石神城跡は、東海村役場の北東約2km、久慈川を東、に臨む段丘上に有ります
石神城跡公園として整備されています
国道6号線の石神外宿信号を東へ入ると
石神城跡公園の案内板が有ります
もうすぐです
公園西側に見學者用の駐車場が有ります、安心です
石神城跡公園入口です
入り口を入って土塁の北側から回り込んで行きます
大きな空堀が南北に延びています、南側民家の敷地に成っているようです
土塁の上を進みます、土橋を渡って郭に入ります
入口の土塁です
広い郭です
三の郭の東の端に説明版が有ります
石神城の歴史と構造
歴史
石神城は中世においては佐都西郡石神郷に位置し、東には蛇行した久慈川が流れ、南北を深い谷地に挟まれた
要害の地に造られていました。
この城が歴史に登場下のが永享四年(1432)の石神城合戦の時ですが、小野崎越前三郎が城方を攻めて鎌
倉公方の足利持氏より感状を与えられています。
文正二年(1467)ころには小野崎越前守がこの城の城主となっていましたが、
文正四年(1535)ころには石神小野崎道長による「石神兵乱」が起こり、佐竹義篤は同族の額田小野崎篤
道にこれを鎮めさせました。
しかし、天文十六年(1547)には両者は所領の境をめぐて再び戦い、城は落ち道長は城を退去しました。
しかし、石神小野崎氏は佐竹氏への戦功により帰城が認められ、永禄元年~三年(1558~60)にかけて石
神外宿の石神城鎮守住吉神社の再建し、戦死した一族の菩提のため、願泉寺など三か寺の寺を建立しました。
慶長七年(1602)佐竹氏が秋田に移封されると小野崎通広も秋田に行き、石上城は廃城に成りました。
構造
石上城は東に久慈川を望む本郭(一郭「遠見城」、二郭「御城」、三郭)を中心に、その北西に北郭(領主屋
敷)を置き、その西に城下町である総構を持っており、その中は道路に沿って上宿・中宿・下宿と区画され、観
音寺(城主の祈願所)が置かれ、西表が大手口となっていました。
また、南の谷地の外側には長松院(城主の菩提寺)を置き外郭としました。
東海村
東海十二景の石碑です
二郭へ土橋を渡ります
南北に大きな堀が残ります
二郭には、東日本大震災の除染作業で出た土が保管されています
広い郭のまわりには土塁が廻ります
二郭と一郭との間は、橋が掛かっていたようです、堀向うの小さな虎口です
堀に下ります
堀底もきれいです
虎口に上がります
一郭です
三方に土塁が巡ります
東側は土塁は無く久慈川河川敷まで急な崖に成っています(木々が廻りを覆っていて眺めは得られません)
二郭との間の堀が巡っています
二郭の北東側に三角点(四等)が有りました
東側の眺めが得られます
二郭の北東隅から北側へ土塁を越えて行ける階段が作られています
堀底に下って土塁を越えて行きます
こちらも堀底は比較的きれいに維持されています
北側の駐車場に出ました、写真左が城跡、右が北郭です間を道路が上がって行きます
久慈川河川敷です
三郭の切岸です
北郭は民家の敷地に成っています
では、次は長松院へ行きます
石神城跡公園として整備されています
国道6号線の石神外宿信号を東へ入ると
石神城跡公園の案内板が有ります
もうすぐです
公園西側に見學者用の駐車場が有ります、安心です
石神城跡公園入口です
入り口を入って土塁の北側から回り込んで行きます
大きな空堀が南北に延びています、南側民家の敷地に成っているようです
土塁の上を進みます、土橋を渡って郭に入ります
入口の土塁です
広い郭です
三の郭の東の端に説明版が有ります
石神城の歴史と構造
歴史
石神城は中世においては佐都西郡石神郷に位置し、東には蛇行した久慈川が流れ、南北を深い谷地に挟まれた
要害の地に造られていました。
この城が歴史に登場下のが永享四年(1432)の石神城合戦の時ですが、小野崎越前三郎が城方を攻めて鎌
倉公方の足利持氏より感状を与えられています。
文正二年(1467)ころには小野崎越前守がこの城の城主となっていましたが、
文正四年(1535)ころには石神小野崎道長による「石神兵乱」が起こり、佐竹義篤は同族の額田小野崎篤
道にこれを鎮めさせました。
しかし、天文十六年(1547)には両者は所領の境をめぐて再び戦い、城は落ち道長は城を退去しました。
しかし、石神小野崎氏は佐竹氏への戦功により帰城が認められ、永禄元年~三年(1558~60)にかけて石
神外宿の石神城鎮守住吉神社の再建し、戦死した一族の菩提のため、願泉寺など三か寺の寺を建立しました。
慶長七年(1602)佐竹氏が秋田に移封されると小野崎通広も秋田に行き、石上城は廃城に成りました。
構造
石上城は東に久慈川を望む本郭(一郭「遠見城」、二郭「御城」、三郭)を中心に、その北西に北郭(領主屋
敷)を置き、その西に城下町である総構を持っており、その中は道路に沿って上宿・中宿・下宿と区画され、観
音寺(城主の祈願所)が置かれ、西表が大手口となっていました。
また、南の谷地の外側には長松院(城主の菩提寺)を置き外郭としました。
東海村
東海十二景の石碑です
二郭へ土橋を渡ります
南北に大きな堀が残ります
二郭には、東日本大震災の除染作業で出た土が保管されています
広い郭のまわりには土塁が廻ります
二郭と一郭との間は、橋が掛かっていたようです、堀向うの小さな虎口です
堀に下ります
堀底もきれいです
虎口に上がります
一郭です
三方に土塁が巡ります
東側は土塁は無く久慈川河川敷まで急な崖に成っています(木々が廻りを覆っていて眺めは得られません)
二郭との間の堀が巡っています
二郭の北東側に三角点(四等)が有りました
東側の眺めが得られます
二郭の北東隅から北側へ土塁を越えて行ける階段が作られています
堀底に下って土塁を越えて行きます
こちらも堀底は比較的きれいに維持されています
北側の駐車場に出ました、写真左が城跡、右が北郭です間を道路が上がって行きます
久慈川河川敷です
三郭の切岸です
北郭は民家の敷地に成っています
では、次は長松院へ行きます