20190214
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>輝ける人生の映画(3)判決、ふたつの希望
ギンレイで見るシネパスポート活用映画。仕事帰りに、気分を変えたいからと見た映画、憂さ晴らしどころか、重い感触を残す映画でした。
「判決、ふたつの希望 2017 レバノン/フランス 」と「運命は踊る 2017 イスラエル/ドイツ/フランス/スイス 」
そもそもレバノンが舞台の映画も見た覚えがない。(『レバノン(2009)』は戦争映画なので、見なかった)。レバノンの街のようすなぞ見るだけでもいいか、と思ってみました。
「判決、ふたつの希望」は、レバノンの首都ベイルートで働くパレスチナ難民とレバノンの庶民、ふたりの男性が裁判で争う法廷映画です。それぞれについた弁護士が、レバノン人の大御所弁護士の父。難民保護を主張する弁護士はその娘、という父娘の争いでもあります。2018年度アカデミー賞外国語映画賞ノミネート作品。
レバノン出身の監督、ジアド・ドゥエイリは、クエンティン・タランティーノのアシスタント・カメラマンとして出発し、1998年の『西ベイルート』で監督デビュー。
2017年べネチア国際映画祭にて、本作主演のカメル・エル=バシャが最優秀男優賞を受けました。
以下、ネタバレ含む紹介です。
パレスチナ人ヤーセル(カメル・エル=バシャ)はイスラム教徒。難民ながら実直に働くので認められ、住宅修理屋の現場監督を任されています。ベイルートの一角、違法にベランダをつけ、水の排水が道路に撒かれるというアパートがあり、ヤーセルは配水管をきちんとつけかえる補修を行います。しかし、家の主であるレバノン人のキリスト教徒トニー(アデル・カラム )は激怒し、せっかく補修した配水管を叩き壊します。
トニーは妊娠中の妻から「あなたの故郷のダム―ルに引越ししましょう」と言われてもかたくなに拒みます。この町で今のまま自動車修理の仕事を続けていきたいと。トニーも妻と生まれてくる子のために懸命に働く男です。
ヤーセルは怒りまくるトニーと一度は和解しようと謝りにいきますが、トニーがパレスチナ難民を侮蔑することばを吐いたために、ぶん殴ってしまいます。
単なるケンカが、弁護士双方の思惑もあり、イスラム教徒対キリスト教徒、パレスチナ対レバノンの民族そして国家的争いになっていきます。
双方の弁護士の「父娘の意地の張り合い」もあり、根深い争点もあきらかになっていきます。トニーはレバノン内戦によって一家皆殺しにされ、家から離れていた幼いトニーだけが助かった、という過去を抱えていました。トニーが怒りにまかせてヤーセルに投げたことば「シャロンに抹殺されていればな」という言葉は、法廷でヤーセルが証言するなかには出てきませんでした。トニーの暴言を法廷でだせば、暴言に対する怒りのあまりの暴力だということで無罪になるかもしれないのに、その言葉を出さない。口にすることもできない激しい侮蔑のことばだったのです。
ちなみにヤーセルは、パレスチナ解放戦線アラファト議長の名前でもあるので、監督は「すべてのパレスチナ人の代表」という意味をこめて、西側諸国にもっとも浸透しているパレスチナ人の名ヤーセルを出したのだと思います。
シャロンはイスラエルの元首相。
軍人時代はパレスチナ人を敵として作戦を指揮し、権力を握ってからは、徹底してパレスチナを抑え込みました。シャロンが国防相だった1982年に起きたパレスチナ人大虐殺。「シャロンに殺されていれば」という言葉は、パレスチナ人にとって、民族抹殺を意味する「絶対に許すことのできない民族の怒り」のことばでした。
想像してください。アメリカ人のだれかから「おめーら、ジャパ公はよう、ピカドンで皆殺しにしておけばよかったよな」と言われて、どんな気持ちがする?
