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ぽかぽか春庭「長谷川町子美術館」

2014-05-10 00:00:01 | エッセイ、コラム
2014/05/10
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記5月(5)長谷川町子美術館

 1949年に新聞連載開始したサザエさん。アニメ化作品も、1969年の放送開始以来、常にテレビ視聴率の上位に位置していて人気が衰えない「国民的アニメ番組」です。
 カツオや波平の声優が亡くなって2代目になったり変化はありますが、サザエさんを知らない日本在住者はいないだろうと思うくらい知られています。ただし、ドラエモンがアジアにひろく知られ、ワンピースがヨーロッパでも人気、というのと比べると、長谷川町子の意向で国外に作品が出されることはなく、ドメスティックアニメだなあと感じます。

 私は、漫画単行本や新聞掲載作品は見ていますが、日曜日の週間としてアニメを見るということはなかったのですが、むろん、サザエ一家のことは実際のとなりの一家のことよりよく知っています。おそらくサザエ一家は、日本中の「うちの親戚の一家」なのだろうと思います。



 長谷川町子とマネジャーであった姉毬子が収集した絵画を展示している美術館。また、長谷川町子作品の著作権管理を行っている財団法人がこの美術館です。桜新町が町おこしのとして美術館と協力し、サザエ通りを作ったり、サザエカフェをオープンしたり。カフェの正式店名は「Lien de SAZAESAN(リアン・ドゥ・サザエサン=サザエさんの絆)」だって。
 カフェにはよらず、美術館で展示の絵や長谷川町子漫画の部屋を観覧。

 中学校の国語科教師として赴任したとき、生意気盛りの中学生達に最初につけられたあだ名が「サザエさん」でした。教室に入るなり「あ、返却しなきゃいけない漢字小テスト忘れた」などと言って職員室へ駆け戻るようなおっちょこちょいのところと、当時の私のヘアスタイルがサザエさんのような髪型に見えた、という理由だったみたいです。私としてはもうひとつつけられた、テレサ・ナインのほうが気に入っていましたけれど。テレサ・テンより一格落ちるという意味だったとか、胸の大きさをボインコインナインの3段階で表現するのが流行した当時で、ペチャパイのナインだったからという理由だったらしいから、いずれにせよ、中学生としては精一杯教師を馬鹿にしたつもりだったのでしょう。

 そんなことを思い出しながら、美術館のソファで、女子高クラスメートのやっちゃんえっちゃんとおしゃべりしてすごしました。
 えっちゃんが言うには、「女子高のころのハルちゃんは、とにかくこわい存在で、こちらがひとこと言うと、ばばばばって機関銃のようにことばを繰り出して反論されるので、こわくて話しかけられなかった」。

 すみませんねぇ。ことばの鎧を着込んで、ことばの高射砲をぶちかますほかに我が身を守る方法がわからなかったんです。私には唯一の防御と思えたのですが、他のクラスメートからすれば攻撃的アグレッシブの一言でしたね。だから、私と話すのはクラスの中でもごく狭い何人かだったと思います。そんな中、やっちゃんは誰にでもきさくに声をかけてくれる人で、自分からは人に話しかけられない私も友達になれたのです。やっちゃんのおかげで女子高時代を無事に通過できました。

 えっちゃんは「ハルちゃんがこんな話しやすい人だとは思っていなかった。高校時代にもっと話せばよかったね」という感想。


 バスで渋谷に戻る途中、駒沢公園近くに家があるえっちゃんは下車。やっちゃんが湘南新宿ラインで電車に乗るのに付き合いました。やっちゃんといっしょにすごせて、うれしかった。やっちゃんは、今も私のヒーローです。
 あはっ、もうひとりのクラスメートえっちゃんの旧姓も、女子校時代どんな子だったのかも、最後まで思い出せませんでした。申し訳ない。
 
<つづく>
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ぽかぽか春庭「馬と信仰 in 食と農の博物館」

2014-05-08 00:00:01 | エッセイ、コラム
2014/05/08
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記5月(4)馬と信仰 in 食と農の博物館

 午前中の障害飛越競技を終えると、やっちゃんは「もう知り合いが出ている競技はないから、ほかのところに行こう」と言います。まずはお昼ご飯。
 
 JRA馬事公苑は、東京農業大学のそばにあり、公苑のわきに「東京農大・食と農の博物館」がありました。そのなかに農大生協食堂経営のレストランがあったので、私とやっちゃんはカツカレー、えっちゃんはオムライスを注文。味はまあ、フツー。

