20160405
ミンガラ春庭ミャンマースーベニール>ビルマの古写真(2)幼いころのアウンサンスーチーさん・ビルマ古写真コレクションその2
4月1日から、いよいよアウンサンスーチー女史が党首として率いてきたNLD(国民民主連盟)が政権を握ります。と、いっても、現憲法の規定で、選挙結果とは関わりなく議員の4分の1は軍人が議席を占めるので、選挙で大勝したといえども、軍人議員の賛成がなければ何事も決まらない。スーチー女史が大統領になれないことは、現憲法の規定ですが、彼女は、党首の座を降り、議員も辞職し入閣することにしました。(ミャンマーでは、大臣と議員は兼職できない)。
アウンサンスーチー女史の顔も日本のニュースでおなじみになりました。(ちなみに、いちいち「女史」をくっつけるのは、ミャンマー人女性の名前の前に必ずつく敬称「Daw」の訳。男性の名前の前には「U」がつき、自己紹介のときも「私は、Daw Hal niwa です」と言う。若い女性の敬称は「Ma」。
彼女が育った家に掲げてある、幼い頃の女史の写真を紹介します。
現在のアウンサンスーチー女史の住まいは、インヤー湖のほとり。20年間もの間、彼女が軟禁状態におかれた家です。
女史が幼い頃両親とともに住んでいた家は、現在、アウンサン将軍博物館となっています。
アウンサン博物館。建物紹介はまたのちほど。
建国の父アウンサン将軍は、建国直後に暗殺されたことから、いっそう国民の思慕は深まり、軍事政権は将軍を博物館に「祀る」ことによって、自分たちが将軍の遺志を継いで政権を担当してきたのだ、という形にしていました。アウンサンスーチー党首が入閣する政権では、この博物館も、より重要度が増すのかも知れません。パワースポット??
アウンサン将軍の妻キンチー女史と、将軍夫妻の三人の子供達(左から右へ キンチー女史、アウン・サン・ウー(長男)。アウン・サン・リン(次男)、アウン・サン将軍の膝にのるアウンサン・スー・チー(長女)、アウンサンスーチーのアウンサンは父の名をもらい、スーは祖母の名、チーは母の名をもらって全部くっつけています。ミャンマー人の名は、姓と名の区別がなく、アウンサンスーチーでフルネームです。
幼い兄妹三人。向かって左、次男。椅子に座っているのが長男。右側がアウンサンスーチーさん
3兄妹のうち、次男は8歳で死亡。長男はアメリカ移住し、市民権を得ており、ミャンマー政治には無関係に人生を送っています。ミャンマーと深くかかわったのは、2歳で父を失った末娘のみ。
将軍の妻キンチー女史と子供達。キンチー女史は、将軍暗殺後は、インド大使などを務めました。父なきあと、アウンサンスーチー女史も母に伴われて、インドで暮らし、次いでイギリスに留学しました。ミャンマー帰国後は、ほとんどをインヤー湖ほとりの自宅で過ごしたので、ミャンマーのあちこちに出かけることができたのは、2011年に自由の身になってからではないかと思われます。NLD遊説の旅でしょうけれど。
Daw Khin Kyi, the wife of General Aung San and their three children (from Lef to right AungSan Lin, Aung San Su Kyi, Aung San Oo
アウンサンスーチー女史の父親、アウンサン将軍は、ミャンマーの人なら知らない人はいない「建国の父」です。
中国における毛沢東が半ば神格化されているように、半分神様になっている。それを示すのが、アウンサン将軍博物館の中庭にある将軍像。「アウンサンが自宅内の畑を耕している」というプライベートな姿を立像にしてあるのですが、キンキラの金色に塗られています。日本人から見たらぜったいに不自然な金色将軍。でも、当地では仏像も仏塔も、尊いもの大事なものはすべて金色にします。よって将軍が鍬を持って畑を耕す姿であっても、金ぴか。
殉難者記念日(アウンサン将軍が暗殺された日は、国のために働き命を落とした人すべてを記念する日になっています)には、この金ぴか像の前に正座し、礼拝する人がきっといると思います。
若き日のアウンサン(大学連盟の代表者だった頃のコ-・アウン・サン)
Ko Aung San, the President of Universitey Student Union
アウンサン将軍とチンチー女史結婚記念写真
長男誕生を喜ぶアウンサン将軍夫妻
マンダレーヒルにて、家族とともに休息中のアウンサン将軍。Pyi Thu Ye Baw代表としてマンダレー市を遊説中(recruitment trip)のひととき
(Rest time together with the family at Mandalay Hill dureing the recruitment trip in Mandalay City as the President of Pyi Thu Ye Baw.)
