ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

岩手県矢巾町、白沢第6地割「森のトチの木」(町指定)です!!

2024-10-27 06:31:44 | 巨樹・大木
 白沢第6地割地区は、矢巾町役場の南西約1kmのところ

 矢巾町役場西側道路を南へ、直ぐの交差点(右手に送電線の鉄塔が有ります)を右(西)へ

 約300mで一時停止を左(南)へ、県道120号不動盛岡線です

 約500mで信号を左に曲がると

 左手に大きなトチの樹冠が見えます

 ズームアップして見ました

 少し東側から

 根元は見えませんが、目通り幹囲6.6mの巨木です

 南東側から、大きなお屋敷の中に立っています

 大きな石碑が建っています、ここが生誕地の歌人西塔幸子(さいとう・こうこ)の石碑です
 碑面には、西塔幸子生誕の地
   「淋しい私の生涯に いささかでもうるおいを 与えてくれる歌が ありがたいのです」
      西塔幸子 「歌と私」イト
    平成5年6月30日建立

 説明版です
   西塔幸子生誕の地
 美しくもまた傷ましい尊くも悲しい純情の結晶が、この「山峡」集である。
                         金田一京助「山峡」序
 歌人・西塔幸子は明治33(1900)年6月30日、この地不動村村松雄一郎氏別宅で生まれた。
 両親は旧白沢小学校の先生でした。
 幸福になるようにと名づけられですが、幸子35年間の短い生涯は、むしろ、悲しみに満ちていました。
 多くの苦難を負いながら、それでも幸子はひたむきに生き続け、没後、歌集「山峡」を残しました。
 生誕の地碑は幸子への、私たちの共感と鎮魂の祈りでつくられました。
       平成5年6月30日 西塔幸子生誕の日に    
         西塔幸子生誕の地記念事業実行委員会
 *西塔幸子(さいとう・こうこ)で検索してみました、産経新聞の総支局記者コラムの記事「「女啄木」と呼ばれた歌人・西塔幸子終焉の地を訪ねる」が第一番に出て来ました。
 *岩手県内の三陸沿岸や北上山地の小学校で教鞭をとりながら、8人の子宝に恵まれた幸子の最後の赴任地である宮古市江繋には記念館があります。


 もう一枚だけ

 では、次へ行きましょう



 2024・9・13・15・40  
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岩手県盛岡市、上飯岡15地割「長禅寺前の柄目のカツラ」(保存樹)です!!

2024-10-26 18:38:54 | 巨樹・大木
 上飯岡15地割地区は、盛岡市役所の南西約7km、盛岡市役所都南総合支所の西北西約6kmのところ

 盛岡市役所都南総合支所西側の道路を(北)へ、約300mで左(西)へ、国道46号線です

 約1.4kmで運送会社の手前の信号を右(北)へ入って直ぐの信号を斜め左(北西)へ

 約700mで盛岡バイパスの下を潜って、更に道成りに2.2kmで県道13号の信号を過ぎて

 約400mの横断歩道の手前で左(西)へ、約500mで東北自動車道の下を潜ります

 約300mで斜め左に入ると建築会社の屋根の上に大きな樹冠が見えてきます

 長禅寺の駐車場から見ました

 目通り幹囲9.1mの巨木です

 ズームアップして見ました

 根元のミョウガ畑の中に、平成27年(2015)4月1日指定の「景観重要樹木第30号」のプレートですが、内容は見えませんでしたが、盛岡市のホームページでは指定時推定樹齢280年と有りました

 少し南東側から見ました

 *平成7年(1995年)4月27日に保存樹木第69号にも指定されているそうですが、ホームページは無くなってしまったようでした

 では、次へ行きましょう




 2024・9・13・14・55
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岩手県盛岡市、猪去上平「薬師神社のクロビ」(市指定)です!!

2024-10-26 12:30:44 | 巨樹・大木
 猪去上平地区は、盛岡市役所の西南西約10km、盛岡市役所都南総合支所の西北西約9kmのところですが、

 薬師神社は薬師岳標高約415mの山頂部にあります

 盛岡市役所都南総合支所西側の道路を(北)へ、約300mで左(西)へ、国道46号線です

 約1.4kmで運送会社の手前の信号を右(北)へ入って直ぐの信号を斜め左(北西)へ

 約700mで盛岡バイパスの下を潜って、更に道成りに2.2kmで県道13号の信号を過ぎて

 約700mで斜め左(西)へ、約500mで東北自動車道の下を潜ります

 約1.6kmで道路が右に鍵の手にカーブします、約200mの変形十字路を右(北)へ、約200mで自販機の先を左(西)へ

 道成に約1.3kmの盛岡ハイランドカントリークラブの看板の先で左(西)へ

 約800mで道路左(南側)に

 箱ヶ森登山コース案内図です、左下側に薬師山です

 左隣の「太田薬師コース」案内図です、こちらのコースを往復します

 少し戻ると、「薬師神社のクロビ」天然記念物標柱です

 標柱の前の橋を渡って南東へ入ります

 リンゴ園を左に見ながら、電気柵に沿って細い道路を上がって行きます

 奥に鳥居の見える広場に出ました

 広場の北東側からは

 リンゴ園越しに盛岡市内を見下ろしました

 説明版です
   太田の里・まるごとマップ⑰
     上平(うわだい)遺跡(上平展望台)
 この周辺の遺跡発掘調査は、昭和61年(1986)から平成5年(1993)にかけて実施され、約8000年前の縄文時代早期の土器や石器をはじめとして遺構や遺物が出土したことから、縄文時代の集落跡と考えられます。
 このほかにも、縄文時代早期・中期・後期・晩期、弥生時代(約2000年前)、平安時代(約1100年前)、室町時代(約500年前)の遺構・遺跡が見つかっています。
 縄文時代は温暖な気候が続き、山の幸などの食料が豊富だったことから、人口が増加した時代と考えられ、集落は台地や丘陵の上に営まれていました。
 この付近では、上鹿妻のオミサカ遺跡、猪去地区の桜台(御所桜のあるところ)、八幡館、多面野木遺跡、蟹沢山、などの丘陵の辺縁部に見られます。
 縄文時代から弥生時代、平安時代、中世、戦国時代そして現代と、人々hあこの高台から盛岡の街の移り変わりを眺めてきたことでしょう。
 
