飯山地区は、飯山市役所の有るところです
飯山市役所の西約800mのところに臨済宗正受庵が一段高い丘の上に在ります
飯山市役所西側の通りを南へ、直ぐの十字路を右(西)へ、信号を左(南)へ谷街道です
約300mの南町信号を右(西)へ、JR飯山線の踏切を越えた約500mの、北陸新幹線の高架の手前を右(北)へ
約200mで斜め左へ入ると
約200mで正受庵の標柱が有ります、ここを西へ坂道を上って行くと
目的の大ケヤキが見えて来ました
*駐車場は坂道を登り切った正受庵の南側の公衆トイレ脇に在ります
北東側から
案内図です
東北東側から
東南東側から
説明版です
長野県史跡
恵端禅師 正受庵
指定 昭和35年2月11日
説明
恵端禅師正受老人は、寛永19年(1642)飯山に生まれ19歳江戸に出て、至道庵無難禅師につき、道を修むること前後17年、其の法燈をつぎ名刹を捨てて、生地に帰り、飯山城主松平忠倶の厚い帰依によって営まれたこの簡素な禅庵に、生母を迎えて住むこと45年、享保6年(1721)80歳にて遷化するまで、ひたすら佛道に精進し白隠はじめ、すぐれた弟子を育ててわが国臨済禅中興の基を開いた。
現在の本堂旧庵跡は弘化4年(1847)の大地震に破損して改築されたが、その規模にあってはよく旧庵の遺構を留め、城主より拝領の水石、老梅等、閑寂な境内の景致と相まって故人の遺徳をしのぶことができる。
なお庵の後ろの丘には裁松塔を安置した老人の墓が母尼李雪の墓と相ならんで存する。
昭和47年12月28日
長野県教育委員会
飯山市教育委員会
南東側から見上げました
参道入口です
参道へ入って南側から
参道を進みましょう、奥側にもケヤキの大木です
正受庵の建物がブルーシートで覆われています
足場が組まれて、屋根の葺き替えをしています
鐘楼の様です
建物を回り込む様に進みます
庫裡と本堂の建物の様です
本堂の廻りにも足場が組まれていました
境内の案内図です、説明内容はケヤキ横の山門脇の説明版とほぼ同じ内容です
では、次へ行きましょう
飯山市役所の西約800mのところに臨済宗正受庵が一段高い丘の上に在ります
飯山市役所西側の通りを南へ、直ぐの十字路を右(西)へ、信号を左(南)へ谷街道です
約300mの南町信号を右(西)へ、JR飯山線の踏切を越えた約500mの、北陸新幹線の高架の手前を右(北)へ
約200mで斜め左へ入ると
約200mで正受庵の標柱が有ります、ここを西へ坂道を上って行くと
目的の大ケヤキが見えて来ました
*駐車場は坂道を登り切った正受庵の南側の公衆トイレ脇に在ります
北東側から
案内図です
東北東側から
東南東側から
説明版です
長野県史跡
恵端禅師 正受庵
指定 昭和35年2月11日
説明
恵端禅師正受老人は、寛永19年(1642)飯山に生まれ19歳江戸に出て、至道庵無難禅師につき、道を修むること前後17年、其の法燈をつぎ名刹を捨てて、生地に帰り、飯山城主松平忠倶の厚い帰依によって営まれたこの簡素な禅庵に、生母を迎えて住むこと45年、享保6年(1721)80歳にて遷化するまで、ひたすら佛道に精進し白隠はじめ、すぐれた弟子を育ててわが国臨済禅中興の基を開いた。
現在の本堂旧庵跡は弘化4年(1847)の大地震に破損して改築されたが、その規模にあってはよく旧庵の遺構を留め、城主より拝領の水石、老梅等、閑寂な境内の景致と相まって故人の遺徳をしのぶことができる。
なお庵の後ろの丘には裁松塔を安置した老人の墓が母尼李雪の墓と相ならんで存する。
昭和47年12月28日
長野県教育委員会
飯山市教育委員会
南東側から見上げました
参道入口です
参道へ入って南側から
参道を進みましょう、奥側にもケヤキの大木です
正受庵の建物がブルーシートで覆われています
足場が組まれて、屋根の葺き替えをしています
鐘楼の様です
建物を回り込む様に進みます
庫裡と本堂の建物の様です
本堂の廻りにも足場が組まれていました
境内の案内図です、説明内容はケヤキ横の山門脇の説明版とほぼ同じ内容です
では、次へ行きましょう