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針外し/爺さんの独り言。役にたたない情報ばかり。

自作のスピナーベイトで今日もバスを釣るぞ!。人はそれを「G」と呼ぶ。爺さんの「G(ジー)」の意味だった。ガクン!。

またまた李白の詩です。

2021-10-08 07:05:26 | 漢詩・古典・エトセトラ

 一寸前の酒のコマーシャルで使われた詩です。皆さん知っている句は「一盃 一盃 復一盃 」の処でしょうね。昔、野末陳平氏が(荘子入門、李白だったかな)、の中でこの句を取り上げまして設定が李白と酒飲み友達の杜甫でした。しこたま飲んだ李白が杜甫に対して「俺は一寸飲み過ぎた、眠くなったから君は一旦帰れ。明日まだ気持ちがあるなら琴を持って来て、興を添えてくれ」なんて書いてましたね。

                           
                 李白

     山中與幽人對酌           山中さんちゅうにて幽人ゆうじん対酌たいしゃくす 
                李白                  はく

     兩人對酌山花開          両人りょうにん 対酌たいしゃくして山花開やまはなひら

     一盃 一盃 復一盃         一杯一杯一杯いっぱいいっぱい一杯いっぱい          
 イーペイ イーペイ フーイーペイ
     我醉欲眠卿且去           われうてねむらんとほっきみしばら

     明朝有意抱琴來           明朝みょうちょう意有いあらばこといだいてたれ

                      
          
              杜     甫

  読みと意味は大体お分かりだろうと思いますので此処では省きます。今、キャンプブームですが、こんな詩を頭に浮かべて友と酒を酌み交わせば、興も尚一層増すでしょうね。漢詩を詠むなんて芸当は出来ませんけど、この句を思い浮かべてお酒を飲むならさぞかし美味しくなるだろうね。
 大体お酒を飲むとき一人ほど味気の無い物はないね。腹を打ち割った友人と飲む美味しい酒がいい。其処に別嬪さんがいて座ってくれてさえいたらもっといいね。(ブフフ、動機が不純だって言うの) 美味しい肴を用意してさ。

大体今の人は、風流を解さないね。粋という物をもう少し感じてほしいと思います。「何を気取ってるんだい」なんていう人もいると思うけど、いいじゃない、気取って裕福な気持ちが持てれば。

コメント (4)
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唐の歴代皇帝(退屈な話ですが)

2021-09-16 08:47:05 | 漢詩・古典・エトセトラ
唐の高祖、太宗の話が出てきたのでちょっくら系図を辿ってみました。皆さんもこんなんで見なければ一生見ないでしょうね。ま、退屈極まりない話で恐縮です。
[唐(618~907)] TANG

李淵(566~635) Li Yuan
  字は叔徳。唐の初代高祖(Gaozu)。神堯大聖大光孝皇帝。在位618~626。隴西郡成紀の人。李昞の子。母は独孤氏。隋の煬帝の従兄にあたる。父の唐国公の位を襲爵した。
大業年間に岐州刺史・殿内少監・衛尉少卿などを歴任した。煬帝の高句麗遠征において糧食の運搬にあたり、楊玄感の乱のときは弘化留守をつとめて、玄感の攻勢を防いだ。大業十一年(615)、山西河東慰撫大使となり、龍門の母端兒を討ち、また突厥の侵入を撃退した。十三年(617)、太原留守に任ぜられ、太原に鎮した。このとき、隋末の混乱に乗じて挙兵した。長安を陥落させて、代王楊侑を隋の恭帝として擁立した。義寧二年(618)に煬帝が殺害されると、恭帝から禅譲を受けて即位した。
武徳と建元し、国号を唐とする。王世充・竇建徳らと争ったが、李世民らの活躍でこれを破り、武徳七年(624)に中国を統一した。在位中、律令新格を公布し、均田・租庸調制を定めた。軍府を置き、州県制を復活させた。長男の李建成を皇太子として立てていたが、李世民が李建成と四男李元吉の兄弟を殺害する「玄武門の変」が起こり、李淵も幽閉されて、李世民に譲位して太上皇となった。隋と唐は同じ身内だったんだね。

李世民(598~649) Li Shimin 唐の皇帝と言えばこの李世民をいいますね。西遊記でも三蔵との義兄弟になっている話があります。
  唐の二代太宗(Taizong)。文武大聖大広孝皇帝。在位626~649。高祖(李淵)の次男。隋末の混乱期、太原留守の父を挙兵させ、一軍を率いて四ヶ月で長安を陥落させた。このとき弱冠二十歳であった。李淵が即位すると、秦王に封じられ、尚書令となる。隋末唐初の群雄割拠の中で、強大化した王世充・竇建徳の連合軍を虎牢に破り、抜群の功績を挙げた。
               

「天策上将」などの官位を加号された。皇太子・李建成や斉王・李元吉と唐朝の後継者を巡って争い、武徳九年(626)長安の玄武門において建成・元吉の兄弟を殺害した玄武門の変)。父・李淵を幽閉して即位すると、貞観と年号を改めた。房玄齢・杜如晦をはじめとして広く人材を集めて、適材適所に配置し、三省六部の官制を整えた。その治世は、後世に「貞観の治」と称揚されている。国が安定すると、西域を経略、突厥が降伏・来朝したが、高句麗遠征は人民を疲弊させた。後継者選定に悩み、外戚・長孫無忌の推す暗弱な李治(高宗)を皇太子にしたことは、後に禍根を残すこととなった。


李治
(628~683) Li Zhi

  字は為善。唐の三代高宗(Gaozong)。天皇大聖大弘孝皇帝。在位649~683。太宗(李世民)の九男母は長孫皇后。貞観五年(631)、晋王に封ぜられた。十七年(643)、太子となる。二十三年(649)、太宗が崩ずると、帝位についた。
                    

永徽二年(651)、新律(永徽律)を公布した。四年(653)、『律疏』を修訂した。永徽の政は、太平がつづき、貞観の遺風があった。六年(655)、王皇后を廃して、武皇后(武照)を立て、褚遂良ら元老を左遷した。顕慶五年(660)ごろから朝政のいっさいは武后が決裁するようになった。在位中、西突厥を平定し、高句麗を破り、安西四鎮を廃止した。三たび太子を変え、武后が執政するようになると、年号を十四たび変えた。泰山で封禅をおこない、各地を巡幸した。晩年、頭痛に苦しみ、眼を失明して崩じた。
褚遂良は書道家としても有名ですよね。                 
李顕(656~710) Li Zhe
  またの名を哲。唐の四代中宗(Zhongzong)。大和大聖大昭孝皇帝。在位683~684、705~710。高宗(李治)の七男。永隆元年(680)、章懐太子李賢が廃されると、代わって太子に立てられた。弘道元年(683)、高宗が崩ずると、帝位についた。翌年二月、韋玄貞を侍中にしようとして、武后の怒りを買い、廃されて廬陵王となり、房州にうつされた。聖暦元年(698)、再び太子となった。武則天の病が重くなると、宰相の張柬之に擁立されて復位し、国号を唐に戻した。国政は皇后韋氏・安楽公主・武三思らに専断され、功臣の多くは粛清され、官爵は濫発された。のちに韋后に毒殺された。
此れより後は読めって言っても面倒臭いよね。好きな人は読んでね

李旦
(662~716) Li Dan

  もとの名は旭輪。唐の五代睿宗(Ruizong)。玄真大聖大興孝皇帝。在位684~690、710~712。高宗(李治)の八男。母は武則天。学問を好み、草書・隷書をよくし、文字訓詁をもっとも愛した。はじめ殷王に封ぜられた。のちに相王・豫王に移封された。嗣聖元年(684)、武后によって中宗が廃されると、帝に立てられたが、政治に参与できなかった。天授元年(690)、武后が立って国号を周と改めると、皇嗣に降ろされ、武姓を賜った。聖暦元年(698)、廬陵王(李顕)が太子となると、再び相王に封ぜられた。神龍元年(705)、中宗が復辟すると、司徒・右羽林衛大将軍となった。景玄元年(710)、韋后が中宗を毒殺すると、息子の臨淄王李隆基が韋氏や武氏を誅したので、復位することができた。姚崇・宋璟を相とし、中宗朝の斜封官をやめさせたが、政令の多くは太子李隆基や太平公主から出された。やがて太平公主が朝政を専断し、政治が乱れてきた。先天元年(712)、位を李隆基(玄宗)に伝え、自らは太上皇となった。翌年、玄宗が太平公主の党を誅殺すると、大権を帝に帰した。

