姿を残してくれて、ありがとう、という気持ちで写真を見せてもらいました。
日本では50年で消滅する肖像権なので、100年前の画像をこうして拝借し並べることに問題はないと思いますが、問題は、現在でもミャンマーの法律には肖像権も著作権もないこと。学科長がなんの遠慮もお断りもなくfacebookにUPした私の顔、100年後の人が見たらどんなふうに感じるでしょうか。100年前のミャンマーに、変顔のセヤマー(女教師)がいたんだなあと、笑ってくださいますように。
セヤマーHAL、教員宿舎最後の夜に
<おわり>