高久館跡は、城里町役場の北西2kmほどの所に有ります
平治館跡の台地の延長線で南南西約1kmほどですので、丘の上を回って行きっます
道路脇に標柱が有ります
大きな窪みの畑は堀跡の様です
こちら側の畑が郭跡です
西側にも郭が有ったようです
北側の民家の位置も廓だったのでしょうか
少し南へ進むと道路が東へ回り込んでいます
道路西側に駐車帯が有って、説明板が有ります
高久館跡
高久の東南の角「舘(たて)」にあり、八幡館ともいう。
永仁元年(1293)に大掾氏の家臣鈴木五郎高郷の後裔高範が築いたといわれる。
鎌倉後期に佐竹氏支族の馬淵小三郎景義が高久に移って再築し、高久氏の始祖となった。
天文十二年(1543)の陸奥久保田・関山の合戦には、高久氏は佐竹軍の配下として
従軍し。九代義時・十代義貞・その子宮寿丸は、窪田陣帰陣時関山で討死し、十代二百
数十年続いた高久館は廃された。
城里町教育委員会
廓と思しき所は、地域の墓地に成っています
茨城県北部で「城」と「館」の違いは無かったと、あるホームページに記載が有りました
確かに、この高久館は、廓の数や堀・出丸などを考えると、「城」のイメージですよね
「館」と言うと、単郭で、領主が通常暮らしていた所でしょうか
「根小屋」も、「館」に近い物でしょうか
では、次へ行きましょう
平治館跡の台地の延長線で南南西約1kmほどですので、丘の上を回って行きっます
道路脇に標柱が有ります
大きな窪みの畑は堀跡の様です
こちら側の畑が郭跡です
西側にも郭が有ったようです
北側の民家の位置も廓だったのでしょうか
少し南へ進むと道路が東へ回り込んでいます
道路西側に駐車帯が有って、説明板が有ります
高久館跡
高久の東南の角「舘(たて)」にあり、八幡館ともいう。
永仁元年(1293)に大掾氏の家臣鈴木五郎高郷の後裔高範が築いたといわれる。
鎌倉後期に佐竹氏支族の馬淵小三郎景義が高久に移って再築し、高久氏の始祖となった。
天文十二年(1543)の陸奥久保田・関山の合戦には、高久氏は佐竹軍の配下として
従軍し。九代義時・十代義貞・その子宮寿丸は、窪田陣帰陣時関山で討死し、十代二百
数十年続いた高久館は廃された。
城里町教育委員会
廓と思しき所は、地域の墓地に成っています
茨城県北部で「城」と「館」の違いは無かったと、あるホームページに記載が有りました
確かに、この高久館は、廓の数や堀・出丸などを考えると、「城」のイメージですよね
「館」と言うと、単郭で、領主が通常暮らしていた所でしょうか
「根小屋」も、「館」に近い物でしょうか
では、次へ行きましょう