助川海防城跡は、日立市役所の南西1kmほどのところ、
国道6号線の日立病院や小学校の直ぐ西側の高台にあります
上り口に城跡案内が有ります、あと190mです
助川城址公園入口です
助川城跡公園案内図です
西側から見た、養生館跡です
西側の公園入口です、虎口状に成っています
本丸まで行きましょう
広い段郭が並びます
段郭からの太平洋の眺めです
尊王攘夷の石碑が有ります
遠見番所跡です
番所前から見た太平洋です
表門礎石跡です
階段の先は枡形に成っています
史跡 助川海防城跡石碑です
助川海防城説明版です
水戸藩第九代藩主の斉昭公は、天下に率先して海防の重要性を強調し、天保七年(1836)家老山野辺義観を
海防総司という新設の重職に任命し、太平洋を一望におさめるここ助川(介川)村の高台、要害の地形に拠り城郭
を築いて居住させ、異国船の無断侵入に、備えさせた。
これが助川海防城です。これを海防城と称するのは、一大名の城と異なり、わが国にも当寺類例のない海防を目
的とする城郭だったからである。
この城は完成までに五年の歳月をようし、総面積は六十八万平方メートル(二十余万坪)で、助川小学校の校門
付近にあった館入口(城の表門)から三の丸(一部は助川小学校敷地)、二の丸(一部は太陽の家)本丸と進むに
したがって高く、本丸には、異国船を見張る櫓もあった。
海防城は、元治元年(1864)九月、幕末水戸藩内乱のときに焼失し、当時の遺構としては本丸表門の礎石の
一部、二の丸にあった鳩石だけとなった。
しかし、茨城県史跡に指定された二の丸の一部と本丸跡等には百余年前の城郭を偲ばせるものがある。
ちなみに、大佛次郎氏は、昭和四十年十二月中旬この城跡を訪れ調査されたが、その直後執筆された氏の歴史小
説「夕顔小路」に、この海防城の落城前後の模様が興味深く書かれている。
日立市教育委員会
本丸館跡です
では、次へ行きましょう
国道6号線の日立病院や小学校の直ぐ西側の高台にあります
上り口に城跡案内が有ります、あと190mです
助川城址公園入口です
助川城跡公園案内図です
西側から見た、養生館跡です
西側の公園入口です、虎口状に成っています
本丸まで行きましょう
広い段郭が並びます
段郭からの太平洋の眺めです
尊王攘夷の石碑が有ります
遠見番所跡です
番所前から見た太平洋です
表門礎石跡です
階段の先は枡形に成っています
史跡 助川海防城跡石碑です
助川海防城説明版です
水戸藩第九代藩主の斉昭公は、天下に率先して海防の重要性を強調し、天保七年(1836)家老山野辺義観を
海防総司という新設の重職に任命し、太平洋を一望におさめるここ助川(介川)村の高台、要害の地形に拠り城郭
を築いて居住させ、異国船の無断侵入に、備えさせた。
これが助川海防城です。これを海防城と称するのは、一大名の城と異なり、わが国にも当寺類例のない海防を目
的とする城郭だったからである。
この城は完成までに五年の歳月をようし、総面積は六十八万平方メートル(二十余万坪)で、助川小学校の校門
付近にあった館入口(城の表門)から三の丸(一部は助川小学校敷地)、二の丸(一部は太陽の家)本丸と進むに
したがって高く、本丸には、異国船を見張る櫓もあった。
海防城は、元治元年(1864)九月、幕末水戸藩内乱のときに焼失し、当時の遺構としては本丸表門の礎石の
一部、二の丸にあった鳩石だけとなった。
しかし、茨城県史跡に指定された二の丸の一部と本丸跡等には百余年前の城郭を偲ばせるものがある。
ちなみに、大佛次郎氏は、昭和四十年十二月中旬この城跡を訪れ調査されたが、その直後執筆された氏の歴史小
説「夕顔小路」に、この海防城の落城前後の模様が興味深く書かれている。
日立市教育委員会
本丸館跡です
では、次へ行きましょう