武照
(623~705) Wu Zhao

  唐の高宗の武皇后(武周皇后)。則天武后。周の武則天(Wu Zetian)。在位690~705。并州文水の人。武士彠の次女。母は楊氏。十四歳で太宗(李世民)の後宮に入って、才人となった。太宗の死後に出家し、いったん尼となる。高宗の即位後、還俗して後宮に入り、昭儀となった。

                                                     

王皇后に自分の娘を殺害した冤を着せて失脚させ、取って代わって皇后となった。朝政に加わり、長孫無忌ら反対派を粛清し、一族を登用して実権を握った。高宗の死後、中宗(李顕)・睿宗(李旦)を相次いで立てたが、廃し、嗣聖七年(690)にはみずから聖神皇帝となった。国号は周。中国唯一の女帝となる。武力反抗を平定して、周制を復興。密告を奨励して、酷吏・寵臣を専横させたが、彼女の時代に登用された人材が玄宗の「開元の治」で活躍したことは評価されている。長安四年(705)、宰相の張柬之らが彼女に退位を迫り、中宗が復位して唐が復活した。同年、上陽宮で没した。上官婉児もこの時の人です。

                                                                                           

李隆基(685~762) Li Lungji
  唐の六代玄宗(Xuanzong)。至道大聖大明孝皇帝。明皇。在位712~756。睿宗(李旦)の三男。二歳のとき楚王に、八歳で臨淄王に封じられた。中宗の皇后韋氏が中宗を毒殺して帝位につこうとしたとき、挙兵して韋一族を誅殺し、父の睿宗を帝位につけた。
              
先天元年(712)、父から譲位されて帝位についた。翌年、太平公主らを打倒して、全権を握り、開元と改元した。姚崇・宋璟らを登用して、官制を改革、外征を抑制して農民の生活を安定させ、戸口も増加し産業も発展して「開元の治」を現出させた。晩年は、宰相の張九齢を左遷して李林甫を登用し、楊貴妃と歓楽にふけって、政務を怠ったため、朝政は乱れた。李林甫が没すると、楊国忠と安禄山が争い、天宝十四載(755)には安禄山の乱をまねくこととなった。安禄山の軍が長安に迫ると、蜀に避難したが、その途中で帝位を皇太子(粛宗)に譲り、上皇となった。反乱が鎮圧されて長安に帰還した後、粛宗と不和となり、宮城内に幽閉されて、不遇な晩年を送った。
李亨(711~762) Li Yu
  唐の七代粛宗(Suzong)。文明武徳大聖大宣孝皇帝。在位756~762。玄宗(李隆基)の三男。開元二十六年(738)、太子に立てられた。天宝十四載(755)に安禄山の乱が起こると、翌年玄宗に従って西行し、途中で別れて北上し、霊武で即位した。郭子儀・李光弼らを任用し、回紇に兵を借りて叛乱の鎮圧をはかった。至徳二載(757)、広平王李俶・郭子儀らが長安・洛陽を収復した。乾元二年(759)、宦官の魚朝恩を観軍容使とし、郭子儀ら九節度を統括して、安慶緒を討たせたが、史思明の軍に大敗した。また宦官の李輔国に禁兵をつかさどらせ、国政を専決させたため、百官でかれの意に逆らう者は失脚した。功臣を猜疑し、張皇后と李輔国が政治を専断し、子の建寧王李倓は冤罪で死んだ。張皇后が李輔国の排斥をはかり、かえって李輔国が張皇后を捕らえると、驚愕のあまり粛宗は病を悪化させて崩じた。
李豫(727~779) Li Yu
  もとの名は俶。唐の八代代宗(Daizong)。睿文孝武皇帝。在位762~779。粛宗(李亨)の長男。広平王に封ぜられた。粛宗のとき、天下兵馬元帥に任ぜられ、郭子儀らとともに長安・洛陽の収復にあたった。即位後、再び回紇兵の助けを借りて史朝義を討ち、安史の乱を平定した。叛軍の降将を河北諸鎮の節度使に任じた。前後して李輔国・程元振・魚朝恩といった専権をふるった宦官を除去した。広徳初年、吐蕃が来寇し、長安を失陥して、陝州に逃れた。のち郭子儀を起用して長安を回復した。劉晏を任用して、塩の専売を確立し、財政の立て直しをはかった。仏教に傾倒し、諸僧に護国仁王経を誦させたほか、金閣寺を建立して巨費を費やした。節度使の力を抑えることができず、藩鎮割拠の形勢がつくられた。
李适(742~805) Li Shi
  唐の九代徳宗(Dezong)。神武聖文皇帝。在位779~805。代宗(李豫)の長男。代宗の初年、天下兵馬元帥となり、史朝義を討ち、河北を平定した。即位当初、旧弊を改めんと志し、四方からの貢献を停止させ、宮女を削減した。租庸調制を廃止し、両税法を施行した。自ら恃むところの強い帝は、盧杞・趙瓚を任用し、劉晏を冤罪で殺してしまった。建中四年(783)には京師で兵変が起こって奉天に避難し、翌年には李懐光に叛かれた。のち李晟らの力戦により長安を収復した。帝は功臣を猜疑し、藩鎮の抑制をはかり、宦官に禁軍を統べさせた。陸贄・陽城・韓愈らを排斥し、裴延齢を重用して政治の腐敗は進んだ。
李誦(761~806) Li Song
  唐の十代順宗(Shunzong)。至徳弘道大聖大安孝皇帝。在位805。徳宗(李适)の長男。大暦十四年(779)、宣王に封ぜられた。同年末、太子となった。貞元二十一年(805)、徳宗が崩ずると即位した。王伾・王叔文らが輔政にあたった。病のため言語が通じず、宮中にいて王伾が消息を伝えた。在位八カ月にして宦官倶文珍らに退位を迫られた。位を太子の李純(憲宗)に伝え、太上皇となった。翌年、病死した。
李純(778~820) Li Chun
  もとの名は淳。唐の十一代憲宗(Xianzong)。昭文章武大聖至神孝皇帝。在位805~820。順宗(李誦)の長男。貞元二十一年(805)四月、太子に立てられた。同年八月、宦官倶文珍らに擁立された。順宗の代の政令をことごとく改廃し、王叔文を左遷し、柳宗元ら八人を遠方の司馬とした。杜黄裳・皇甫鎛・李吉甫らが執政にあたり、律令を修訂し、科挙を整え、官吏を減員した。藩鎮勢力の削減に着手し、元和十四年(819)までに淄青十二州を収復して、代宗以来の藩鎮跋扈の風がしばしおさまり、元和中興と称される。晩年、長生を求めて金丹を服用したため、怒りっぽくなり、宦官をしばしば罪に落として殺した。やがて宦官陳弘志により殺された。
李恒(794~824) Li Heng
  もとの名は宥。唐の十二代穆宗(Muzong)。睿聖文恵孝皇帝。在位820~824。憲宗(李純)の三男。建安郡王に封ぜられ、のち遂王に進んだ。元和七年(812)、太子に立てられた。憲宗が殺されると、王守澄らに擁立された。即位後、宴遊にふけり、国事に意をもちいなかった。佞臣に親しみ、忠臣をしりぞけ、法制は乱れた。両税と専売によって百姓の負担は増大した。朝廷内の朋党の争いは日増しに激しくなり、外では幽州・相州・鎮州で兵変が起こった。朱克融・王庭湊が定州・蔚州・貝州などを乱した。藩鎮の割拠が進み、財政は悪化した。長慶元年(821)、吐蕃と和議を結び、長慶会盟碑を立てて記念し、辺境が静まったことのみは評価されている。宦官の王守澄と宰相の李逢吉が結んで、国事を専制し、政治の腐敗は進んだ。帝は金丹を服用して死にいたったという。
李湛(809~826) Li Zhan
  唐の十三代敬宗(Jingzong)。在位824~826。睿武昭愍孝皇帝。穆宗(李恒)の長男。はじめ景王に封ぜられた。長慶二年(822)、太子に立てられた。穆宗が崩ずると即位した。遊宴・打毬・奏楽・角抵を好んで、芸人を近づけ大臣を遠ざけた。側近の小罪をとがめては責め打っていたので、恨みを買い、宦官の劉克明に殺された。
李昂(808~840) Li Ang
  もとの名は涵。唐の十四代文宗(Wenzong)。元聖昭献孝皇帝。在位826~840。穆宗(李恒)の次男。江王に封じられたが、兄の敬宗(李湛)が宦官の劉克明に殺されたため、王守澄・梁守謙らに擁立された。劉克明を殺して帝位についた。『貞観政要』を好み、政道に励んだが、官僚の間の「牛李の党争」に翻弄され、宦官の台頭に悩まされた。以前に取り上げた「李商隠」も関係していますね。大和九年(835)、李訓・鄭注らが宦官誅殺をはかったが失敗し、宦官の仇士良らは宰相の王涯を誅したのをはじめ、李訓ら十余家を族誅した(甘露の変)。以後、宦官勢力に掣肘され、「周の赧王、漢の献帝は強臣に制せられたが、朕は家奴に制せらる」と嘆いたという。開成初年、『石壁九経』を建て、儒家諸経典の誤謬を正した。
李炎(814~846) Li Yan
  唐の十五代武宗(Wuzong)。至道昭粛孝皇帝。在位840~846。穆宗(李恒)の五男。はじめ穎王に封ぜられた。兄の文宗(李昂)が崩ずると、宦官の仇士良・魚弘志らが太子の李成美を廃して、かれを擁立した。宰相の李徳裕を信任して、李党によって政権は牛耳られた。会昌三年(843)、劉沔を派遣して回鶻の烏介可汗を破り、大和公主を迎え帰国させた。五年(845)、仏像の廃棄や僧尼の還俗を命じ、寺院の土地や奴婢を没収した(会昌の仏教弾圧)。方術神仙を尊び、道士趙帰真ら八十一人を禁中に召し、法籙を受けた。金丹を服用し、中毒死したという。
李忱(820~859) Li Chen
  もとの名は怡。唐の十六代宣宗(Xuanzong)。元聖至明成武献文睿智章仁神聡懿道大孝皇帝。在位846~859。憲宗(李純)の十三男。はじめ光王に封ぜられた。武宗の病が重くなると、宦官の馬元贄らにより皇太叔に立てられた。即位後、李徳裕の党を排斥し、牛僧孺の党を任用した。廃仏をやめ、趙帰真らを殺し、州県の官を増置して、前代の政風から一変させた。裴休を任用して、運河の水運を改善したほか、内政につとめた。「大中刑法統類」を撰した。吐蕃が内紛で弱体化し、張議潮が河湟十一州の地をもって帰順してきた。晩年、神仙に凝って服薬し、それがもとで崩じた。小太宗と称される治績を挙げたが、唐の衰勢を止めることはできなかった。
李漼(833~873) Li Wen
  もとの名は温。唐の十七代懿宗(Yizong)。昭聖恭恵孝皇帝。在位860~873。宣宗(李忱)の長男。はじめ鄆王に封ぜられた。宣宗の病が重くなると、左神策軍中尉の王宗実らが詔と偽って太子に立てた。宣宗が崩ずると即位した。在位中、政務を怠り、遊宴に節度がなかった。仏教を篤く信じ、仏骨を鳳翔に迎えた。咸通元年(860)、裘甫の乱が浙東で起こった。九年(868)、龐勛が桂林で起兵した。藩鎮がしばしば兵乱を起こし、南詔がたびたび辺境を騒がせた。政治は混乱し、民衆の負担は増大した。帝の死後、王仙芝・黄巣の乱として不満が爆発することとなる。