 車を止めた所から約1.2km、標高差約250mの登山に成りました、気温の高い中でストック1本にカメラだけぶら下げて登りました

 薬師神社一ノ鳥居です

 参道を進むと

 説明版があります
   盛岡市指定天然記念物
 1、名称    薬師神社のクロビ
 2、所在地   盛岡市猪去字上平89番地  薬師神社境内
 3、指定年月日 昭和56年7月1日
 4、説明
 クロビは山地の尾根筋に生育するヒノキ科の常緑針葉高木である。
 当神社の勧請と関係のあるものとして、アカマツとともにこの地域の領主猪去蔵人の植栽したものと伝えられている。
 岩手県における最大木は石鳥谷町のサカサヒバと俗称されているもので、第2位は釜石市鵜住神社のもので本樹は第3位である。
 平成7年測定によれば、目通り幹囲2.6m、枝張り10.7m、樹高21mで、樹齢は400年以上と推定されている。
 5、所有者   盛岡市猪去字上平89番地  薬師神社
 〈薬師神社〉 通称「猪去峯のお薬師さん」と呼ばれ少名彦命を祀る。例祭日は6月8日
     平成7年3月    盛岡市教育委員会

 神楽殿です

 両部鳥居はニノ鳥居です

 薬師山頂上まで約800mの表示板です

 送電線巡視の表示板です

 緩く登って行きます

 頂上まで約300mの表示板です

 緩く上っていきます

 少しずつ登山道が急になった来ると階段が出て来ます

 送電線巡回表示です

 右手に送電線の鉄塔です

 送電線に下は、陽当たりが良いのでヤブっぽくなっています

 しっかりした段が付けられています

 柵に囲まれた石碑があります、右側には獅子頭の様です

 登山道の崩れている場所には補助ロープが架けられています

 空が開けてきました、間も無く頂上です

 薬師神社社殿です

 軒下の額です

 境内にも神楽殿のようです

 目的のクロビです

 立札ですが文字は消えてしまっています

 南側から

 東側から

 北側には杉の大木です、根元には出羽三山の石碑です

 大松の切株に屋根が架けられています

 説明版です
   太田の里・まるごとマップ⑱
     峯薬師神社
 薬師山(海抜407.5m)の山頂に鎮座する峯の薬師神社は、大同元年(806)現在地に祀られたと伝えられています。 
 大東亜戦争終戦前は太田村の村社でした。御神体は徳川時代の作と伝えられる薬師如来像です。
 明治44年(1911)に社殿が再建された際発見した棟札様のものに「峯の薬師如来は天笠の月氏国医師善逝の御姫浄瑠璃光女と申奉る、此地神国に降来し玉ひて薬師菩薩と号す。一切の諸病を療し民衆を救わんがため、大同元丙戌此」とありました。
 明治初年に起きた廃仏毀釈運動に際し、少名彦名命を奉祀して従来の薬師如来を薬師神社と改称しています。例祭日は6月第一日曜日です。
 なお神木の大松と盛岡市指定の天然記念物クロビは、猪去氏2代目に猪去蔵人(天文末年頃 1550)手植えとされ、またその下にある出羽三山の碑の周辺に置かれている一つ一つの穴あき石は、目、耳、鼻等人体の穴の病気平癒を記念して願いを込めて奉納したものです。
     「太田の昭和史」より 
 
 説明版に在った「穴あき石」のようです

 長くなってしまいました、戻って次へ行きましょう
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岩手県盛岡市、上太田細工「老人ホームけやき荘の宰郷のケヤキ」(市指定)です!!

2024-10-26 06:31:26 | 巨樹・大木
 上太田細工地区は、盛岡市役所の南西約km、盛岡市役所都南総合支所の北西約9kmのところです

 盛岡市役所都南総合支所前の道路を東へ、約500mで「岩手飯岡駅入口」信号を左(北北西)へ国道4号線です

 約2.1kmで「⇖県庁・盛岡駅・県道16号線」の標識に従って、歩道橋下で国道4号線から斜め左(北北東)へ

 約1.3kmで「仙北地下道」のある交差点の信号を左(西)へ

 JR東北本線・新幹線の高架を潜って約4kmの「⇐御所湖・県道16号線」の標識に従って信号を左(西)へ

 約2.2kmで右(北)へ入ると左手に「軽費老人ホーム盛岡市立けやき荘」が有ります

 目的のケヤキは、中庭にありますが、北側の道路からも見ることが出来そうなので北側へ廻ってみました

 道路脇に車を止めさせて頂きました

 北東側からケヤキを見る事が出来ますが、根元は見えませ

 目通り幹囲6.5mの巨木です

 もう一枚だけ撮影してみました

 *盛岡市指定天然記念物
 1、名称    宰郷のケヤキ (さいごうのけやき) 1本
 2、所在地   盛岡市上太田細工4
 3、指定年月日 昭和47年11月22日
 4、説明
 ケヤキは二レ科に属する落葉高木で、元来青森県以南の低い山地に生育し、寿命が長く、所々に大木があることで知られている。
 材質がかたく、湿気に耐えるため、古くから建築材としても珍重されている。
 このケヤキは根元径3.8m、目通周囲6.8m、樹高約30mで、樹齢約650年と推定され、岩手県内でも上位に位置する大木である。
 当初は江戸前期の天和年間の頃、丹波より移り住んだといわれる豪農佐々木家(屋号=宰郷)の屋敷跡で、ケヤキも当家の屋敷林として長く保護され、この地域を代表するシンボルとして親しまれ現在に至っている。
 5、所有者   盛岡市
      平成14年8月    盛岡市教育委員会
 
 *ネットの記事の説明版写真より。

 *苑内には、老人ホーム開園まえからあった、土蔵が残されているようです。

 では、次へ行きましょ



 2024・9・13・12・55
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岩手県盛岡市、南仙北2丁目「南仙北のケンポナシ」(市指定)です!!

