ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

茨城県東海村、石神城跡です!!

2015-01-16 07:33:14 | 城跡・館跡・陣屋跡
石神城跡は、東海村役場の北東約2km、久慈川を東、に臨む段丘上に有ります

石神城跡公園として整備されています

国道6号線の石神外宿信号を東へ入ると

石神城跡公園の案内板が有ります

もうすぐです

公園西側に見學者用の駐車場が有ります、安心です

石神城跡公園入口です

入り口を入って土塁の北側から回り込んで行きます

大きな空堀が南北に延びています、南側民家の敷地に成っているようです



土塁の上を進みます、土橋を渡って郭に入ります

入口の土塁です

広い郭です

三の郭の東の端に説明版が有ります

石神城の歴史と構造
   歴史
  石神城は中世においては佐都西郡石神郷に位置し、東には蛇行した久慈川が流れ、南北を深い谷地に挟まれた
 要害の地に造られていました。
  この城が歴史に登場下のが永享四年(1432)の石神城合戦の時ですが、小野崎越前三郎が城方を攻めて鎌
 倉公方の足利持氏より感状を与えられています。
  文正二年(1467)ころには小野崎越前守がこの城の城主となっていましたが、
  文正四年(1535)ころには石神小野崎道長による「石神兵乱」が起こり、佐竹義篤は同族の額田小野崎篤
 道にこれを鎮めさせました。
  しかし、天文十六年(1547)には両者は所領の境をめぐて再び戦い、城は落ち道長は城を退去しました。
 しかし、石神小野崎氏は佐竹氏への戦功により帰城が認められ、永禄元年~三年(1558~60)にかけて石
 神外宿の石神城鎮守住吉神社の再建し、戦死した一族の菩提のため、願泉寺など三か寺の寺を建立しました。
  慶長七年(1602)佐竹氏が秋田に移封されると小野崎通広も秋田に行き、石上城は廃城に成りました。
   構造
  石上城は東に久慈川を望む本郭(一郭「遠見城」、二郭「御城」、三郭)を中心に、その北西に北郭(領主屋
 敷)を置き、その西に城下町である総構を持っており、その中は道路に沿って上宿・中宿・下宿と区画され、観
 音寺(城主の祈願所)が置かれ、西表が大手口となっていました。
  また、南の谷地の外側には長松院(城主の菩提寺)を置き外郭としました。

                                           東海村

東海十二景の石碑です

二郭へ土橋を渡ります


南北に大きな堀が残ります


二郭には、東日本大震災の除染作業で出た土が保管されています


広い郭のまわりには土塁が廻ります

二郭と一郭との間は、橋が掛かっていたようです、堀向うの小さな虎口です


堀に下ります

堀底もきれいです

虎口に上がります

一郭です



三方に土塁が巡ります



東側は土塁は無く久慈川河川敷まで急な崖に成っています(木々が廻りを覆っていて眺めは得られません)





二郭との間の堀が巡っています

二郭の北東側に三角点(四等)が有りました

東側の眺めが得られます

二郭の北東隅から北側へ土塁を越えて行ける階段が作られています

堀底に下って土塁を越えて行きます

こちらも堀底は比較的きれいに維持されています

北側の駐車場に出ました、写真左が城跡、右が北郭です間を道路が上がって行きます

久慈川河川敷です

三郭の切岸です

北郭は民家の敷地に成っています

では、次は長松院へ行きます



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茨城県那珂市、寄居城跡です!!

2015-01-15 07:12:14 | 城跡・館跡・陣屋跡
寄居城跡は、那珂市役所の南東約4km、県道31号線と172号線の交差点の北西側

住宅地の防風林のような杉林の中に遺構がのこっています


県道31号線脇の土塁の跡です



西側を北に延びる道路脇の林の中に堀跡と土塁が有ります






北側の杉林の中にも、郭を分ける様に堀跡が残ります

城跡の外側には、案内版も説明版も有りませんでした

駐車スペースは道路南側の空き地の脇に止めさせて頂きました

次へ行きましょう
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茨城県ひたちなか市,多良崎城跡です!!

2015-01-14 08:57:32 | 城跡・館跡・陣屋跡
多良崎城跡は、ひたちなか市役所の北東約5km、勝田ゴルフクラブの西側にあります

国道245号線から県道31号線を西へ入って勝田ゴルフクラブの西側を北へ


道路西側に大きな石碑が有ります

緑地保全地域に成っています

説明版が有ります

大手入口から行きましょう

一の木戸です

二の木戸です

二の木戸を過ぎると、登城路は一度下ります

本郭下で水の手への分岐が有ります

本郭へ行きます

本郭入口です

大手門跡です、本郭の東側土塁の上です




本郭です、広い郭を土塁が囲みます



二の郭です、やはり土塁が残ります、本廓の直ぐ北側に有ります



三の郭との間の堀跡です、二の郭に続いて有ります


三の郭です

三の郭から先へ進みます

郭の幅が狭くなってきます

城域の北の端には狼煙台が有ったようです

北側は新川の流れる低地になっていますが、雑木に阻まれて眺めは得られません


説明版が有りましたが、古くなってしまって読めませんでした

水の手へ行って見ましょう


本廓下から東側へ階段を下ります



水の手です


ゴルフ場西側の道路に出ました

緑色の線の部分が城跡です

駐車スペースが無かったので道路脇に止めました

では、次へ行きましょう
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茨城県東海村,真崎城跡です!!

