201608123
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>葉月の花ことば(5)合歓の花
象潟や 雨に西施が ねぶの花
松尾芭蕉『奥の細道』の中でも、よく知られた俳句です。
芭蕉が曾良とともに秋田の象潟を訪れたのは、雨の季節。
江の縦横一里ばかり、俤松島にかよひて、又異なり。松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし*。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。
芭蕉は、太平洋側の松島湾にあまたの島が浮かぶ光景を見て「笑うがごとく」と感じました。一方同じように海に数々の島が浮かぶ象潟を見て、雨のせいもあったのかもしれませんが、「象潟は恨むがごとし」と対照しています。
雨の中の象潟は、中国の西施のように美しいと漢詩に詠まれた西湖を呼び起こし、絶世の美女西施が恨みを含んだ生涯であったことを思い起こします。
古代、呉越が争ったとき、越王勾践は、呉王夫差を籠絡せんとして多数の美女を献上しました。西施は、贈り物にされた美女のうちのひとりです。思惑通り、傾国の美女西施におぼれた夫差。呉が滅んだ後、西施は越に帰りますが、勾践夫人は、夫が「傾国の美女」に心寄せることのないよう、西施を川に投げ捨てた、とも、賢臣范蠡が密かに助けてかくまったともいう伝説があります。西湖は西子湖とも呼ばれ、西施のように美しいと漢詩に詠まれた、杭州にある湖です。
雨の中で象潟を見て、芭蕉は、美女がはかない身の上をうらむような趣を連想したのでしょう。象潟→西湖→西施という連想ゲーム。象潟のほとりに咲く合歓木の花が西施のはかなげな淡々とした容姿を感じさせたのかもしれませんし、漢詩の知識も豊富であった芭蕉は、「合歓」という漢語は、中国では「(からだを)合わせて喜びに達する」という意味、すなわち男女の営みを表現していることも知っていた。
曾良の同行日記との対照によると、芭蕉の「奥の細道」は旅の記録ではなくて、あくまでも「陸奥の旅をモチーフにした文学作品」なのであって、本当に象潟にねむの花が咲いていたのか、芭蕉のイメージだけだったのか、わかりません。頭の中に古典文学がぎゅうぎゅうと詰まっていて、自在に和歌や連歌を引き出すことが出来た芭蕉ですから、合歓の花のイメージにも、万葉から続く合歓木(ねぶ)の歌の数々、ねむの花のあらゆる和歌連歌俳諧漢詩が重層していたことでしょう。
では、万葉集から「合歓の花」を拾っていきましょう。
万葉8-1461紀女郎きのいつらめ
紀女郎贈大伴宿祢家持歌二首)
晝者咲 夜者戀宿 合歡木花 君耳将見哉 和氣佐倍尓見代
昼は咲き夜は恋ひ寝(ぬ)る合歓木(ねぶ)の花君のみ見めや戯奴(わけ)さへに見よ
右折<攀>合歡花并茅花贈也
昼に花咲き、夜には恋しい想いを抱いて寝るというねむの花、私だけが見てよいものでしょうか。さぁ、お若いあなたも見てごらんな。
万葉集の編者の一人であるとされる大伴家持が恋の歌をかわした相手のなかで、紀女郎は、他の女性とは少し違っていることがあります。古代の女性は、本名は両親と夫が知るくらいで、他人に明かされることはありません。紫式部(藤式部)や清少納言のように、家族の職名から宮廷用の呼び名をつけるか、大伴坂上郎女(大伴家の坂の上の家に住んでいた高貴な身分の女性)というように、住まいのあった場所によって通称されるかしています。大伴坂上郎女の娘である大伴坂上大嬢も、家持の妻なのに実名は明かされていません。
ところが、紀女郎については、「名は小鹿と云ふ」と、おそらくそれが本名であろう名が家持によって(であろう)書き残されているのです。紀女郎の父親の名は「紀鹿人」なので、親の名をもらったのでしょうが、親が動物や植物の名を本名として与えるのは、その植物や動物の霊力を得て丈夫に賢く美しく育ってほしいからです。小鹿とは、いかにも愛らしく敏捷な娘を思わせる名です。
聖武天皇が一時期奈良の都を恭仁京に移していた間、家持は、家族を奈良に残していわば「単身赴任」していたのだそうです。(万葉集の詞書に、恭仁京にきて坂上大嬢に久しく会えないので寂しいという歌が書かれています)。
恭仁京は京都に近く、紀女郎との歌のやりとりは、この恭仁京にいた間のことで、他の時期にはありません。家持が二十代前半、紀女郎が三十代前半くらいの年上の恋人だったと思われます。実名を知っているということは、実名を明かされる相手であったという仲だったはず。