2024-10-25 18:42:18 | 巨樹・大木
 南仙北2丁目地区hあ、盛岡市役所の南約4km、盛岡市役所都南総合支所の北北西約3kmのところ

 盛岡市役所都南総合支所南側の道路を東へ、約500mで「岩手飯岡駅入口」信号を左(北北西)へ国道4号線です

 約2.1kmで「⇖県庁・盛岡駅・県道16号線」の標識に従って、歩道橋下で国道4号線から斜め左(北北東)へ

 約200mで「100円ショップ」手前を左(西)へ入ります

 道成りに約600mで、左手に目的のケンポナシがあるはずなのですが・・・

 すぐ先の会社の駐車場南東側に大きな幹が見えました

 前の道路脇に車を止めさせて頂きました

 集合住宅の間の歩道を入ります

 小さな公園に目的のケンポナシです

 南東側から

 説明版です
   盛岡市指定天然記念物
 1、名称    南仙北のケンポナシ   1本
 2、説明
 ケンポナシはクロウメモドキ科に属する高木で、東アジア温帯に分布し、日本では北海道(奥尻島)から九州まで自生するが、県内の大木の報告はほとんどない。
 樹齢は300年前後と見られる。
 明治32年(1899)に刊行された、「増補俚言集覧」には、”「あまかせ」陸奥南部の方言、果名けんぽなしをいふ”とあり、他にも「あまかぜ」「あまじゃ」「あまがじぇ」「あまじこ」などの方言もある。
 果実は球形の核果だが、果肉はほとんどない。果実の根元の枝の部分(果柄)が食用とされた。
 〇形状(平成21年測定)
   樹高     20.0m
   幹周      4.1m
   枝張 (東西) 14.5m
      (南北) 20.4m
 3、指定年月日  昭和47年11月22日
 4、所在地    盛岡市南仙北2丁目4番
 5、所有者    佐々木勝弥
     平成30年3月    盛岡市教育委員会

 南側から

 東側から

 北側から見上げました

 保存樹標識です


 では、次へ行きましょう



 2024・9・13・12・10
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岩手県盛岡市、本宮大宮「大宮神社のモミ」(市指定)です!!

2024-10-25 12:39:57 | 巨樹・大木
 本宮大宮地区は、盛岡市役所のkm、盛岡市役所都南総合支所の北西約6kmのところです

 盛岡市役所都南総合支所前の道路を東へ、約500mで「岩手飯岡駅入口」信号を左(北北西)へ国道4号線です

 約2.1kmで「⇖県庁・盛岡駅・県道16号線」の標識に従って、歩道橋下で国道4号線から斜め左(北北東)へ

 約1.3kmで「仙北地下道」のある交差点の信号を左(西)へ

 JR東北本線・新幹線の高架を潜って約2.7kmの「⇐花巻温泉郷・流通センター・県道13号線」の標識に従って左(南南西)へ

 約400mで信号を右(西)へ入ると、すぐ右手に

 南東向きに大宮神社です

 境内に車を入れる事が出来ました

 大きな岩の上に載った大宮神社社號標です

 参道から左手奥に目的のモミが見えます

 右手には手水舎です

 神楽殿です

 ニノ鳥居です

 鳥居脇からモミを見ました

 拝殿です


 本殿です

 説明版です
   大宮神社
      大宮神社 宮司 岸根亜希子
 大宮神社は、延暦年間、滝沢郷の高丸(アテルイ一族)という蝦夷の頭領が朝廷に従わず、反乱を起こした。
 朝廷は坂上田村麻呂を、征夷大将軍に仁じ、節刀を賜り奥州に下向きし、中野郷渋谷(現在本宮字大宮)で戦うが、高丸の勢力強大で征する事が出来なかった。
 一時帰朝し、伊勢神宮に朝廷を通じて奉幣し、平定祈願した際に天皇の勅命により神宮の御分霊を賜り、神主鈴木母多里麻呂藤原正純(鈴木神主主祖)並びに、藤村淡路守藤原重勝(弊堂家)、共に奉じて坂上田村麻呂と下向した。
 下宮の御分霊が大宮神社の御祭神です。
 大宮神楽は、大宮神社に奉納する神楽であり、坂上田村麻呂に同行した神主の社家が受け継いできました。
 天保9年(1838年)の神楽本にある18演目のうち16演目が舞われています。
 また、「南部叢書」や神社に保存されている文献には、慶長16年(1607年)に中津川に橋が架けられ、その渡りはじめの際、獅子舞と神楽が奉納されたことや、盛岡城鳥帽岩を3度回り悪魔退散の祈願を行ったと残されています。
 大宮神楽は大宮神社のほか、市内の神社例大祭あるいは、地域の御祝い事の時にも奉納されています。
     平成25年 御鎮座1210年祭
       盛岡本宮鎮守
     宵宮祭  8月16日 ・ 例大祭  8月17日

 文化財説明版です
   盛岡市指定文化財
 1、名称    多賀神楽絵額(12面)
 2、指定年月日 昭和58年8月1日
 3、説明
 神道に熱心であった南部利敬公(36代)は、それまで地神楽であった多賀神楽に江戸風の神楽舞の導入を図り、文化3年(1806)多賀明神の神楽社人3名を一年間江戸に留学させ江戸神楽を学ばせた。 
 これが多賀神楽江戸舞と呼ばれたものである。
 この絵額はそれを記念して奉納したものであろう。
 制作年代は文化5年(1808)で各演目の代表的場面が描かれている。
 保存状況も良好で民俗芸能を伝える作品として貴重な資料である。