ロンドン近くの航空学校を視察中のアウンサン将軍
シュエダゴンパゴダの西側参詣階段で演説するアウンサン将軍
少数民族とともに
伝統的衣装のアウンサン将軍
ヤンゴン事務所のボスは、ビルマ学研究50年という方ですが、アウンサンスーチー女史とも面識があり、今回の政権担当にあたっても、彼女のヤンゴンの自宅にお祝いのプレゼントを届けた、ということです。彼女は現在ネピードーで政権移譲の多忙の中にあるので、面会できずに帰国する時期になったのは残念だけれど、もし、彼女が外相として日本を訪れることがあったら、会えればいいなあと、話していました。
アウンサンスーチーさんは、もともとは文学志望の少女でした。しかし、父親を2歳で失い、父の記憶があまり多くないこともあって、父の事跡を知りたい、という気持ちがとても強かったようです。1985~1986年に京都大学東南アジア研究センターの客員研究員として来日したときも、父アウンサン将軍の歴史研究が目的でした。旧日本帝国軍関係者への聞き取り調査や、外務省外交史料館、旧防衛庁戦史部、国会図書館などでの資料調査によって、父の事跡を研究したのですが、そのとき研究を手伝った日本人関係者のひとりが、わがボスでした
1996年に一時的に自由の身になったとき、アウンサンスーチーさんのほうから、ボスに「会いたい」という申し込みがあったとのことですが、10年のあいだに彼女は変貌していました。文学好きの少女がそのまま大人になったようであった彼女は、政治闘士になっていたそうです。話も政治の話ばかりだったとか。文学の話ができなかったことが、ボスとしては心残りであったそうです。
「今ではもう雲の上の人になってしまったから、私ごときが会いたいと思っても、もう、会えないでしょうねぇ」と、ボスは女史がミャンマー政治の表舞台に立ったことがうれしくもあり寂しくもあり、というふうでした。
多忙な女史ですが、ボスとの再会のときがあったら、30年前の日本でのアウンサン将軍の歴史研究の話など弾むのではないかと、思います。
<つづく>
ミンガラ春庭ミャンマースーベニール>ビルマの古写真(2)幼いころのアウンサンスーチーさん・ビルマ古写真コレクションその2
4月1日から、いよいよアウンサンスーチー女史が党首として率いてきたNLD(国民民主連盟)が政権を握ります。と、いっても、現憲法の規定で、選挙結果とは関わりなく議員の4分の1は軍人が議席を占めるので、選挙で大勝したといえども、軍人議員の賛成がなければ何事も決まらない。スーチー女史が大統領になれないことは、現憲法の規定ですが、彼女は、党首の座を降り、議員も辞職し入閣することにしました。(ミャンマーでは、大臣と議員は兼職できない)。
アウンサンスーチー女史の顔も日本のニュースでおなじみになりました。(ちなみに、いちいち「女史」をくっつけるのは、ミャンマー人女性の名前の前に必ずつく敬称「Daw」の訳。男性の名前の前には「U」がつき、自己紹介のときも「私は、Daw Hal niwa です」と言う。若い女性の敬称は「Ma」。
彼女が育った家に掲げてある、幼い頃の女史の写真を紹介します。
現在のアウンサンスーチー女史の住まいは、インヤー湖のほとり。20年間もの間、彼女が軟禁状態におかれた家です。
女史が幼い頃両親とともに住んでいた家は、現在、アウンサン将軍博物館となっています。
アウンサン博物館。建物紹介はまたのちほど。
建国の父アウンサン将軍は、建国直後に暗殺されたことから、いっそう国民の思慕は深まり、軍事政権は将軍を博物館に「祀る」ことによって、自分たちが将軍の遺志を継いで政権を担当してきたのだ、という形にしていました。アウンサンスーチー党首が入閣する政権では、この博物館も、より重要度が増すのかも知れません。パワースポット??