2015-01-13 08:33:29 | 城跡・館跡・陣屋跡
真崎城跡は、東海村役場の南東約4km、国道245号線沿いに村松虚空蔵尊が有ります

虚空蔵尊入口の直ぐ南側の信号を西に入って、用水路を渡ると

正面の住宅地の背後に丘が西へ延びています


ここが入口のようです

奥の畑の脇を通って

虎口状の部分を上がります

祠が祀られています

先端部の郭の様です、畑に成っています

奥へ行って見ます

竹藪が郭の縁の部分だけ刈払われています

竹の切株が伸びていて歩きにくいです


西側に土塁が残ります

南側から下ると堀跡です

西側が一の郭の様です

南東側の虎口跡の様です

郭内は笹薮状態です

郭の南側の眺めです

更に西側には舗装の切通が有ります

更に西側は天神山と言う山に成っているようです、城域はここまででしょうか

案内版や説明版は見当たりませんでした、駐車スペースは天神山入口そば道路脇に止めました

次へ行きましょう
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茨城県常陸太田市、香仙寺です!!

2015-01-12 20:28:29 | 文化財・寺社
香仙寺は、花房城跡のある丘の南に有ります

県道62号線から東へ入ると、親水公園のある香仙寺前に出ます

香仙寺山門です

本堂です


落慶記念石碑が有ります

そもそも香仙寺は永享二年(1432)瓜連常福寺第三世明誉了智上人の開祖にて、事後浄土の法燈を継承すること
三十四世を数へ今日に至、境内の洞の石仏は県の重要文化財、椎は天然記念物の指定を受ける由緒深き寺院である、
当寺歴代諸上人、往昔 寺運の衰退に遭いし時、また不慮の災害に際し、よく艱難に耐えて堂宇の修復に意を用ひ
五百五十有余年の星霜を関して維持し来たれり
たまたま三十三世覚誉徳成上人、後住を向かうるにあたり昭和六十三年一月本堂、山門改修並びに庫裏、客殿新築の
一大事業を発願せり

と。ありました。

<img src="http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/d5/cf8376d557f1d32e67c7309918760a11.jpg" border="0">

県指定天然記念物のシイノ木です幹回り7.2m推定樹齢640年です





直てつ洞の石仏三躯




では、次へ行きましょう
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茨城県常陸大宮市、部垂城跡です!!

2015-01-11 06:19:28 | 城跡・館跡・陣屋跡
部垂城跡は、常陸大宮市役所の北東約1km、大宮小学校の位置に本丸が有ったようです

JR水郡線ひたちおおみや駅北側の、国道293号線上町信号の直ぐ北側を東へ入ると



常陸大宮市立大宮小学校です

小学校案内板です

門の北側に部垂城跡の石碑が有ります

説明版です

部垂城跡

この城(館)跡は、大宮小学校敷地を中心とした一帯にあり、城館の土塁や堀は一部を残し、その遺構はほとんど残されていない。
城郭に関した地名として古城(かつては御城)、搦、根小屋などが残っている。
最初の築(館)城者は、水戸城主大資幹の子孫で、川崎頼幹であり、承久の乱(1221)以降のことらしいが詳細は不明である。
その後一時、佐竹氏の家臣大塚豊前守が城主と成ったり、佐竹十四代義俊(1477年没)と弟の実定の同族内部争いの中、小貫(
市内小貫)を本拠にしていた岩瀬系小貫頼定が、部垂城を攻略して三代約七十年居住したこともあった。
その後、享禄二年(1529)佐竹宿老の俊通のとき、佐竹十七代義篤の弟で宇留野城にいた宇留野四朗義元がこの部垂城を攻略し
部垂氏を名乗った。
しかし主家義篤と弟義元が新旧勢力の対立の中で、天文三年(1534)以降度々争いが起こり、天文九年(1540)三月、つい
に部垂城は落ち、義元は討死し廃城となる。
それ以降、部垂家臣は部垂衆として小場家寄騎として、小場氏と共に行動し、慶長七年(1602)佐竹氏国替えで大館城下に移っ
た。
                                                常陸大宮市教育委員会
小学校の東側、甲神社まで移動します


甲神社です

鳥居です、駐車スペースが鳥居の奥にあります

参道をすすみます

拝殿です

素鷲神社です

本殿です

神木の切株です

常陸大宮交通神社です

奥にあるのが甲神社です



こちらが神木でしょうか

神社の西側に土塁の跡が有ります

松吟寺古墳群の標柱が有ります


山門です

本堂です

北東側の久慈川低地へ移動します


低地から見た小学校から甲神社周辺です

では、次へ行きましょう
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茨城県常陸大宮市、宇留野城跡です!!