李儇
(862~888) Li Yan

  もとの名は儼。唐の十八代僖宗(Xizong)。恵聖恭定孝皇帝。在位873~888。懿宗(李漼)の五男。晋王に封ぜられた。懿宗が崩ずると、宦官の劉行深らに擁立されて帝となった。即位すると、宦官の田令孜を重用し、阿父と呼び、政治の一切を委ねた。ときに南詔との戦いは日ごとに激しさを増し、軍費は増大し、財政は悪化していた。加えて連年、水害・旱害・蝗害が起こり、賦税の負担は重く、人民は苛斂誅求に苦しんだ。乾符初年、王仙芝・黄巣の乱が山東で勃発し、瞬く間に広がりをみせた。広明元年(880)、黄巣が洛陽・長安を攻め落としたため、帝は田令孜とともに蜀に逃亡した。中和五年(885)、長安に帰還した。田令孜と王重栄が塩の利権をめぐって争い、河東節度使の李克用らが長安に迫ったため、再び都落ちした。ときに江淮の地方の賦税は関中に届かず、各地の諸藩は気ままに攻伐を繰り返した。唐室は名のみ存して、実質の力を持たなかった。

李曄
(867~904) Li Jie

  もとの名は傑。のちに敏と改名した。唐の十九代昭宗(Zhaozong)。聖穆景文孝皇帝。在位888~904。懿宗(李漼)の七男。はじめ寿王に封ぜられた。兄の僖宗が崩ずると、宦官の楊復恭らによって帝に擁立された。宰相の崔胤が藩鎮の兵を借りて宦官を誅殺しようと謀り、ひそかに汴州の朱全忠を呼び寄せた。帝は神策軍中尉の韓全晦によって鳳翔に連れ去られ、李茂貞のもとに拠った。朱全忠は鳳翔を囲み、李茂貞が降って、帝も長安に帰還した。朱全忠が宦官を殺しつくし、朝政を専決した。朱全忠が崔胤を殺し、洛陽遷都を決行すると、帝は各藩鎮に朱全忠討伐の密勅を送った。まもなく帝は殺された。

李祝
(892~908) Li Zhu

  もとの名は祚。唐の二十代哀帝(Aidi)。昭宣光烈孝皇帝。在位904~907。昭宗(李曄)の九男。乾寧四年(897)、輝王に封ぜられた。朱全忠が昭宗を殺すと、詔と偽って太子に立てられ、にわかに即位した。朱全忠が朝政を専断しており、完全な傀儡であった。天祐四年(907)、朱全忠に帝位を譲り、曹州にうつされて、済陰王に封ぜられた。翌年、朱全忠に殺された。ここに唐は滅んだ。後唐の明宗により昭宣帝と追諡された。朱姓は明の皇帝の姓です。

                                               
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結 廬。

2021-08-08 07:12:33 | 漢詩・古典・エトセトラ

 今日の今までこの詩が杜甫の詩だと思っていました。記憶というのが如何に曖昧だと思い知った訳です。人の脳なんていい加減なもんなんですね。(←それはお前の脳だけだよ)
詩の題名も「結 廬」杜甫とばかり確信して覚えていました。針のブログもWikipediaを全部引っ張り込んで書いている訳ですが、検索しても何処にも「杜甫」の文字はありません。とまあ、針の好きな詩なもんでアップします。この詩は陶淵明だと初めて気が付きました。駄目だねえ。

飲酒「全20首」の中の「五首目」でした。「結廬在人境」という句の頭を取って「結 廬」と言われています。くれぐれも「結露」じゃないよ。

それにもう一つ。屈原と陶淵明が妙に重なってしまって、頭の中で混乱しています。何でだろう?。

      
              陶淵明

陶 淵明 365年(興寧3)~427年(元嘉4年11月)は、魏晋南北朝時代(六朝期、東晋末)から南朝 宋の文学者。字は元亮。または名は潜、字が淵明[。ですから陶潜とか陶淵明と呼ばれています。死後友人からの諡(おくりな)にちなみ「靖節先生」、または自伝的作品「五柳先生伝」から「五柳先生」とも呼ばれる。尋陽、柴桑(現在の江西省九江市扶桑区の人。)郷里の田園に隠遁後、自ら農作業に従事しつつ、日常生活に即した詩文を多く残し、後世には「隠逸詩人」「田園詩人」と呼ばれる針さんの心情とぴったしね。(おこがましいんだよ)


てな訳で、

           陶淵明  飲酒 其の五  
 
結廬在人境  而無車馬喧  廬を結んで人境に在り  而も車馬の喧しき無し 

問君何能爾  心遠地自偏  君に問う何ぞ能く爾ると 心遠く地自から偏なり 

採菊東籬下  悠然見南山  菊を採る東籬の下  悠然として南山を見る

山気日夕佳  飛鳥相與還  山気日夕に佳し   飛鳥相與に還る
 
此中有真意  欲辨已忘言  此の中に真意有り  辨ぜんと欲して已に言を忘る


      
           というのはこんな感じかね


 人里に廬を構えているが、役人どもの車馬の音に煩わされることはない。「どうしてそんなことがありうるのだ」とお尋ねか。なあに心が世俗から遠く離れているため、ここも自然と僻地の地に変わってしまうのだ。
 東側の垣根のもとに咲いている菊の花を手折りつつ、ゆったりした気持ちで、ふと頭をもたげると、南方はるかに廬山のゆったりした姿が目に入る。山のたたずまいは夕方が特別すばらしく、鳥たちが連れ立って山のねぐらに帰っていく。この自然の流れの中にこそ、人間のありうべき真の姿があるように思われる。しかし、それを説明しようとしたとたん、言葉などもう忘れてしまった。

