20221111
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2022ふたふた日記秋の旅番外編(1)高山町歩き余禄擬擬洋風・高山市図書館
高山陣屋を見学したあと、市内巡りバスの中から見かけて、気になった建物をたずねました。私の好きな擬洋風の建物に見えたからです。
バスの運転手さんが親切に下車停留所を教えてくれたのですが、運転手さんが言うには、「ただの市立図書館で、私らは別段観光スポットとは思っていない場所ですよ」
まあ、確かめてみましょうと、建物の外観、玄関と眺めます。遠目にはたしかに擬洋風ではある。松本まで見に行った旧開智学校の建物に似ています。
擬洋風とは、明治のはじめ、西洋建築など知らなかった大工棟梁たちが、横浜などに建つ洋館を見学し、培った寺社建築の腕にかけて、見事な洋風の学校や役所を建てたものを言います。
図書館に「煥章館」と名付けていることからして、由緒ありそうなんだけれど。
図書館なんだから、建物の記録があるだろうと中へ。
煥章館の「煥」の字は、私が好きだった書店、前橋煥乎堂の「煥」の字と同じ。たぶん煥という漢字に由緒正しき意味があるのだろう。と、調べてみれば。火偏ですから、「燃え盛る火の輝くさま」「煥章」とは、光り輝く文明の文章。明治の文明開化に応じたことばでした。ちなみに、前橋煥乎堂は、孔子が神話上の君主である堯を称えた論語の一節「煥乎として其れ文章あり」(光明なる文化がある)から採用されているので、煥章館もこの孔子の一節からと知れる。
遠目には擬洋風と見えましたが、近くでみればコンクリート製。「擬洋風」風でした。
「この図書館の建物について調べたいのですが」と、カンファレンスを申し込んだのですが、このとき図書館にいた館員さんたちが入れ替わりで調べてくださったのに、建物に関する記録は「図書館にはありません」で終わりでした。わずかに、元の建物は、明治のはじめの「煥章学校」であっただろう、ということがわかりました。古い教育史の中に「煥章学校」の写真がある、ということがわかったのです。
「高山教育史」の年表によると、煥章学校は「高山尋常小学校」に名前がかわったまではわかりました。
煥章学校を擬洋風に建てた大工さんとかを知りたかったのですが、建築についての記録は教育史には書かれていません。
飛騨の匠は、きっと擬洋風の建物も上手にこなしたと思うのです。図書館ではこれ以上の調べはできませんでした。市役所のほうになんらかの記録があるのかもしれませんが、今回はそこまでは追及できず。
図書館員さんが閉架書庫からもってきてくれた「高山教育史」
しかし、帰宅してからネットで調べてみると、いろいろわかりました。
いきなり飛び込みで図書館に入り、専門ではないであろう館員にたずねた私の「好奇心のわくまま、行き当たりばったり」の調べ方が悪かったのです。
「信州松本深志神社舞台保存会」で調査をなさっている方が、高山図書館にあらかじめメールを出し、調査を依頼したうえで図書館を訪問された記録が「深志神社舞台保存会だより2013.12.22 」として残されていました。
ちゃんと調査されている方には、司書さんもさまざまに資料を探してくれた、とのことで、館内撮影も許可された、ということでした。
しかし、それでも建物については、松本の旧開智学校と関わりがあるらしいこと以上にはわからなかったそうです。(開智学校と煥章学校ができた明治の初期、長野松本と岐阜県飛騨は、両方とも「筑摩県」に属していた同県内。県の東と西に最初に建てられた学校でした。
私は飛び込みの通りすがりのものにすぎませんでしたが、「現在の図書館は、いつ建てられた建物ですか」という質問にも、「えっと、私が勤め始めたのが平成20年からで。そのときはもうこの建物で勤務しました」という「個人史」を聞かされただけ。
新しい高山市立図書館は2004(平成16)年に建造された、くらいは教えて欲しかった。コンクリート製ですが、煥章学校の写真などをもとに、色彩などを調査したうえで「擬洋風」風に、建てられました。
帰宅後ネット調査でわかったこと、感じたこと。
1 明治元年11月に「江戸幕府直轄地高山から明治政府の筑摩県にかわったことなどを地元民に知らしめるための教育の場」がお寺などに設けられた。役人のことばを聞く人々は、何を知らされたのかさっぱりわからず、ただ、お坊さんの説教を聞くときのように、なんまんだぶなんまんだぶ、と唱えながら聞いていたそう。おもしろ!
