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ぽかぽか春庭「藤田嗣治本のしごと展in富士美術館」

2019-02-23 00:00:01 | エッセイ、コラム


20190223
ぽかぽか春庭アート散歩>2019冬のアート散歩(1)藤田嗣治本のしごと展in富士美術館

 目黒区美術館で開催されていた「藤田嗣治本のしごと」を見逃していたら、巡回展が八王子の富士美術館でも行われるので、今度は見逃さずに行ってみることにしました。
 以下、「没後50年藤田嗣治展」と「藤田嗣治本のしごと」の観覧報告です。



 2019年2月8日に観覧した富士美術館の「藤田嗣治本のしごと」展には、藤田がGHQ民政官フランク・エドワード・シャーマン(Frank Edward Sherman、1917-1991)にあてたたくさんの手紙が展示されていて、興味深かったです。
 シャーマンは、もともと藤田のファンでした。シャーマンは、広く文化人と接し、戦後日本文化復興のために働きましたが、なかでも藤田を積極的に支援し、藤田嗣治と君代夫人の戦後のアメリカ・フランス行きを手配しました。
 シャーマンあての手紙は、八王子市富士美術館に数通展示されていました。どれも挿絵つきでアメリカホテル生活のようすや、君代夫人の早期渡米を願う気持ちが書かれていました。

 藤田遺品の愛用品。戦後渡仏した藤田は、日用品も家具も手作りしたそうです。
 自作のテーブル(制作年不明 旧シャーマンコレクション)と、愛用の旅行鞄


 藤田は君代夫人を日本に残して渡米したため、シャーマンにあてて、早く君代にビザを出して、自分のもとに寄こしてほしい、という意味の手紙を何通も出しています。
 文面は、駄々っ子が母親の胸に抱かれたいと、身をよじって懇願するような調子です。藤田はシャーマンの厚誼に対して数々の作品を贈っており、これらはシャーマンコレクションとして知られています。(シャーマンコレクションは、他の画家の作品やシャーマンが撮影した文化人たちの写真とともに、目黒区美術館や伊達市アートビレッジ文化館に所蔵されています)

 藤田は本業の油絵のほか、本の挿絵や装丁作品も多数残しています。
 藤田が初めて手がけた挿絵本の仕事は、1919(大正8)年の 小牧近江『詩数篇』でした。小牧近江はフランス文学者、翻訳家、社会運動家。1910年から1919年ま でパリに滞在し、藤田とも交友がありました。1920年代から30年代にかけて、藤田は数多くの挿絵本装丁本をフランスで手がけており、部数限定のこれらの本は、コレクター垂涎の希少本になっています。

 藤田嗣治「腕(ブラ)一本(昭11)東邦美術協会 講談社文芸文庫で再版されています。


 エコールドパリの光景、アーティストとの交流を書いています。異国の地で腕一本をたよりに異国の地で画家として立つことができた自負がうかがえます。キュビズムっぽい絵をさっそく取り入れているところが、パリについて最初にやったことが「黒田清輝推奨の絵具を床にたたきつけた」と書く藤田の「最新の絵画に直にに触れている」という気分の表れかと。

 藤田嗣治「地を泳ぐ」
 1911年にパリに渡 以来20年のフランス時代、南米北米などを旅行してまわった時代を経て、1933年から1941年までの随筆を集めた本。


 レオンフラピエ「母の手」深尾須磨子訳
 1934年に深尾須磨子によって訳され平凡社から出版された。原題は『ラ・マテルネルLa Maternelle保育園1905』



 ポール・クローデル「三つの聲」1935立命館出版部


 戦後の本。佐多稲子(1904-1998)の「素足の娘」1940年初版当時は離婚前の窪川稲子名で出版したので、↓は佐多稲子となっているので、初版ではないようです。


 展示されていた藤田の書簡集のなかで、意外に思ったこと。
 最初にパリに行ったときの、藤田から最初の妻とみに宛てた手紙です。イラスト入りのこまかい字でパリの印象や自身の動向を事細かに妻に伝えています。女学校の美術教師であった鴇田登美子と出会って、2年後の1912年に結婚しましたが、藤田渡仏の翌年には第1次世界大戦が勃発したため、とみはパリに来ることはありませんでした。

 1917年にはパリで出会ったモデルのフェルナンド・バレエ(Fernande Barrey)と2度目の結婚をしていますから、その前に離婚が成立していたのでしょうけれど、そのあたりの資料は、私はまだ調べていません。林洋子監修でとみ宛ての書簡集は「藤田嗣治 妻とみへの手紙 1913-1916」(上・下、人文書院2016)にまとめられていますので、そのあたりを調べればわかるのでしょうけれど。

 とみ夫人が渡仏しなかったことから、藤田の愛情はもともと薄かったのかと勝手に想像していました。
 戦時下のパリで仕送りも途絶えて極貧生活をしている間の藤田を支えたフェルナンドに藤田の気持ちが移り、縁の薄い結婚生活が自然消滅したのかと。
 パリにわたる前からとみ夫人との仲は冷えていたので結婚まもなく別居したのかと思い込んでいたのですが、藤田の手紙に見る限り、とみに対しての愛情が感じられる文面に思えました。

 とみは、離婚後実家鴇田家に戻りましたが、藤田からとみにあてた封書109通と葉書72通が鴇田家に大切に保管されていました。とみと藤田が不仲になっての離婚であったら、とみも離婚した夫の書簡類を大切に保管しておくことはなかったのではないかと思えるのです。

 藤田の手紙、とみがパリに来たら、こんなヘアスタイルをさせたいこのような服を買って着せたい、という絵が描かれていたりして、藤田の愛情もなみなみならず、という印象でした。
 
 「妻とみに宛てた書簡」1914.3.11付 平野政吉美術館蔵


 東京美術学校在学中に描かれた「婦人像」1909は出会って間もないころのとみの肖像ではないかと推測されています。

若い婦人の肖像1909東京芸大蔵


 藤田の装丁や挿絵、ひとつには生活を支えるための仕事という面があったでしょうけれど、白い肌の美女や猫と同じくらい、藤田が本のしごとに力を入れていたことを知り、とても興味深く見ることができました。 

 次回、富士美術館のもうひとつの展示「西洋絵画ルネッサンスから現代まで」

<つづく>
コメント (3)
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