 ランチのあと、食と農の博物館を見学しました。ちょうど「日本の馬と信仰」というテーマの展示を行っているところで、馬のことはなんでも興味があるやっちゃんが「見ていこう」と言うので。
 えっちゃんはあまり興味がなさそうで、ささっと一巡して外で待っていました。やっちゃんは、ひとつひとつの展示物にカメラを向け、解説を読んでいました。酪農を専攻したやっちゃん、農業や酪農に関すること、馬に関することには興味津々です。

藁で作った神事の馬


 私も、「遠野物語」を読んで以来、馬と養蚕と人の関わりに興味をひかれるので、じっくり見て回りました。芸能人類学というのをやりたかった私は、を民間芸能を学んだときに、遠野の早池峰神楽などを見学に行ったことがありました。農耕神と農耕神事、農耕芸能に興味をもってきたので、馬への興味から展示を見ているやっちゃんとは興味の方向が違いますが、藁で作られた馬形、オシラサマなどの展示物、興味深かったです。

 「馬と信仰」の展示のパンフレットをもらってきました。とても充実した内容で、馬と神事、馬と芸能などについて、思いめぐらすことができ、楽しかったです。



 やっちゃんは、春から夏にかけては馬術競技会の審判として試合に臨むことになり、なかなかひまな時間もとれないということですが、時間を見つけて東京に出てきたいというので、これからもいろいろなところにいっしょにいきたいです。
 「食と農の博物館」の次に、歩いて行ける長谷川町子美術館に行くことにしました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「馬事公苑でやっちゃんと」

2014-05-07 00:00:01 | エッセイ、コラム
2014/05/07
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記5月(3)馬事公苑でやっちゃんと

 長らく交流が途絶えていた女子校クラスメート、やっちゃんと4月に2度会えました。やっちゃんは、誰とでも仲良くできる女子高ソフトボール部のキャプテン、私にとってもあこがれの「宝塚トップ」のような存在だったのです。
 やっちゃんは、北海道の大学で酪農を専攻し、馬術部に入りました。高校理科教師をしながらご主人亡き後一人息子さんを育て上げ、定年退職後は地元大学の馬術部コーチ、そして県の馬術連盟審判部長という「馬三昧」の生活です。馬のほかは、「山菜採りハイキング」で、近隣の野山を歩き回り、春から初夏は山菜の豊作時期。今回もわらびとフキノトウをお土産にもらいました。

 馬事公苑正門前で9時という約束だったのに、いつものごとく遅刻してしまいました。十分に余裕をもって家を出たのに、本を読んでいて渋谷で降りるべきところ、三軒茶屋まで乗り越してしまったのです。渋谷まで戻り、東京農大前までいくバスを探してうろうろ。しかも、バスは三軒茶屋前を通ったのです。なんだ、乗り越したと思って戻ったのは、まったく無駄でした。まあ、こういうぬけさくがいつもの私。これで30分の遅刻。

 馬事公苑の障害馬術大会のスタンドには、やっちゃんの隣に年配のおばさんが座っていました。だれ?やっちゃんと二人のデートだと思ってうきうき出かけてきたのに。
 「おはようございます。遅れてすみません。あのう、私のこと、HALと呼んでください」と、ごあいさつ。

 やっちゃんはその年配の女性を「えっちゃん」と呼び、えっちゃんは「この間、おみやげもらっちゃってありがとうね。ひさちゃんから、HALちゃんが中国から持ってきたおみやげだって、いただいた」と、言います。4月に上野動物園でプチクラス会に出たとき、何人のクラスメートに会えるのかわからなかったので、雲南省少数民族の手織りスカーフを余分に持っていき、ひさちゃんが「来週、絵の会で別のクラスメートに会う」と話していたので、「じゃ、これ、その人たちに渡して」と、頼んだのです。

 わお、この人、女子高のクラスメートなんだわ。えっちゃん、えっちゃん、う~ん。女子校時代の名前も顔も思い出せないのです。団塊世代の女子校、通常定員50人のクラスに特別年度として55人も在籍していて、2年間同じ教室ですごしても、1度もまともに話をかわさない人もいたのです。

