白沢第6地割地区は、矢巾町役場の南西約1kmのところ
矢巾町役場西側道路を南へ、直ぐの交差点(右手に送電線の鉄塔が有ります)を右(西)へ
約300mで一時停止を左(南)へ、県道120号不動盛岡線です
約500mで信号を左に曲がると
左手に大きなトチの樹冠が見えます
ズームアップして見ました
少し東側から
根元は見えませんが、目通り幹囲6.6mの巨木です
南東側から、大きなお屋敷の中に立っています
大きな石碑が建っています、ここが生誕地の歌人西塔幸子(さいとう・こうこ)の石碑です
碑面には、西塔幸子生誕の地
「淋しい私の生涯に いささかでもうるおいを 与えてくれる歌が ありがたいのです」
西塔幸子 「歌と私」イト
平成5年6月30日建立
説明版です
西塔幸子生誕の地
美しくもまた傷ましい尊くも悲しい純情の結晶が、この「山峡」集である。
金田一京助「山峡」序
歌人・西塔幸子は明治33(1900)年6月30日、この地不動村村松雄一郎氏別宅で生まれた。
両親は旧白沢小学校の先生でした。
幸福になるようにと名づけられですが、幸子35年間の短い生涯は、むしろ、悲しみに満ちていました。
多くの苦難を負いながら、それでも幸子はひたむきに生き続け、没後、歌集「山峡」を残しました。
生誕の地碑は幸子への、私たちの共感と鎮魂の祈りでつくられました。
平成5年6月30日 西塔幸子生誕の日に
西塔幸子生誕の地記念事業実行委員会
*西塔幸子(さいとう・こうこ)で検索してみました、産経新聞の総支局記者コラムの記事「「女啄木」と呼ばれた歌人・西塔幸子終焉の地を訪ねる」が第一番に出て来ました。
*岩手県内の三陸沿岸や北上山地の小学校で教鞭をとりながら、8人の子宝に恵まれた幸子の最後の赴任地である宮古市江繋には記念館があります。
もう一枚だけ
では、次へ行きましょう
2024・9・13・15・40
矢巾町役場西側道路を南へ、直ぐの交差点(右手に送電線の鉄塔が有ります)を右(西)へ
約300mで一時停止を左(南)へ、県道120号不動盛岡線です
約500mで信号を左に曲がると
左手に大きなトチの樹冠が見えます
ズームアップして見ました
少し東側から
根元は見えませんが、目通り幹囲6.6mの巨木です
南東側から、大きなお屋敷の中に立っています
大きな石碑が建っています、ここが生誕地の歌人西塔幸子(さいとう・こうこ)の石碑です
碑面には、西塔幸子生誕の地
「淋しい私の生涯に いささかでもうるおいを 与えてくれる歌が ありがたいのです」
西塔幸子 「歌と私」イト
平成5年6月30日建立
説明版です
西塔幸子生誕の地
美しくもまた傷ましい尊くも悲しい純情の結晶が、この「山峡」集である。
金田一京助「山峡」序
歌人・西塔幸子は明治33(1900)年6月30日、この地不動村村松雄一郎氏別宅で生まれた。
両親は旧白沢小学校の先生でした。
幸福になるようにと名づけられですが、幸子35年間の短い生涯は、むしろ、悲しみに満ちていました。
多くの苦難を負いながら、それでも幸子はひたむきに生き続け、没後、歌集「山峡」を残しました。
生誕の地碑は幸子への、私たちの共感と鎮魂の祈りでつくられました。
平成5年6月30日 西塔幸子生誕の日に
西塔幸子生誕の地記念事業実行委員会
*西塔幸子(さいとう・こうこ)で検索してみました、産経新聞の総支局記者コラムの記事「「女啄木」と呼ばれた歌人・西塔幸子終焉の地を訪ねる」が第一番に出て来ました。
*岩手県内の三陸沿岸や北上山地の小学校で教鞭をとりながら、8人の子宝に恵まれた幸子の最後の赴任地である宮古市江繋には記念館があります。
もう一枚だけ
では、次へ行きましょう
2024・9・13・15・40