アウンサン将軍の妻キンチー女史と、将軍夫妻の三人の子供達(左から右へ キンチー女史、アウン・サン・ウー(長男)。アウン・サン・リン(次男)、アウン・サン将軍の膝にのるアウンサン・スー・チー(長女)、アウンサンスーチーのアウンサンは父の名をもらい、スーは祖母の名、チーは母の名をもらって全部くっつけています。ミャンマー人の名は、姓と名の区別がなく、アウンサンスーチーでフルネームです。
幼い兄妹三人。向かって左、次男。椅子に座っているのが長男。右側がアウンサンスーチーさん
3兄妹のうち、次男は8歳で死亡。長男はアメリカ移住し、市民権を得ており、ミャンマー政治には無関係に人生を送っています。ミャンマーと深くかかわったのは、2歳で父を失った末娘のみ。
将軍の妻キンチー女史と子供達。キンチー女史は、将軍暗殺後は、インド大使などを務めました。父なきあと、アウンサンスーチー女史も母に伴われて、インドで暮らし、次いでイギリスに留学しました。ミャンマー帰国後は、ほとんどをインヤー湖ほとりの自宅で過ごしたので、ミャンマーのあちこちに出かけることができたのは、2011年に自由の身になってからではないかと思われます。NLD遊説の旅でしょうけれど。
Daw Khin Kyi, the wife of General Aung San and their three children (from Lef to right AungSan Lin, Aung San Su Kyi, Aung San Oo
アウンサンスーチー女史の父親、アウンサン将軍は、ミャンマーの人なら知らない人はいない「建国の父」です。
中国における毛沢東が半ば神格化されているように、半分神様になっている。それを示すのが、アウンサン将軍博物館の中庭にある将軍像。「アウンサンが自宅内の畑を耕している」というプライベートな姿を立像にしてあるのですが、キンキラの金色に塗られています。日本人から見たらぜったいに不自然な金色将軍。でも、当地では仏像も仏塔も、尊いもの大事なものはすべて金色にします。よって将軍が鍬を持って畑を耕す姿であっても、金ぴか。
殉難者記念日(アウンサン将軍が暗殺された日は、国のために働き命を落とした人すべてを記念する日になっています)には、この金ぴか像の前に正座し、礼拝する人がきっといると思います。
若き日のアウンサン(大学連盟の代表者だった頃のコ-・アウン・サン)
Ko Aung San, the President of Universitey Student Union
アウンサン将軍とチンチー女史結婚記念写真
長男誕生を喜ぶアウンサン将軍夫妻
マンダレーヒルにて、家族とともに休息中のアウンサン将軍。Pyi Thu Ye Baw代表としてマンダレー市を遊説中(recruitment trip)のひととき
(Rest time together with the family at Mandalay Hill dureing the recruitment trip in Mandalay City as the President of Pyi Thu Ye Baw.)
ロンドン近くの航空学校を視察中のアウンサン将軍
シュエダゴンパゴダの西側参詣階段で演説するアウンサン将軍
少数民族とともに
伝統的衣装のアウンサン将軍
ヤンゴン事務所のボスは、ビルマ学研究50年という方ですが、アウンサンスーチー女史とも面識があり、今回の政権担当にあたっても、彼女のヤンゴンの自宅にお祝いのプレゼントを届けた、ということです。彼女は現在ネピードーで政権移譲の多忙の中にあるので、面会できずに帰国する時期になったのは残念だけれど、もし、彼女が外相として日本を訪れることがあったら、会えればいいなあと、話していました。
アウンサンスーチーさんは、もともとは文学志望の少女でした。しかし、父親を2歳で失い、父の記憶があまり多くないこともあって、父の事跡を知りたい、という気持ちがとても強かったようです。1985~1986年に京都大学東南アジア研究センターの客員研究員として来日したときも、父アウンサン将軍の歴史研究が目的でした。旧日本帝国軍関係者への聞き取り調査や、外務省外交史料館、旧防衛庁戦史部、国会図書館などでの資料調査によって、父の事跡を研究したのですが、そのとき研究を手伝った日本人関係者のひとりが、わがボスでした
1996年に一時的に自由の身になったとき、アウンサンスーチーさんのほうから、ボスに「会いたい」という申し込みがあったとのことですが、10年のあいだに彼女は変貌していました。文学好きの少女がそのまま大人になったようであった彼女は、政治闘士になっていたそうです。話も政治の話ばかりだったとか。文学の話ができなかったことが、ボスとしては心残りであったそうです。
「今ではもう雲の上の人になってしまったから、私ごときが会いたいと思っても、もう、会えないでしょうねぇ」と、ボスは女史がミャンマー政治の表舞台に立ったことがうれしくもあり寂しくもあり、というふうでした。
多忙な女史ですが、ボスとの再会のときがあったら、30年前の日本でのアウンサン将軍の歴史研究の話など弾むのではないかと、思います。
<つづく>