 私は女子校時代、自分のまわりに壁を築き鎧を着て、我が心の防御につとめるかたくなな少女でした。だから、相手から話しかけてこない限り、自分からクラスメートに話しかけることはありませんでした。誰とでも親しくなれる人気者のやっちゃんは、そんな私にも声をかけてくれた希少な友人なのです。

 えっちゃんは、馬事公苑のすぐ近くに住んでいて、馬の関係でよく馬事公苑に来るやっちゃんは、そのたびにえっちゃんの家に寄っていて、ずっと親しく付き合ってきたのだそうです。私は、クラス会に出たのも一度きり。
 クラスメートのなかで、教師になった人たちは皆校長とか教頭になっているし、医者になった人は病院経営が順調だというし、専業主婦になった人はバリバリ稼いでいるらしいご主人と裕福な生活を楽しんでいるようすだし、超貧乏で食うや食わずの生活をしている私には、場違いなクラス会に思えて、一度出席しただけでその後は顔を出していませんでした。

 駒沢公園近くというえっちゃんの家も、よく家に寄るというやっちゃんが「大きい立派な家だよ」と報告したし、毎年ご主人と海外旅行を楽しんでいて、6月にはスペイン旅行なのだそうです。ふう、私には無縁の生活スタイルだわ。

 えっちゃんは、私のことをちゃんと覚えていました。私は、自分では壁を作り鎧を着てカラにこもっていたつもりでした。しかし、えっちゃんによると、何かのおりにその鎧を突っつかれると突如攻撃的になり、ものすごい早口で弁舌まくし立てる子で、目立っていた、というのです。主義主張が激しくて、近寄りがたく、こわい存在だったと。

 たしかに、つんけんと角を振り立てて我が身我が心の防御につとめていた私は、周囲から見れば、闘牛場の手負いの牛のごとく、暴れまわっていると見えたのだと思います。 
 女子校時代、私はへんな子だったのだなあと、あらためて思い出しながら、芝スタジアムで行われる障害馬術競技を見ていました。

 やっちゃんにルールをいろいろ聞きながら見たので、とてもおもしろく観戦できました。オリンピック中継などで馬術競技を見たことがあるだけで、試合を目の前で見るのは初めてのことです。障害物の柵が落下するとペナルティがつきます。次の柵へ行くのに、大回りしてしまうと、時間が余分にかかるし、障害の柵を落とさないように高く飛ぶとそれだけ時間がかかります。時間を節約する走法で馬を操り、的確に柵を超えていく、障害競技の見所を教わりました。



 レディ&ジュニアの試合「ホテル日航東京杯」では、やっちゃんの知り合いの女性選手が何人か出場しました。今年10月に長崎で開催される「がんばらんば国体」馬術競技会に出場するであろう選手と馬にとって、このJRA馬事公苑で行われる競技会もひとつのステップなのだそうです。
 最年少出場選手は13才というアナウンスに期待して見ていましたが、残念ながら障害の柵を2本の落としてしまい、予選敗退。

 県の馬術連盟審判部長であるやっちゃんに、審判の苦労のしどころを聞きました。
 今回の大会ではありませんでしたが、障害が横並びに続けて設置されることがあります。あるとき、第1障害と第6障害の柵が一直線に並んでいたことがありました。第6障害を飛ぶべき選手が第一障害を飛んでしまったことを、3人の審判が3人とも「第6を飛んだ」と、見逃してしまったことがあったのだそうです。横からみると、どちらも同じ柵に見えるからです。馬術は「紳士のスポーツ」と言われます。選手は自ら「障害を間違えました」と申告して失権となり、事なきを得たのだそうです。

 どんなに目をこらしていても、審判といえども完璧ではありません。しかし、庶民発祥のスポーツであるサッカーなどが「違反、ファウルは審判の目の届かないところでやれ」というスポーツで、審判に見えなければ、相手チーム選手の足を蹴飛ばすくらいはやってのけるのと異なり、馬術は「違反はみずからの恥」と考えるので、選手も紳士淑女のマナーでやるのですって。あらあ、「赤信号、車いなけりゃ渡ります」という交通違反常習非淑女の私には不向きね。

 今回、選手たちが乗っている馬は、ほとんどが外国生まれでした。やっちゃんは「必勝条件は、いい馬を手に入れること。しかしいい馬は何千万円も億もする。コーチしているうちの大学では、何千万もする馬はとても無理」と語っていました。



