馬坂城跡は、常陸太田市役所の西南西約4kmのところ
県道61号線が丘の上に上がっていきます、東西に約2kmの長い丘です
馬坂城跡は丘の西端に有ります
丘の頂上付近に佐竹寺(国指定重要文化財)がありますので、目印になります
馬坂城跡の近くには、駐車スペースがないので、佐竹寺に車を置いていきます
佐竹寺山門の北側に案内版が有ります、城跡まで700mです
道はあまり上下せずに来ました、城跡まで150mです
ここを上がります
上がって行くと
空堀跡です
大きな郭跡(真城)です
城跡碑です
馬坂城址説明版です
平安時代の末期、新羅三郎義光(源義家の弟)の孫昌義は、久慈郡佐竹郷に在住し、佐竹氏を名乗り馬坂城を築いた。
馬坂城は、台地の先端部に6000㎡の敷地を、三つの空堀で分断して郭を設けた平山城で、北を鶴が池、西南を山田
川に囲まれた自然の要害で有った。
佐竹氏は、三代隆義が太田城(舞鶴城)に移り、その後馬坂城には四代秀義の子義清が稲木氏を名乗って居住したり、
十四代義俊の子義成が天神林氏を称して居住した時代もあったが、慶長七年(1602)の佐竹氏の秋田国替えにとも
ない廃城となった。
また城内には、縄文時代前期の頃と見られる、間坂貝塚がある。
西城へ行って見ます、空堀です
案愛版です、西城へは、藪の中の堀底を通ります
ルートが不明瞭ですが、堀底を北側から回り込む虎口状に成っています
頂上部は二段に成っている様です
最後は直登してしまいました
頂上部には窪地が有ります
祠が崩れてしまっている様です
木の間から西側を見下ろします
戻ります
空堀を南へ行きましょう
西城の南下へ
間坂貝塚の説明版が有りました
この貝塚は、縄文時代前期(今から六~五千年前)に、人々が土器や貝殻・獣・魚骨をまとめて一か所に捨てた
ゴミ捨て場です。
土器は焼く時に割れないように、植物繊維を芯に入れたので、黒く炭化しています。
大量のシジミの外、ハマグリなどの貝殻も出土し、海が近かったことがわかります。
この沢状の所がゴミ捨て場だったのでしょうか
では、佐竹寺へ戻ります
山門です
日の丸の扇が有ります
佐竹寺説明版です
佐竹寺は妙福山明音院と号する真言宗豊山派の寺院で、和元年(985)花山天皇の勅願により元密上人が開山したと伝えられ
創建当時は、現在地から西北西に約700m離れた鶴ヶ池の洞崎の峰に建てられ、観音寺と称していた。
佐竹氏初代昌義は、治承元年(1177)に同寺に寺領として三百貫の土地を寄進し、六代長義は衰えていた寺堂を佐竹氏の祈願
所として再興するなど、佐竹氏の隆盛とともに寺運も栄えた。
しかし、天文十二年(1543)兵火にかかって焼失してしまい、同十五年に十八代義昭によってこの地に再建された。
明治三十九年(1906)に国指定重要文化財となった本堂は、茅葺屋根寄棟造で、主屋の周囲にこけら葺の裳階をめぐらし、
正面中央に唐破風をあげている。
元禄時代に内部の柱を取り除くなどの大改造が行われたが、正面の火頭窓や柱、外陣の繋ぎ梁の海老虹梁や組み物に桃山建築の
先駆としての様式を残している。
古くから安産、厄除けの仏様として信仰され、坂東三十三観音霊場の第二十二番札所として巡礼が絶えない古刹である。
手水舎です
常陸太田市 みどりの文化財登録 第10号のイチョウの木です
石灯籠が崩れてしまっています、東日本大震災の時でしょうか
本堂です
唐破風の下の様子です、千社札が所せましと貼られています
立派な獅子と象の彫り物です
説明版にあった、火頭窓です
重要文化財の案内版です