もっとも、いまだに争いが続くパレスチナとイスラエルの確執に比べれば、敗戦後はたちまちGHQのために「慰安所」まで設置してサービスにつとめた日本とでは比較になりませんが。
では、「日本の女を全員紛争地帯に連れていき、兵士のために慰安所で働く女性にさせたらいい」と、お隣の国のだれかが言ったとしたら、どんな気分でしょう。女性には「私がここで働くのは自由意志によってです」という一筆を入れさせて。強制ではなくて、自分から働きに来たことになるから、という方法をとって。
シャロンは、2002年にパレスチナ自治区ヨルダン川西岸の占領地(ユダヤ・サマリア地区)とイスラエル領土の間に、長大な分離壁の建設し、国際的な非難も浴びました。(マネをしたがるどっかの大統領、壁の建設費用、OKがでなくて政治的にピンチですが)
シャロンは、パレスチナ人にとっては、絶対にゆるせない仇敵です。
レバノン内戦(1975-1990)では、ダム―ルをはじめたくさんの町で一般市民が1万人も虐殺されました。トニーが故郷へ帰りたくないのは、そこが虐殺の地であり、しかも「真相は分からず、加害者は自由の身。正義も結末も何もなし」という地であったからです。
民族同士、宗教が違うもの同士の争い、しかし、個人と個人は民族がちがっても、過去のいさかいがあっても、助け合える存在だ、という「ふたつの希望」という日本語タイトル通りのラストになっています。
映画レビューを見ていたら、一般からの投稿レビューの中に、レバノンと書くべきところを終始「ヨルダン」と記している記事がありました。つまり、極東の日本にとって、西のはじっこはヨルダンもレバノンも区別がつかない遠い国。内戦やってようが、民族で争うこと80年の歴史だろうと、対岸の火事。
この争いは、だれにでもどこにでもある火種なのに、遠い国の対岸の火事としか思えないからこそ、東アジアもいつまでもくすぶり続けるのだろうなあと感じてしまいました。
『判決、ふたつの希望』いい映画でした。
併映のイスラエル映画『運命は踊る』は、半分寝ていたこちらが悪いのだけれど、よくわからない映画でした。私は見ていない「レバノン」の監督、サミュエル・マオズの最新作。
息子が戦死したのいや生きていただのという知らせを受ける夫婦の話と、20歳で徴兵され、砂漠の国境警備に従軍している息子の生活が出てきます。息子の兵舎は傾いていて、国境の遮断機を通過するのはラクダがほとんど、という地帯。
イスラエルやアラブの世界って、ほんとうに砂漠だなあ、という感想。普段テレビで見る映像はエルサレムとかの都会だけだから、国境の殺伐とした地域を画面で見ることができたことが収穫といえば収穫。
砂漠の真ん中の道の遮断機をまもる若い兵士たちの生活、殺伐としています。
国境を通ろうとしてまちがって射殺されてしまった夫婦がいました。軍の幹部は「なかったこと」にしてしまいます。だれも見ていなかったのですから。それが軍というもの。
原題の「フォックストロット」は、社交ダンスのステップのひとつ。クイックステップと呼ぶことも。ぐるぐる回って最初に戻る。人生も運命の歯車の中でぐるぐる回って振り出しに戻る。
イスラエルは金持ちなんだから、もう少し国境警備に従軍する若者にいい暮らしさせてやればいいのに、というのが最大の感想。
ドローン撮影かなんだか、真上からとるショットが何度も出てきて、いったいこれは何?神の視点?というのもよくわかりませんでした。おわり。
<つづく>
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>輝ける人生の映画(3)判決、ふたつの希望
ギンレイで見るシネパスポート活用映画。仕事帰りに、気分を変えたいからと見た映画、憂さ晴らしどころか、重い感触を残す映画でした。
「判決、ふたつの希望 2017 レバノン/フランス 」と「運命は踊る 2017 イスラエル/ドイツ/フランス/スイス 」
そもそもレバノンが舞台の映画も見た覚えがない。(『レバノン(2009)』は戦争映画なので、見なかった)。レバノンの街のようすなぞ見るだけでもいいか、と思ってみました。
「判決、ふたつの希望」は、レバノンの首都ベイルートで働くパレスチナ難民とレバノンの庶民、ふたりの男性が裁判で争う法廷映画です。それぞれについた弁護士が、レバノン人の大御所弁護士の父。難民保護を主張する弁護士はその娘、という父娘の争いでもあります。2018年度アカデミー賞外国語映画賞ノミネート作品。
レバノン出身の監督、ジアド・ドゥエイリは、クエンティン・タランティーノのアシスタント・カメラマンとして出発し、1998年の『西ベイルート』で監督デビュー。
2017年べネチア国際映画祭にて、本作主演のカメル・エル=バシャが最優秀男優賞を受けました。
以下、ネタバレ含む紹介です。
パレスチナ人ヤーセル(カメル・エル=バシャ)はイスラム教徒。難民ながら実直に働くので認められ、住宅修理屋の現場監督を任されています。ベイルートの一角、違法にベランダをつけ、水の排水が道路に撒かれるというアパートがあり、ヤーセルは配水管をきちんとつけかえる補修を行います。しかし、家の主であるレバノン人のキリスト教徒トニー(アデル・カラム )は激怒し、せっかく補修した配水管を叩き壊します。
トニーは妊娠中の妻から「あなたの故郷のダム―ルに引越ししましょう」と言われてもかたくなに拒みます。この町で今のまま自動車修理の仕事を続けていきたいと。トニーも妻と生まれてくる子のために懸命に働く男です。
ヤーセルは怒りまくるトニーと一度は和解しようと謝りにいきますが、トニーがパレスチナ難民を侮蔑することばを吐いたために、ぶん殴ってしまいます。
単なるケンカが、弁護士双方の思惑もあり、イスラム教徒対キリスト教徒、パレスチナ対レバノンの民族そして国家的争いになっていきます。
双方の弁護士の「父娘の意地の張り合い」もあり、根深い争点もあきらかになっていきます。トニーはレバノン内戦によって一家皆殺しにされ、家から離れていた幼いトニーだけが助かった、という過去を抱えていました。トニーが怒りにまかせてヤーセルに投げたことば「シャロンに抹殺されていればな」という言葉は、法廷でヤーセルが証言するなかには出てきませんでした。トニーの暴言を法廷でだせば、暴言に対する怒りのあまりの暴力だということで無罪になるかもしれないのに、その言葉を出さない。口にすることもできない激しい侮蔑のことばだったのです。
ちなみにヤーセルは、パレスチナ解放戦線アラファト議長の名前でもあるので、監督は「すべてのパレスチナ人の代表」という意味をこめて、西側諸国にもっとも浸透しているパレスチナ人の名ヤーセルを出したのだと思います。
シャロンはイスラエルの元首相。
軍人時代はパレスチナ人を敵として作戦を指揮し、権力を握ってからは、徹底してパレスチナを抑え込みました。シャロンが国防相だった1982年に起きたパレスチナ人大虐殺。「シャロンに殺されていれば」という言葉は、パレスチナ人にとって、民族抹殺を意味する「絶対に許すことのできない民族の怒り」のことばでした。
想像してください。アメリカ人のだれかから「おめーら、ジャパ公はよう、ピカドンで皆殺しにしておけばよかったよな」と言われて、どんな気持ちがする?