 73歳の現役オリンピック選手法華津寛さんは、ご自身も父君も大会社の社長。以前は障害競技、現在は馬術競技の選手として、よい馬の購入、馬術の本場ドイツに滞在しての練習、と、お金に糸目はつけない競技生活。雲の上の存在だそうです。馬術競技は、馬がさまざまな走行をみせるのを、採点する競技で、障害飛越に欠かせない「目」の衰えから、法華津さんは、技をみせる馬術競技に転向しました。

 試合中、落下した柵を振り返って確認してしまった選手がいました。やっちゃんは、「あ~あ、あれで1秒遅くなった。振り返ったりしたら、馬は進めなくなるから」と解説してくれました。騎手はまっすぐ前を向くのが基本。首をわずかに右に向けても左に向けても、自分では感じられなくても、尻の筋肉が動くので、馬は敏感にそれを感じ取る。騎手が横向いたりしたら、馬にとっては「前へ進むな」の合図になってしまうので、落とした柵を振り返って見るなどは、大失敗のうちなのだそうです。
 やっちゃんに「首を左とか右に向けると尻の穴が変わるから、やってみな」と言われて左右向いてみたのですが、鈍感な私の尻の穴は、首の動きを察知しませんでした。馬はエライ!

 障害飛越競技のあと、馬がダンスを踊るようにいろいろな姿をみせるホースショウを見物しました。おすわりをしたり、寝転んだり、本来臆病な動物である馬が決して人前ではしない姿を、手練の調教師のもとでやってみせました。前足を片方伸ばしてご挨拶したり、くるくる回ったり、さまざまなしぐさ、可愛らしかったです。

ロングレーンホースダンス


 生まれて初めての、生馬術競技大会。解説者のよろしきを得て、楽しく見学できました。東京オリンピックではいっしょに馬術競技を見よう、とやっちゃんに約束しました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「素足でダンス」

2014-05-06 00:00:01 | エッセイ、コラム
2014/05/06
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記5月(2)素足でダンス

 ゴールデンウィーク、カレンダーの並び方によって「今年は大型連休」だの小型だのと言われますが、どうやら2014年は超小型、シルバーウィークくらいのものです。
 私も、完全に連続したのは、3、4、5、6の4日間のみ。4月29日は、火曜日出講の大学暦が、昭和の日は、通常授業を行う」ということで、仕事。4月の最後の3日間と、5月1日、5月2日も、カレンダー通りの通常授業。ただし、学生のほうは「自主的ゴールデンウィーク」を作り、欠席学生も多かったです。みな、日本の休日を満喫したことでしょう。

 5月1日は、授業が終わったあと、夜は知人」が出演するダンス公演を見にいきました。ブラームスの小品、ショパンのピアノ曲で踊るモダンダンスの公演でした。(ティアラ江東)
 知人は「イサドラダンカメソッドのダンスレッスンを受けてています。

 イサドラ・ダンカンは『裸足のイサドラ』という伝記映画がヒットしたことで知られるモダンダンスの祖ともいわれるダンサーです。
 かってヨーロッパでは舞台芸術のうちでもバレエダンサーは評価が低く、上流階級の人々は踊り子といえば、「娼婦よりはましな愛人」として相手にする程度の女性としてみなしていました。

 しかし、イサドラは毅然とした意識をかかげてアメリカからヨーロッパに渡りました。ダンサーが「娼婦もどき」なのではなく、芸術家であるとして社会的認知を得た最初の女性といえます。アメリカからヨーロッパ社会にのりこんだイサドラは、ギリシャ風の衣装を身にまとい、素足で踊ってセンセーションを巻き起こしました。
 映画のタイトルにもなっているように、「裸足」はイサドラダンスのセールスポイントでした。しかし、20世紀初頭のヨーロッパで、素足で踊ることがセンセーションを巻き起こした、ということの意味が、完全にはわかっていなかったのだと、今頃気づきました。

 日本では、裸足は「靴を買えない貧困」という意味を持ったり、近年の「自然に親しむ教育」では、裸足は自然のなかで素のままで過ごすことの象徴になっています。しかし、とくにビクトリア朝時代のイギリス貴族社会では、女性がふくらはぎや足首が見えるようなスカートを履くこと、素足を見せることは、現代において、女性が胸をはだけ、乳首を見せて大通りを歩くのと同じくらいはしたないことでした。

