20191208
ぽかぽか春庭にっぽにあニッポン語教師日誌>再録・日本語教師日誌(40)留学生の日本文化史発表・八田ダム
春庭コラムから日本語教師日誌を再録しています。
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2007/03/14 水
ニッポニアニッポン語教師日誌>日本事情(16)八田ダム、禹長春の白菜
台湾の学生が「八田與一」について、発表したとき、私は八田についてほとんど知りませんでした。
「台湾の嘉南平野にダムを築き、今なお地元の人々に敬愛されている日本人」として、司馬遼太郎の『台湾紀行』などにもとりあげられている人物とわかり、八田について調べる機会となりました。
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/nipponjijou0608ac.htm
いまでも地元の人によって顕彰され続けていると知って、とてもうれしく思います。
2006年も、さまざまな事項や人物についての発表がありました。
モンゴルの学生には「モンゴル相撲について、発表してほしい」と、リクエストをだしてみました。しかし、彼は、「今年は1206年にチンギスハーンがモンゴル帝国を樹立してから建国800年にあたるので、ぜひともチンギスハーンとフビライの元寇について発表したい」というので、トピックは「元寇」になりました。
元寇について、私にとっては新たな発見はありませんでしたが、留学生たちは、チンギスハンやフビライについてあまり知らない人もいたので、質問がたくさん出て、発表者と教師が回答していきました。
2006年も、私がまったく知らなかった人物について知ることができました。
韓国の育種学者「禹長春ウーチャンチュン」の名を、韓国留学生の発表で知りました。
禹長春について、今まで何も知りませんでした。
禹長春は、日本人を母とする在日韓国人として50歳までの半生を日本で過ごしました。日本名は須永長春(すなが ながはる)
東京大学から博士号を受け、日本で研究者として地位を築きました。日本人女性と結婚、子も生まれ、そのまま日本にいても、すぐれた業績を残す生涯を過ごせたことでしょう。
しかし、かれは50歳をすぎ、残りの人生を韓国の植物学研究に捧げました。
ジャガイモや種なしスイカなど、たくさんの植物についての研究が実りました。
白菜の品種改良に取り組み、「韓国キムチの父」として、韓国の人々の中にウー博士を知らない人はいないそうです。
「韓国の第二回目の文化褒章(日本の文化勲章ににあたる)を得た」という発表をきいて、韓国からの留学生たちは、「ウー博士が韓国文化褒章を得た偉い学者だということはとても有名で、子供でも知っていることだが、お母さんが日本人だったことは、はじめて知った」と、驚いていました。
ウー博士の子供たちは日本で育ちました。四女の須永朝子は京セラ創業者の稲盛和夫の夫人。
タイからの学生は、ほとんどが「アユタヤ日本人町と山田長政」についての発表になります。近代以後では関わりを深めた日本とタイですが、江戸時代以前では、山田長政以外のトピックで、資料を見つけることがむずかしいので。
今年もタイの学生は山田長政ついて発表したのですが、他の留学生たち、近代以前に日本とタイに関わりがあったことをはじめて知ったという学生が多く、さまざまに興味を呼び起こしました。
発表を重ねてきて、学生同士、お互いに新しい知識を与えあい、これまで知らなかった事実を知って、目が見開かれていきます。
<つづく>
2007/03/15 木
ニッポニアニッポン語教師日誌>日本事情(17)漱石の漢詩、満鉄あじあ号
人物紹介以外では、さまざまな事物の交流がトピックになりました。
「饅頭の伝来」「琴」「鏡」「囲碁・将棋」「お茶」「砂糖」「漢方薬」「算盤」などの文物の往来について、それぞれとても興味深い発表になりました。
