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ぽかぽか春庭「松尾大社・重森三玲の庭園」

2019-02-02 00:00:01 | エッセイ、コラム
20190202
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十九文屋日記京都旅行2018年11月(12)松尾大社・重森三玲の庭園

 京都滞在最後の日、11月5日。まだ行っていないところで、これだけは今回見ておかなければ、というところは。今回のテーマ「建物、庭園、工芸」のうち、予約しておかなければいけない重森美玲庭園美術館、いつ予約申し込みしようかと思っているうちに最終日がきてしまいました。もうひとつ、重森美玲の作庭がある松尾大社。ホテルのある嵐山から近いので、いつでも行けると思っていて行きそびれていたので、参拝することに。

 松尾大社は、松尾山におわす山の神を大杉谷の磐座に祀ったのが最初。太古の昔は、各地に山の霊、海の霊を祀る信仰がありました。神は大樹や大岩に降臨しました。奈良大神神社の神様大物主は、三輪山自体が神として祀られている古来の信仰を伝えており、本殿はない、という古式が伝わっています。同じく、山をご神体としていた松尾大社ですが、渡来人の秦氏が一帯を開墾したあと、701(大宝元)に秦忌寸都理(はたのいみきとり)が大杉谷磐座の神を秦氏の守り神とし、大山咋神を祀る本殿も拝殿も整備しました。

 平安以後は平安京の守り神として皇室の尊宗も篤く、現在まで「大社」と名乗っています。神社の呼び名、明治政府は神社の統制を行って、皇室祖先を祀る神社を神宮と呼び、皇室に許された神社のみ大社と呼んで管理しました。政教分離の現在では自分の家にある祠を大社と呼ぼうと村の鎮守を神宮と呼ぼうと自由ですが、、、。

 さて、この松尾大社の庭を造った重森美玲(1896-1975)。日本美術学校(現藝大)や東洋大学に学び、画家を目指して果たせず、華道家として出発しました。全国の庭園を調査して1939(昭和14)年、『日本庭園史図鑑』26巻を上梓し、同時に東福寺方丈庭園を作庭して以来、日本各地に庭を造りました。
 松尾大社の庭は1975年に完成。庭づくりにかけた生涯、晩年の総仕上げ、という庭です。

<きょうの建物>
 楼門 江戸時代初期の建物


 本殿 室町初期の1397(応永4)年に建造、1542(天文11)年に大修理をしたという


<きょうの庭園>
 上古の庭

 重森は、松尾山の磐座の代わりとしてこの上古の庭の石を組んだそうです。

 曲水の庭


 平安の貴族たちが雅な曲水の宴を行うときの庭をイメージして、石組で表現したとの解説。

 蓬莱の庭

 蓬莱の庭は楼門の前にあり、こちらは拝観料無料です。 

 庭のあちこちに石亀さん。亀は松尾大社の神の使いです。


 神の使いの亀さんは、御神体松尾山のどんなお告げを知らせに来てくれたでしょうか。亀は、水や雨をもたらす使いだったでしょうか。
 秦氏による開墾は、渡来人の知恵によって桂川からの水路を整備することによって、一帯を農耕地としていきました。大山咋神が酒の神様とされたのも、渡来人の酒造りの技から。室町時代以後、松尾大社は「日本第一酒造神」として杜氏たちの信仰を集めています。神社内に酒資料館があったので、見学しました。

 我が国土は、多くの渡来人によって開かれてきたのだなあと思いながらの観覧でした。さまざまなことに高い技術を持つ渡来人は尊敬を集めてもいたでしょう。また、秦氏が古来の松尾山磐座を一族の氏神としたのも、この国土に根を下ろしていくひとつの過程でしたろう。
 働き手としてこの国に渡来する現代の渡来人たちに幸おおくあれと願いつつ、蓬莱の庭をめぐりました。

<きょうの京わたし>
 蓬莱の庭で


<つづく>
コメント (2)
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