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ぽかぽか春庭「ちひろ美術館&林芙美子記念館」

2021-01-24 00:00:01 | エッセイ、コラム
20210124
ぽかぽか春庭アート散歩>2020アート散歩拾遺(10)ちひろ美術館&林芙美子記念館

 私は何度目かの、娘ははじめてのちひろ美術館訪問。上石神井駅から住宅街の中を歩きました。いわさきちひろの住居兼アトリエのあった跡地に美術館が建てられています。



 ちひろ美術館の展示は、ほとんどはコロタイプ複写の展示です。原画が戦後の紙質の悪い時代のものが多く、展示していると光の影響なので色が劣化する恐れがあるからです。
 むろん「本物を見た」という感激も大事です。普段は複写を常設で展示しておき、特別な機会を設けて本物を見せる。

 ちひろの絵は、もともと絵本などの印刷のための絵ですから、複写に向いています。
 子どもの絵は、ちひろにもっともふさわしいテーマです。さまざまな子どもの絵が残されています。どの絵もちひろが子どもに向けるまなざしが感じられます。

 今回、ちひろの年譜を読み、戦争前のちひろのつらい時代について知りました。
 ちひろは20歳のとき、長女として婿養子をとるように、という両親に従い結婚しました。夫の任地満州に渡ったのですが、夫との仲は深まりませんでした。夫の自殺という事態となり帰国。両親が開拓民として暮らしていた安曇野へ。安曇野にもちひろ記念館が建てられています。

 ちひろは希望を求めて共産党の勉強会に参加します。
 ちひろ27歳の自画像は、強く暗い意志を感じさせます。



 ちひろ30歳のときに共産党勉強会で、若手弁護士の松本善明と出会います。
 一人息子が生まれた後、収入のない夫を支えるために絵本の挿絵画家として子供を養育するお金を稼ぐ。子供は安曇野の両親に預けて、仕事の手があくと息子に会いに出掛ける日々でした。 
 息子をそばに置きたくてもかなわない、という心の寂しさが、ちひろの子どもを描く絵に反映しているように思います。ちひろの子どもの絵には子どもに注がれるあたたかい目とともに、子どもの寂しさや悲しさも感じさせる描写であるように思います。決して無邪気に遊び回るだけではない、子どもの静かな喜びと悲しみが伝わってきます。

 上石神井駅に戻ると、娘が地図を見ながら「この沿線の駅に林芙美子記念館もあるから寄っていこう。いまからだと閉館時間ぎりぎりだけど」というので、中井駅で降りました。

 林芙美子記念館は、小説家・林芙美子(1903~51年)が1941(昭和16)年から1951(昭和26)年に亡くなるまで住んでいた家がそのまま残されている建物です。
 1930年から新宿区落合に住み、1939(昭和14)年に島津製作所所有地を購入し山口文象の設計によって数寄屋造りの平屋建の「生涯の家」を建てました。当時の建築坪数制限のため、芙美子名義の母屋(接客用、老母の部屋)と緑敏名義の芙美子書斎と夫緑敏のアトリエの別棟を2棟建てました。
 芙美子の戦中戦後の著作が書かれた書斎が残されています。

 
 紅葉と芙美子記念館


 アトリエ部分に入室し、ビデオを視聴しました。芙美子がラジオ番組収録のために若い女性に「これからの女性の生き方」について講演しているようすが流されていました。若い女性の質問に答えて「やりたいことをやればいいだけです」と答えていました。
 まだまだやりたいことができない社会情勢であるから、その女性も「どう女性が生きて行けばいいのか」と質問したのでしょうに、芙美子にとっては「今やりたいことをやればいいだけ」と答える強さがありました。

 『放浪記』に書かれた極貧の時代にも、芙美子は「書きたいことを書く」という意志を貫きました。

 「貧乏を売り物にし、パリ洋行を売り、戦争中は戦地ルポを売りまくった」と非難の声が山ほどあったことなど、芙美子自身はものともしませんでした。森光子主演の舞台『放浪記』にも、芙美子が雑誌掲載のチャンスをつかむために、友人の原稿を意図して投稿しなかったエピソードが描かれています。

 人気絶頂の流行作家として急死した芙美子の葬儀で川端康成は弔辞で「あなたは多くの人に恨まれて憎まれていたけれど、今は安らかに眠ってください」と述べるなど芙美子への毀誉褒貶は「葬式の場でわざわざ故人への悪口を並べなくても」と思うほどのもの。

 戦後、人気女性作家が数多く輩出されました。しかし、現在もまだ読者を失わないのはそう多くはありません。芙美子人気は、菊田一夫と森光子の力もあったかもしれませんが、こうして記念館で芙美子の書斎を眺めていると、どんな悪評にもめげず書き切ったお芙美さんから元気づけられたような気になります。

 「やりたいことをやればいいだけですよ」と、さらりと若い女性を前に語った林芙美子の声には、自分の生き方への自信に満ちていました。 
 一人息子が母の遺品を守ってきた松本家に対して、林芙美子は一人息子(養子)も早く亡くなったためもあるのでしょう、直筆原稿などの遺品は記念館にそう多くは展示されていませんでした。

 芙美子が来ていた衣服の展示もありました。昔の人ですから、小柄です。
 芙美子パネルといっしょに写真撮影。等身大だとすると、私よりずっと小柄だったのかとおもいます。
 
画家と作家、ふたりの女性の生涯を娘とたどった一日、ゆったり暮れていきました。

<つづく>
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