2015-01-10 16:29:54 | 城跡・館跡・陣屋跡
宇留野城跡は、常陸大宮市役所の東南東約2kmの久慈川河岸段丘上に有ります

前小屋城跡の北西わずかに約1kmの場所に成ります

西側の市道にも土塁が残っているようですが、住宅地化が進んでしまって、良く解りません


中城の土塁の斜面に、宇留野城跡概念図があります

車道を登って行きますが軽自動車ならば奥まで入って行けそうです

中城の中は廃品置き場に成っているようで、古タイヤが積まれています

御城へ向かいます

杉林は中城と御城の間の郭の様です

杉林を左へ回り込みます


土塁と空堀跡です、御城を囲んでいます

御城へ入ります

大明神拝殿です

本殿です

宇留野城跡説明版です

宇留野城跡
この城は、久慈川低地に突出状になっている台地の端にあり、浸蝕谷を利用して築かれた二列の連郭式の城郭である。
城館は、谷の東側にある御城や中城、外城の三つの郭と、西側に連続した四つの郭より成っている、現在、東側の部分
にあは、土塁や堀が残されているが、西側の郭部は部分的に土塁が残されているのみである。
この城の成り立ちや城主については不明の点が多く、はっきりしない。
ただ永仁五年(1297)の頃、宇留野大輔阿闍梨宏揄がいて、久慈東郡加志村(現 大宮町富岡)を一期間支配した
ことがあることから、当時宇留野を名乗る者がおり、この地に居館を持っていたと思われる。
その後、佐竹十四代義俊(1477)の子で、いったん出家した天鳳在虎が後に一般の人にかえり、この宇留野の地に
城を築き、地名を名字として宇留野氏の祖になり、それ以後代々宇留野に土着すて宇留野氏を継いで行ったようである
弘治三年(1557)に宇留野太蔵、天正十年(1582)や十九年にも宇留野源太郎、文禄二年(1593)に宇留
野源兵衛などの名前があり、佐竹氏の有力な一族であったらしいが、宇留野城主としての代数は不明である。
この城も慶長七年(1602)佐竹氏の出羽への国替えで、宇留野氏も一緒に移住し廃城となったようである。
                                       常陸大宮市教育委員会


別雷皇大神社

愛宕神社

天満神社など、立派な鳥居のある境内社が並びます

神社の参道が階段と成って谷底へ続いています

戻って、外城に行きます

中城との間の堀跡です




ヒノキの植林地n成っています、周りには土塁が残っています

では、次へ行きましょう


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茨城県常陸大宮市、前小屋城跡です!!

2015-01-09 08:03:53 | 城跡・館跡・陣屋跡
前小屋城跡は、常陸大宮市役所の南東約2km、久慈川の段丘を利用して造られています

国道118号線沿いの常陸大宮警察署を東へ、

直ぐの信号の所に泉正観世音種生院の案内版が有ります



案内版の左下に前小屋城跡遊歩道の文字が有りました

住宅地の細い道を入って行きます、久慈川の崖が近くなると種生院の入口です、すでに城跡の中です

土塁や堀の跡が見えます

畑の向こう、久慈川側にも土塁が残ります


道路脇にも土塁が有ります

種生院山門です、山門右手には堀跡を通って久慈川の河川敷へ繋がっています

種生院前まで車で入ることが出来ます

本丸跡の様です

立派な説明版が有ります

前小屋城跡

この地に最初に館を築いたのは、佐竹氏の家臣の平沢丹後守通行と言われているが、これをもとに本格的な城として整えたのは
小場氏五代義忠の弟義広(義澄)で、前小屋村に分家して居住し、その地名から前小屋氏を名乗ったからである。
城館は、現在種生院のある字上ノ寺を中心にして、四つの郭からなる造りで、各郭の間に通称「薬研掘」といわれるV字型の堀や
二重の土塁があり、狭いながらも帯廓も作られている。
その時期については、はっきりしないが、その義広の没年が明応九年(1500)とか永正五年(1508)といわれているので
それ以前のこととおもわれる。
城館は、義広から四代義親まで小場家代官として活躍し、小場氏が慶長五年(1600)筑波郡小田城へ所替えになったとき、
前小屋氏も小場氏に同行したため、無住のまま廃城になったようである。
なお前小屋氏は、慶長七年(1602)佐竹氏の出羽への国替えで、佐竹氏本家に従った小場氏と共に、出羽の国桧山城をへて
大館城下に居住した。




