2014/02/06
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(13)ワイン王・神谷傳兵衛稲毛別荘
千葉市稲毛にある旧神谷伝兵衛別荘は、近代和風建築の紹介としてとりあげた「ゆかりの家(愛親覚羅溥傑と浩の新婚の家)」の近くにあります。
神谷伝兵衛(旧字は傳兵衛1856(安政3)~1922(大正11))は、明治の実業家。家が没落したために幼い頃から丁稚奉公をし、酒樽造りの弟子、横浜にあったフランス人経営フレッレ商会酒類醸造場の従業員などを経て、東京麻布にあった天野酒店で働いて酒取引の実務を学び独立。浅草に一杯銘酒売り「みかはや」を立ち上げます。この店が、現在の浅草「電気ブランの神谷バー」です。
神谷伝兵衛は、輸入ワインを日本人の口に合う甘口に仕上げ、1885(明治18)年に「蜂印葡萄酒」、翌年1886年に「蜂印香竄葡萄酒」 (はちじるしこうざんぶどうしゅ)の名で売り出し大成功を収めました。
一般の日本人が口にしようとしなかった「血の色の酒」を、家庭内でも飲める飲み物にして普及させ、ワインを日本に定着させる第一歩となりました。第二歩目は、壽屋(現在のサントリー)が1907(明治40)年に売り出した甘味果実酒、赤玉ポートワイン(スイートワイン)になりましょう。
伝兵衛は輸入ワインでの成功に満足せず、さらにワイン醸造へと向かいます。1898(明治31)年に、茨城県牛久にぶどう畑を開き、1903(明治36)年には醸造場を設立。ぶどう畑から一貫して醸造するワイン酒造家として「シャトーカミヤ」を建てました。シャトーという名が与えられるのは、ぶどう畑を持つ醸造所のみなのだそうです。
稲毛の別荘は、伝兵衛が「迎賓館」として使用しました。邸内の意匠には葡萄模様があしらわれており、館内で「ここにも葡萄発見!」ゲームをするのも楽しいです。
ぶどうの古木を使ったという床柱
欄間もぶどう模様
外から見える円形の壁。内部は廊下の突き当たりでした。
ベランダは、カフェになっていましたが、私が訪れた時は休業時でした。
<つづく>