 1、名称    大宮神社の鰐口(工芸)
 2、指定年月日 昭和48年10月18日
 3、説明
 円形の青銅製。径縁が36.3cm、厚さ15.0cm、縁部の高さ10.2cmあり、表の銘帯に「奥州岩手郡中野郷大宮鐘願主田村俊宅敬白、応永12年乙酉12月吉日」(1405)の銘文がある。
 盛岡市内では最古の紀年で鰐口の大きさ、立派さは天台寺の正平18年(1363)の鰐口に次ぐものであろう。
 所有者 盛岡市本宮字大宮51  大宮神社
       平成8年10月    盛岡市教育委員会


 モミを南東側から

 東側から

 説明版です
   盛岡市指定天然記念物
 1、名称    大宮神社のモミ
 2、説明
 本樹は、「日本老樹名木天然記念樹」(1962帝国森林会編集)によると、永徳2年(1382)、後小松天皇の時に祝典を行い、領主自ら植えたという伝承がある。
 盛岡市は、モミの天然生育地からはずれており、本樹は植樹されてものと考える。
 樹齢の推定は難しいが、肥大成長が年4~4.5mmとすると、 おおよそ630年生とみられ、伝承や同社所在の鰐口の銘文ともほぼ合致する。
  樹高     30.0m   
  幹周      5.2m
  枝張り (東西)19.6m
      (南北)19.2m
 3、指定年月日 昭和47年11月22日
 4、所在地   盛岡市本宮字大宮51番地
 5、所有者   大宮神社
      平成29年3月     盛岡市教育委員会

 北東側から、大きな石碑は、大正6年建立の顕彰碑のようですが読めませんでした

 北側から

 北西側から

 西側から見上げました

 南西側から、垣根の切れ間から根元が見えました

 大宮稲荷神社です

 神馬殿です

 長くなってしまいました、次へ行きましょう



 2024・9・13・12・35

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岩手県盛岡市、門真立「門のシダレカツラ」(国指定)です!!

2024-10-25 06:37:05 | 巨樹・大木
 門真立地区は、盛岡市役所のkm、盛岡市役所都南総合支所の北東約3kmのところです

 盛岡市役所都南総合支所南側の道路を東へ、約500mで左(北北東)へ、国道4号線です

 約500mの「盛岡南インター入口」信号を右(東北東)へ、県道36号線です

 約1.4km北上川を都南大橋で渡った東岸の「都南大橋東」信号を左(北西)へ、国道396号線です

 約1.4kmで右へ曲がる予定でしたがコンビニから出てくる車がいたのいで、更に400m先の信号まで行きました

 信号を右(東)へ入ると直ぐ左手に「近郊自然歩道」の説明版の側に「国指定天然記念物シダレカツラ」の標柱がありました
   近郊自然歩道
     蝶ヶ森たたら山コース
 北上平野を流れる雫石川や北上川などを眼下に自然の中を散歩してみませんか。
 このコースは、市の木・国指定天然記念物「門のシダレカツラ」の大樹から蝶ヶ森を経て中ヶ森の丘陵を越え、清流梁川のたたら山橋までの約3kmの行程です。
 「東安庭二丁目」バス停から「たたら山公民館」まで、約300mごとに誘導柱や方向板が整備されています。
 コース周辺の広葉樹や果樹園、季節の野鳥や植物とともに盛岡を一望しながら詩情にひたってみてはいかがでしょう。
            盛岡市

 左手に遊歩道と住宅街を右手に道路を道成りに約400mで道路北側に大きな樹冠が見えて来ます

 前の道路脇に車を止めさせて頂きました

 南西側から


 説明版です
   国指定天然記念物
 1、名称    シダレカツラ
 2、所在地   盛岡市門字真立107
 3、指定年月日 大正13年12月9日
 4、説明
 カツラは主に山地の沢沿いに育生する落葉広葉高木で、枝は斜上するのが普通である。しかし、このカツラは枝が垂れさがり、美しい樹形を保っている。そのためシダレカツラと呼ばれ、ほかに例がなく、きわめて珍しものとされている。
 シダレカツラの原木は、稗貫郡大迫町内川目の山中で発見されたのち、早池峰神社所在の岳の妙泉寺境内に植えられた。その後、そのひこばえが盛岡市大ヶ生(旧都南村)の瀧源寺に移され、さらにひこばえをこの地に植栽したものがこのシダレカツラである。
 現在はツギキ苗で大量に増殖が可能になり、県内はもちろん他県にまで移出されるようになった。
 昭和46年に制定された盛岡市の木はカツラで、そのシンボル図に採用されたのげシダレカツラである。
 このシダレカツラは現在、目通り幹囲3.26m、樹高22m、樹齢約130年と推定されています。
    *ひこばえ:切り株や残った根から出る芽
 5、所有者   関口和子
    平成14年9月    盛岡市教育委員会
*大正13年は1924年ですので、調度100年前ですね、推定樹齢を考えるとまだ植えられたばかりの時期に天然記念物してされたようです
*グーグルマップでは、「関口家のシダレカツラ」と表記されています
*今回の取材旅行では、瀧源寺や肴町のシダレカツラへは行きませんでしたので、今後の取材では見逃さないようにしたいと思います


 南西側から

 南東側から

 南側に離れて見ました

 では、次へ行きましょう
 
 


 2024・9・13・11・50
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岩手県盛岡市、手代森21地割 「法領神社のハルニレ切株(市指定)とシンジュ」です!!