手水舎です

観音堂が本堂のようですが、脇に建っている建物です

前小屋観音の説明版です

(泉正観音)
人皇四四代元正天皇の御代養老二年1257年前中天竺摩阿陀国阿沙施大王の子である善無三蔵法師が仏教を広めようと来朝した。
その折当山に正観音の像を遺された。
当時この地は水の乏しく飲料にさい軟く時があった。
法師はこれを聴いて泉を設けたところ、玲瓏玉の如き清水が湧き出したので、人々は歓びこの泉を三蔵の滝と呼んで法師の徳を讃えた
その后人皇第五一代平城天皇の御代弘法大師がぐほうのため諸国遍歴の途すがら此の地に足をとどめ嘉隷成就の祈祷をおこなって民衆
をすくわれた。
人々は三蔵法師の遺徳と後部大師の慈悲に深く感激し三蔵山威徳寺を建立し、名を種生院と号した。
延宝五年十月種生院が火災にあい、仏舎は烏有に帰したが正観音の像のみは幸いにも難を免れた。
徳川光圀が元禄年間国内の仏寺改めにあたって観音の深い霊感と深い由緒を織り、この像を江戸の藩邸内に安置させたところ、怪事が頻
に起こったので、再び前小屋(泉)に本堂を建立し、元禄八年九月(280年前)入仏を命じられ今日に至った。
四季善男善女の参詣者があとをたたない。



観音堂軒下には、由来が記されています


観音堂の裏手に土塁が残り、階段が設置されています、遊歩道に成っています

深く大きな堀です


堀底は比較的きれいに維持されています

外側の土塁を越えます

字中屋敷の郭です

北西側の出口です、土塁の間を通ります

堀跡です、こちらは浅く成ってしまっているようです

北側は笹薮に成ってしまっています


五器井戸に行きましょう


五器井戸です、北側の市道脇に有りました

大昔、奥久慈の男体山から筑波山まで一またぎできる巨人がいた。
この巨人が、ある時、まちがって、この地区に足をおろしてしまった。
そのためそこが沈んで清水がわくようになったという。
地元の人々は、泉のダイダラボッチといい、大切にしてきた。
大宮町史より

では、戻って、三蔵の滝へ行きましょう


山門前に戻ってきました

東側へ堀跡を下ります

久慈川の河岸段丘下へ降りて行きます、用水路が崖際を廻っています

三蔵の滝です


三蔵の滝説明版です

唐の三蔵法師という偉い坊さんが、わが国に仏教をひろめるために来朝し、この地を通りかかったという。
この地が水が乏しく難渋しているのをみて、泉を設け人々を救った。
その泉が三蔵の滝だという

大宮町史より


久慈川沿いに広がる田圃です

三蔵の滝の前から城跡のある段丘崖を見ます、15mほど有りそうです

では、次へ行きましょう

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茨城県那珂市、古徳城跡です!!

2015-01-08 21:20:17 | 城跡・館跡・陣屋跡

古徳城跡は、那珂市役所の北西約6km、瓜連城跡の西南西約2kmに有ります

目印は、城跡の南側にある古徳沼です、この時期。白鳥や鴨などの渡鳥を見る事が出来ます

駐車場は、古徳沼見学用の物が城跡の北東側に有ります


手造りの城跡碑です

階段をのぼります


歌碑でしょうか

腰廓の様です

ベンチのある南東側先端の郭跡です

緩く登って行きます

堀跡が見えてきます

浅い堀跡が確認できます


また、堀前の土塁です、三の郭の様です

堀跡です

こちら側は、堀跡がはっきりしています

大きな堀跡です

又、土塁が見えてきました、二の郭の様です


ここも堀跡です

広い郭です、一の郭の様です


更に西側に堀跡を越えます


大きな堀跡です、南側の堀跡は、廓の南側に回り込んでいます





この先には、城の遺構は無いようです

戻りましょう


ベンチのある南東側の郭跡から東側の間が目です、古徳沼は直ぐ右手に有りますが薮の陰です

古徳沼を覗いていきましょう

古徳沼に集まる鳥たちです




白鳥です

マガモ

ヒドリガモ

キンクロハジロ

古徳沼の案内版です

では、次へ行きましょう
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茨城県那珂市、瓜連城跡(常福寺)です!!