中国の琴と和琴(わごん)の違いとか、将棋の日中のルールの違い、鏡や算盤の歴史など、私のトリビア袋がどんどんふくらむ発表が相次ぎました。
「日本のお札の顔」や「日本の文学者紹介」で人気の夏目漱石、今年は文化発表でとりあげる人がいなかったなあと思っていたら、交流史のほうで、「漱石と漢詩」についての発表がありました。夏目漱石の教養の基盤となっていたのが、漢詩漢文学であることについて。
どのような漢詩漢文を学び、それが彼の俳句や小説、英文学研究にどのように反映されているかを考察した発表です。
私は、漱石と漢文学については、加藤二郎著『漱石と漢詩』なども読んでいませんでしたから、学生の熱心な発表に感銘を受けました。
日本近代文学の成立に漢詩漢文がどのくらい深い影響を残しているのか、まったく知らない留学生もいるので、森鴎外、幸田露伴など明治の文学者の基礎的な素養として漢詩漢文学があったことを補足説明しました。
漱石は漢文の素養が深く、中国大陸の旅行を望んでいました。
1909(明治42)年、漱石は、大学予備門時代の友人だった中村是公の誘いで、中国東北部を旅行しました。中村は当時、南満州鉄道株式会社(満鉄)総裁でした。
漱石は『満州旅行日記』( 明治42年9月1日~10月17日 )を残しています。
2006年の印象深かった発表のひとつに、「南満州鉄道」を取り上げた学生がいたことがあげられます。
私は、13年前1994年に中国東北地方で半年間をすごしました。
鉄道での旅が好きなので、ハルピン長春北京の間を空路でなく、鉄道で旅行したことがあります。
満鉄の路線だった長春(旧新京)瀋陽(旧奉天)・大連も鉄路で旅行してみました。
空路のほうが快適ですよと勧められたけれど、満鉄時代からの路線に乗ってみたかったのです。
13年前は、旧満州時代の歴史的事実について、否定的な意見を多く聞きました。
南満州鉄道に関し、その鉄道技術などを評価しても、国策会社の侵略的な面に対してマイナス評価を下す意見が大半でした。
しかし、今年はじめて、満鉄に対して「日本が中国に残したインフラストラクチュアのひとつ」として高く評価するという意見を、若い世代から聞きました。
満鉄が人民中国の発達に寄与した面もあることを肯定的に評価する発表をきいて、「偽満州帝国」への歴史的評価に、否定面だけで評価するのではない動きが出てきたのかなと思いました。
昨年満鉄創業百年を期して、日本側からも満鉄研究の新しい動きが出てきたことも影響しているのかもしれません。
加藤聖文『満鉄全史 「国策会社」の全貌』、別冊環12号『満鉄とは何だったのか』など、満鉄の歴史を探究している本が出されています。
客観的に歴史事実を研究していき、真実を明らかにしていこうとする相互の努力がこれからの歴史研究にも求められるでしょう。
日中韓3国共通歴史教材委員会が編集した『未来をひらく歴史―日本・中国・韓国=共同編集 東アジア3国の近現代史』に、大いに期待しています。
まだまだ解決できない問題点は多いでしょうが、こうして共同編集作業を続ける中で、お互いの歴史を見る目がとぎすまされ、真実を記録していくことができるのだと思います。
<つづく>
2007/03/16 金
ニッポニアニッポン語教師日誌>日本事情(18)次の時代へ
1ヶ月前、娘、息子といっしょに上戸彩主演のテレビドラマ『李香蘭』を見ました。
2003年に放映された『流転の王妃』を見て、天海祐希が演じた李香蘭に興味をもっていた娘が、見たい、と言ってチャンネルを合わせたのです。
上戸彩の演技力歌唱力で、どこまで見ていられるかしら、と心配しながらでしたが、主演も助演もがんばってよいドラマになっていたと思います。
もともとが波瀾万丈の自伝ですから、最後まで面白く見ることができました。
私は、数年前に、藤原作弥と山口淑子共著の『李香蘭・私の半生』を読みました。
今回のドラマの原作は山口淑子自伝の『「李香蘭」を生きて 私の履歴書』なので、「自己美化」の部分があるかなと思いましたが、満州国策の道具として中国人を演じなければならない女優であったこと、日中のはざまでゆれ、あわや死刑の可能性もあった李香蘭をきちんと描いていたと思います。