では、次へ行きましょう
県道61号線が丘の上に上がっていきます、東西に約2kmの長い丘です
馬坂城跡は丘の西端に有ります
丘の頂上付近に佐竹寺(国指定重要文化財)がありますので、目印になります
馬坂城跡の近くには、駐車スペースがないので、佐竹寺に車を置いていきます
佐竹寺山門の北側に案内版が有ります、城跡まで700mです
道はあまり上下せずに来ました、城跡まで150mです
ここを上がります
上がって行くと
空堀跡です
大きな郭跡(真城)です
城跡碑です
馬坂城址説明版です
平安時代の末期、新羅三郎義光(源義家の弟)の孫昌義は、久慈郡佐竹郷に在住し、佐竹氏を名乗り馬坂城を築いた。
馬坂城は、台地の先端部に6000㎡の敷地を、三つの空堀で分断して郭を設けた平山城で、北を鶴が池、西南を山田
川に囲まれた自然の要害で有った。
佐竹氏は、三代隆義が太田城(舞鶴城)に移り、その後馬坂城には四代秀義の子義清が稲木氏を名乗って居住したり、
十四代義俊の子義成が天神林氏を称して居住した時代もあったが、慶長七年(1602)の佐竹氏の秋田国替えにとも
ない廃城となった。
また城内には、縄文時代前期の頃と見られる、間坂貝塚がある。
西城へ行って見ます、空堀です
案愛版です、西城へは、藪の中の堀底を通ります
ルートが不明瞭ですが、堀底を北側から回り込む虎口状に成っています
頂上部は二段に成っている様です
最後は直登してしまいました
頂上部には窪地が有ります
祠が崩れてしまっている様です
木の間から西側を見下ろします
戻ります
空堀を南へ行きましょう
西城の南下へ
間坂貝塚の説明版が有りました
この貝塚は、縄文時代前期(今から六~五千年前)に、人々が土器や貝殻・獣・魚骨をまとめて一か所に捨てた
ゴミ捨て場です。
土器は焼く時に割れないように、植物繊維を芯に入れたので、黒く炭化しています。
大量のシジミの外、ハマグリなどの貝殻も出土し、海が近かったことがわかります。
この沢状の所がゴミ捨て場だったのでしょうか
では、佐竹寺へ戻ります
山門です
日の丸の扇が有ります
佐竹寺説明版です
佐竹寺は妙福山明音院と号する真言宗豊山派の寺院で、和元年(985)花山天皇の勅願により元密上人が開山したと伝えられ
創建当時は、現在地から西北西に約700m離れた鶴ヶ池の洞崎の峰に建てられ、観音寺と称していた。
佐竹氏初代昌義は、治承元年(1177)に同寺に寺領として三百貫の土地を寄進し、六代長義は衰えていた寺堂を佐竹氏の祈願
所として再興するなど、佐竹氏の隆盛とともに寺運も栄えた。
しかし、天文十二年(1543)兵火にかかって焼失してしまい、同十五年に十八代義昭によってこの地に再建された。
明治三十九年(1906)に国指定重要文化財となった本堂は、茅葺屋根寄棟造で、主屋の周囲にこけら葺の裳階をめぐらし、
正面中央に唐破風をあげている。
元禄時代に内部の柱を取り除くなどの大改造が行われたが、正面の火頭窓や柱、外陣の繋ぎ梁の海老虹梁や組み物に桃山建築の
先駆としての様式を残している。
古くから安産、厄除けの仏様として信仰され、坂東三十三観音霊場の第二十二番札所として巡礼が絶えない古刹である。
手水舎です
常陸太田市 みどりの文化財登録 第10号のイチョウの木です
石灯籠が崩れてしまっています、東日本大震災の時でしょうか
本堂です
唐破風の下の様子です、千社札が所せましと貼られています
立派な獅子と象の彫り物です
説明版にあった、火頭窓です
重要文化財の案内版です
では、次へ行きましょう