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ぽかぽか春庭「グリーンブック、ピーター・ファレリーの笑い」

2020-05-12 00:00:01 | エッセイ、コラム


20200512
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>2020おうち映画館(4)グリーンブック、ピーター・ファレリーの笑い

 春庭が「グリーンブック」の紹介をしたら、アイデンティティ危機だのディグニティだのと、小理屈の並んだ面白くともなんともないものになってしまい、う~ん、やはり映画は映画見巧者が語らないとまずいなあ、と反省しきり。

 「グリーンブック」は、とても楽しい笑える映画です。監督は第一にこれまで作ってきたコメディ映画の作劇法で観客を楽しませようと考えたのだと思います。

 監督ピーター・ファレリー(1956~ Peter Farrelly)は、弟ボビーと共にファレリー兄弟として『ジム・キャリーはMr.ダマー』、『愛しのローズマリー』、『ふたりの男とひとりの女』、『メリーに首ったけ』、『ライラにお手あげ』といったコメディ映画を製作してきました。

 ところが、春庭はこれらのファレリー兄弟の映画を見ていません。今回はじめて「グリーンブック」を見て大いに笑い、楽しい2時間を過ごしたのですが、感想を述べるとなるとまず第一にこの映画が伝えようとしたことを取り出そうとしてしまいました。

 今回は、ピーター・ファレリーが監督として第一に目指したであろう、「笑い、コメディ」について感想を言いたいのですが、これまたすごく小理屈に満ちていますので、あしからず。
 これは子どものころから「屁理屈の春、小理屈の小春」と呼ばれてきたものが、70歳になって変わらないので、仕方なし。トニーリップがガキのころから口先小回り利く子供でリップと呼ばれていたのと一緒。

 さて、ファレリー笑いの分析の元ネタは、パソコンしながらザッピングしていて目が止まった放送大学のテレビ授業「 笑いの哲学 ~コントで分析~」です。
 講師森下伸也(日本笑い学会会長・関西大学人間健康学部教授)。コント実演は、ななめ45°のトリオ。コント「取り調べ」「ホームにて」「家庭教師」「父と息子の再会」を通じて、笑いの構造を分析しました。笑いの分析はともかく、コントがおかしくて、げらげら割っているうち番組は終わってしまいました。
 先生は、ななめ45°のコントがどうして笑えるか、その要素を分析していました。

 笑いを作る要素とは。「図式のずれ」「見立て」「図地反転」「二元結合」「反実仮想」「パロディ」など。これを組み合わせて「笑い」が生まれます。
 
 「見立て」とは、ある行為現象をほかのものになぞらえること。ななめ45°のコントでは、男と妻と愛人という三角関係になぞらえて、学生と学校の数学教師と家庭教師という三角関係に置き換えて笑いを生み出しました。
 コントや漫才の中の「図式のずれ」は、「ことばのずれ」として表現されることが多い。簡単にいうと、駄洒落、語呂合わせ。漫才などではことばを言い間違えるボケとそれを追求するツッコミの掛け合いが笑いを生みます。 

 「二元結合」偶然にふたつのものが結合します。ななめ45°のコント「父と息子の再会」では、20年前に妻子を捨てて家を出ていった父親が偶然喫茶店で息子と出会います。息子は妻子を捨てた父を非難します。ところが、喫茶店の老店主は、40年前に子どものころの父を捨てた祖父であることが判明し、ややこしい関係の中に笑いが盛り込まれます。

 コント「ホーム」では。
 ゴルフクラブに見立てた傘を駅のホームで振る男に、指南役が「傘ゴルフキャディ」を連れて現れます。キャディが持つ傘ゴルフバッグにはいろんな傘が入っており、「ゴルフパット」と「傘」のずれで笑いをとります。これは「もしほんとにこんなことがあったら」という「反実仮想」の笑いでもあります。

 図地反転は、ひとつの図が見方によって、違うふたつのものに見えること。一番有名な図地反転はルビンの壺。↓の図の白いところを見ると壺に見えます。でも黒い部分を見れば、横向きのふたりの人物が向かい合っている図になります。


 森下先生のだした日本語の笑い話の例でいえば、息子からの「カネオクレタノム」という電報文を、父親は「金遅れた、飲む」と解し、送金が遅れたことに腹を立てて飲み歩いているのかと心配し、母親は「金送れ頼む」と思います。読み方によって、どちらの解釈も可能です。