地自から偏なり 僻地の地    日夕に佳し   夕方が特別すばらしく

      

追記:「廬」と言う字を「蘆」と間違えていました。正しくは「廬」です。ここにお詫び申し上げます。

 

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唐代の詩人でもう一人有名な方が。

2021-08-01 06:41:20 | 漢詩・古典・エトセトラ

盛唐の詩人で忘れてはならない人に「杜甫」がいます。本来こんな後になんて取り上げないで筆頭に記するものでありますね。杜甫と言えば李白と並んで中国古代の二大詩人です。李白と杜甫を並び称して李杜と言われています。李白を詩仙。杜甫を詩聖と言って並び称されています。

杜甫は712年唐の玄宗皇帝が即位した年に、唐の都・長安の隣、河南省洛陽から東に5~60キロ行った小さな町で生まれました。

 杜甫の家柄は代々官吏で、この点、李白と比べると立派な家柄の出。祖先には杜預(と・よ)という『春秋左氏伝』の注釈をした学者にして将軍である人物がおり、祖父・杜審言(と・しんげん)も有名な詩人でした。つまり杜甫は名門の家系に生まれた訳です。

           
            杜  甫                   杜甫の育った叔母の家かね?。

 杜甫は両親を早くに亡くし、父の妹である叔母に育てられました。この叔母は自分にも子がありながら杜甫に深い愛情をかけてくれ、杜甫は後々まで感謝の思いを持っていました。杜甫は自分が悲しむ時、同じ悲しみにくれている見も知らぬ人にも思いを寄せるという個性の持ち主なのですが、この個性はこの叔母に育てられたことによって培われた部分もあるのかもしれません。

 名門の出として杜甫の人生は最初から決まっていました。科挙を受けて官職につくことです。今受験勉強といえば家にこもるか予備校などに行って黙々と励むわけですが、当時は詩文を学ぶと同時に旅に出て有力者と顔をつないでおくのも大切なことでした。

そこで杜甫20歳、呉楚(東南の沿岸地帯)への旅に出ます。4年後にまた洛陽に戻り科挙の試験を受けますが、合格率1%ほどの難関。不合格でした。

 杜甫30歳の時に洛陽で役人の娘と結婚し家庭を持ちます。杜甫は生涯この奥さんを大切にし、奥さんもまた優秀でありながら不遇であり続けた夫から離れることはありませんでした。後に安史の乱で安禄山の軍につかまり長安で軟禁された頃この妻を詠んだ詩があります。すでに5人の子供をなし貧しさに疲れ果てた中年の夫婦でありながら、妻は詩の中で若く美しく、やや違和感ありですが美しい五言律詩です。

 今でも詩を書くことだけで食べていける人はほとんどいないでしょうが、それでも教員になるなど二足の草鞋をはけば詩人としてやっていけるでしょう。当時は詩人という職業はなく、詩文を書く人は官職…つまり政府の役人になることを目指すしかありませんでした。この仕官の道が大変で、あの有名な科挙に合格するか(合格率はきわめて低い)、有力者の強力な推薦を受けるかなどしかない極めて狭き門でした。

 杜甫も若いころから仕官の道をめざしますが、官職に就けるまでが大変。杜甫は生活苦の中で子供をひとり餓死で失っています。人生の半ば過ぎやっと官職に就きますが、それでも人生の大半を貧困の中で過ごしました。という訳で有名な詩。一首。


    春  望   杜甫

国破山河在  國破れて 山河在り        くにやぶれて さんがあり

城春草木深  城春にして 草木深し       しろはるにして そうもくふかし

感時花濺涙  時に感じて花にも涙を濺ぎ     ときにかんじて はなにもなみだをそそぎ

恨別鳥驚心  別れを恨んで 鳥にも心を驚かす  わかれをうらんで とりにもこころをおどろかす

烽火連三月  峰火 三月に連なり        ほうか さんげつにつらなり

家書抵万金  家書 萬金に抵る         かしょ ばんきんにあたる

白頭掻短   白頭掻いて 更に短かし      はくとうかいて さらにみじかし

渾欲不勝簪  渾べて簪に 勝えざらんと欲す   すべてしんに たえざらんとほっす

語彙:意味 國破  安禄山の反乱によって国の都長安がおちて宮殿や町などが破壊されたことをいいます。  時 時世のありさま 烽火 ここでは戦いのこと  家書  家人よりの便り

   抵 相当する   渾 まったく  簪   かんざし 外からまげにさし、冠(かんむり)を固定させる。

意解
 戦乱によって都長安は破壊しつくされたが、大自然の山や河は依然として変わらず、町は春を迎えて、草木が生い茂っている。
 時世のありさまに悲しみを感じて、(平和な時は楽しむべき)花を見ても涙を流し、家族との別れをつらく思っては、(心をなぐさめてくれる)鳥の鳴き声を聞いてさえ、はっとして心が傷むのである。
 うちつづく戦いののろしは三か月の長きにわたり、家族からの音信もとだえ、たまに来る便りは万金にも相当するほどに貴重なものに思われる。
 心労のため白髪になった頭を掻けば一層薄くなり、まったく冠を止める簪(かんざし)もさすことができないほどである。

   此処で言う「峰火 三月に連なり」というのは「安禄山、史思明の乱」の事です。

                 
                      安禄山

 李白と杜甫を比較対象する事は「愚の骨頂」ですが、李白は酒を飲む詩が多く、その中で憂を晴らしたり、自然と戯れたり、世情を詠ったりしていますが杜甫は真面目な性格からか、それが詩の上にも表れていますね。心の悲哀をストレートに表して詠っています。

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 長安と西安って何処?。

2021-07-25 19:57:24 | 漢詩・古典・エトセトラ

簡単に言うと長安は西安の一部です、歴史によって長安になったり西安になったり。その時の王朝が都を設立した時にそう呼ばれたという事ですね。
 漢に始まる中国の都城で漢の武帝が築き、後漢では洛陽に都が移ったが、唐代で新たに長安が築かれ最も繁栄した。現在の西安。 中国本土の西部、渭水地方(関中)の中央に当たる現在の陝西省西安の近郊に作られた漢や唐の時代の都城です。西安の地域は、周の都、鎬京、秦の都、咸陽が築かれた地域である。秦に代わって全土を支配した劉邦は、紀元前202年に初代皇帝(高祖)となって漢王朝を創始した。

漢は始め、洛陽を都としたが、紀元前200年に関中に戻って遷都し、長安として新たに都城を建設した。都城は第二代皇帝恵帝のとき、紀元前190年に完成した。現在の西安の郊外にその遺跡を見ることが出来きます。

         

漢の都としての長安

 漢の初代高祖(劉邦)のときに都城の建設が始まったが、完成したのは第2代の恵帝のとき、前190年であった。現在は遺跡となっているが、その規模は、東壁5940m、南壁6250m、西壁4550m北壁5950mの不規則な形で、その各辺に門があり、南西部に宮殿の未央宮(びおうきゅう)の台地がある。

 高祖の未央宮に続いて、歴代の皇帝がそれぞれ宮殿を増築した。それらを囲んで高さ8m、全長26mの城壁を廻らし、城内には東西に市がもうけられ、商業地域とされた。漢の長安城は、最初に全体プランがあって計画的に造営されたものではないので、出来上がった姿は隋唐時代の長安城のような整然とした碁盤目状の街路はなかった。

 前漢末の記録では、長安の人口は戸数で8万8百、口数で24万6200とあるが、一戸平均が5~6人とすれば、実際の人口は40万、さらに王侯貴族や兵士を加えれば50万ぐらいになったと思われる。後漢では都は洛陽に移りました。

魏晋南北朝時代の長安

 後漢は都を東方の洛陽にうつしたが、五胡十六国時代には氐が建国した秦の都とされ、鳩摩羅什らが活動して仏教が盛んになった。その後、北朝の西魏・北周の都となった後、中国を統一した隋の文帝はこの近くに、大興城を建設し、さらに唐の都長安として継承され、現在の西安につながる

唐の都としての長安

 唐は隋の大興城を継承し、さらに大規模にして完成させた。唐の長安城は南北が8651m、東西が9721m。北辺の中央に大極殿を中心とした宮城があり、碁盤目状の道路で東西南北に区画されていた。外側は城壁で囲まれ、城門は日暮れから夜明けまでは閉じられている規則であった。

