2017年6月27日、美濃・郡上八幡の散策で下呂温泉宿泊、名古屋城観光の1泊2日の旅行です。中国自動車道、名神高速道路、東海北陸自動車道の美濃ICで降ります。250Kmの走行です。最初の目的地は美濃市のうだつの上がる町並みで重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。図書館横の無料駐車場に車を止めて反時計回りに散策します。
小倉山城櫓
小倉公園に沿って長良川へ歩きます。葉もみじが素敵ですね。
美濃橋(重要文化財)
「大正5年(1916)建造、鋼製補剛吊橋、橋長113.0m、幅員3.1m、コンクリート造アンカーレイジ2基を含む。美濃橋は,美濃市街地の北部,小倉山の西方を長良川が湾曲して流れる地点に架かる吊橋である。岐阜県技師戸谷亥名蔵を中心に建設が進められ、大正4年8月起工、同5年8月に竣工した。橋長113m、支間116m、幅員3.1mの単径間補剛吊橋である。 両岸に据えられたアンカーレイジに、鉄筋コンクリート造の主塔から吊るされた主ケーブルを碇着し、吊ケーブルで支持された橋桁を鉄骨トラスで補剛する。美濃橋は、わが国に現存する最古の近代吊橋として、橋梁建設史上、高い価値がある。近代吊橋の要素を構造躯体全体に備え、建設当時わが国で最大級の支間を実現した、大正期を代表する吊橋として、重要といえる。」
map
長良川
川沿いに西に進みます。
前野渡舟場跡
「この渡舟場は、室町時代から牧谷と上有知をつなぐ重要な通路であった。昔は下渡りに対して上の渡しといっていたと推察される。安毛から曽代に渡る道もあったが、前野に来てこの渡しを通り港町の坂を登り上条を経て上有知に入るのが近道であった。当時、上有知の町は上条の段丘下の低地にあったが、、関ヶ原戦後、金森長近によって新城下町上有知が造られ、この渡舟場近くに上有知湊が開かれた。」
川端地蔵さん
「長良川での水の犠牲者が多く出た。当時の清泰寺住職高林玄宝老師は深く是を憐れみ、水難者の霊を慰める共に今後は水難者のでないようにと、川端に延命地蔵尊の建立をしました。」
曽代用水(世界かんがい施設遺産)
近くにトイレがあります。
川湊灯台、上有知(こうづち)湊跡(岐阜県指定史跡)
「慶長6年(1601)、金森長近が領主となり小倉山城を築き、城下町上有知をつくりました。その繁栄策として、上有知湊を開き、番船40艘をおき、物資交流の要所としました。その後、江戸時代は美濃国四大川湊の一つとして明治末年電車が開通するまで水運の要点でした。この住吉灯台は水の守護神、住吉神社の献灯を兼ねて江戸末期に建てられました。川湊の灯台として現存する全国的にも珍しい貴重な建造物である。」
住吉神社
川沿いの道を進むとT字路で左に曲がり古い町並みへ進みます。途中右手に須田家です。
「須田家は代々万右衛門を襲名する素封家(大金持ち)でした。上有知一番の大地主と言われていた。戦後の農地解放で多くの田畑を失った。須田家は紙業の問屋を営んでいた時期もあつたが、明治27年には当主が国会議員に選出され、金鉱山の試掘や地元の有力者達と有知銀行をおこし、紙業会社類4商会を設立するなど大活躍した。」
梅村家住宅
「江戸時代の紙商、長瀬の武井助右衛門と共同事業として尾張藩の藩札を一手に引き受けたことも記録に残っている。」
旧武藤家
「豪華な屋敷構え、旧武藤家は上有知町づくりに際し、金森長近が関の刀匠を招いて移住させたと伝えられている。はじめは刀鍛冶、後に刃物金物を業として今日に至っていた。卯建造りの右と後方に大きな倉庫を並べ、いかにも富裕さを誇示するかのような構えである。建築年代は江戸末期であるが、装飾の多い卯建や塗籠の壁などは、明治時代になってからの改造であろう。家の前に円環をとりつけた石があるが、これは馬車の使用が多かった時代の馬繋石である。」
