ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

長野県飯山市、飯山「正受庵の大ケヤキ」です!!

2023-11-02 18:44:08 | 巨樹・大木
 飯山地区は、飯山市役所の有るところです

 飯山市役所の西約800mのところに臨済宗正受庵が一段高い丘の上に在ります

 飯山市役所西側の通りを南へ、直ぐの十字路を右(西)へ、信号を左(南)へ谷街道です

 約300mの南町信号を右(西)へ、JR飯山線の踏切を越えた約500mの、北陸新幹線の高架の手前を右(北)へ

 約200mで斜め左へ入ると

 約200mで正受庵の標柱が有ります、ここを西へ坂道を上って行くと


 目的の大ケヤキが見えて来ました

 *駐車場は坂道を登り切った正受庵の南側の公衆トイレ脇に在ります

 北東側から

 案内図です


 東北東側から

 東南東側から

 説明版です
   長野県史跡
     恵端禅師 正受庵
     指定 昭和35年2月11日
  説明
 恵端禅師正受老人は、寛永19年(1642)飯山に生まれ19歳江戸に出て、至道庵無難禅師につき、道を修むること前後17年、其の法燈をつぎ名刹を捨てて、生地に帰り、飯山城主松平忠倶の厚い帰依によって営まれたこの簡素な禅庵に、生母を迎えて住むこと45年、享保6年(1721)80歳にて遷化するまで、ひたすら佛道に精進し白隠はじめ、すぐれた弟子を育ててわが国臨済禅中興の基を開いた。
 現在の本堂旧庵跡は弘化4年(1847)の大地震に破損して改築されたが、その規模にあってはよく旧庵の遺構を留め、城主より拝領の水石、老梅等、閑寂な境内の景致と相まって故人の遺徳をしのぶことができる。
 なお庵の後ろの丘には裁松塔を安置した老人の墓が母尼李雪の墓と相ならんで存する。
    昭和47年12月28日
      長野県教育委員会
      飯山市教育委員会




 南東側から見上げました

 参道入口です

 参道へ入って南側から

 参道を進みましょう、奥側にもケヤキの大木です

 正受庵の建物がブルーシートで覆われています

 足場が組まれて、屋根の葺き替えをしています

 鐘楼の様です

 建物を回り込む様に進みます

 庫裡と本堂の建物の様です

 本堂の廻りにも足場が組まれていました

 境内の案内図です、説明内容はケヤキ横の山門脇の説明版とほぼ同じ内容です

 では、次へ行きましょう
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長野県長野市、松代町松代「大林寺とつつみ公園のケヤキ」(保存樹)です!!

2023-11-02 06:34:26 | 巨樹・大木
 ここからは2023年10月25日取材分です

 松代町松代地区は、長野市役所の南約11km、長野市役所松代支所のあるところ

 松代大本営平和祈念館の駐車場を予定していましたが、まだ駐車場が開いていませんでしたので

 大林寺の駐車場に車を止めさせて頂くことにしました

 長野市役所松代支所の東側の県道388号線を南へ直ぐに斜め東(南東)へ入ります

 先の三叉路を左(東)へ進むと左手に大林寺の駐車場があります

 大林寺参道入口です

 大林寺です

 六地蔵様ですが

 田掻き地蔵の説明版です
   松代の民話
     田掻き地蔵
      ~人助けをする六地蔵様~
 ある年のこと、山々も新緑となり、お寺でもお手伝いの人たちの手で、ご朱印地の田おこしをして、田掻きを待つばかりとなりました。
 ところが、突然の集中豪雨で町は水びたし、水害さわぎで人手を失ってしまいました。
 困り果てていると、若者6人がやってきて、泥だらけになって田掻きをやってくれました。
 「ありがたいこと、どちらの方かのう?」と和尚さんが感心していると「六地蔵さんの頬に泥が・・・・。」若者は六地蔵でした。
 町の人たちは、人助けをする六地蔵さまだと語り伝えています。
    松代地区市制百周年事業実行委員会

 本堂です

 大林寺の文化財案内板です
   寒松山 大林寺 曹洞宗
 真田昌幸が上田城主であった天正年間に、妻・寒松院の発願により上田に大輪寺が建立された。
 元和8年(1622)真田信之松代移封により松代に分霊し大林寺となり、寒松院の墓がある。
 鎌原桐山・山寺常山・矢沢頼道・坂口淳(童謡「小鹿のバンビ」作詞者)等の菩提寺でもある。
   鎌原桐山
    松代藩家老・漢学者 松代三山(桐山・東山・常山)の一人。
    生没年:安永3年(1774)~嘉永5年(1852) 享年:79歳
 鎌原重賢、桐山は号。学問を好み、岡野石城・佐藤一斉等に学び、武芸・礼式・点茶等に通じ、私塾朝陽館には多くの門人が集まった。
 佐久間象山・山寺常山・長谷川昭道等の門人である。東条の天王山に佐藤一斉撰文の桐山鎌原翁碑がある。
   寺山常山
    学者・幕末松代藩の漢学者。松代三山の一人。
    生没年:文化5年(1808)~明治11年(1878) 享年:71歳
 山寺久道、のち信龍。常山は号。江戸に出て兵学・漢学を学ぶ。
 天保14年寺社奉行・郡奉行を兼務。
 能吏の標高く、弘化4年善光寺地震の被災、明治3年には午札騒動に対処し民心を鎮めた。
 明治新政府の招きを辞し、郷里の教育発展に尽くした。山寺常山邸内に顕徳碑がある。
   矢沢頼道
    自治功労者・松代町長
    生没年:明治2年(1869)~昭和13年(1938) 享年70歳
 矢澤家は松代藩において、代々無役席(筆頭家老格)を務めた藩中最高の家格であった。
 松代町恩田檪園の長男、明治10年矢沢頼直の養子となる。
 町議会議員・郡会議委員を経て明治34年第7代松代町長、同36年県会議員となり連続3期務め、大正元年第10代松代町長となり、23年勤務。
 松代開府300年祭記念事業として、松代町史編纂に取り組む。また、松代農学校(現松代高校)や上水道の設置に尽力した。


 つつみ公園へ行きましょう

 大林寺参道入口を少し東へ、ギャラリー松真館の東側を南へ入ります

 公園に入って振り返るとヤナギの大木です、この脇を通って来ました

 「里の秋の」童謡碑です

 説明版です
   童謡作曲家
     海沼實 歌碑
      生誕地:松代町御安町
      生没年:明治42年(1909)~昭和46年(1971)
 昭和6年(1931)に上京し、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)在学中に、児童合唱団「音羽ゆりかご会」を創設。数多くの童謡歌手を育成。
 昭和13年(1938)に「お猿のかごや」で大ヒットを記録。その後、「あの子はたあれ」、「ちんから峠」など多くの国民的ヒット作品を創出。「里の秋」も多くの人々が愛唱。日本童謡界屈指の功績者。


 目的のケヤキです

 東側から見ました

 西側へ行きましょう


 西側にはケヤキが三本並んでいます

 保存樹説明版です
   保存樹木
 この樹木は緑を保存するために指定したものです。みんなで大切にしましょう。
   指定内容
 樹種・数量  ケヤキ4本
 指定番号   指定第177号
 指定年月日  昭和59年3月27日
    長岡市

 北西側から、目通り幹囲5.0mの巨木です

 南西側から見ました

 では、次へ行きましょう
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