2015-01-07 07:48:42 | 城跡・館跡・陣屋跡
瓜連城跡は、那珂市役所の北北西約6km、JR水郡線うりつら駅の北東500m

佐竹寺から南西に県道61号線を進み、久慈川を渡って河岸段丘の丘に登ると

右側に、常福寺が有ります、ここが嘗ての瓜連城の跡です


大きな山門が有ります、駐車スペースは山門を入って右側に有りました

山門前に史跡瓜連城址石碑が有ります

参道です、大きな杉の切株が並んでいます

参道の左手に説明版が有ります

県指定史跡 瓜連城跡

   指定年月日  昭和九年十二月十八日
   所 在 地  那珂市大字瓜連字入門前1221~1222番地
   管 理 者  常福寺

延元元年(1336年)正月、南北朝騒乱のさなかに、南朝の忠臣 楠正成の一族 楠正家がこの地によって約一年間、北朝方の
佐竹氏と戦った。
正家は同年十二月、佐竹勢に包囲され、那珂城主 那珂五郎通辰の援護のもとに応戦したが、佐竹義篤に敗れ、廃城となった。
現在、常福寺の境内となっている所が、瓜連城の本丸跡とされている。
土塁と堀は比較的よく保存され、北東面は急な崖となっておりその下の水田面との標高差は二十メートルである。
土塁は二段に構築され所々に一種の小さな出丸(武者溜)のような平坦なところがある。
また、区域内には数多くの土塁の残存遺構がみられ、これらを外郭と考えると、東西南北それぞれ七〇〇メートルほどになり
大規模な城郭であったことが想像できる。

常福寺

宗      派   浄土宗常陸総本山
国指定重要文化財   紙本着色拾遺古徳伝  
           絹本着色法然上人画像

延元年間、了実上人が春日川のほとり(瓜連白蓮塚付近)に創建したと伝えられ 佐竹義篤は、寺地、仏供料を寄進して祈願所とした。
元中五年(1388年)類焼にあい、その後間もなく ここ瓜連城跡に再建された。
宝徳四年(1452年)後花園天皇の勅願所となり、慶長二年(1602年)徳川家康から寺領百石の御朱印を賜り、関東十八壇林の
一つに列せられた。
旧暦九月二十六日には、常福寺二世了誉上人の遺徳をしのび、二十六夜尊(六夜さん)の大法要が毎年行われている。

                                                   那珂市教育委員会

鐘楼です

手水舎です

本堂です

十六夜さん

宝物殿です

本堂裏側に遺構を見に行きましょう

広い郭の周りに土塁が残ります


木立の中にも土塁が残ります

土塁の切れ間が有ります

腰廓の様に中段に郭が残ります

斜面は急です

土塁の北側隅に稲荷様が有ります

源太稲荷の説明版です


大きな堀切です、西側の郭との境に成っています

竹藪の刈り払いが行われて、保存状態は良好です

土塁の上を戻ります

では、次へ行きましょう

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茨城県常陸太田市、馬坂城跡と佐竹寺です!!

2015-01-06 08:25:06 | 城跡・館跡・陣屋跡
馬坂城跡は、常陸太田市役所の西南西約4kmのところ

県道61号線が丘の上に上がっていきます、東西に約2kmの長い丘です

馬坂城跡は丘の西端に有ります

丘の頂上付近に佐竹寺(国指定重要文化財)がありますので、目印になります

馬坂城跡の近くには、駐車スペースがないので、佐竹寺に車を置いていきます

佐竹寺山門の北側に案内版が有ります、城跡まで700mです

道はあまり上下せずに来ました、城跡まで150mです

ここを上がります

上がって行くと

空堀跡です



大きな郭跡(真城)です

城跡碑です

馬坂城址説明版です

平安時代の末期、新羅三郎義光(源義家の弟)の孫昌義は、久慈郡佐竹郷に在住し、佐竹氏を名乗り馬坂城を築いた。
馬坂城は、台地の先端部に6000㎡の敷地を、三つの空堀で分断して郭を設けた平山城で、北を鶴が池、西南を山田
川に囲まれた自然の要害で有った。
佐竹氏は、三代隆義が太田城(舞鶴城)に移り、その後馬坂城には四代秀義の子義清が稲木氏を名乗って居住したり、
十四代義俊の子義成が天神林氏を称して居住した時代もあったが、慶長七年(1602)の佐竹氏の秋田国替えにとも
ない廃城となった。
また城内には、縄文時代前期の頃と見られる、間坂貝塚がある。


西城へ行って見ます、空堀です

案愛版です、西城へは、藪の中の堀底を通ります


ルートが不明瞭ですが、堀底を北側から回り込む虎口状に成っています

頂上部は二段に成っている様です

最後は直登してしまいました

頂上部には窪地が有ります

祠が崩れてしまっている様です

木の間から西側を見下ろします

戻ります


空堀を南へ行きましょう

西城の南下へ

間坂貝塚の説明版が有りました

この貝塚は、縄文時代前期(今から六~五千年前)に、人々が土器や貝殻・獣・魚骨をまとめて一か所に捨てた
ゴミ捨て場です。
土器は焼く時に割れないように、植物繊維を芯に入れたので、黒く炭化しています。
大量のシジミの外、ハマグリなどの貝殻も出土し、海が近かったことがわかります。