2024-10-24 19:08:05 | 文化財・樹木
 手代森21地割地区は、盛岡市役所の南南東約9km、盛岡市役所都南総合支所の南東約4km、都南総合支所乙部出張所の北約3kmのところです

 都南総合支所乙部出張所前の国道396号線を北西へ、道成りに進みます

 約3.6kmの「都南中央橋東」信号を右(東)へ

 約200mで右(南)へカーブして、更に約200mで左手に

 法領神社の鳥居です

 すぐ先を右(西)へ入った「盛岡市立手代森小学校」校庭の東側の道路脇に車を止めさせて頂きました

 社號標です

 石段を上がります

 社殿一段手前です

 社殿前の斜面に目的のハルニレの切株です

 「盛岡市指定天然記念物 法領のハルニレ」の標柱です

 説明版です
   盛岡市指定天然記念物
 1、名称    法領のハルニレ
 2、所在地   盛岡市手代森21地割23番地
 3、指定年月日 昭和48年7月20日
 4、解説
 ハルニレ(春楡)は山地の湿潤地に生育するニレ科の落葉高木である。
 本樹はいつの時代に植えられたものか不明であるが、樹齢は350年以上と推定される。
 平成7年の測定によれば、目通り幹囲約5.9m、樹高約28mの巨木である。
 〈法領神社〉例祭日は8月15日。寛保2年(1742)の棟札が残っている。
      現社殿は昭和12年に改築された。   

 屋根が掛けられて切株を保護しています

 南西側から

 北側に「シンジュ」です

 説明版です
   シンジュ(ニワウルシ)
 シンジュは中国原産で、我が国では庭木、街路樹として植えられるほか、河川沿いにしばしば野生化している。
 高さ20mに達する高木で、根を傷つけると萌芽する性質がある。樹皮は平滑で浅裂し、若枝は赤褐色で柔毛を散生する。
 葉は互生し、奇数羽状複葉で、長さ40~90cm、もむと少し臭気がある。葉柄、葉軸に短毛を密生するが後に無毛になる。
 小葉は、長さ5~8mmの小葉柄ああり、卵状被針形、長さ7~12cm、膜質で先端はとがり、基部近くに2~4個の鋸歯があり、歯端に1個の腺がある。
 多くは雌雄異株で、夏季枝先に長さ10~30cmの円錐花序を出す。花は単性、ときに両性で、緑白色で径7~8mm、雄ずいは10本、雌ずいは5心皮からなり、柱頭は5裂する。
 果実は2~5個の分果からなり、、分果は長楕円形の平たい翼果で長さ3~5cm、中央に径約5mmの丸い種子がある。
 材は淡黄色で光沢があり、器具などに用いることがある。若葉は塩蔵して食用にし、また、シンジュサン(蚕)の天然飼育に用いる。
 根皮(樗白皮)や樹皮は血圧降下の効があり、中医方では解熱、止血、駆虫薬などに用いる。(神樹)
       平成17年1月吉日   北田武男  建立
 法領神社社殿です

 社殿の南西側にカツラの単木です

 カツラもハルニレ同様に湿潤地を好みます、ヒコバエが少しだけ出ていました

 では、次へ行きましょう



 2024・9・13・11・30
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岩手県盛岡市、乙部28地割「菖蒲田のカヤ」(市指定)です!!

2024-10-24 12:33:47 | 巨樹・大木
 盛岡市は岩手県の県庁所在地です、「菖蒲田のカヤ」のある都南地域(旧紫波郡都南村・盛岡市の南部)は、平成4年(1992)4月1日に盛岡市に編入されましたが、それ以前の旧都南村も、昭和30年(1955)4月1日に 紫波郡内の見前村、乙部村、飯岡村の3村による新設合併で都南村を新設しています。
 今回の乙部地区は、北上川の東岸に当たります、旧村役場が盛岡市市役所都南総合支所乙部出張所として使われています。

 乙部28地割地区は、盛岡市役所の南南東12km、盛岡市役所都南総合支所の南東約6km、都南総合支所乙部出張所の南東約1.5kmのところです

 盛岡市役所都南総合支所乙部出張所前の国道396号線を南西へ

 約1.6kmで右手に足場会社の資材置き場のある先を左(東)の農道に入ると

 左手のビニールハウスの間から

 一段下の農家の前庭に目的のカヤです

 少し東へ移動すると良く見えました

 ズームアップしました

 北側の県道208号線の信号東側へ移動しました

 形の良い大きな傘のような樹冠です

 *環境省巨樹データベースでは、樹高15m、目通り幹囲3.69m(2000年の追加調査)の大木です

 もう一枚だけ撮影させて頂きました

 国道と県道の交差点の信号からも南東側に「菖蒲田のカヤ」を見ることが出来ました

 では、次へ行きましょう




 2024・9・13・11・00
 
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岩手県紫波町、東長岡天王「八坂神社のナラカシワ」(町指定)です!!