 女性が靴を脱いで素足になるのは、ベッドのなかだけ。性的関係を持つ相手以外に、素足を見せることはありませんでした。それは、現代の女性が、成人男性に乳首を見せるのは性的関係を持つ相手以外には考えられない、というのと同じことです。

 「セクシャル」「性的な魅力」というのは、時代によって変わります。江戸時代には乳房が大きいことは少しも女性の魅力とは考えっれていませんでしたし、現代のおおかたの社会において「首が30センチ以上も長いことが女性美」とは考えられていません。
 イサドラが裸足で踊ったとき、イサドラはそれを「ギリシャ由来の自然な人間の美」と主張し、「舞踊は芸術である」と主張して踊ったのですが、見る側ことに男性は、裸足の女性を見て、即ベッドの上の女性を想像し、性的な妄想をたくましくしながらギリシャ風衣装の乙女達が踊るのを見ていたのかもしれません。

 当時の新聞のダンス評論などに決して露骨な「セクシャル」な表現はなされていませんから、イサドラの踊りが「セクシーな咸興のために見られているという批評はおおっぴらに出されることはなかっただろうと思います。
 しかし、裸足の意味の文化差を考えたとき、夕涼みには浴衣に素足が当然だった日本女性と、ベッドの中以外で素足を見せることが戒められていた社会での素足のダンスとでは、受け取り方が異なるのだ、ということに、わたしはようやく気づいたのです。

 イサドラの振り付けを受け継いだイサドラの養女たち、そのまた弟子たちは、良家の子女の嗜みとしてみな躾よくダンスを習っており、イサドラの奔放な生き方感じ方を受け継いだわけではありませんでした。

 日本で「イサドラダンカンヘリテージ」としてイサドラの振り付けを受け継いでいるメアリー佐野の教え方も、実に清潔でさわやかな「美しいダンス」でした。私は数度のダンスレッスンを受けたのみですが、メアリー佐野のダンス公演をみたり、今回のイサドラダンカンヘリテージダンサーズのダンスを見ても、セクシーとは無縁の、むしろ乙女の未熟な美しさを強調するダンスに仕上がっていたように感じました。

 「乙女の魅力」は、少女論のなかで記号的に扱われてきましたが、「神のみこ」として未通未産の輝きを持つことが最大の魅力であると思います。今回みた公演、5月1日のイサドラの振り付けによるダンスも、ふんわりとやさしく上品な仕上がりでした。ブラームスのジプシーという曲に振りつけたものが、一番ジプシーの持つ情熱や激しさを表現していましたが、ヨーロッパで「ジプシー=ロマ」の人々に付与されている性的な奔放さ、猥雑な情熱、放浪と自由というイメージとは異なる印象を受けました。
 「激しく外へ希求の思いをぶつけているけれど、決して既存の殻を破ることはない」。「思春期に反抗はしても、結局は親の言いつけ通りに嫁に出て、良家の夫人となる前段階の乙女達」

 裸足の意味を考えると、私はイサドラの振り付けが、現在のような「養女たちが伝承した正統な踊り」とは異なっていたのではないかと感じました。
 イサドラの振り付けは、かなり正確に舞踊譜に残されており、イサドラの養女たちがその再現と伝承を行ってきたことは理解できるのですが、イサドラのエネルギーを受け継ぐダンスを見てみたい、と思います。

 イサドラダンサーズの踊りのほか、ショパンやブラームスの曲にのせて、90分のダンス公演、う~ん、今回は踊りを見ながら、ひたすら裸足のことを考えていました。
 同僚もむろん裸足でイサドラの振り付けを踊りましたが、とても清潔な乙女の踊りでした。イサドラの振り付けをそのように乙女の美しさで踊るのもひとつの伝承であることはわかっていますが、セクシーな魅力に満ちたイサドラダンスも残されているなら、見てみたいです。

 ダンスは、見るのも自分で踊るのも楽しい。
 私の踊るダンス?今、レディガガの曲で練習しています。セクシーかって?そりゃもう、ひと目みた方は悶絶のあげく憤死です。ダンスシューズを履いていて裸足じゃありませんが、なにしろ、腹のまわりの豊満な脂肪がゆさゆさとゆれるダンス、こわいもの見たさの方、9月の発表会、乞うご期待。無料ですが、いきどおりのあまりの憤死にご注意ください。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「キトラ古墳壁画を見る」