この沢状の所がゴミ捨て場だったのでしょうか

では、佐竹寺へ戻ります

山門です

日の丸の扇が有ります

佐竹寺説明版です

佐竹寺は妙福山明音院と号する真言宗豊山派の寺院で、和元年(985)花山天皇の勅願により元密上人が開山したと伝えられ
創建当時は、現在地から西北西に約700m離れた鶴ヶ池の洞崎の峰に建てられ、観音寺と称していた。
佐竹氏初代昌義は、治承元年(1177)に同寺に寺領として三百貫の土地を寄進し、六代長義は衰えていた寺堂を佐竹氏の祈願
所として再興するなど、佐竹氏の隆盛とともに寺運も栄えた。
しかし、天文十二年(1543)兵火にかかって焼失してしまい、同十五年に十八代義昭によってこの地に再建された。
明治三十九年(1906)に国指定重要文化財となった本堂は、茅葺屋根寄棟造で、主屋の周囲にこけら葺の裳階をめぐらし、
正面中央に唐破風をあげている。
元禄時代に内部の柱を取り除くなどの大改造が行われたが、正面の火頭窓や柱、外陣の繋ぎ梁の海老虹梁や組み物に桃山建築の
先駆としての様式を残している。
古くから安産、厄除けの仏様として信仰され、坂東三十三観音霊場の第二十二番札所として巡礼が絶えない古刹である。


手水舎です


常陸太田市 みどりの文化財登録 第10号のイチョウの木です

石灯籠が崩れてしまっています、東日本大震災の時でしょうか





本堂です

唐破風の下の様子です、千社札が所せましと貼られています




立派な獅子と象の彫り物です

説明版にあった、火頭窓です


重要文化財の案内版です

では、次へ行きましょう
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茨城県常陸太田市、花房城跡(伊勢神社)です!!

2015-01-05 16:52:58 | 城跡・館跡・陣屋跡
花房城跡は、常陸太田市役所の西約7km

国道293号線の花房信号を南へ県道62号線を進むと、すぐ左手の丘に伊勢神社が有ります

この丘は南へ長く繋がっています、伊勢神社へ行って見ましょう

伊勢神社鳥居です

伊勢神社の幟が掛かります

急な階段を上がります

拝殿です

本殿です


境内社が並んでいます

社殿右側に、赤鳥居をくぐり更に上へ続く階段が有ります

金刀毘羅神社です

古い歌碑が有ります

(県道脇の鳥居のそばに有った)歌碑の説明版です

義公御詠碑

西山の峰にとどまる月影の 光そ宇津る圀の花房

常陸国久慈郡花房にある花房神社は天照大御神を祀り、大同二年(807)創建、源義家朝臣が再興したと言い伝えられている。
社殿の銅の棟札に奉勧請伊勢大神宮大願主八幡太郎義家勤拝と書かれており、献納された旗、神宝などはいまに至まで伝わって
いる。
治承四年の八月には佐竹隆義朝臣が神宝を奉納して御社と枝社を修理した。
その後弘安四年八月、激しい風雨と大地震があって、社殿は巌石と共に崩れ落ちた。
元禄六年四月、水戸光圀公がこの郡にある西山に隠棲なされた。光圀公は御参詣もしばしばされて渡辺主馬という祠官の家にも
立ち寄られ、社地百八十間を寄付され、別当観照院などを放逐して神仏混淆を正された、更に、御鏡を納めて神体とし、幣棉を
奉納して祈願された。
同九年十月、鈴木宗興上彦四朗を使わして白銀・大麻・烏帽子などを下された。渡辺主馬は御恩に対して「ちはやぶる神と云う
神のある中に恵みも深き西山の月」という歌を送った。翌日光圀公は朝比奈平太郎上彦四朗を出向させて碑の前面に示した返歌
を下された。
更にこの年、郷より寄付の地に社殿を築いた。
寛永八年十一月に災害があり、残った木の棟札には奉納御幡二流、伊勢大神宮御宝前義家勧請因例納之花房住花房刑部藤原忠常
と書かれていたという。
社頭縁起には、永禄天正のころ、花房図書という人が城主だったと書かれているがこれらの事は見えない。

では、花房城跡へ行って見ましょう

神社前の細い道を南へ回り込むように進むと

この坂道が見えてきます

切通の様に成っています

薮の中に、水堀のような所に出ます

土橋の様に成っています、切通の丘の先にも丘が有って、そちらが花房城跡の様です

水掘りが南に延びています

北側へも伸びているようですが、藪が濃くて見通せません

これ以上進めませんでした、戻ります



車で、東側へ行って見ました、上り口は無いようです

では、次へ行きます


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茨城県常陸太田市、太田(舞鶴)城跡です!!