2024-10-24 06:31:59 | 文化財・樹木
 東長岡天王地区は、紫波町役場の北東約6kmの北上川東岸です

 志波町役場東側の道路を北へ出て、約100mの一時停止を右(東)へ進みます

 約300mのアンダーパスでJR東北本線・新幹線を越え、約600mで「⇐盛岡・国道4号線」の標識に従って左(北)へ

 約3.8kmの「長徳橋入口」信号を右(東)へ、約2kmで長徳橋で北上川を渡ります

 約700mで「⇐盛岡」の標識に従って信号を左(北東)へ

 右手に鳥居が見えて来ます

 境内入り口鳥居です

 境内に車を止める事が出来ました

 八坂神社社號標です

 旧郷社八坂神社の社號標です

 説明版です
   長岡鎮座八坂神社由緒
 1、由緒
 八幡神社は、人皇第50代桓武天皇、延暦年間(782~806)坂上田村麿将軍東夷征伐の勅命を奉じ、東奥の霧ヶ山嶽又は岩鷲山(現在の岩手山)に蝦夷の首魁大猛丸という凶賊が巣を成し住み、住民を悩まし、群夷を指揮して王政を軽んじ政に従わず。
 将軍皇命を拝し東夷征伐に降る。志和郡長岡村に朝日ヶ郷と言う地あり、四方田圃を囲し一の小丘たる、将軍この地に軍を止める。 対陣し遂に勇猛強力なる大猛丸を討伐し給し首を掲げて京師に帰る。翌年此地、陣跡に武速素盞嗚尊を勧請し、武運長久を祈らせ給う。
 その後、文安年中(1444~1446)奥州の国郡山比爪城(現在の城山)の斯波陸奥州義兼、同族の斯波孫三郎詮直と代々崇敬厚く神領を寄進し、また社殿の補修あり。
 天正年中(1573~1592)斯波氏に代わり南部氏が当地を領するに、藩主南部信直公をはじめ歴代の藩主崇敬厚く、寛永9年(1632)藩主利直公黒印状をもって当社に、牛頭天王社の崇敬を給り、共に玄米15駄づつ永代寄進の証文附置下さる。
 其後、斯波氏退没、南部氏代々崇敬の神社となり社領は勿論の事、常に神饌弊帛の料を供して厚く祭祀を行う。
 元禄年中(1688~1703)藩主重信公社殿御造営寄進。宝永4年(1775)藩主行信公玄米15駄づつ永代寄進の証文附置下さる。
 享保6年(1721)藩主利幹公社殿修復。宝暦5年(1755)藩主利雄公社殿修復。寛政5年(1793)及び文化5年(1808)藩主利敬公社殿修復。文政10年(1827)、天保10年(1839)、文久2年(1862)いずれも藩主利済公社殿修復されしも、貞享年中(1684~1687)に野火により本社末社共に消失す、この時に棟札古器及び神社記なども類焼し伝記を失うといわれる。
 元禄4年(1888)南部領主大膳太夫重信公社殿を再興、古来疫病退散の神として世俗の信仰をあつめる。
 古くは朝日森社とも牛頭天王社とも呼称されたが、明治4年5月14日(太政官布告)盛岡県神祇官において郷社格となり、八坂神社と改称される。明治6年3月再度社格郷社に列せられて以来紫波郡河東一宮として信仰厚く、近郷の崇敬者多くをみるに至る。
 昭和23年7月神社庁より「宗教法人八坂神社」として位置付けられ、社格を「二級社上」位となる。
 2、御祭神   素盞嗚尊 
 3、祭日     元旦祭     1月 1日
      春祭り 新年祭     1月16日
          相馬祭     1月16日
          宵宮祭   旧暦6月13日
      例大祭 例大祭   旧暦6月14日
          報賽祭   旧暦6月15日
      秋祭り 合祀祭(十三社)9月10日
          勤労感謝祭  11月23日
          御年越祭   12月17日
      除夜祭 大晦日祭   12月31日    

 北側には境内社の相馬神社です

 西北西向きの参道石段を上がります

 鳥居です

 手水舎です

 拝殿です

 本殿です

 北側から境内東側へ降りる事が出来ます



 境内北側の駐車場から岩手山が見えました

 目的のナラカシワは、南側から上がって来る車道の東側の斜面にあります

 説明版です
   八坂神社のナラカシワ
 ブナ科に属する落葉高木、本種の分布は本州(各部)、四国、九州のほか、海外では朝鮮半島、中国東北部、インドシナ半島、インド東北部と分布域が広い。
 本州では岩手県、秋田県以南に見られる。
 県内では南から一関、平泉町、奥州市、金ヶ崎町、北上市、遠野市、花巻市、紫波町に確認されており、紫波町長岡地区は天然分布の北限である。
 なお、県内の分布地区を概観すると、北上川低地帯に限られ、かつ神社、仏閣、庭園に限られるほか、独立樹として点在し、いずれも大木として知られている。
 花巻市「北笹間のならかしわ」は県指定天然記念物となっている。
       紫波町教育委員会
 *花巻市「北笹間のならかしわ」は、このブログで紹介させて頂いております 

 西側から

 南西側から

 南側の道路から見ました

 ズームアップして見ました

 では、次へ行きましょう


 
 2024・9・13・10・35
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岩手県紫波町、二日町御堂前「木宮神社のケヤキ群」(町指定)です!!

2024-10-23 18:54:36 | 巨樹・大木
 二日町御堂前地区は、紫波町役場の北東約2.5kmのところ

 志波町役場東側の道路を北へ出て、約100mの一時停止を右(東)へ進みます

 約300mのアンダーパスでJR東北本線・新幹線を越え、約600mで「⇐盛岡・国道4号線」の標識に従って左(北)へ
 
 約400mで「城山入口」信号を右(東)へ、坂道を緩く上って約400m「吉兵衛舘跡⇒」の看板の先で左(北)へ、

 約700mで右手に「走湯神社のケヤキ」です、北へ約200mで

 右手に鳥居とケヤキの木の建つ広い境内が見えて来ます

 前の道路脇に車を止めさせて頂きました

 西向きに鳥居です

 木宮神社社號標です

 木宮神社の由緒書きです
   木宮神社由緒
 木宮神社は、人皇50代桓武天皇延暦年中(782~806)征夷大将軍坂上田村麻呂、蝦夷征伐東奥開拓のため下向され、山地に志和城を築き、城内の鎮守として静岡県伊豆国田方郡熱海鎮座の来宮神社を御分霊勧請し斎き祀りし、由緒ある古社であります。
 代々の領主の尊崇厚く、その家紋たる向鶴の紋章を印たる募燈籠等の使用を許される。なお文政年間(1818~1829)の藩主南部利済公直筆と称する神号額面あり。又、火防の神、酒難除けの神として知られております。
 昭和16年9月12日古館村村社に昇格「現在3級社」境内には稲荷神社を有する。
 また、「ケヤキ群」として、昭和50年3月25日天第6号で天然記念物として紫波町の指定を受けております。推定樹齢400年、県内で5指に入るご神木であります。
 近年パワースポットとして女性の方をはじめ訪れる方が増えております。
          岩手県神社名鑑より

 鳥居脇のケヤキを西側から

 天然記念物標柱です

 南側から

 東側から

 境内を東へ進みます

 右手のケヤキが境内で最大のものです

 北西側から

 北東側から、目通り幹囲6.2mの巨木です

 ニノ鳥居です

 東側から

 更に東側から

 参道左手のケヤキです 

 南東側から見ました

 拝殿前から境内を振り返ってみました

 手水鉢です

 拝殿です

 本殿です

 由緒書きにあった境内社の土山稲荷神社です

 石碑が並んでいます

 では、次へ行きましょう



 2024・9・13・10・15
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岩手県紫波町、二日町向山「源頼朝縁の走湯神社と高水寺」です!!