この政府命令による「教育の場」設立が、地域の学校設立契機になったので、「なんまんだぶ」にも後世に続く効果があった。
2 1873年、筑摩県(長野県一部と岐阜県一部)に、煥章学校と開智学校が設立され、1876(明治9)年に、1年の工期で木造校舎完成。同じ筑摩県松本の開智学校とほぼ同時期。
通常なら大工が屋根裏などに掲げておく棟札。明治19年に「高山尋常小学校」と改称されたのち、1970(昭和45)年まで煥章学校校舎が小学校として使用されましたが、新校舎への移転後1996(平成8)年までは市役所として使用されました。老朽化を理由に解体取り壊し。このおり、棟札を保存しなかったのは、高山市のミスと思います。最初からなかったとは考えにくい。
その後「古い町並みは観光資源になる」ということが観光地として生き残るために必要なことがわかり、高山市内の各地の建物が「文化財」として保存されるようになっています。旧煥章学校も、新しい技術で耐震工事などをほどこして改修すればよい観光資源になったことでしょう。
「近代建築」愛好家の「近代建築学校巡り」の場所のひとつになったでしょうに。壊してしまったら後の祭り。
1920年頃と推測される旧煥章学校の写真(借り物)。市内の医師が撮影した「校庭での相撲大会」
。
3 棟札は保存されていませんが、言い伝えにより、宮大工の滝井与六が棟梁として携わったとみられます。しかし、与六がどのように建てたのかは記録に残されていない。図面などもなし。
わかっているのは、高山の生んだ作家、瀧井孝作(1894 - 1984)が、与六の孫だということ。孝作の父親も腕のいい指物師(家具職人)だった、ということなので、飛騨の匠の技術を受け継いでいる家系と思われます。
図書館内に設置されている「瀧井孝作書斎再現コーナー」
(無許可撮影。館内の撮影はすべて不可。
図書館に来た人などが写り込んだ写真をそのまま公開する人などもあったかと思います。トラブルになることを市側が事前回避しているのでしょう。しかし、撮影希望者が受け付けに名前住所などの証明を提示することを条件にして、撮影許可を出すべき。公共の施設が、トラブルをめんどうがって、なんでもかんでも「撮影不可」にすることに、春庭は反対しています。フラッシュを切った撮影により、展示物が痛むこともないですし。春庭がここに「滝井孝作書斎再現」を無許可で撮影し、ブログUPすることで、誰かに迷惑をかけることになるのなら、削除します)。
瀧井孝作による「小学校の思い出」
『今思い描けば、母校は華麗に看えた。明治初年の仏蘭西風に倣った白亜の西洋館で… …正面玄関の廂の軒の、大鷹の羽ひろげた大塑像も明治開花の象徴らしかった。』(瀧井孝作)
4 瀧井孝作の思い出の記にもある「鷹」について。
高山市図書館入口に今も残されている彫刻「鷹」の作者はわかっています。山口権蔵(山口権之守 )と、図書館のガラスケースの鷹の足元に作者の名前が入っていました。(権之守は、権之正とも)
鷹は、煥章学校の玄関に掲げられ、登校する生徒を見守っていたそうです。
中央で官の側に立って仕事をした高村光雲の名は残り、東京国立博物館で、その作品を見ることもできますが、山口権蔵は「飛騨の匠のひとり」として伝わるのみで、生没年不詳。全国的には無名の職人です。しかし、「鷹」を眺めると、高村高雲の「老猿」に匹敵する優れた作品と思いました。
飛騨には一刀彫の伝統があります。「飛騨の匠」は、職人技として、寺や神社などの建物、指物(家具)、祭り屋台など木を使うことは全般手掛けたようです。
(画像借りもの)
5 煥章学校、滝井与六、山口権蔵について研究している方の論文があったら、ぜひネットなどでもいいから発表してほしいです。
地方に埋もれている「郷土の偉人」発掘を地方自治体がやって、「まちおこしのネタ」でもいいから進めてほしい。
以上、高山市でたまたま見かけた疑似「擬洋風」の建物についての春庭好奇心のレポートでした。
<おわり>