2015-01-04 13:35:34 | 城跡・館跡・陣屋跡
太田城跡は、遺構のほとんど消えてしまっています

常陸太田市役所の西側に広がる比高20mほどの台地すべてに広がっていたようです


市役所東側の里川を越えた、機切小学校の上の住宅地から、西に広がる太田城跡を眺めます

城跡へ行きます



本丸跡は常陸太田市立太田小学校の敷地になっています

門の内側に舞鶴城趾の大きな石碑が建っています

小学校の北側に広い空き地が有ります、三の丸が有った位置と思われます、大きなケヤキの木が見えます

二の丸跡へ行きましょう


南側に若宮八幡宮が有ります、駐車場の看板に舞鶴城二の丸鎮座と有ります

階段を登ると鳥居です

若宮八幡宮・太田稲荷神社の由来が有ります

若宮八幡宮御由緒

両社は、永応年間(1394~1428)佐竹十三代義仁公が鎌倉鶴岡八幡から舞鶴城中に勧進守護する
その折、神女鶴子が供奉して来り数世祭祀を司った
慶長十四年水戸威公七歳の時、駿府にあり病を得当社に祈り、日ならずして快癒した
宝永五年中山備前守釣命を奉じ両社を今地に造営す
往年は久慈浜鎌坂に磯降りの神事が行われた
「新編常陸国志」に「若宮八幡宮神体は絵像」とある
即ち、義仁公 当社勧進の時 鶴岡八幡尊像を写し 
本絵と共に持参し今に在る と伝えている
明治十四年郷社に列せられる 祭礼五月十五日
御祭神 大鶴鷯命 仁徳天皇 理想の聖帝と称えらる

太田稲荷神社御由緒

鶴岡八幡の宮地松ヶ丘に稲荷神社あり
因って丸山に遷し祀った故事に倣い同社とした
元禄五年義公城中に桜花を尋ね 稲荷の御神体を拝し幣礼した
「新編常陸国志」に「稲荷明神神体は石剣宝物」とある
御祭神 倉稲魂命 五穀の祖神と称えらる

御宝物

絹本着色僧形八幡絵像 稲荷大明神石剣形宝物
軍扇(伝新羅三郎義光所持)両社縁起(丸山可澄書)
扁額 若宮八幡宮御神号掛軸(有栖川義犠仁親王書)

境内社

天満宮 源義家公奥州征伐の武運を祈る


神木でしょうか

幹回り11,4m樹齢640年の立派な物です


境内には大きなケヤキの木が並びます、県の天然記念物に成っています

手水舎です

拝殿です

拝殿脇にも大きなケヤキが有ります

本殿です

鳥居前から西側の西山公園を眺めます

では、次へ行きましょう





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茨城県常陸太田市、久米城跡です!!