2014-05-04 00:00:01 | エッセイ、コラム
2014/05/03
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記5月(1)キトラ古墳壁画を見る

 5月2日。授業の連絡ノートを記録する仕事が残っていたのですが、どうせ、次回に授業する先生は、連休後の5月7日になるのですから、そう急がなくてもいいと判断して、日本語単語テストの採点と、宿題チェックだけ済ませて大急ぎで駅へ。
 娘と上野駅で待ち合わせ。西洋美術館の庭を通り抜けて、科博の前をすぎて、東京国立博物館へ。西洋美術館を通り抜けるのは、庭に展示してある地獄門、カレーの市民、考える人、ブールデルの弓を引くヘラクレスなどの彫刻を見るためです。無料の彫刻見物。

 東博の本館前には、長蛇の列。係員がプラカードを掲げて、「館外で40分待ち、本館内で30分待ち、最後尾はこちらです」と叫んでいます。キトラ古墳壁画を見るためにものすごい列を作っている、という話は、4月下旬に東博に行ってきた息子からの報告を聞いていたので、覚悟はしていました。息子は、学部の「博物館実習」という授業の助手(テイーチングアシスタントTA)をしていて、博物館学芸員の資格をとる学生たちを引率して、東博本館の見学をしたのです。息子たちは、キトラ古墳壁画は見なかったのですが、入場待ちの人の列が本館前から平成館前まで伸びていて、60分待ちという、ディズニーランドアトラクション並みの列だったと報告していました。

 夏日、25度になったという初夏にしては暑い日差し。「この中での40分待ちはきついよ」という娘の意見で、先に本館の通常展示を見ることにしました。通常展示の目玉は、「新規に国宝指定、重要文化財指定を受けた美術品の展示」です。

 1階と2階の通常展示をめぐり、国宝展示室と新国宝指定展示品をじっくり見ました。
 国宝「延喜式」は、平安時代、嵯峨天皇の命で編纂された「律令の施行細則です。最古の写本は、九条家伝来品の平安時代10・11世紀のもので、国宝として東博の所蔵品になっています。国政の大もととなる定めが、こうして目の前に一千年の時空を超えて残されており、法治国家として国の基盤が整えられてきたことに感銘をうけました。ぜんぜん読めませんでしたけれど。

延喜式

 ひるがえって現代においては、国の大もとになる法を、時の為政者が捻じ曲げて解釈して、自分の思いのままにしようとしている、それに反対する声は小さいということ、たいへん危うい時代なのだとあらためて感じました。我が国は、権力者が自分の思いのまま法を解釈してしまってよい国ではなかったはずです。

 娘は尾形光琳の「風神雷神図」を初めて見た、と大喜びでした。平成館では「栄西と建仁寺」展に、俵屋宗達の「風神雷神図」が展示されているのですが、私たちの入場券は「キトラ古墳壁画」と、常設展示のみ見ることができ、宗達の風神雷神は見ることができません。でも、本館に光琳の風神雷神が展示されていたのを見ることができ、よかったです。宗達の風神雷神は、光琳のほか、酒井抱一、鈴木其一らが模写を描いていますが、光琳の模写が一番正確なものとされています。

 そのほかの新国宝指定美術品のうち、長野県中ツ原遺跡出土の土偶がとても印象深かったです。


 本館の常設展示を一回り見たあと、表慶館へ。キトラ古墳関連の展示をなにやらやっていたのですが、展示ではなく美しいドームを持つ表慶館、片山東熊の設計した建物の内部を見たかったのです。表慶館が開館しているときにちょうどよく東博を訪れることがないので、ひさしぶりに中を見られてよかったです。

 さて、あんなこんなとしているうちに5時。平日は5時閉館の東博ですが、金曜日夜は8時まで開館しています。東博についたとき、40分待ちだった本館の玄関から伸びていた列が、30分待ちになっていたので並ぶことにしました。娘が言うには、5時で仕事が終わった人たちは、これから並び始めるだろうから、この先列は長くなる一方だと。30分間、本を読んで待っていました。

 本館1階の特別展示室。なかに入るとまずは陶板レプリカによる古墳壁画の複製見物。複製でもとてもよくできています。特に、キトラ古墳壁画の青龍の壁はカビによる劣化が著しく、展示のための移動に耐えられないほどなのだそうで、今回の展覧会でも青龍は本物の壁画は見ることができません。

