結東子地区は、津南町役場の南約12kmのところ
津南町役場傍の国道117号線大割野信号を南東へ、国道405号線です
道成りに約13.3kmで国道右に南向きに結東神社が鎮座します
境内に

車を止める事が出来ました

向かい側の農産物直売所の脇に結東地区の案内図です、秋の時期はキノコが直売所のメインになっています

赤い両部鳥居です

境内には「佐藤佐平治翁記念碑」です

説明版です
津南町の宝もの
佐藤佐平治の救済
文政11(1828)年から3年続いた不作に見舞われた秋山郷は、天保2(1831)年の春を迎えて食べる物が皆無となった。4月、外丸村の庄屋新左衛門が村々を回り、その実情を役所へ伝え、これを機として片貝村の佐藤佐平治からの救済が始まる。
その始めに、佐藤佐平治は天保3(1832)年正月、時の代官の了解のもとに金50両を直接結東村に貸し与えた。
しかし、元金取立不能を配慮し、この金を佐藤佐平治が預かり、年利息7分(金3両2分)を結東村に支払うことを約束した。よってこの年利息は、天保3年から135年間の昭和42(1967)年まで長きにわたって支払われていた。
また、天保4(1833)年の11月から翼5(1834)年3月にかけて、佐藤佐平治は当地の飢えを救うため、左記のような多量の穀物を中津の谷に届けた。
この史実は当時の記録により確認できる。
1、結東村 籾(5斗入)140俵2斗
稗(6斗入)234俵
2、箕作村枝秋山組 籾(5斗入) 93俵3斗
稗(6斗入)156俵
3、外に魚沼12ヶ村 籾(5斗入) 79俵4斗
稗(6斗入)136俵5斗
合計 籾(5斗入)313俵4斗・稗(6斗入)526俵5斗
このような佐藤佐平治のすばらしい行いを後世へ伝えるため、昭和30(1955)年8月旧結東村9ヶ村一同は当時の秋成村の援助を得て「佐藤佐平治翁の碑」を建立し現在にいたっている。
昭和61年8月 津南町
*明治22(1889)年4月1日に町村制施行に伴い中魚沼郡秋成村、結東村と、中深見村のうち大赤沢が合併して秋成村が発足しました。
*昭和30(1955)年1月1日 に 外丸村、上郷村、芦ヶ崎村、秋成村、中深見村、下船渡村の6村の合併により津南町となりました。

手水鉢です

石段を上りましょう

石段上部の杉の間から目的のカツラが見えました

石段上段の杉の大木で社殿が陰になってしまっています

社殿です



拝殿の西側にカツラですは、第二世代の幹がかなり失われています



南東側から見上げました



東側から、目通り幹囲10.5mの巨木です



南南西側から



南西側から見ました
では、次へ行きましょう