紀女郎は、まだ身分も高くない家持に対して、下僕や年若い男に用いる「戯奴(わけ)」という二人称を用いています。余裕綽々の年上の恋人だったのでしょう。
万葉8-1463大伴家持の返歌。
吾妹子之 形見乃合歡木者 花耳尓 咲而盖 實尓不成鴨
我妹子(わぎもこ)が 形見の合歓木(ねぶ)は 花のみに 咲きてけだしく 実にならじかも
わたしのいとしい人が残してくれたねむの花は、花がさくばかりで、実にならないようです
大伴家持も自称を「戯奴(わけ)」と称し、紀女郎を「わが君」と呼んでいるので、天皇や皇后に使える官女としてミヤコにいる女性として、あがめ奉りつつの交際だったことと思います。
そのほかの万葉集の合歓のうた
万葉11-2752読み人知らず
吾妹兒乎 聞都賀野邊能 靡合歡木 吾者隠不得 間無念者
我妹子(わぎもこ)を 聞き都賀野辺(つがのへ)のしなひ合歓木(ねぶ) 我れは忍びず 間なくし思へば
都賀野辺にしなやかに咲いているネムの花のような娘のことを聞いては、いつもいつもあの娘を想っているので、気持ちを隠すことができません
近代短歌のネムの花
若山牧水
いつ知らず夏も寂しう更けそめぬほのかに合歓の花咲きにけり
ゆくりなくとあるゆふべに見いでけり合歓のこずゑの一ふさの花
古泉千樫
川隈の椎の木かげの合歓の花にほひさゆらぐ上げ潮の風に
たもとほる夕川のべの合歓の花その葉は今はねむれるらしも
夕風にねむのきの花さゆれつつ待つ間まがなしこころそぞろに
さす潮のかよふはたての水上に合歓はやさしくにほひてあらむ
北原白秋
昼がすみ水曲(みわた)の明りほのぼのと合歓(かうか)の花は咲き匂ふらし
夕野良の小藪が下の合歓の花もも色薄う揺れて霧の雨
斎藤茂吉
山こえて二夜ねむりし瀬上の合歓花のあはれをこの朝つげむ
親しきはうすくれなゐの合歓の花むらがり匂ふ 旅のやどりに
中村憲吉
わが眼には濃霧つめたし幽かなる合歓のはなには霧すぐる見ゆ
中国では、夜になると葉を閉じて合わせる「合歓」のイメージが優先しましたが、日本では、葉を閉じて「眠る」が連想され、「ねむの木」「ねむり木」。母のふところに抱かれてすやすやと眠るような、安らかな眠りのイメージです。
現代、ネムをうたったものでもっとも有名な詩は、美智子皇后の作詞でしょうね。曲がつけられて、現代の子守歌としても人気の歌です。
作曲:山本正美 歌唱:佐藤しのぶ
https://www.youtube.com/watch?v=gvq3ADtGuec
ねんねの ねむの木 眠りの木
そっとゆすった その枝に
遠い昔の 夜(よ)の調べ
ねんねの ねむの木 子守歌
薄紅(うすくれない)の 花の咲く
ねむの木蔭(こかげ)で ふと聞いた
小さなささやき ねむの声
ねんね ねんねと 歌ってた
故里(ふるさと)の夜(よ)の ねむの木は
今日も歌って いるでしょか
あの日の夜(よる)の ささやきを
ねむの木 ねんねの木 子守歌
今上天皇が、退位についてのご自身のお気持ちを直接国民に伝える、というビデオ発表がありました。
「現行憲法を守る」という姿勢を表明してこられた陛下なので、憲法第一条に抵触するような表現を避けつつ、健康上の理由から退位し、皇太子に譲位したいというお気持ちを発表なさいました。
今上天皇は、2013年80歳の誕生日会見では、憲法について次のようなお言葉を述べていらっしゃいます。
戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り、様々な改革を行って、今日の日本を築きました。戦争で荒廃した国土を立て直し、かつ、改善していくために当時の我が国の人々の払った努力に対し、深い感謝の気持ちを抱いています。また、当時の知日派の米国人の協力も忘れてはならないことと思います」
現行憲法を明確に肯定する立場の表明です。ところが、NHKで放映された天皇の誕生日お言葉では、上記引用の部分はカットされ、国民には知らされなかった。改憲をめざす政権には都合の悪いお言葉だからです。
体調の不安を抱えながらも、東北へも熊本へも国民のもとに出かけ、アジア慰霊の旅を続けてこられた今上天皇。現行憲法を守っていく姿勢を持っての行動であることを知り、共感します。
では、合歓木の子守歌を聞きながら、おやすみなさいませ。
合歓の花(画像借り物)
