山入城跡は、常陸太田市役所の北西約8kmの要害山(191m)山頂部に有ります
金砂山城跡から県道29号線へ戻り常陸太田市街地方向に進みます
県道33号線の交差点手前北側に聳えるのが要害山です
県道29号線山田川の橋の所から要害山です
少し西側から住宅地の細い道を進むと、案内版が有りました
山道を登って行きます
車道がつづらおりに登って行く道路脇にも郭が有ったようです
山入城入口ですもう少し上まで車で入れます
ここまで入ることが出来ます
この道路を上がってきました、左手にも平場が有ります
想定イラストが有ります
右手の道路は日吉神社まで行きます、この先にも遺構が残っている様です
では、左を進みます
回り込んだ所に、堀跡と堀を渡る土橋が有ります
土橋と竪堀の案内版です
尾根の右側を登ります、左手薮の中には、廓が連なっています
虎口状に登城路が尾根の左へ回ります
腰廓の様です
本丸虎口です
本丸と櫓台です
本丸に説明版が有ります
この山は要害山と称し、この頂上(標高191・3m)に「山入城(国安城)」が有った
この城は、延元年間(1336~40)西野民部太夫温通がはじめて築いたといわれ
のちに山入師義(佐竹貞義の匕男)が修築して居城したと伝えられている
諸義は、山谷に住んだことから世人が山入とよんだので山入氏を名乗ったとも言われている
その後、佐竹本家の養子縁組のことから佐竹氏・山入氏の間が不和になり
両家はことごとに争うようになった
山入氏は山入城を拠点として佐竹氏に対抗した
「上杉禅秀の乱」の時も山入城によった山入与義(師義の二男)が佐竹氏の攻撃にあった
そして、七年後、佐竹氏に攻略され、ついに応永二十五年(1418)落城した
しかし、山入氏は文明十年(1478)頃、ふたたび勢力を挽回し
与義の孫の山入義真(久米城を占領した義知の弟)は、山入城で態勢を固めて佐竹氏に対抗した
義真の子で山入義藤・氏義親子も本家の佐竹義舜を攻め、太田城を奪ってここに住した
間もなく義舜の反撃に遭い、氏義は捕らえられた。
山入城跡は市の文化財指定10号・発掘調査されています
櫓台の上には祠が並んでいます
櫓台の北側には、比高10mほどで堀跡の先にも郭が並びます
櫓台の上から本丸、南側の眺めです、木々の間に麓の街並みが確認できます
では、次へ行きましょう
金砂山城跡から県道29号線へ戻り常陸太田市街地方向に進みます
県道33号線の交差点手前北側に聳えるのが要害山です
県道29号線山田川の橋の所から要害山です
少し西側から住宅地の細い道を進むと、案内版が有りました
山道を登って行きます
車道がつづらおりに登って行く道路脇にも郭が有ったようです
山入城入口ですもう少し上まで車で入れます
ここまで入ることが出来ます
この道路を上がってきました、左手にも平場が有ります
想定イラストが有ります
右手の道路は日吉神社まで行きます、この先にも遺構が残っている様です
では、左を進みます
回り込んだ所に、堀跡と堀を渡る土橋が有ります
土橋と竪堀の案内版です
尾根の右側を登ります、左手薮の中には、廓が連なっています
虎口状に登城路が尾根の左へ回ります
腰廓の様です
本丸虎口です
本丸と櫓台です
本丸に説明版が有ります
この山は要害山と称し、この頂上(標高191・3m)に「山入城(国安城)」が有った
この城は、延元年間(1336~40)西野民部太夫温通がはじめて築いたといわれ
のちに山入師義(佐竹貞義の匕男)が修築して居城したと伝えられている
諸義は、山谷に住んだことから世人が山入とよんだので山入氏を名乗ったとも言われている
その後、佐竹本家の養子縁組のことから佐竹氏・山入氏の間が不和になり
両家はことごとに争うようになった
山入氏は山入城を拠点として佐竹氏に対抗した
「上杉禅秀の乱」の時も山入城によった山入与義(師義の二男)が佐竹氏の攻撃にあった
そして、七年後、佐竹氏に攻略され、ついに応永二十五年(1418)落城した
しかし、山入氏は文明十年(1478)頃、ふたたび勢力を挽回し
与義の孫の山入義真(久米城を占領した義知の弟)は、山入城で態勢を固めて佐竹氏に対抗した
義真の子で山入義藤・氏義親子も本家の佐竹義舜を攻め、太田城を奪ってここに住した
間もなく義舜の反撃に遭い、氏義は捕らえられた。
山入城跡は市の文化財指定10号・発掘調査されています
櫓台の上には祠が並んでいます
櫓台の北側には、比高10mほどで堀跡の先にも郭が並びます
櫓台の上から本丸、南側の眺めです、木々の間に麓の街並みが確認できます
では、次へ行きましょう