2015-01-03 19:42:48 | 城跡・館跡・陣屋跡
久米城跡は、常陸太田市役所の西約4kmの所

鹿島神社の有る所に残る大きな城跡です

久米、西の城・南の出城3つの城跡が一緒に成って久米城跡に成っています

国道293号線の久米信号を北へ県道62号線に入って直ぐ右側の山頂部です




麓に見学者用の駐車場が有ります、ここに車を置かせていただいて、鹿島神社へ向かいます

後でわかったのですが、写真に小さく写る柴犬を連れた方々に、”おはようございます”と挨拶すると、

”山登りですか?”と声を掛けてくれます”はい、行って来ます”と返して行きましたが、本丸跡でまた

声をかけられて、お話を伺うことが出来ました

ほぼ一人で、城跡の整備や、案内版の設置・地域のお年寄の話から遺跡の調査も行っているそうです、

私たちのような、見學者が日本全国から来ているそうです


鹿島神社鳥居です

久米城案内・縄張図が有ります

急な参道を行きます

更に急になります

もうすぐ神社です、赤鳥居が見えてきました

根古屋郭でしょうか

神社下から南出城へのルートです

この先に西の城です、順路はこちらのようですが・・・

神社へ行きましょう

参道が虎口の様に曲がって登って行きます、神社が城跡に建っているのが良く解ります

急な階段を登ります

拝殿です、神社の位置が三の郭でしょうか

本殿です

境内社が並びます

久米城の歴史です

神社裏から本廓側へ進みます

本廓(本城)のすぐ下、二の郭でしょうか、本廓に行く前に、南出城側を見に行きます

虎口を下って腰廓に廻ります

腰廓から南出城への下り口です、神社赤鳥居下から来るとここに出るようです

下って行きます


堀切が有ります

堀切の説明です

石済みのような物が有りました

浅い堀切が有ります、二重堀切です

南東側はここでお終いです

南出城側です、土橋状のルートです、時間が掛かりそうだったので戻ることにします

本郭下に戻ってきました、虎口です

虎口の説明です、神社のある郭から直接本廓には行くことが出来なかったようです


本廓(本城)です、郭の向こう端に、駐車場そばでお会いした方と柴犬がまってました、ここで、色々お話をうかがうことが出来ました

標高101、3mです

上がって来た虎口の南側の土塁です、この土塁で嘗ての登城ルートが、本城の東を回ってきていることが解るようです

東側の帯廓です

ルートが土塁を越えて北に繋がります、嘗ては木戸が有ったのでしょうか

北側の郭です、東側に土塁が続きます

土塁の先に、大きな堀切が有るようなので行って見ました

大堀切です、この先が東城域に成るようです

先の林の切り払われた所から北の山上城跡の要害山を望みます、戻りましょう

久米城跡と西の城との間の沢が大きな郭に加工されているとのことです

西の城へ上がります、腰廓を備えた二段に成っている様です


一の郭には地域のテレビ中継施設が有ります

竜神平と呼ばれる部分が櫓台の様に放送施設の裏側に有ります

竜神平です

北側の眺めです

更に北側にも郭が並んでいたようです、放送施設前へ戻ります



二の郭との境の堀切です

三の郭との境にの堀切です

三の郭には、西側に土塁がきれいに残っています


郭の下側には、腰廓が二段に残っているようです、戻りましょう

本城郭を見上げます


西の城の堀切を見上げます

西の城との間の郭の説明が有ります

こちら側に搦手が有ったようです

西の城の先端部に回り込みます、倒木が目立つ谷です


深い谷が麓まで続いているようです

谷の上流側を見ます


笹廓の様に成っています、まだ先へ続くようですが戻ります

もうすぐ神社下です、説明していただいた方の意見では、こちらから回ると解りやすいようです

神社の赤鳥居の所まで戻って来ました、次へ行きましょう

















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茨城県常陸大宮市、山入城跡です!!

2015-01-02 05:57:42 | 城跡・館跡・陣屋跡
山入城跡は、常陸太田市役所の北西約8kmの要害山(191m)山頂部に有ります

金砂山城跡から県道29号線へ戻り常陸太田市街地方向に進みます

県道33号線の交差点手前北側に聳えるのが要害山です


県道29号線山田川の橋の所から要害山です

少し西側から住宅地の細い道を進むと、案内版が有りました

山道を登って行きます

車道がつづらおりに登って行く道路脇にも郭が有ったようです

山入城入口ですもう少し上まで車で入れます

ここまで入ることが出来ます

この道路を上がってきました、左手にも平場が有ります


想定イラストが有ります

右手の道路は日吉神社まで行きます、この先にも遺構が残っている様です

では、左を進みます

回り込んだ所に、堀跡と堀を渡る土橋が有ります


土橋と竪堀の案内版です

尾根の右側を登ります、左手薮の中には、廓が連なっています

虎口状に登城路が尾根の左へ回ります


腰廓の様です

本丸虎口です

本丸と櫓台です

本丸に説明版が有ります

この山は要害山と称し、この頂上(標高191・3m)に「山入城(国安城)」が有った
この城は、延元年間(1336~40)西野民部太夫温通がはじめて築いたといわれ
のちに山入師義(佐竹貞義の匕男)が修築して居城したと伝えられている
諸義は、山谷に住んだことから世人が山入とよんだので山入氏を名乗ったとも言われている
その後、佐竹本家の養子縁組のことから佐竹氏・山入氏の間が不和になり
両家はことごとに争うようになった
山入氏は山入城を拠点として佐竹氏に対抗した
「上杉禅秀の乱」の時も山入城によった山入与義(師義の二男)が佐竹氏の攻撃にあった
そして、七年後、佐竹氏に攻略され、ついに応永二十五年(1418)落城した
しかし、山入氏は文明十年(1478)頃、ふたたび勢力を挽回し
与義の孫の山入義真(久米城を占領した義知の弟)は、山入城で態勢を固めて佐竹氏に対抗した
義真の子で山入義藤・氏義親子も本家の佐竹義舜を攻め、太田城を奪ってここに住した
間もなく義舜の反撃に遭い、氏義は捕らえられた。

山入城跡は市の文化財指定10号・発掘調査されています

櫓台の上には祠が並んでいます

櫓台の北側には、比高10mほどで堀跡の先にも郭が並びます

櫓台の上から本丸、南側の眺めです、木々の間に麓の街並みが確認できます

では、次へ行きましょう








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