<つづく>
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>葉月の花ことば(5)合歓の花
象潟や 雨に西施が ねぶの花
松尾芭蕉『奥の細道』の中でも、よく知られた俳句です。
芭蕉が曾良とともに秋田の象潟を訪れたのは、雨の季節。
江の縦横一里ばかり、俤松島にかよひて、又異なり。松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし*。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。
芭蕉は、太平洋側の松島湾にあまたの島が浮かぶ光景を見て「笑うがごとく」と感じました。一方同じように海に数々の島が浮かぶ象潟を見て、雨のせいもあったのかもしれませんが、「象潟は恨むがごとし」と対照しています。
雨の中の象潟は、中国の西施のように美しいと漢詩に詠まれた西湖を呼び起こし、絶世の美女西施が恨みを含んだ生涯であったことを思い起こします。
古代、呉越が争ったとき、越王勾践は、呉王夫差を籠絡せんとして多数の美女を献上しました。西施は、贈り物にされた美女のうちのひとりです。思惑通り、傾国の美女西施におぼれた夫差。呉が滅んだ後、西施は越に帰りますが、勾践夫人は、夫が「傾国の美女」に心寄せることのないよう、西施を川に投げ捨てた、とも、賢臣范蠡が密かに助けてかくまったともいう伝説があります。西湖は西子湖とも呼ばれ、西施のように美しいと漢詩に詠まれた、杭州にある湖です。
雨の中で象潟を見て、芭蕉は、美女がはかない身の上をうらむような趣を連想したのでしょう。象潟→西湖→西施という連想ゲーム。象潟のほとりに咲く合歓木の花が西施のはかなげな淡々とした容姿を感じさせたのかもしれませんし、漢詩の知識も豊富であった芭蕉は、「合歓」という漢語は、中国では「(からだを)合わせて喜びに達する」という意味、すなわち男女の営みを表現していることも知っていた。
曾良の同行日記との対照によると、芭蕉の「奥の細道」は旅の記録ではなくて、あくまでも「陸奥の旅をモチーフにした文学作品」なのであって、本当に象潟にねむの花が咲いていたのか、芭蕉のイメージだけだったのか、わかりません。頭の中に古典文学がぎゅうぎゅうと詰まっていて、自在に和歌や連歌を引き出すことが出来た芭蕉ですから、合歓の花のイメージにも、万葉から続く合歓木(ねぶ)の歌の数々、ねむの花のあらゆる和歌連歌俳諧漢詩が重層していたことでしょう。
では、万葉集から「合歓の花」を拾っていきましょう。
万葉8-1461紀女郎きのいつらめ
紀女郎贈大伴宿祢家持歌二首)
晝者咲 夜者戀宿 合歡木花 君耳将見哉 和氣佐倍尓見代
昼は咲き夜は恋ひ寝(ぬ)る合歓木(ねぶ)の花君のみ見めや戯奴(わけ)さへに見よ
右折<攀>合歡花并茅花贈也
昼に花咲き、夜には恋しい想いを抱いて寝るというねむの花、私だけが見てよいものでしょうか。さぁ、お若いあなたも見てごらんな。
万葉集の編者の一人であるとされる大伴家持が恋の歌をかわした相手のなかで、紀女郎は、他の女性とは少し違っていることがあります。古代の女性は、本名は両親と夫が知るくらいで、他人に明かされることはありません。紫式部(藤式部)や清少納言のように、家族の職名から宮廷用の呼び名をつけるか、大伴坂上郎女(大伴家の坂の上の家に住んでいた高貴な身分の女性)というように、住まいのあった場所によって通称されるかしています。大伴坂上郎女の娘である大伴坂上大嬢も、家持の妻なのに実名は明かされていません。
ところが、紀女郎については、「名は小鹿と云ふ」と、おそらくそれが本名であろう名が家持によって(であろう)書き残されているのです。紀女郎の父親の名は「紀鹿人」なので、親の名をもらったのでしょうが、親が動物や植物の名を本名として与えるのは、その植物や動物の霊力を得て丈夫に賢く美しく育ってほしいからです。小鹿とは、いかにも愛らしく敏捷な娘を思わせる名です。
聖武天皇が一時期奈良の都を恭仁京に移していた間、家持は、家族を奈良に残していわば「単身赴任」していたのだそうです。(万葉集の詞書に、恭仁京にきて坂上大嬢に久しく会えないので寂しいという歌が書かれています)。
恭仁京は京都に近く、紀女郎との歌のやりとりは、この恭仁京にいた間のことで、他の時期にはありません。家持が二十代前半、紀女郎が三十代前半くらいの年上の恋人だったと思われます。実名を知っているということは、実名を明かされる相手であったという仲だったはず。