李香蘭の父親は、南満州鉄道(満鉄)の中国語教師として、社員教育にあたっていました。満鉄社員は中国語習得が義務だったので。
父親は「自分がこうして日本人に中国語を教え、中国人の友人と親しく交際することは、日中友好のためにも役立つこと」という信念をもって中国語教育を行っていたのでしょうが、敗戦となったあとは、日本人が自分たちの思いこみで「五族共和」「亜細亜はひとつ」と言っていたことが、結局は中国人の幸福のために寄与するものではなかったことを思い知りました。
一方的にではなく、お互いの気持ちを通わせ合って、世界中のひとと交流したい。
2007年、私はよりいっそう中国東北部、旧満州地域と関わり深くすごすことになると思います。
もっともっと深く、いろいろなことに触れたいです。
留学生たち、自国と日本との交流史を発表したあと、みな、「自分たちの国が歴史的に深い絆で結ばれてきたことがよくわかった。わたしもこれからの両国の交流に役立つ人になりたい」と、意欲を燃やします。
留学生たちの真剣な学びを見ていて、「アジアのより柔軟で深い友好関係」が確固となる日も必ずやってくると思えます。
今はまだ、道は遠いのが現状です。中国に反日運動が広がったことがあったのは記憶に新しいし、つい先日も、首相が「強制連行の証拠はない」と歴史を自己中心的にとらえる見方のみで発言し、たちまち韓国はじめ欧米からも反発を招く、という情勢。
今はまだ、アジアのより深い友好的関係も「夢物語」と思われています。
でも、ヨーロッパ共同体EUも、リヒャルト・英次郎・クーデンホーフが「ヨーロッパをひとつにまとめたい」と、言い出したときは、「夢のまた夢」と思われていたのです。
いつの日にか、平等な関係と対等な交流によって友好が構築でき、人々が生き生きと交歓する日が実現すると、私は信じています。
<つづく>
ぽかぽか春庭にっぽにあニッポン語教師日誌>再録・日本語教師日誌(40)留学生の日本文化史発表・八田ダム
春庭コラムから日本語教師日誌を再録しています。
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2007/03/14 水
ニッポニアニッポン語教師日誌>日本事情(16)八田ダム、禹長春の白菜
台湾の学生が「八田與一」について、発表したとき、私は八田についてほとんど知りませんでした。
「台湾の嘉南平野にダムを築き、今なお地元の人々に敬愛されている日本人」として、司馬遼太郎の『台湾紀行』などにもとりあげられている人物とわかり、八田について調べる機会となりました。
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/nipponjijou0608ac.htm
いまでも地元の人によって顕彰され続けていると知って、とてもうれしく思います。
2006年も、さまざまな事項や人物についての発表がありました。
モンゴルの学生には「モンゴル相撲について、発表してほしい」と、リクエストをだしてみました。しかし、彼は、「今年は1206年にチンギスハーンがモンゴル帝国を樹立してから建国800年にあたるので、ぜひともチンギスハーンとフビライの元寇について発表したい」というので、トピックは「元寇」になりました。
元寇について、私にとっては新たな発見はありませんでしたが、留学生たちは、チンギスハンやフビライについてあまり知らない人もいたので、質問がたくさん出て、発表者と教師が回答していきました。
2006年も、私がまったく知らなかった人物について知ることができました。
韓国の育種学者「禹長春ウーチャンチュン」の名を、韓国留学生の発表で知りました。
禹長春について、今まで何も知りませんでした。
禹長春は、日本人を母とする在日韓国人として50歳までの半生を日本で過ごしました。日本名は須永長春(すなが ながはる)