              

          

 宮城周辺の三省六部の官庁街の他に、東西に市があり、商人が住み、営業していた。盛唐の玄宗時代には人口100万と言われ、またイラン系のソクド人など、周辺の世界から渡来するものも多く、国際都市として繁栄した。長安城内には、多数の仏教寺院(日本の円仁などが学んだ大興善寺、則天武后が建立した大薦福寺、玄奘のいた慈恩寺(大慈恩寺)などが有名。それぞれ、雁塔という多層の塔をもつ)や、道教の寺院である道観があった。


          
            隋・唐の街は碁盤目状で平城京の模範となりました。

という訳で長安は西安の一部なんて言い方が出来ます。しかし中国設立した毛沢東、江青という大バカ者が歴史的に重要な史跡、建物、書物等を「文化大革命」なんて称して皆、破壊してしまった。
よく「烏合の衆」っていますが後先考えずに大事な物を無くしてしまいました。

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追加:上官婉兒   の詩

2021-07-16 06:34:02 | 漢詩・古典・エトセトラ

 前に上官婉兒 について書きましたが、どうも慶四年のストーリーとの照合性はないね、(ってまだ分かりませんけど)。宮中で、彼女主導で詩が流行したとありましたが、相当な力量を発揮したんだろう。詩を拝見すると、言葉の豊富さ、洞察力の深さ、発想力の大きさが半端ではないね。

  遊長寧公主流杯池二十五首之十二   上官婉兒      長寧公主の流杯池に遊ぶ 二十五首之十二

         
  放曠出煙雲,
蕭條自不羣。    放曠はうくゎうすれば  煙雲えんうんだし  蕭條せうでうとして  おのづかれず  放曠出煙雲:心の趨(おもむ)くままに霞(かすみ)が立ち籠める、風は機織りの「梭(ひ)」のように                                                                                                                                                                                  (左右に動いて)、水面に波紋を織(お)る(かの如くである)
  漱流清意府,隱儿避囂氛。     流れにくちすすぐ  清意府せい い ふ,    かいかくれて  囂氛がうふんく    流れにくちすすぐ(と謂われる)仙境で、隠棲生活をし。 

  石畫妝苔色,風梭織水文。     石畫せきぐゎ  苔色たいしょくよそほひ,      風梭ふう さ  水文すゐもんる。             石の表面のいろどりは、苔(こけ)の色で装(よそお)われ水面に波紋を織(お)る(かの如くである)。

  山室何爲貴,唯餘蘭桂熏。     山室  何爲なんすれたふとき, だ  蘭桂けいらんかをりのあますあるのみ。山荘(山の空)が、どうして貴(とうと)いのかというと、ただランとカツラの木のよいにおいが余って漂                                                                                               っているいるからだ                      

                                          
   

石畫妝苔色:石の表面のいろどりは、苔(こけ)の色で装(よそお)われ。 ・石畫:石の表面のいろどり。 ・:〔さう;zhuang1○〕よそおう。見づくろう。飾る。
唯餘蘭桂熏:ただランとカツラの木のよいにおい(のする気品有る風格)が余って(漂っているいるからだ)。 ・唯餘:ただ…が余っているだけだ。 ・蘭桂:ランとカツラの木(のよいにおい)。立派な人格、人物を謂う。 ・:かおり。かおる。いいにおいがする。


しかし、当時男尊女卑の世界でこれだけの才を発揮できている女官はやはりかなりの才能の持ち主だね。宮中での女性といえば、皇帝の皇后を始めとして、側室とか食事を取り計らう女官が主だったしね。則天武后の御付きという「絶妙な位置」もありますね。それでいて、宮中の宦官、衛士達を押しのけて能力を発揮できるのは羨ましい限りだ。

日頃、当用漢字、教育漢字しか見ていない日本人ですが、漢字って言うのは数が物凄いありますね。中国人は字の作りからとかで「意味」が分かるんでしょうね。この点、我々日本人は同じ漢字を使う民族で敵わないところです。ま、しょうがないね、漢字は中国で出来た字ですからね。

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上官婉児

2021-07-12 06:45:09 | 漢詩・古典・エトセトラ

 唐の「即天武后」の時代に「上官 婉児」という女官がいました。所謂則天武后の御付きでしたが。今ケーブルTVで「慶四年」と題する映画をやっています。その中で林 婉児というお嬢さんが出てきます。それが同じ時代の「唐」で上官 婉児という人が出てきて話がごっちゃになっています。

 上官 婉児
(じょうかん えんじ、664年~710年)は、7世紀の中国、唐代の詩人。上官昭容(じょうかん しょうよう)とも呼ばれる。陝州陝県の出身。本貫は隴西郡上邽県(ろうせいぐん、じょうけいけん)。本貫とは出生地の事ね。祖父は上官儀、父は上官庭芝。本貫地は生まれた地ね。また「婉」は綺麗な子の意味です。

 麟徳元年(664年)12月の上官儀・上官庭芝の誅殺により、一族の大半を処刑された。李雲睿(リー・ユンルイ)とか林九郎の隠し子として養われたとも。彼女も婢の身分に落とされているが、頭の良さと詩文の巧みさにより、即天武后に愛され、中宗の時期、昭容正二品)の女官のポストを与えられた。中宗は「修文館」を建て、公卿の文学者20名を選び、宴や詩会を開催し、金爵を賜っている。婉児は先生格で、鬢の男子を導いている。群臣たちは競作し、添削を請い、婉児の影響で宮廷内では詩が流行したという。   
         
               上官 婉児             則天武后

 だが、その反面、則天武后の甥の武三思とも関係を持ち、中宗と韋皇后に彼のことを推薦し、取り立てるように計らってもいる。韋皇后に則天武后の故事を吹き込み、皇帝にかわって権力の座につくことを薦めた。そのため、韋皇后のクーデターが失敗に終わった際に、李隆基(後の玄宗)の目の前に引き出され、誅殺された。没後の開元年間に、『詔張説題篇』20巻が出版されている。

2013年、西安空港の建設中に見つかった上官婉児の墓の墓誌には「彼女は度々、中宗を諫めた」との記述がある。また、墓から発掘された俑からは、彼女が政務に携わる際には男装していたことがわかっています。NHKの特番、「即天武后」の中で「上官 婉児」が出ていました。 

 更に単独で埋葬されていることから「後宮の女性」としてでなく「高級官僚」として扱われていたことがうかがえる。以前則天武后の特集をやってましたが、この「上官婉児」の墓が発見された事をやってました。此処で話の照合が出来ているとは申しませんが、中国は勝手な空想で歴史や元のストーリーを改変してしまいます。今後展開を確かめなくてはなりません。


 慶四年の中では范閑(ファン・シエン)には長公主・李雲睿(リー・ユンルイ)の隠し子、林婉児(リン・ワンアル)との縁談が持ち上がっていた。李雲睿は、范閑の亡き母が残した発明品を管理する内庫の権限を持っており、皇太子との結託を疑われていた。縁談は范閑に皇室の財源である内庫を管理させるための慶帝の策。しかし慶廟で出会った娘が林婉児だと知らない范閑は、この縁談に難色を示す。後誤解が溶けて相愛の仲になります。

         
  林婉児(リン・ワンアル)事、李沁(リーチン)     范  閑(ファン・シェン)事 張若昀(チャン・ルオユン)      

主人公、范闲は幼い頃からおばあちゃんと儋州で暮らしています。この范闲、ちょっと変わり者で、現代の知識を持った状態で古代に生きている、という設定です。言うことも、価値観も、身のこなしもとっても現代風!ある日、自身を先生と呼ぶ人が現れ、彼に習い范闲は薬学を学びマスターします。

            

大きくなり武術も強くなりますが、ある時、命を狙われます。なぜこんな危険に会うのかを不思議に思い、自身の出生の秘密を知りたくなり、京の都に向かいます。儋州にいた頃よりさらに危険な目に会いながらも、賢い范闲は敵の一歩も二歩も先を読み、頭脳戦を繰り広げ、苦難を乗り越えていきます。

それとともに、徐々に彼の出生の秘密も暴かれていきます。とこんな感じで、だらだらと書きましたが、話が合わない気がするし、なまえが一緒なのでストーリーは一緒なのか分からないね。

