
20220423
ぽかぽか春庭アート散歩>2021アート散歩冬から春へ(3)上野リチ展 in 三菱一号館美術館
織物や染め物、刺繍や刺し子キルトなど布の手仕事を見るのが好きな春庭。テキスタイルデザインも楽しみに見てきました。
「上野リチ・ウィーンから来たデザインファンタジー展」は、京都国立近代美術館で開催されたあと、巡回展として三菱一号館美術館で開催されました。
会期:2022年2月18日ー5月15日
上野リチは、本名上野リチ・リックスFelice Rix-Ueno, 愛称Lizzリッツィ日本名リチ 1893(明治26)–1967)
三菱一号館のリチ紹介
フェリーツェ・リックス(後の上野リチ・リックス|1893-1967)
は、ウィーン工芸学校においてウィーン工房のヨーゼフ・ホフマンらに師事、才能を開花させます。卒業後は同工房に入り、テキスタイルデザインなどを手がけました。彼女のデザインの特徴は、自由な線と生命感あふれる色彩です。鳥や魚、花や樹木といった身近な自然を組み合わせたデザインは人気を博しました。
は、ウィーン工芸学校においてウィーン工房のヨーゼフ・ホフマンらに師事、才能を開花させます。卒業後は同工房に入り、テキスタイルデザインなどを手がけました。彼女のデザインの特徴は、自由な線と生命感あふれる色彩です。鳥や魚、花や樹木といった身近な自然を組み合わせたデザインは人気を博しました。
リチは京都出身の建築家・上野伊三郎と出会って結婚、二つの都市を往復しながら、ウィーン工房所属デザイナーとして活動を続けます。1930年の工房退職後も、テキスタイルだけでなく、身の回りの小物類など、さまざまなデザインに携わりました。個人住宅や店舗などのインテリアデザインに加え、第二次世界大戦後には教育者として後進の指導にもあたっています。
ウィーン工房時代のリッツィ・リックス作品
ウィーン工房ポスター図案(1917)

伊三郎はリチと結婚後、1925年に日本にやってきました。伊三郎は、上野建築事務所を開設し、
リチ夫人を迎え入れます。リチはウィーンと日本を行き来しながら、しだいに日本の生活を確固としたものにしていきました。
上野リチ・リックス《ウィーン工房テキスタイル:日本の国》(1923-28)

青い鳥さんに毎月10枚送る絵ハガキ。2022のテーマカラーは黄色なので、↑の「日本の国」の絵ハガキがあったら買いたかったのですが、残念ながら、「日本の国」のはがきはありませんでした。「花園」というタイトルの壁紙をデザインした絵ハガキなどを購入。
壁紙デザイン「夏の平原」1928以前


リチの夫・上野伊三郎(1892(明治25)-1972)は、ブルーノ・タウト(Bruno Taut1880-1938)の推薦により群馬県工芸所の所長となりました。
タウトがウィーンセセッション(分離派)の研究所で学んだリチのデザインを好んでいないことをわかっていながら、伊三郎は群馬県知事に直談判してリチを工芸所の嘱託としました。
上野伊三郎・リチ夫妻

松本久志の論文に書かれた水原徳言(よしゆき通称とくげん1911-2009)の証言によると)伊三郎は、リチのデザイン力を高く評価していたそうです。タウトの意向に反してもリチといっしょに仕事をしたかった、という上野伊三郎のリチデザインへの信頼を感じます。
ウィーン工房壁紙「花園」1928

タウトは伊三郎と仲たがいをしたわけではないでしょうが、トルコから大学教授のポジションを提示され、日本を離れました。
タウトが日本を去ったあと、リチは1939年まで群馬工芸所で伊三郎といっしょに活動しました。しかし、太平洋戦争中、ふたりは群馬工芸所を辞しました。強まる戦時色の中で、伊三郎リチのデザインを生かした製品を作り出す余裕は工芸所にはなくなっていたからです。ふたりは京都に戻り、上野建築事務所を復活させました。

戦後は1963年まで京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学) に上野は建築、リチはデザインを担当として後進を育てました。
手袋の刺繍デザイン

三菱一号館第1展示室の入口にあった手袋のタペストリー

本展のタイトルは、「上野リチ・ウィーンから来たデザインファンタジー」です。ここで使われている「ファンタジー」は、日本語の「おとぎ話・空想の話」という意味ではなく、ドイツ語本来の意味「想像力」から、さらにリチ独自の「他の影響を受けず、想像力を発揮して独自性を獲得する」という意味が含まれています。
後半生で学生を指導するときに常に「ファンタジーであれ」と言い、他者の真似をしたデザインを認めず、提出されたデザインにだれかの影響があると感じた時は、デザイン画を受け取らず、裏返して学生に返すなど、自分の信念を貫いた教育だったそうです。(リチの教え子たちの回想による by NHK日曜美術館)
晩年のリチ作品「プリント服地」1955

プリント服地「野菜」1955

写真撮影OKの部屋で

リチのテキスタイル・デザインは、展覧会のタイトルにもあるように、現代の若い女性にも好まれるような「かわいい」ものが多いです。ブルーノ・タウトには好まれなかったというのも、このかわいらしさだったかなと思います。
娘は一番気に入った「スイートピー」の図柄がなかったので、リチデザインの七宝小箱を模した小箱を買いました。サーカスの図柄です。中に入っていた「京都の飴」はタカ氏が食べてみて「甘い!」うん、そりゃそうだ。


1926年に夫を追って来日して以来、1967年に74歳で生涯をおえるまで、日本と欧州を行き来しながらも40年間日本で暮らしデザインの仕事を続けました。
リチが3年ほどの短い期間であったけれど、高崎で「群馬工芸所」の嘱託職員としてすごしたことは、群馬出身のHALとしては、とてもうれしいこと。
日本ですごした40年の歳月、確固とした信念のもとに自分自身の「ファンタジー」を追求したリチの仕事に立ち向かう姿は、伊三郎との夫婦愛とともに、深く心に残る女性芸術家の姿でした。
<つづく>