部垂城跡は、常陸大宮市役所の北東約1km、大宮小学校の位置に本丸が有ったようです
JR水郡線ひたちおおみや駅北側の、国道293号線上町信号の直ぐ北側を東へ入ると
常陸大宮市立大宮小学校です
小学校案内板です
門の北側に部垂城跡の石碑が有ります
説明版です
部垂城跡
この城(館)跡は、大宮小学校敷地を中心とした一帯にあり、城館の土塁や堀は一部を残し、その遺構はほとんど残されていない。
城郭に関した地名として古城(かつては御城)、搦、根小屋などが残っている。
最初の築(館)城者は、水戸城主大資幹の子孫で、川崎頼幹であり、承久の乱(1221)以降のことらしいが詳細は不明である。
その後一時、佐竹氏の家臣大塚豊前守が城主と成ったり、佐竹十四代義俊(1477年没)と弟の実定の同族内部争いの中、小貫(
市内小貫)を本拠にしていた岩瀬系小貫頼定が、部垂城を攻略して三代約七十年居住したこともあった。
その後、享禄二年(1529)佐竹宿老の俊通のとき、佐竹十七代義篤の弟で宇留野城にいた宇留野四朗義元がこの部垂城を攻略し
部垂氏を名乗った。
しかし主家義篤と弟義元が新旧勢力の対立の中で、天文三年(1534)以降度々争いが起こり、天文九年(1540)三月、つい
に部垂城は落ち、義元は討死し廃城となる。
それ以降、部垂家臣は部垂衆として小場家寄騎として、小場氏と共に行動し、慶長七年(1602)佐竹氏国替えで大館城下に移っ
た。
常陸大宮市教育委員会
小学校の東側、甲神社まで移動します
甲神社です
鳥居です、駐車スペースが鳥居の奥にあります
参道をすすみます
拝殿です
素鷲神社です
本殿です
神木の切株です
常陸大宮交通神社です
奥にあるのが甲神社です
こちらが神木でしょうか
神社の西側に土塁の跡が有ります
松吟寺古墳群の標柱が有ります
山門です
本堂です
北東側の久慈川低地へ移動します
低地から見た小学校から甲神社周辺です
では、次へ行きましょう
JR水郡線ひたちおおみや駅北側の、国道293号線上町信号の直ぐ北側を東へ入ると
常陸大宮市立大宮小学校です
小学校案内板です
門の北側に部垂城跡の石碑が有ります
説明版です
部垂城跡
この城(館)跡は、大宮小学校敷地を中心とした一帯にあり、城館の土塁や堀は一部を残し、その遺構はほとんど残されていない。
城郭に関した地名として古城(かつては御城)、搦、根小屋などが残っている。
最初の築(館)城者は、水戸城主大資幹の子孫で、川崎頼幹であり、承久の乱(1221)以降のことらしいが詳細は不明である。
その後一時、佐竹氏の家臣大塚豊前守が城主と成ったり、佐竹十四代義俊(1477年没)と弟の実定の同族内部争いの中、小貫(
市内小貫)を本拠にしていた岩瀬系小貫頼定が、部垂城を攻略して三代約七十年居住したこともあった。
その後、享禄二年(1529)佐竹宿老の俊通のとき、佐竹十七代義篤の弟で宇留野城にいた宇留野四朗義元がこの部垂城を攻略し
部垂氏を名乗った。
しかし主家義篤と弟義元が新旧勢力の対立の中で、天文三年(1534)以降度々争いが起こり、天文九年(1540)三月、つい
に部垂城は落ち、義元は討死し廃城となる。
それ以降、部垂家臣は部垂衆として小場家寄騎として、小場氏と共に行動し、慶長七年(1602)佐竹氏国替えで大館城下に移っ
た。
常陸大宮市教育委員会
小学校の東側、甲神社まで移動します
甲神社です
鳥居です、駐車スペースが鳥居の奥にあります
参道をすすみます
拝殿です
素鷲神社です
本殿です
神木の切株です
常陸大宮交通神社です
奥にあるのが甲神社です
こちらが神木でしょうか
神社の西側に土塁の跡が有ります
松吟寺古墳群の標柱が有ります
山門です
本堂です
北東側の久慈川低地へ移動します
低地から見た小学校から甲神社周辺です
では、次へ行きましょう