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李賀について

2021-07-05 17:32:27 | 漢詩・古典・エトセトラ

 唐の皇族、李晋粛の長男として生まれる。その祖は唐の高祖李淵の叔父の大鄭孝王、李亮であるといいます。(唐の国の皇族の名前は李姓です。太宗は李世民ですね)。

太宗(たいそう)李世民は、唐朝の第2代皇帝。高祖李淵の次男で、李淵と共に唐朝の創建者とされる。隋末の混乱期に李淵と共に太原で挙兵し、長安を都と定めて唐を建国した。太宗は主に軍を率いて各地を転戦して群雄を平定し、626年にクーデターの玄武門の変にて皇太子の李建成を打倒して皇帝に即位し、群雄勢力を平定して天下を統一した。

                   
               李賀             唐の太宗 李世民

 その長男の淮安靖王、李寿(字は神通)、さらにその十一男の呉国公・益州大都督、李孝逸から3代あとの子孫が李晋粛であります。李賀はその出自を大いに誇り、出身地を唐帝室と同じく隴西成紀(甘粛省天水市)と称していたものの、李賀の生まれたころには中産階級に没落していた。父の李晋粛はまた杜甫の親族で、陜県令など地方官をもっぱらとする中堅官僚です。

陝県は洛陽と長安の両都を結ぶ途上に位置する要地で、帝室の血を引く者をその令に当てるのが普通でありました。母は鄭氏。他に王族に嫁いだ姉と弟(李猶?)がいたことがわかっています。

 李賀は文学的に早熟で、14歳にして数々の楽府を著して名声を得ていた。また17歳ころ、自作の詩を携えて当時文壇の指導者的存在であった雑説で有名な韓愈を訪ね、激賞とその庇護を受けた。810年、進士を目指して長安に上京し科挙に応じるが、思いもよらず受験を拒まれる。父の諱(いみな)の一字である「晋(シン)」と進士の「進(シン)」が同音であることから、諱を避けて進士になるべきではない、というのがその理由であった。
 
此処でちょっと。(「韓愈」 雑説) 
世有伯楽、然後有千里馬。世に伯楽有りて、然る後に千里の馬有り。千里馬常有、伯楽不常有千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず」という有名な一節がありますね。
つまり、優秀な人材は世に沢山いるのに、肝心のそれを見る目が無い人が上級官僚に居るという意味です。


 もちろんこじつけにすぎず、直ちに韓愈が『諱の弁』を表して反論を行うが通らなかった。当時、およそ知識人階級は進士となって科挙を通り、官僚政治家となることを唯一の目的とした。その道を閉ざされた李賀は、失意のうちにひとたび長安を離れて昌谷に戻るが、翌年、奉礼郎の官職を得て再び上京する。しかし科挙を経ずして与えられたこの官職の品階は従九品上、祭礼の際に席次を管轄する端職にすぎず、自負心の強い李賀には到底耐えられるはずもなく、813年春、「奉礼 官卑しく復た何の益有らん」の詩句を残し、職を辞して帰郷するに至る。ちなみにこの奉礼郎という官職も帝室の血縁者に当てるのが通例であった。その翌年、別に職を求め、友人の張徹を頼って潞州(山西省長治市)に赴くも意叶わず、昌谷に戻った翌年の817年、にわかに発した病により、母に看取られながら短い生涯を閉じた。享年27。

『李賀小伝』を著した晩唐の詩人李商隠によれば、李賀の風貌は痩せて細く、濃い眉毛は左右がつながり、爪が異様に長かったという。またおよそ円満とは程遠い性格で、しばしば他人から攻撃・排撃を受けた。科挙を阻まれたのもその性格が一因であろう。文壇の大家で、官僚としても宰相となった元槇(げんしん)と確執があったゆえ、との逸話もあるが、年代的に怪しい。没した際、李賀を恨む従兄弟の手で遺稿が便所に投棄されたため、現存作が少ないとの逸話もまたある。
 
将進酒 李賀

琉璃鍾 琥珀濃    瑠璃色のサカズキ 琥珀色が濃いお酒   

小槽酒滴眞珠紅    小さなワインの樽 赤い真珠がしたたる

烹龍炮鳳玉脂泣    龍を炊こう 鳳を包み焼こう

羅幃繍幕囲香風    うまそうな玉の脂が落ちる 絹のビョウブ 刺繍のトバリ 香ばしい風を囲む 

吹龍笛 撃鼉鼓 細腰舞  白く光る歯が歌い 細い腰の女が踊る

況是青春日將暮    今、春の日は暮れて   

桃花乱落如紅雨    桃の花が乱れ落ちる 真っ赤な雨のようだ

勧君終日酩酊醉    君を誘って今日が終わるまで一日中酔って酔って酔いを極めよう

酒不到劉伶墳上土   大酒飲みの劉伶でも墓の中では酒は飲めないのだから


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孟浩然

2021-06-23 06:30:32 | 漢詩・古典・エトセトラ

孟浩然(日本語読み:もう こうねん689年-740年)は、唐(盛唐)の代表的な詩人。名は浩、字は浩然と言われる。襄州・襄陽県(現在の湖北省襄陽市襄州区)の出身。若い頃から節義を重んじ、人の患難を救うなどの行いがあった。

          

 若い頃から各地を放浪し、義侠の振る舞いで人々と交流した。また後漢の龐徳公や後年の皮日休ひ じつきゅう、)は、詩人・革命的社会派の学者)。ゆかりの襄陽の鹿門山に隠棲したこともあった。玄宗の世となってから長安に赴き仕官しようとするが、科挙に及第していないのでかなわなかった。しかしながら、孟浩然を気に入った韓朝宗との約束をすっぽかして朝廷への推薦をだめにしたり、いざ玄宗の前に出ても不平不満を詩にして玄宗を怒らせるなど、立身出世には関心が薄かったようにもみえる。

 孟浩然の詩は広く知れ渡り、王維・李白・張九齢らと親しく交際した(李白には「黄鶴樓送孟浩然之廣陵」という作品があります)。740年、背中にできものがあって調子の悪かった孟浩然は、訪ねてきた王昌齢を歓待するあまり容態を悪化させて亡くなってしまいました。

 自然を題材にした詩が評価されており、詩のなかに人生の愁いと超俗とを行き来する心情を詠みこんでいる。日本では五言絶句「春暁」が特に有名である。詩の特徴から王維と孟浩然は「王孟」と並称された。『孟浩然集』がある。

『春暁(春眠暁を覚えず)』

春 眠 不 覚 暁   春眠暁を覚えず      しゅんみんあかつきをおぼえず
処 処 聞 啼 鳥   処処啼鳥を聞く      しょしょていちょうをきく
夜 来 風 雨 声   夜来風雨の声       やらいふううのこえ 
花 落 知 多 少   花落つること知んぬ多少ぞ はなおつることしんぬたしょうぞ

春の眠りは心地がよく、夜が明けるのも気づかないほどです。
あちらこちらから鳥のさえずりが聞こえてきます。
そういえば昨夜は風雨の音がしていたな。
いったいどれほどの花が散ったことでしょうか。

あと一つ。って他にはないのかね?。「春暁」があまりに有名なので他の詩を知らなさ過ぎる。

臨洞庭上張丞相   孟浩然  

 八 月 湖 水 平            秋八月、洞庭湖の水は平らに、どこまでも続き、

 涵 虚 太 淸    はるかな水平線では大空をその中にひたして、空と水とが一つにまざりあっている。  

 氣 蒸 雲 夢 澤    雲夢の沼沢地からは雲霧が立ちのぼり、

 波 撼 岳 陽 城    湖の波は岳陽の町もゆらぐかと思うばかりに打ちよせる。  

 欲 舟 楫    この湖をわたりたいと思えば、舟は一つもない。

  端 居 聖 明    だがここにじっとしているだけでは、天子の明らかな徳に対して、申しわけない次第だ。何とかして仕官の道を求め、天子をたすけて太平の政治に参与したい。  

 坐 観 垂 釣 者    そう思いながら、ふと湖のふちに釣糸を垂れている人の姿を見ては、

 徒 有 羨 魚 情     私の心にも、むなしい望みではあるが、魚を=仕官を求めようとする気持がおこってくる。

旧暦の8月洞庭湖の水は満々とみなぎり、水平線の彼方と、天の一番高い大空ととけあい一つになっている。
 立ちのぼる水気は、雲夢の大湿地帯までわたって立ちこめ、打ちよせる波は、洞庭湖の東北にある岳陽城をゆり動かしている。
 湖水を濟(わた)ろうとしても舟や楫(かい)もない、(政治を補ける任につき、役人になって働きたいが引立ててくれる者もない)何もせず聖天子の治めておられる太平の世にぼんやりとしている事を恥ずかしく思うばかりである。
 ここに坐って湖水に釣りをしている人を見ていると、自分も魚が欲しいと羨む気持がわいてくる。(希望を抱くだけで何もしないよりは、仕事をするべく仕官したい気持がわいてくる