一番町通り
らんたんや
町並み案内図
願念寺、真宗大谷派の寺院
寺標
山門
鐘楼
本堂
寺院を出て、南に進みます。
左に曲がって、二番町通りを東向きに進みます。
鈴屋
町並みギャラリー、山田家住宅、入場料無料ですが、火曜日は休館日でした。
小坂家住宅(重要文化財)
「小坂家は代々つくり酒屋を営む素封家で、母屋から後ろに続く酒蔵まで総べて江戸時代の建築である。むくり屋根の町家は珍しく、上方の影響を受けたものである。卯建飾りは鬼瓦を欠く古風なものである。元来は三本卯建の家であったが、明治時代に中央の卯建を取り除いて現在の姿となった。軒に吊るす杉玉は酒屋の印、四角の箱は火防の神を祀る。内部は一部、明治の改造であるが、帳場の構えや建具の一つ一つに江戸時代の美しい姿が残されている。」
古川家住宅
「古川家は大火焼失後、明治初期の建築である。平野家という呉服家であった。江戸時代には卯建に隣接して卯建を建てた事例はない。この家は明治の新しい自由な気風にのって、あえて隣家の間に空地をとり、立派な卯建造りを新築した。建ちもわずかながら高く、軒飾りも一層手がこんでいる。」
北側に進み一番通りに行きます。
旧今井家住宅・美濃史料館(美濃市重要文化財)
「江戸時代中期の建築で、古い形式の卯建造り、美濃の代表的商家のひとつである。間口15.8m、奥行15.8mで8畳間9つどりを基本形にした最大規模の家屋である。江戸時代から紙の原料商として繁栄をつづけ、江戸末期には庄屋を、戦前には町の諸役を勤めた名家である。」
大石家住宅
「明治5年の卯建造り、この家には棟札があり、建築年代がはっきりした家の一つである。この家は明治の頃は米屋を営み、若主人は自由民権運動の闘士として活躍した。卯建飾りは江戸時代より一層豪華となり大きい鬼瓦、太くして装飾一杯の破風瓦、大きな懸魚がつき、明治の卯建の特色を表わしている。」
寶勝院、真言宗醍醐派の寺院
庫裏
次は郡上八幡城に移動します。
小倉山城櫓
小倉公園に沿って長良川へ歩きます。葉もみじが素敵ですね。
美濃橋(重要文化財)
「大正5年(1916)建造、鋼製補剛吊橋、橋長113.0m、幅員3.1m、コンクリート造アンカーレイジ2基を含む。美濃橋は,美濃市街地の北部,小倉山の西方を長良川が湾曲して流れる地点に架かる吊橋である。岐阜県技師戸谷亥名蔵を中心に建設が進められ、大正4年8月起工、同5年8月に竣工した。橋長113m、支間116m、幅員3.1mの単径間補剛吊橋である。 両岸に据えられたアンカーレイジに、鉄筋コンクリート造の主塔から吊るされた主ケーブルを碇着し、吊ケーブルで支持された橋桁を鉄骨トラスで補剛する。美濃橋は、わが国に現存する最古の近代吊橋として、橋梁建設史上、高い価値がある。近代吊橋の要素を構造躯体全体に備え、建設当時わが国で最大級の支間を実現した、大正期を代表する吊橋として、重要といえる。」
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長良川
川沿いに西に進みます。
前野渡舟場跡
「この渡舟場は、室町時代から牧谷と上有知をつなぐ重要な通路であった。昔は下渡りに対して上の渡しといっていたと推察される。安毛から曽代に渡る道もあったが、前野に来てこの渡しを通り港町の坂を登り上条を経て上有知に入るのが近道であった。当時、上有知の町は上条の段丘下の低地にあったが、、関ヶ原戦後、金森長近によって新城下町上有知が造られ、この渡舟場近くに上有知湊が開かれた。」
川端地蔵さん
「長良川での水の犠牲者が多く出た。当時の清泰寺住職高林玄宝老師は深く是を憐れみ、水難者の霊を慰める共に今後は水難者のでないようにと、川端に延命地蔵尊の建立をしました。」
曽代用水(世界かんがい施設遺産)