 レプリカの陶板を見ても、青龍の姿はまったく確認できず、顔の口から外に出ている舌の赤みが残されているだけでした。せっかく1300年の眠りから目覚めて日の目をみた壁画なのに、保存方法が適切ではなく、カビ被害を生じてしまいました。消えてしまった青龍の姿。記録から復元も可能かもしれませんが、残念なことでした。

 キトラ古墳の立体模型なども展示してありました。
 古墳内部の青龍。白虎、朱雀。玄武。四神の下に、それぞれ3体ずつ十二支の獣面(獣頭)人身像が描かれています。ただし、北壁の玄武(亀と蛇)のもとに「子(ね)」、東壁の青龍のもとに「寅(とら)」、西壁の白虎のもとに「戌(いぬ)」、南壁の・朱雀の「午(うま)」が見つかったのですが、他の十二支の姿は発見時にすでに見ることのできない状態でした。

 レプリカ陶板の青龍図の左下に、唐風の衣服を着た獣面の男子が描かれていて、これが 十二支の寅の姿なのだと、陶板の脇の解説を読まなければ見落としてしまったことでしょう。

 本物の壁画は、壁から切り離された絵の部分なので、思ったよりずっと小さい壁です。係員が「立ち止まらずに進みながらごらんください」と大声で注意しており、じっくり見ることはできません。60分待って対面。見ていられたのは、朱雀30秒、白虎30秒、玄武30秒といったところでしょう。一番姿かたちがはっきり残っているのは玄武でした。

キトラ古墳壁画・玄武


 出口付近には高松塚の飛鳥美人の写真も展示されていましたけれど、キトラ古墳壁画、もうちょっとゆっくりみたかったです。

 出口のグッズ売り場で、私は絵葉書を、娘は朱雀の絵柄の携帯の画面クリーナーを買いました。平成館で話題の8Kハイビジョンで宗達の「風神雷神」の映画を見て、今回来られなかった弟クンへのおみやげとして、娘は風神雷神の絵柄のクリアファイルを買いました。

 7時すぎの本館の前は、5時のときよりもさらに列が長く伸びていて、60分待ち。娘も「5時から並んで正解だったね」と、すごい人数にキトラ古墳人気をもういちど確認しました。
 5月2日のキトラ古墳観覧者は、4月22日にオープンして11日目で5万人に達し、5万人目の入場者にプレゼント贈呈があったそうです。プレゼントは逃したけれど、休憩コーナーで娘とおしゃべりしながらやすみ、また、次の部屋へいく、という博物館見学もいいもので、楽しかったです。

 上野駅構内の「三代目たいめいけん」で、私はハンバーグシャリアピンソース、娘はオムライスを食べ、息子の夕食用と明日の朝ごはん用ににメルヘンのサンドイッチを買って帰宅。
 娘とすごしたゴールデンウイークの博物館。よい一日になりました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「日本国憲法前文」

2014-05-03 00:00:01 | エッセイ、コラム
2014/05/03
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>憲法記念日(2)日本国憲法前文

 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。


 昨年2013年10月の皇后誕生日にあたり、美智子さまは憲法について、以下のようなコメントを宮内庁を通じて発表なさいました。
 国民にとって理想となる憲法の制定をめざして、先人たちが苦闘してきたことに言及なさり、たいへん感銘を受けました。

 皇后様コメント
 5月の憲法記念日をはさみ,今年は憲法をめぐり,例年に増して盛んな論議が取り交わされていたように感じます。主に新聞紙上でこうした論議に触れながら,かつて,あきる野市の五日市を訪れた時,郷土館で見せて頂いた「五日市憲法草案」のことをしきりに思い出しておりました。明治憲法の公布(明治22年)に先立ち,地域の小学校の教員,地主や農民が,寄り合い,討議を重ねて書き上げた民間の憲法草案で,基本的人権の尊重や教育の自由の保障及び教育を受ける義務,法の下の平等,更に言論の自由,信教の自由など,204条が書かれており,地方自治権等についても記されています。当時これに類する民間の憲法草案が,日本各地の少なくとも40数か所で作られていたと聞きましたが,近代日本の黎明期に生きた人々の,政治参加への強い意欲や,自国の未来にかけた熱い願いに触れ,深い感銘を覚えたことでした。長い鎖国を経た19世紀末の日本で,市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するものとして,世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います。