仕官を求めていたという事は、「忠義の義侠の士」という事だね。でも世間(宮中)は孟浩然の気持ちとは裏腹だったんだね。

人は自分の考える理想と世の中とではギャップがあり、それを承知してズレを解消するんですが、人それぞれ、捉え方が違う。ある人は絶望して隠遁生活するだろうし、ある人は出世して自分の理想を実現しようとするかもしれないし、途中から賄賂や保身から人を貶めるような人間になるかも知れないね。

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楽毅について

2021-06-10 07:12:16 | 漢詩・古典・エトセトラ

楽 毅(がく き)は、戦国時代の燕国の武将。燕の昭王を助けて、斉を滅亡寸前まで追い込んだ。昌国君、または望諸君とも呼ばれる。後の諸葛亮が自分を楽毅、管仲、張良に例えた事でも有名です。

              
                       楽 毅  

 楽毅の先祖は魏の文公に仕えた楽羊であり、楽羊は文侯の命令により中山国(燕と斉と趙が接する所にあった小国。現在の河北省保定市の周辺)を滅ぼし、その功により中山の首都霊寿に封じられた。その子孫はそのまま霊寿に住み着き、その後復興された中山国に仕えたようである。その縁から楽毅も中山国に仕えていたとも言われているが、彼の前歴は今でも明らかになっていない。

趙滅中山の戦いで中山が趙の武霊王に滅ぼされた後に、一旦趙に入ったが、紀元前295年に国内の紛争で武霊王が息子の恵文王に殺される事件が起きると、魏に移った。魏の昭王の家臣になるが、燕の昭王が人材を求めていると聞いて、昭王に頼み燕への使者になり、そのまま燕で仕官した。昭王は楽毅の才能に着目し、彼を上卿に次ぐ亜卿に任じた。

             

 この少し前に燕は斉により一度滅びかけており、この当時太子として辛酸を舐めた昭王は斉に対して強い恨みを抱いていた。国王に即位して20数年間、天下から人材を募り(これは郭隗が昭王に進言し、「まず隗より始めよ」の語源となりました。)、臣民と労苦を分かち国の再興に努めたものの、当時の斉は西の秦と並ぶ戦国最強国であり、最盛期を迎えていた。

 戦国四君の一人である孟嘗君を宰相とし、中山・宋を滅ぼし、楚・三晋を破り、泗水沿岸の魯などの諸侯は事実上属国となり、一時は秦と一緒に「王」より上位である「帝」を名乗っていた。このように燕は当時桁外れの力を有していた斉とは国力でも軍事力でも比べ物にならなかった。しかしそれでもなお恨みを晴らしたいと言う昭王の意向に対し、楽毅は他国と連合して斉に当たるべしと説いた。

 当時の斉王は湣王(びんおう)であり、とかく傲慢で知られた王で、斉の国力を背景に小国に対して恫喝的な外交を布いていた為、他国の恨みを買っていた。これに楽毅はつけこみ、まず趙を説得し、魏と韓を引き入れ、趙の友好国である秦も引き入れた。

斉攻略

 紀元前286年、そのような動きに湣王は気がつかず、宋を滅ぼし、その領土を斉に組み入れた。この成功でますます傲慢になった湣王は、自分の成功に良い顔をしない孟嘗君が疎ましくなり殺そうとした。孟嘗君は恐れて魏へ逃げた。

 紀元前284燕は年、燕は楽毅を上将軍に任じ、大軍を発し、韓・魏・趙・秦の連合軍に合流した。楽毅は連合軍の総大将として、五国連合軍の総指揮を執り斉軍を済西で打ち破った(済西の戦い)。その後、楽毅は燕軍を指揮して斉の首都、臨淄(りんし)に迫り、湣王は莒(きょ)に逃げ込んだ。

 楽毅は臨淄を占領し、伝来の宝器を奪取し、全て燕に送った。昭王は大いに喜び、直々に斉まで来て楽毅を褒賞し、昌国君に封じた。領地の殆どはかつての功臣などで占められており、分けられる領土が少ない中で領地を与えた辺り、昭王の喜びの程が知れる。

 続いて、楽毅は破竹の勢いで斉の70余の都市を次々と落とし、「楽毅来る」というだけで門を開いた城も相次ぎ、残るは即墨と莒の二つとなった。楽毅は湣王の籠る莒を攻めた。一方、湣王はその頃、楚の将軍であり斉の救援に来た啅歯(どうし)により殺されていた。淖歯はその後、憤慨した住民たちより殺され、湣王の子の法章が探し出されて襄王として立てられた。同じ頃、即墨では田単が籠城し頑強に抵抗した(即墨に戦い)。

 紀元前279年そんな最中に燕で昭王が死に、太子の恵王が即位した。恵王は楽毅の事を太子時代から良く思っておらず、ここに付け込む隙があると見た田単は反間の計を用いた。燕に密偵を潜り込ませ、「即墨と莒は今すぐにでも落とすことが出来る。楽毅がそれをしないのは、斉の人民を手なずけて自ら斉王になる望みがあるからだ」と流言を流し、恵王の耳に入るようにした。恵王はこれを信じ、楽毅を解任し、代わりに騎劫(きごう)を将軍として送った。

 このまま国へ帰れば誅殺されると思った楽毅は、趙へ亡命した。趙は喜んで迎え、燕・斉の国境の地に封じて望諸君と称し両国に睨みを効かせた。楽毅が解任されると田単は反攻に転じ、楽毅が奪った都市を全て取り返した。

 恵王は、ここで楽毅が恨みを晴らさんと攻め込んでは大変と、代わりの将軍を送った事の言い訳と楽毅が亡命した事を責める書を送った。楽毅はこれに「燕の恵王に報ずるの書」と呼ばれる書で答え、その中で先王への溢れる敬愛と忠誠の情を記し、亡命したのは帰って讒言で罪人にされることで、その自分を重用した先王の名を辱めることを恐れたからだと書した。恵王はこの書によって誤解を解き、楽毅の息子楽間を昌国君に封じ、楽毅との和解の証拠とした。この「報遺燕恵王書(燕の恵王に報ずるの書)」は古今の名文と呼ばれ、諸葛亮の『出師の表』と並んで「読んで泣かぬものは忠臣にあらず」と言われた。

楽毅はその後趙と燕との両方で客卿とされ、両国を行き来し、最後は趙で没した。

楽毅により大打撃を与えられた斉は復興はしたものの国力を大幅に消耗し、東の斉、西の秦の二強国時代から秦一強時代へと移行し、これ以降の戦国時代は秦による統一へと収束していきます。

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嫦娥(姮娥)の詩 李 商隠

2021-05-30 06:37:21 | 漢詩・古典・エトセトラ

前に鬼谷子の事を書きましたが、晩唐の李 商隠が嫦娥(姮娥)の事を謳っていますので取り上げます。以前に見かけてあったのを思い出しました。勉強は出来ませんが、こういった事は結構覚えているんですねえ。嫦娥ってどう読むのかとか調べた事があったんで記憶の中にあったんですね。西遊記の中にも八戒がちょっかいを掛けていましたしね。

李商隠
(り しょういん、812年(元和7年) - 858年(大中12年)。


 晩唐の官僚政治家で、時代を代表する漢詩人。字は義山、号は玉谿生。また獺祭魚と呼ばれる。獺祭というお酒のネーミングはここから取ったのかしら?。
本貫(出生場所)は隴西郡狄道県 懐州、河内県(現在の河南省焦作市泌陽市)の出身だが、鄭州滎陽県(現在の河南省鄭州滎陽市)で生まれた。官僚としては不遇だったが、その妖艶で唯美的な詩風は高く評価されて多くの追随者を生み、北宋初期に一大流行を見る西崑体の祖となった。似たような婉約な詩風を特徴とする同時代の温庭筠(おんていいん)と共に温李と呼ばれ、また杜牧と共に小李杜とも称される。その反対の大李杜とは言うまでもなく、「謫仙人・詩仙」事、李白、「詩聖」の杜甫の事ですね。

                   