東京大学から博士号を受け、日本で研究者として地位を築きました。日本人女性と結婚、子も生まれ、そのまま日本にいても、すぐれた業績を残す生涯を過ごせたことでしょう。
しかし、かれは50歳をすぎ、残りの人生を韓国の植物学研究に捧げました。
ジャガイモや種なしスイカなど、たくさんの植物についての研究が実りました。
白菜の品種改良に取り組み、「韓国キムチの父」として、韓国の人々の中にウー博士を知らない人はいないそうです。
「韓国の第二回目の文化褒章(日本の文化勲章ににあたる)を得た」という発表をきいて、韓国からの留学生たちは、「ウー博士が韓国文化褒章を得た偉い学者だということはとても有名で、子供でも知っていることだが、お母さんが日本人だったことは、はじめて知った」と、驚いていました。
ウー博士の子供たちは日本で育ちました。四女の須永朝子は京セラ創業者の稲盛和夫の夫人。
タイからの学生は、ほとんどが「アユタヤ日本人町と山田長政」についての発表になります。近代以後では関わりを深めた日本とタイですが、江戸時代以前では、山田長政以外のトピックで、資料を見つけることがむずかしいので。
今年もタイの学生は山田長政ついて発表したのですが、他の留学生たち、近代以前に日本とタイに関わりがあったことをはじめて知ったという学生が多く、さまざまに興味を呼び起こしました。
発表を重ねてきて、学生同士、お互いに新しい知識を与えあい、これまで知らなかった事実を知って、目が見開かれていきます。
<つづく>
2007/03/15 木
ニッポニアニッポン語教師日誌>日本事情(17)漱石の漢詩、満鉄あじあ号
人物紹介以外では、さまざまな事物の交流がトピックになりました。
「饅頭の伝来」「琴」「鏡」「囲碁・将棋」「お茶」「砂糖」「漢方薬」「算盤」などの文物の往来について、それぞれとても興味深い発表になりました。
中国の琴と和琴(わごん)の違いとか、将棋の日中のルールの違い、鏡や算盤の歴史など、私のトリビア袋がどんどんふくらむ発表が相次ぎました。
「日本のお札の顔」や「日本の文学者紹介」で人気の夏目漱石、今年は文化発表でとりあげる人がいなかったなあと思っていたら、交流史のほうで、「漱石と漢詩」についての発表がありました。夏目漱石の教養の基盤となっていたのが、漢詩漢文学であることについて。
どのような漢詩漢文を学び、それが彼の俳句や小説、英文学研究にどのように反映されているかを考察した発表です。
私は、漱石と漢文学については、加藤二郎著『漱石と漢詩』なども読んでいませんでしたから、学生の熱心な発表に感銘を受けました。
日本近代文学の成立に漢詩漢文がどのくらい深い影響を残しているのか、まったく知らない留学生もいるので、森鴎外、幸田露伴など明治の文学者の基礎的な素養として漢詩漢文学があったことを補足説明しました。
漱石は漢文の素養が深く、中国大陸の旅行を望んでいました。
1909(明治42)年、漱石は、大学予備門時代の友人だった中村是公の誘いで、中国東北部を旅行しました。中村は当時、南満州鉄道株式会社(満鉄)総裁でした。
漱石は『満州旅行日記』( 明治42年9月1日~10月17日 )を残しています。
2006年の印象深かった発表のひとつに、「南満州鉄道」を取り上げた学生がいたことがあげられます。
私は、13年前1994年に中国東北地方で半年間をすごしました。
鉄道での旅が好きなので、ハルピン長春北京の間を空路でなく、鉄道で旅行したことがあります。
満鉄の路線だった長春(旧新京)瀋陽(旧奉天)・大連も鉄路で旅行してみました。
空路のほうが快適ですよと勧められたけれど、満鉄時代からの路線に乗ってみたかったのです。
13年前は、旧満州時代の歴史的事実について、否定的な意見を多く聞きました。
南満州鉄道に関し、その鉄道技術などを評価しても、国策会社の侵略的な面に対してマイナス評価を下す意見が大半でした。