 「グリーンブック」では、まず、黒人運転手と白人高齢女性との交流を描いた「ドライビングミスデージー」のズラシがあります。運転手が白人で、金持ちの雇い主が黒人という設定は、パロディともいえますが、単なるパロディではない。黒人シャーリーには、家族がおらず孤独、自分の存在価値が白人の聴衆によって成り立っているという、存在証明に悩んでいます。
 このふたりの偶然の結合(二元結合)が笑いを生み出すのです。

 最初のナイトクラブシーンで、トニーは腕っぷしは強いが、客の帽子を隠しておいて取り出し、ひと稼ぎするちっちゃくこすい男として描かれます。イタリア人移民の家シーンでは、息子ふたりを愛しているけれど、家に来た黒人作業員が口をつけたコップをゴミ箱に捨てるような差別意識を持つ男。シャーリーから見ると人間的品位のかけらもない。

 シャーリーとの面接シーンでは「黒人に偏見はない。この前も女房と家に来た黒人をもてなした」とぬけぬけと言う。このあたりも嘘ではないけれど「ずれ」を使った言い回し。

 旅に出たトニーとシャーリー、はじめは、ぎくしゃくとしています。
 トニーの軍隊時代に友達が言っていた、ピッツバーグを「ティッツバーグ(巨乳の町)」という言い間違いジョークに、シャーリーはまじめな顔で「ピッツバーグの女性がみんな巨乳のはずがない」と言うし、シャーリーの代表作「オルフェウス」を、トニーは「オーファン(孤児)」と間違える。ダジャレは笑いの基本。ことばのズレを楽しみつつ、ふたりの個性がよくわかることばの応酬していましたがになっています。

 無教養なトニーだが、コンサート司会者がシャーリーを紹介することば「ヴィルティオーゾ」はわかった。もともとはイタリア語で「達人」といういう意味。トニーは「すげぇ、うまいっていう意味だ」と理解する。

 フォークとナイフがないと食事できなかったシャーリーが、トニーにすすめられてケンタッキーフライドチキンにかぶりつくシーンも、異質なものが結合する二元結合です。トニーに習ってチキンの骨を捨てることはできたシャーリーですが、同じようにプラスチックのコーヒーカップをトニーが捨てると、車をバックさせて拾いに行かせます。トニーの文化を受け入れるところも見せるが、自分の「品位を保つ」というポリシーはかっちり守る。

 白人用バーで袋叩きにあっていたシャーリーを、トニーが救い出す頃からふたりの関係が少しずつ変わってきます。

 YMCAのプールで出会った男性と付き合おうして警察に捕まったシャーリーに、トニーは「ニューヨークのバーで働いたことがあるから、この世界は複雑だってわかっている」と、理解を示します。
 トニーは黒人には差別感を持っていたのですが、シャーリーのセクシャリティについては、なんの差別も示さなかったのが、ちょっと驚きでした。ヴァレロンガ家では、食事の前には家族そろって神への祈りを欠かさないキリスト教徒ですから、60年代には嫌悪感を示す人のほうが多かった。
 トニーが「ニューヨークのバーで働いていたころ」男性カップルを目にすることが多かったからという理由だけで、黒人差別とはことなる理解を示したこと。脚本では、トニーの「世界は複雑だ」ということばが述べられているだけです。

 ちなみに。ヴィレッジピープルの「YMCA」英語歌詞は、YMCAに泊まれば、男同士で楽しい夜を過ごせる、と歌っています。60年代のYMCAは、2丁目用語でいうところの「ハッテン場」でした。西城秀樹のカバー「ヤングマン」では別の歌になってしまい、やたらと明るく楽しい歌になっているのですが、これはこれで、あの振り付けをだれでもできるのがすごい。

 シャーリーは、トニーの話し言葉を「君のものの言い方はそれはそれで魅力的ですが、別の言い方もあるんだ」と、「くそったれ」だの「ケツの穴につっこむぞ」などの言い回しを多用するトニーのことばづかいをやんわりとなおしていきます。

 ファレリー監督は、これまで培ってきた笑いの要素を駆使して、トニーとシャーリーの間の異化と同化を笑いに仕立てていきました。
 笑える感動作、「グリーンブック」、コメディとしても上出来のよい映画でした。

 トニーがラジオから流れる曲をシャーリーに聞かせ、「リトル・リチャードを知らないなんて」と彼の音楽世界の狭さを指摘し、シャーリーの音楽を広げることになったロックンロールの伝説のスター、リトル・リチャードが、2020年5月9日に癌のため死去。享年87歳。ご冥福を。

<おわり>
コメント (2)
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