 
 平和維持、基本的人権の護持。
 理想と現実は違う、という人もいます。私は理想を追っていきたい。
 「現実は、みんな戦争しているから、うちらも戦争できる国にしようよ」と主張するのが現実的?
 私は「世界中から戦争をなくしたい」という理想が現実となる日を願っています。
 下記の「若者言葉訳 憲法前文」に言う、「全世界の人は、みんな、なににも怯えることなく、飢えることもなく、平和に生きる権利を持っている」ということだ。
 この理想は俺達の国だけじゃなくて他のあらゆる国にも通用するもので、このことを守ることは各国の義務だよ。」
ということを願っていくことは、私の生涯のテーマです。世界中が飢えることなく、平和に生きる権利を持っていることを、世界に向かって訴えていきたいです。 

 日本国憲法前文 若者言葉訳 by 塚田薫(1989年愛知県生まれ)『日本国憲法を口語訳してみたら』幻冬舎 (2013)
 俺らはちゃんとみんなで選んだトップを通じて、うちらのそのガキのまたガキのために、ご近所さんと仲良くして、みんなが好きなことできるようにするよ。また戦争みたいなひどいことを起こさないって決めて、国の基本は国民にあることを声を大にして言うぜ。それがこの憲法だ。
 そもそも政治っていうのは、俺ら国民が政治家を信頼して力を与えてるものであって、本質的に俺達のものであるんだ。あれだ、リンカーンの言った「民衆の民衆のための民衆による政治」ってやつ。

 この考え方は人類がみんな目標にするべき基本であって、この憲法はそれに従うよ。そんでそれに反するような法律とかは認めないぜ。
 俺らはやっぱ平和がいいと思うし、人間って本質的にはちゃんとうまくやっていけるようにできてると信じるから、同じように平和であってほしいと思う外国を信頼するぜ。その上で俺達はちゃんと生きていこうと決めたっちゃ。
 平和を守って、奴隷制度みたいな酷いこととか、偏見とか差別をなくそうとしている世界の中でちゃんと活動したいと思うのね。名誉ある地位っていうかさ、かっこいいじゃん。
その上で声を大にして言うよ。
「全世界の人は、みんな、なににも怯えることなく、飢えることもなく、平和に生きる権利を持っている」ということだ。
 この理想は俺達の国だけじゃなくて他のあらゆる国にも通用するもので、このことを守ることは各国の義務だよ。


<おわり>
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ぽかぽか春庭「ノーベル平和賞を9条に」

2014-05-01 00:00:01 | エッセイ、コラム
2014/05/01
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>憲法記念日(1)ノーベル平和賞を9条に

 ノルウェーのノーベル委員会は、2014年4月09日に、「戦争放棄を明記した憲法9条の維持によって平和を守ったきた日本国民を、ノーベル平和賞受賞候補者として登録する」と、決定しました。
 「憲法9条にノーベル平和賞を実行委員会」(事務局・神奈川県相模原市)に「推薦を受理した」との連絡があり、正式に平和賞候補になったということです。

 太田光と中沢新一による『憲法9条を世界遺産に』(集英社新書)は知っていたのですが、市井の一女性がはじめたという「憲法9条をノーベル平和賞に推薦しよう」という運動については、正式にノーベル平和賞候補になるとは思っていなかったのです。受賞対象者を「日本国民」とした推薦を、委員会が正式な候補者に登録すると考えなかったということは、私も一種の権威主義に毒されており、政府が推薦したのでなく、一市民による「日本国民を受賞対象者とする」という申し立てが受理されることがあるのだろうか、と思っていたのです。不明を恥じます。そして、この推薦受理をとてもうれしく思います。

 ひとつの政党などに偏る政治的な主張などからは、遠ざかっていたいと思っているのですが、この運動には賛同したいと思います。反対者もいることはわかっています。現実に今この国の政府は、9条の拡大解釈、さらには「戦争放棄の放棄」を目指していることが、世界に発信されているのですから。
 しかし、戦争のある世界とない世界、どちらを選ぶか、という問いに「戦争が好き」と言える人ばかりではないことも、世界に向かって発信したい。

 戦争と、戦争に用いるすべての武器が、世界中からなくなりますように。
コメント (2)
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