紀女郎は、まだ身分も高くない家持に対して、下僕や年若い男に用いる「戯奴(わけ)」という二人称を用いています。余裕綽々の年上の恋人だったのでしょう。
万葉8-1463大伴家持の返歌。
吾妹子之 形見乃合歡木者 花耳尓 咲而盖 實尓不成鴨
我妹子(わぎもこ)が 形見の合歓木(ねぶ)は 花のみに 咲きてけだしく 実にならじかも
わたしのいとしい人が残してくれたねむの花は、花がさくばかりで、実にならないようです
大伴家持も自称を「戯奴(わけ)」と称し、紀女郎を「わが君」と呼んでいるので、天皇や皇后に使える官女としてミヤコにいる女性として、あがめ奉りつつの交際だったことと思います。
そのほかの万葉集の合歓のうた
万葉11-2752読み人知らず
吾妹兒乎 聞都賀野邊能 靡合歡木 吾者隠不得 間無念者
我妹子(わぎもこ)を 聞き都賀野辺(つがのへ)のしなひ合歓木(ねぶ) 我れは忍びず 間なくし思へば
都賀野辺にしなやかに咲いているネムの花のような娘のことを聞いては、いつもいつもあの娘を想っているので、気持ちを隠すことができません
近代短歌のネムの花
若山牧水
いつ知らず夏も寂しう更けそめぬほのかに合歓の花咲きにけり
ゆくりなくとあるゆふべに見いでけり合歓のこずゑの一ふさの花
古泉千樫
川隈の椎の木かげの合歓の花にほひさゆらぐ上げ潮の風に
たもとほる夕川のべの合歓の花その葉は今はねむれるらしも
夕風にねむのきの花さゆれつつ待つ間まがなしこころそぞろに
さす潮のかよふはたての水上に合歓はやさしくにほひてあらむ
北原白秋
昼がすみ水曲(みわた)の明りほのぼのと合歓(かうか)の花は咲き匂ふらし
夕野良の小藪が下の合歓の花もも色薄う揺れて霧の雨
斎藤茂吉
山こえて二夜ねむりし瀬上の合歓花のあはれをこの朝つげむ
親しきはうすくれなゐの合歓の花むらがり匂ふ 旅のやどりに
中村憲吉
わが眼には濃霧つめたし幽かなる合歓のはなには霧すぐる見ゆ
中国では、夜になると葉を閉じて合わせる「合歓」のイメージが優先しましたが、日本では、葉を閉じて「眠る」が連想され、「ねむの木」「ねむり木」。母のふところに抱かれてすやすやと眠るような、安らかな眠りのイメージです。
現代、ネムをうたったものでもっとも有名な詩は、美智子皇后の作詞でしょうね。曲がつけられて、現代の子守歌としても人気の歌です。
作曲:山本正美 歌唱:佐藤しのぶ
https://www.youtube.com/watch?v=gvq3ADtGuec
ねんねの ねむの木 眠りの木
そっとゆすった その枝に
遠い昔の 夜(よ)の調べ
ねんねの ねむの木 子守歌
薄紅(うすくれない)の 花の咲く
ねむの木蔭(こかげ)で ふと聞いた
小さなささやき ねむの声
ねんね ねんねと 歌ってた
故里(ふるさと)の夜(よ)の ねむの木は
今日も歌って いるでしょか
あの日の夜(よる)の ささやきを
ねむの木 ねんねの木 子守歌
今上天皇が、退位についてのご自身のお気持ちを直接国民に伝える、というビデオ発表がありました。
「現行憲法を守る」という姿勢を表明してこられた陛下なので、憲法第一条に抵触するような表現を避けつつ、健康上の理由から退位し、皇太子に譲位したいというお気持ちを発表なさいました。
今上天皇は、2013年80歳の誕生日会見では、憲法について次のようなお言葉を述べていらっしゃいます。
戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り、様々な改革を行って、今日の日本を築きました。戦争で荒廃した国土を立て直し、かつ、改善していくために当時の我が国の人々の払った努力に対し、深い感謝の気持ちを抱いています。また、当時の知日派の米国人の協力も忘れてはならないことと思います」
現行憲法を明確に肯定する立場の表明です。ところが、NHKで放映された天皇の誕生日お言葉では、上記引用の部分はカットされ、国民には知らされなかった。改憲をめざす政権には都合の悪いお言葉だからです。
体調の不安を抱えながらも、東北へも熊本へも国民のもとに出かけ、アジア慰霊の旅を続けてこられた今上天皇。現行憲法を守っていく姿勢を持っての行動であることを知り、共感します。
では、合歓木の子守歌を聞きながら、おやすみなさいませ。
合歓の花(画像借り物)
<つづく>