2024-10-23 06:35:04 | 文化財・寺社
 二日町向山地区は、紫波町役場の北東約2kmのところ

 志波町役場東側の道路を北へ出て、約100mの一時停止を右(東)へ進みます

 約300mのアンダーパスでJR東北本線・新幹線を越え、約600mで「⇐盛岡・国道4号線」の標識に従って左(北)へ

 約300mで左に勝源寺の逆ガシワ(国指定)を見て、すぐ先の「城山入口」信号を右(東)へ

 坂道を緩く上って約400m「吉兵衛舘跡⇒」の看板の先で左(北)へ、約700mで右手に

 立派な鳥居が有りますが高水寺です

 まずは、直ぐ北側の走湯神社から、鳥居です
 
 社號標です

 高水寺と走湯神社の吾妻鏡の説明版です
   二日町鹿踊発祥の地
     平泉、鎌倉、南部藩関連の神社
 今日(頼朝は)陣岡を発たれた。
 今まですでに7日間、ここに逗留された。
 ところで高水寺(こうすいじ)の鎮守は(伊豆の)走湯権現(そうとうごんげん)を勧請したものであるが、傍にもまた小さな社があり大道祖といった。
 これは(藤原)清衡が勧請したものである。
 この社の後に大きな槻の木があった。
 二品(源頼朝)はこの樹の下に立つと、走湯権現に奉納すると称して、上矢の鏑二つを射立てられた。
     文治5年(1189)9月11日   現代語訳 吾妻鏡より

 石段を上がって走湯神社の境内へ行ってみましょう

 手水舎です

 参道から左鍵の手に曲がって西向きに拝殿です

 本殿屋根です

 境内社の道祖社と稲荷神社の相殿です

 もう一つの境内社は諏訪神社です

 こちらは左から天満宮、八幡宮、八坂神社です

 庚申塔に金毘羅山、湯殿三山の石碑です

 南側の高水寺へ行ってみました

 石段を上がると宝物庫です

 本堂です

 説明版です
   岩手県指定文化財
     木造十一面観音立像
 「吾妻鏡」の文治5年(1189年)9月9日の記録によると、当時この地にあった高水寺には、称徳天皇の勅願になる1丈の観自在菩薩像が安置されていたという。
 この十一面観世音は、その後身と伝えられている。しかし、これに至るまでの経緯については定かでない。
 藤原末期の作と推定される一木造りの秀作で、昭和35年12月24日に岩手県の有形文化財に指定された。
 当国33番のうち7番の札所として、近郷の信仰を集めている。 

 では、次へ行きましょう


 

 2024・9・13・10・05

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岩手県紫波町、二日町向山「走湯神社の矢立の槻(ケヤキ)と大杉」(町指定)です!!

2024-10-22 18:50:52 | 巨樹・大木
 二日町向山地区は、紫波町役場の北東約2kmのところ

 志波町役場東側の道路を北へ出て、約100mの一時停止を右(東)へ進みます

 約300mのアンダーパスでJR東北本線・新幹線を越え、約600mで「⇐盛岡・国道4号線」の標識に従って左(北)へ

 約300mで左に勝源寺の逆ガシワ(国指定)を見て、すぐ先の「城山入口」信号を右(東)へ

 坂道を緩く上って約400m「吉兵衛舘跡⇒」の看板の先で左(北)へ、約700mで右手に


 走湯神社の鳥居です

 北側の駐車場に車を止めさせて頂きました
 
 社號標です

 高水寺と走湯神社の吾妻鏡の説明版です
   二日町鹿踊発祥の地
     平泉、鎌倉、南部藩関連の神社
 今日(頼朝は)陣岡を発たれた。
 今まですでに7日間、ここに逗留された。
 ところで高水寺(こうすいじ)の鎮守は(伊豆の)走湯権現(そうとうごんげん)を勧請したものであるが、傍にもまた小さな社があり大道祖といった。
 これは(藤原)清衡が勧請したものである。
 この社の後に大きな槻の木があった。
 二品(源頼朝)はこの樹の下に立つと、走湯権現に奉納すると称して、上矢の鏑二つを射立てられた。
     文治5年(1189)9月11日   現代語訳 吾妻鏡より


 走湯神社鳥居の北側に目的のケヤキです

 南西側から

 天然記念物標柱です

 説明版です
   矢立の槻(つき)
 源頼朝が、1198年9月に藤原泰衡を追って陣ヶ岡に布陣した時に、鏑矢(かぶらや)2本を射立てたケヤキ木
 〔推定樹齢1000年・幹周6.5m〕



 石段を上がって南東側から、大きん洞が出来ています

 石段を戻って西側から

 北西側から

 北側から見ました

 大杉は走湯神社の境内ですので、行ってみましょう


 境内北側にもう一つの目的の杉の巨木です

 南側から

 説明版です
   走湯神社の大杉
 源頼朝が、1198年9月に高水寺の守り神として湯走権現を祭った時から、御神木とされてきた杉の木・
 〔推定樹齢1000年・幹周5.5m〕

 南東側から 

 長く成ってしまいますので続きにさせて頂きます<m(__)m>

 

 2024・9・13・10・05






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岩手県紫波町、日詰朝日田「勝源院の逆ガシワ」(国指定)です!!