しかし、今年はじめて、満鉄に対して「日本が中国に残したインフラストラクチュアのひとつ」として高く評価するという意見を、若い世代から聞きました。
満鉄が人民中国の発達に寄与した面もあることを肯定的に評価する発表をきいて、「偽満州帝国」への歴史的評価に、否定面だけで評価するのではない動きが出てきたのかなと思いました。
昨年満鉄創業百年を期して、日本側からも満鉄研究の新しい動きが出てきたことも影響しているのかもしれません。
加藤聖文『満鉄全史 「国策会社」の全貌』、別冊環12号『満鉄とは何だったのか』など、満鉄の歴史を探究している本が出されています。
客観的に歴史事実を研究していき、真実を明らかにしていこうとする相互の努力がこれからの歴史研究にも求められるでしょう。
日中韓3国共通歴史教材委員会が編集した『未来をひらく歴史―日本・中国・韓国=共同編集 東アジア3国の近現代史』に、大いに期待しています。
まだまだ解決できない問題点は多いでしょうが、こうして共同編集作業を続ける中で、お互いの歴史を見る目がとぎすまされ、真実を記録していくことができるのだと思います。
<つづく>
2007/03/16 金
ニッポニアニッポン語教師日誌>日本事情(18)次の時代へ
1ヶ月前、娘、息子といっしょに上戸彩主演のテレビドラマ『李香蘭』を見ました。
2003年に放映された『流転の王妃』を見て、天海祐希が演じた李香蘭に興味をもっていた娘が、見たい、と言ってチャンネルを合わせたのです。
上戸彩の演技力歌唱力で、どこまで見ていられるかしら、と心配しながらでしたが、主演も助演もがんばってよいドラマになっていたと思います。
もともとが波瀾万丈の自伝ですから、最後まで面白く見ることができました。
私は、数年前に、藤原作弥と山口淑子共著の『李香蘭・私の半生』を読みました。
今回のドラマの原作は山口淑子自伝の『「李香蘭」を生きて 私の履歴書』なので、「自己美化」の部分があるかなと思いましたが、満州国策の道具として中国人を演じなければならない女優であったこと、日中のはざまでゆれ、あわや死刑の可能性もあった李香蘭をきちんと描いていたと思います。
李香蘭の父親は、南満州鉄道(満鉄)の中国語教師として、社員教育にあたっていました。満鉄社員は中国語習得が義務だったので。
父親は「自分がこうして日本人に中国語を教え、中国人の友人と親しく交際することは、日中友好のためにも役立つこと」という信念をもって中国語教育を行っていたのでしょうが、敗戦となったあとは、日本人が自分たちの思いこみで「五族共和」「亜細亜はひとつ」と言っていたことが、結局は中国人の幸福のために寄与するものではなかったことを思い知りました。
一方的にではなく、お互いの気持ちを通わせ合って、世界中のひとと交流したい。
2007年、私はよりいっそう中国東北部、旧満州地域と関わり深くすごすことになると思います。
もっともっと深く、いろいろなことに触れたいです。
留学生たち、自国と日本との交流史を発表したあと、みな、「自分たちの国が歴史的に深い絆で結ばれてきたことがよくわかった。わたしもこれからの両国の交流に役立つ人になりたい」と、意欲を燃やします。
留学生たちの真剣な学びを見ていて、「アジアのより柔軟で深い友好関係」が確固となる日も必ずやってくると思えます。
今はまだ、道は遠いのが現状です。中国に反日運動が広がったことがあったのは記憶に新しいし、つい先日も、首相が「強制連行の証拠はない」と歴史を自己中心的にとらえる見方のみで発言し、たちまち韓国はじめ欧米からも反発を招く、という情勢。
今はまだ、アジアのより深い友好的関係も「夢物語」と思われています。
でも、ヨーロッパ共同体EUも、リヒャルト・英次郎・クーデンホーフが「ヨーロッパをひとつにまとめたい」と、言い出したときは、「夢のまた夢」と思われていたのです。
いつの日にか、平等な関係と対等な交流によって友好が構築でき、人々が生き生きと交歓する日が実現すると、私は信じています。
<つづく>