もっとも、いまだに争いが続くパレスチナとイスラエルの確執に比べれば、敗戦後はたちまちGHQのために「慰安所」まで設置してサービスにつとめた日本とでは比較になりませんが。
では、「日本の女を全員紛争地帯に連れていき、兵士のために慰安所で働く女性にさせたらいい」と、お隣の国のだれかが言ったとしたら、どんな気分でしょう。女性には「私がここで働くのは自由意志によってです」という一筆を入れさせて。強制ではなくて、自分から働きに来たことになるから、という方法をとって。
シャロンは、2002年にパレスチナ自治区ヨルダン川西岸の占領地(ユダヤ・サマリア地区)とイスラエル領土の間に、長大な分離壁の建設し、国際的な非難も浴びました。(マネをしたがるどっかの大統領、壁の建設費用、OKがでなくて政治的にピンチですが)
シャロンは、パレスチナ人にとっては、絶対にゆるせない仇敵です。
レバノン内戦(1975-1990)では、ダム―ルをはじめたくさんの町で一般市民が1万人も虐殺されました。トニーが故郷へ帰りたくないのは、そこが虐殺の地であり、しかも「真相は分からず、加害者は自由の身。正義も結末も何もなし」という地であったからです。
民族同士、宗教が違うもの同士の争い、しかし、個人と個人は民族がちがっても、過去のいさかいがあっても、助け合える存在だ、という「ふたつの希望」という日本語タイトル通りのラストになっています。
映画レビューを見ていたら、一般からの投稿レビューの中に、レバノンと書くべきところを終始「ヨルダン」と記している記事がありました。つまり、極東の日本にとって、西のはじっこはヨルダンもレバノンも区別がつかない遠い国。内戦やってようが、民族で争うこと80年の歴史だろうと、対岸の火事。
この争いは、だれにでもどこにでもある火種なのに、遠い国の対岸の火事としか思えないからこそ、東アジアもいつまでもくすぶり続けるのだろうなあと感じてしまいました。
『判決、ふたつの希望』いい映画でした。
併映のイスラエル映画『運命は踊る』は、半分寝ていたこちらが悪いのだけれど、よくわからない映画でした。私は見ていない「レバノン」の監督、サミュエル・マオズの最新作。
息子が戦死したのいや生きていただのという知らせを受ける夫婦の話と、20歳で徴兵され、砂漠の国境警備に従軍している息子の生活が出てきます。息子の兵舎は傾いていて、国境の遮断機を通過するのはラクダがほとんど、という地帯。
イスラエルやアラブの世界って、ほんとうに砂漠だなあ、という感想。普段テレビで見る映像はエルサレムとかの都会だけだから、国境の殺伐とした地域を画面で見ることができたことが収穫といえば収穫。
砂漠の真ん中の道の遮断機をまもる若い兵士たちの生活、殺伐としています。
国境を通ろうとしてまちがって射殺されてしまった夫婦がいました。軍の幹部は「なかったこと」にしてしまいます。だれも見ていなかったのですから。それが軍というもの。
原題の「フォックストロット」は、社交ダンスのステップのひとつ。クイックステップと呼ぶことも。ぐるぐる回って最初に戻る。人生も運命の歯車の中でぐるぐる回って振り出しに戻る。
イスラエルは金持ちなんだから、もう少し国境警備に従軍する若者にいい暮らしさせてやればいいのに、というのが最大の感想。
ドローン撮影かなんだか、真上からとるショットが何度も出てきて、いったいこれは何?神の視点?というのもよくわかりませんでした。おわり。
<つづく>