2024-10-22 07:55:48 | 文化財・樹木
 日詰朝日田地区は、紫波町役場の北東側直ぐのところです、目的の「逆ガシワ」のある勝源院は東北東厄1kmのところです

 志波町役場東側の道路を北へ出て、約100mの一時停止を右(東)へ進みます

 約300mのアンダーパスでJR東北本線・新幹線を越え、約600mで「⇐盛岡・国道4号線」の標識に従って左(北)へ

 薬400mで国道4号線の左に「逆ガシワ」の看板が出ています

 すぐ先に「勝源寺」の駐車場が有ります

 国道4号線に面して東向きに参道です

 参道を進むと山門の鐘楼門です

 六地蔵様です

 本堂です 

さて、「逆ガシワ」に向かうには、案内板に従っていきましょう(山門前に在ります)

 案内板「①」です 

 本堂を南側から巻くように「⓶」

 進む「③}と

 建物の上に「逆カシワ」の樹冠が見えました

 逆カシワです

 南側から


 寝てしまった幹が支柱で持ち上げられています 

 説明版です(山門前の駐車場脇に在ります)
   国指定天然記念物
     勝源寺の逆ガシワ
       昭和5年12月17日指定
 カシワは本来幹が直立し、高さ20m以上になる落葉広葉樹である。
 しかし、ここ勝源寺のカシワは直立せず、地際で4本の支幹に分かれ、それぞれ地面地面を這うように伸びてから立ち上がっている。
 この姿は、あたかも根が枝になったように見えることから逆カシワの名で古くから親しまれてきた。
 このような変わった樹形を持つカシワの巨樹は珍しく貴重であり、カシワとしては最も早く国の指定を受けている。
   推定樹齢  約300年
   枝張    東西 21・80m
         南北 27.70m
   根元周囲  5m
   樹高    12.20m
   別名    みだれカシカ
            紫波町教育委員会

 根元の周囲は5mあります

 南西側から、主幹は寝ています

 西南西側から、大枝は沢山の支柱に支えられています

 大きな幹ですが、根際から1m位いで横に寝てしまっています

 西側から

 西北西側から、目通り幹囲は測れませんね

 北西側から見ました

 では、次へ行きましょう




 2024・9・13・9・45

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岩手県紫波町、桜町本町川原「志賀理和気神社の南面のサクラ群」(町指定)です!!

2024-10-21 18:58:19 | 巨樹・大木
 桜町本町川原地区は、紫波町役場の南東約2kmのところ

 志波町役場東側の道路を北へ出て、約100mの一時停止を右(東)へ進みます

 約300mのアンダーパスでJR東北本線・新幹線を越え、約600mで「花巻・国道4号線⇒」の標識に従って右(南)へ

 約1kmの「紫波警察署前」信号を左(東)へ、約300mで丁字路を右(南南東)へ

 約100mで道路左に社號標です

 延喜式内社・南部一之宮 赤石神社・志賀理和気神社となっています

 志賀理和気神社の参道です

 参道脇に車を止めさせて頂きました

 砂利道を東へ入るのですが・・・北側に「南面の櫻」の大きな石碑です

 すぐ先左(北側)に柵に囲われて桜があります、目的の「南面の桜」です

 南側から

 根元には「南面の桜・ヒガンザクラ群」の志波町天然記念物の標柱です

 説明版です
   南面の桜
 この桜には、いつのころからか次のような物語が伝えられている。
 元弘のころ、都からこの地に下った藤原頼之は、河東に領主河村少将の娘、桃香と相思相愛の仲となった。
 ある日二人はこの社頭に桜を植えて、やがてくるであろう爛漫の春を夢見た。
 ところがその二人に悲しい日が訪れた。頼之が急に都に上がることになったのである。
 二人は再会を固く誓って別れた。
 歳月は流れ、かつて植えた桜は、もののみごとに咲き、不思議にも花は南面に向かって咲いていた。
 やるせない桃香の心が桜に宿ったものであろう。
    一首 「南面の 桜の花は 咲にけり 都の麻呂に かくとつげばや」 桃香
             紫波町・紫波町観光協会

  南東側から

 砂利道の北側に桜の大木が並んでいます

 説明版です
   南面のサクラ
 このサクラはアズマヒガンの集団で、約30本からなるサクラ科に属する高木である。
 このうちの最大木は、根元周6.8m、(根元径2.16m)、目通り周4.5m、樹高11.5m、枝張り10mであり、樹令は約500年生と推定されている。
 全般的に老令のため

 では、志賀理和気神社へお参りしましょう 

 砂利道の参道を東へ進むと左手に広い境内です、西側が駐車場に成っています

 駐車場側の鳥居です

 手水舎です

 真新しい拝殿です

 本殿です

 社殿北側には境内社の「赤石天満宮」です

 坂下稲荷神社です

 薬師神社です

 結婚神社です

 祠が並んでいます

 忠魂碑です

 昭和33年8月建立の鎮魂碑です

 *志賀理和氣神社(しがりわけじんじゃ/しかりわけじんじゃ、志賀理和気神社)は、岩手県紫波郡紫波町桜町にある神社。式内社で、旧社格は県社。
 別称として「赤石神社」「浮島明神」とも。式内社としては最も北に位置することで知られています。
 祭神は次の7柱です
  経津主神 (ふつぬしのかみ)
  武甕槌神 (たけみかづちのかみ)
  大己貴神 (おおなむじのかみ)
  少彦名神 (すくなひこなのかみ)
  保食神 (うけもちのかみ)
  猿田彦神 (さるたひこのかみ)
  船霊神 (ふなだまのかみ)
 祭神のうち、大己貴神以下の5柱は後世の合祀ともいわれる
(以上ウィキペディアから)

 *北上川の堤防改修に伴って、神社自体を旧社地から西へ約100m移動中です、移動に伴って多くの社殿が新築となりました。
 更に、鎮守の杜の再生も計画が進んでいます、数十年後には再生された鎮守の杜となるでしょう

 では、次へ行きましょう
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