那珂西城跡は、城里町役場の南東約5km、城里町の南東の隅に辺ります
国道123号線の直ぐ東側にある宝憧院のある所です
宝憧院山門です、山門脇には大きな土塁が有り、山門の先に駐車場が有ります
山門脇に説明版が有ります
那珂西城跡
南北朝時代の山城の跡で、昭和九年に県指定史跡になる、広さ約四ヘクタール、空堀土塁が一部残る
秀郷流藤原姓那珂氏の本拠といわれてきたが、大中臣姓那珂氏の居城とする説が有力である
那珂氏の後佐竹氏が支配し、城番を置いたという。
宝憧院
真言宗豊山派、泉山宝憧院宝厳寺と号す
応永三年(1396)上宥(智空上人)が赤羽経塚の地に開山し、真言宗の学問所として隆盛。
徳川光圀の発願により元禄九年(1696)那珂西城跡の現在地に移り、京都上品連台寺から以伝僧正
を招き中興開基とした。
宝物の説明版です
香象
象の形をした香炉で、真言宗で秘法の伝授を受ける儀式に用いる。
室町時代初期の作と推定され、横三十六センチ・幅十一センチ・高さ十三センチ、ケヤキ材が使われて
おり、保存状態も良く、県内でも貴重な仏具である。
昭和五十七年七月二十四日町指定有形文化財に指定された。
大日如来坐像
平安時代作と推定される、高さ九十五センチの木造仏で、像の裏には徳川光圀の修理刻名が有る。
大日如来としては県内最古のものといわれている。
城里町教育委員会
こちらも文化財の説明版です
両界曼荼羅 絹本着色 二幅
常北町那珂西 宝幢院
制作年代は室町末期から安土桃山期と推定される。
両界曼荼羅とは、真言密教の宇宙観をあらわしたもので、金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅の一対からなって
いる、いずれも大日如来を中心として胎蔵界は四一四尊、金剛界は一四六一体が図式的に縦一一七センチメ
ートル、横一〇六センチメートルの画面に綿密に描かれている。
昭和五十七年七月二十四日 常北町指定有形文化財となる。
北側の土塁です、止まっている車や建物からも、大きさがわかる立派な物が残っています
南側の墓地脇にも土塁が残ります
山門前の堀跡は笹薮で覆われてしまっています
山門脇から土塁上に上がることが出来ます
土塁は北へ延び、曲がって東へ延びています
六地蔵様です
本堂です
本堂東側にも土塁が残ります
では、次へ行きましょう
国道123号線の直ぐ東側にある宝憧院のある所です
宝憧院山門です、山門脇には大きな土塁が有り、山門の先に駐車場が有ります
山門脇に説明版が有ります
那珂西城跡
南北朝時代の山城の跡で、昭和九年に県指定史跡になる、広さ約四ヘクタール、空堀土塁が一部残る
秀郷流藤原姓那珂氏の本拠といわれてきたが、大中臣姓那珂氏の居城とする説が有力である
那珂氏の後佐竹氏が支配し、城番を置いたという。
宝憧院
真言宗豊山派、泉山宝憧院宝厳寺と号す
応永三年(1396)上宥(智空上人)が赤羽経塚の地に開山し、真言宗の学問所として隆盛。
徳川光圀の発願により元禄九年(1696)那珂西城跡の現在地に移り、京都上品連台寺から以伝僧正
を招き中興開基とした。
宝物の説明版です
香象
象の形をした香炉で、真言宗で秘法の伝授を受ける儀式に用いる。
室町時代初期の作と推定され、横三十六センチ・幅十一センチ・高さ十三センチ、ケヤキ材が使われて
おり、保存状態も良く、県内でも貴重な仏具である。
昭和五十七年七月二十四日町指定有形文化財に指定された。
大日如来坐像
平安時代作と推定される、高さ九十五センチの木造仏で、像の裏には徳川光圀の修理刻名が有る。
大日如来としては県内最古のものといわれている。
城里町教育委員会
こちらも文化財の説明版です
両界曼荼羅 絹本着色 二幅
常北町那珂西 宝幢院
制作年代は室町末期から安土桃山期と推定される。
両界曼荼羅とは、真言密教の宇宙観をあらわしたもので、金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅の一対からなって
いる、いずれも大日如来を中心として胎蔵界は四一四尊、金剛界は一四六一体が図式的に縦一一七センチメ
ートル、横一〇六センチメートルの画面に綿密に描かれている。
昭和五十七年七月二十四日 常北町指定有形文化財となる。
北側の土塁です、止まっている車や建物からも、大きさがわかる立派な物が残っています
南側の墓地脇にも土塁が残ります
山門前の堀跡は笹薮で覆われてしまっています
山門脇から土塁上に上がることが出来ます
土塁は北へ延び、曲がって東へ延びています
六地蔵様です
本堂です
本堂東側にも土塁が残ります
では、次へ行きましょう