近くにトイレがあります。
川湊灯台、上有知(こうづち)湊跡(岐阜県指定史跡)
「慶長6年(1601)、金森長近が領主となり小倉山城を築き、城下町上有知をつくりました。その繁栄策として、上有知湊を開き、番船40艘をおき、物資交流の要所としました。その後、江戸時代は美濃国四大川湊の一つとして明治末年電車が開通するまで水運の要点でした。この住吉灯台は水の守護神、住吉神社の献灯を兼ねて江戸末期に建てられました。川湊の灯台として現存する全国的にも珍しい貴重な建造物である。」
住吉神社
川沿いの道を進むとT字路で左に曲がり古い町並みへ進みます。途中右手に須田家です。
「須田家は代々万右衛門を襲名する素封家(大金持ち)でした。上有知一番の大地主と言われていた。戦後の農地解放で多くの田畑を失った。須田家は紙業の問屋を営んでいた時期もあつたが、明治27年には当主が国会議員に選出され、金鉱山の試掘や地元の有力者達と有知銀行をおこし、紙業会社類4商会を設立するなど大活躍した。」
梅村家住宅
「江戸時代の紙商、長瀬の武井助右衛門と共同事業として尾張藩の藩札を一手に引き受けたことも記録に残っている。」
旧武藤家
「豪華な屋敷構え、旧武藤家は上有知町づくりに際し、金森長近が関の刀匠を招いて移住させたと伝えられている。はじめは刀鍛冶、後に刃物金物を業として今日に至っていた。卯建造りの右と後方に大きな倉庫を並べ、いかにも富裕さを誇示するかのような構えである。建築年代は江戸末期であるが、装飾の多い卯建や塗籠の壁などは、明治時代になってからの改造であろう。家の前に円環をとりつけた石があるが、これは馬車の使用が多かった時代の馬繋石である。」
一番町通り
らんたんや
町並み案内図
願念寺、真宗大谷派の寺院
寺標
山門
鐘楼
本堂
寺院を出て、南に進みます。
左に曲がって、二番町通りを東向きに進みます。
鈴屋
町並みギャラリー、山田家住宅、入場料無料ですが、火曜日は休館日でした。
小坂家住宅(重要文化財)
「小坂家は代々つくり酒屋を営む素封家で、母屋から後ろに続く酒蔵まで総べて江戸時代の建築である。むくり屋根の町家は珍しく、上方の影響を受けたものである。卯建飾りは鬼瓦を欠く古風なものである。元来は三本卯建の家であったが、明治時代に中央の卯建を取り除いて現在の姿となった。軒に吊るす杉玉は酒屋の印、四角の箱は火防の神を祀る。内部は一部、明治の改造であるが、帳場の構えや建具の一つ一つに江戸時代の美しい姿が残されている。」
古川家住宅
「古川家は大火焼失後、明治初期の建築である。平野家という呉服家であった。江戸時代には卯建に隣接して卯建を建てた事例はない。この家は明治の新しい自由な気風にのって、あえて隣家の間に空地をとり、立派な卯建造りを新築した。建ちもわずかながら高く、軒飾りも一層手がこんでいる。」
北側に進み一番通りに行きます。
旧今井家住宅・美濃史料館(美濃市重要文化財)
「江戸時代中期の建築で、古い形式の卯建造り、美濃の代表的商家のひとつである。間口15.8m、奥行15.8mで8畳間9つどりを基本形にした最大規模の家屋である。江戸時代から紙の原料商として繁栄をつづけ、江戸末期には庄屋を、戦前には町の諸役を勤めた名家である。」
大石家住宅
「明治5年の卯建造り、この家には棟札があり、建築年代がはっきりした家の一つである。この家は明治の頃は米屋を営み、若主人は自由民権運動の闘士として活躍した。卯建飾りは江戸時代より一層豪華となり大きい鬼瓦、太くして装飾一杯の破風瓦、大きな懸魚がつき、明治の卯建の特色を表わしている。」
寶勝院、真言宗醍醐派の寺院
庫裏
次は郡上八幡城に移動します。
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