 李嗣の長男として生まれる。李凝之(李韶の子の李瑾の子)の末裔にあたる。その祖は唐の宗室につながるというが、このころは没落し、父の李嗣は県令や監察史・節度使・州刺史の幕僚を務める地方官僚だった。その父は李商隠が10歳のころ病没している。他に2人の弟と6人の姉妹がいた。

当時、唐宮廷の官僚は、牛僧孺李宗閔らを領袖とする科挙及第者の派閥と、李徳裕に率いられる門閥貴族出身者の派閥に分かれ、政争に明け暮れていた。いわゆる牛李の党争と言います。若き李商隠は、牛僧孺派の重鎮であった興元尹・山南西道、節度使の令狐楚の庇護を受け、837年、26歳にして進士科に及第する。しかしながら同年に令狐楚が没し、翌年には上級試験にも落第すると、今度は李徳裕の派に属する太原公、王茂元の招きに応じてその庇護下に入り、娘を娶った。翌839年、王茂元の働きかけにより文人官僚のスタートとして最も理想的といわれる秘書省の校書郎に任官されるのですが、牛僧孺派からは忘恩の徒として激しい謗りを受けることになった。以後も李商隠は、処世のために牛李両党間を渡り歩いたので変節奸と見なされ、厳しい批判を受けて官僚としては一生不遇で終わることとなる。

任官同年、早くも中央にいたたまれず、弘農県(現在の河南省山門峡市霊宝市の南)の尉となって地方に出る。以後の経歴は、忠武軍節度使となった王茂元の掌書記、秘書省正字、桂管防禦観察掌書記、観察判官検校水部員外郎、京兆尹留後参軍事奏署掾曹、武寧軍節度判官(もしくは掌書記)、太学博士、東川節度書記、検校工部郎中、塩鉄推官など、ほとんどが地方官の連続であり、中央にあるときも実職はなかった。端的に言えば干されたのである。また、さらにそれすらまっとうできずにたびたび辞職したり、免職の憂き目に遭っている。なおこの間、842年に母を亡くし、851年には妻王氏も喪っている。

そして858年、またも失職して郷里へ帰る途中、または帰り着いてまもなく病没した。享年47。

 李商隠の詩の面目は艶情詩にあります。その定型詩、特に『無題』とされる幾つかの、あるいは単に詩句から借りただけの題を付けられた律詩は、晩唐詩の傾向である唯美主義をいっそう追求し、暗示的・象徴的な手法を駆使して、朦朧とした幻想的かつ官能的な独特の世界を構築している。そのテーマは破局に終わった道ならぬ恋愛の回想であり、甘美な夢のごとき青春の記憶の叙述である。当然、内容ははなはだ哀愁を帯びるが、典雅な詩句や対句、典故で飾られ、耽美の域に達している。美しく悲しいごく私的な記憶や感慨を詩によって昇華させる、それが李商隠の詩風であった。

 一般的に恋愛詩は友情を描いた詩よりも軽視されることが多い時代に、李商隠は多くの優れた作品を残した。妓女に向けて描かれたとされる詩、妻に向けて描かれたとされる詩などがあり、李商隠の恋愛詩は誰か一人のために描かれたのではない、というのが通説である。

ほかに『隋宮』『馬嵬』など、歴史を題材とした詠史詩や、詠事詩にも定評がある。また、長安東南の高台で詠った五言絶句『楽遊原』は、李商隠の代表作に数えられる。

「karaokegurui」さん(これ、ハンドルネームなんですかね?)が取り上げていますので使わせて頂きます。知っている人は知っているんですね。

  常娥應悔偸靈藥  嫦娥   李商隠

       雲母屏風燭影

       長河漸落暁星

       嫦娥応悔偸霊薬

       碧海青天夜夜心 赤字は韻です。

七言絶句です。韻は、深沈心です。  

    雲母の屏風びょうぶ 燭影しょくえい ふか

     長河ちょうが ようやく落ち 暁星ぎょうせい しず

     嫦娥まさゆべし霊薬をぬすむを

     碧海へきかい 青天せいてん 夜夜よよの心           

 「雲母の屏風」は、雲母が薄くはがれる性質をもつので、雲母の薄片を貼ったきらめく屏風でしょう。「燭影」は、ろうそくの影。

 「長河」は、銀河、銀漢などと同じく天の川の意味。「漸く」は、だんだんと。

 「暁星」は明けの明星ともとれますが、特定せず、明け方の西空に消え残っている星々とすればよいでしょう。「碧」は青緑。

 「碧海」と「青天」は対照させていて、ともに永遠なるものの象徴です。

  雲母を散りばめた屏風に、ろうそくの光がつくる影が映る

  天の川はだんだんと西の地平線の下に隠れていき、消え残った星々も次々と沈んでいく

  月の女神嫦娥は、霊薬を盗んだことを悔やんでいるに違いない

  翠の海を見下ろす、青い空に浮かぶ月にいて、夜ごとの想いはどんなものだろうか

 寝室の光景から始まり、夜明け前の空の様子を描き、月の女神の心境に思いを寄せています。

西遊記の中で悟空が天界に上って西王母主催の「盤桃会」で不老長寿の桃を仙女を足止めして大半を食べてしまいました。西方からは、観音菩薩他、天界からも数多の軍官、将兵が呼ばれたのですが、出す「桃」が有りません。その時にいたのが嫦娥を始めとする、女官達でした。悟空が盗んで食べた事と、嫦娥が盗んだ桃との因果関係はありませんが、昔から「盤桃会」に係わる話はあるんですね。


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悪来 典韋

2021-05-21 08:37:02 | 漢詩・古典・エトセトラ

 まず初めに「悪来」と「悪来典韋」とは違う人物です。 悪来(あくらい)は、殷末の紂王(帝辛・ていしん)時代の官僚。「史記」にて姓は嬴(えい)諱は来(らい)と伝えられる。悪来はあだ名。父親は、蜚廉(ひれん)と言う。蜚廉は走ることに長け、悪来は剛力で知られ、その能力を認められて殷の紂王に仕えた。

その後、紂王によって国政を任せられるが、人を讒言し、傷つけることが巧みであったので、諸侯から嫌われ「悪来」(悪しき来(らい))と呼ばれる。諸侯はますます殷から遠ざかり、殷周革命を促進させた。 周の武王が殷の紂王を討ったとき、悪来は紂王と一緒に殺された。父である蜚廉の家系は悪来の弟の「季勝」が継いだ。その子孫が秋戦国の晋の趙氏になった。悪来は父蜚廉と同じ墓に葬られた。
         悪来」の肖像画はありません、ま、皆、想像で描いていますがね。でも多少なりとも特徴は書かれていると思います。

一方、典韋は後漢の人物で堂々とした体格で怪力、さらに固い節義と男気を有していた。 若い頃、襄邑の劉氏のために彼の仇であった李永を討つ事にした。李永は以前、富春県長を務めていたため、厳重な警備をつけていた。典韋は懐に匕首を忍ばせ、表面上は普通の客を装っていたが、門を開かせるとたちまち李永を刺し殺し、ついでにその妻をも殺した。近所に市場があったため大騒ぎとなったが、しばらく誰も典韋に近づく者はおらず、遠巻きにして後をつけるのみであった。やがて典韋は敵の仲間に出くわしたものの、あちこちで戦って脱出に成功した。この一件で豪傑として知られるようになった。
                
                       「悪来・典韋」像

 初平年間に張邈(ちょうはく)が挙兵すると、その司馬の趙寵に兵士として仕えた。誰も持ち上げられなかった牙門の旗を片手で持ちあげたので、趙寵に一目おかれるようになった。後に曹操軍の夏候惇(かこうとん)配下となり、何度か戦功を挙げ、司馬となった。

 濮陽(ぼくよう)で呂布と曹操が戦ったとき、典韋は数十人の突撃隊を率いて、短戟を手に矢の雨の中で奮戦し呂布軍を防ぎ止めた。都尉となり、曹操の親衛隊であった精鋭数百人を率い、戦闘のたびに先鋒として敵陣を陥れた。これらの功績により昇進して武猛校尉となった。

 忠心があり謹み深い性格だった。昼はずっと曹操の傍で侍立し、夜は帳の左右で宿衛したため、自らの家に帰って寝る事は殆どなかった。飲み食いの量は人の倍で、御前で食膳を賜る時は左右から酒を注がせ、給仕を数人に増やしてやっと間に合うほどだった。大きな双戟(双鉄戟)と長刀などを愛用し「帳下の壮士に典君あり。一双戟八十斤を提ぐ」と囃された。

 建安2年(197年)春正月、曹操が荊州の張繍を征伐し降伏させた時も、典韋は従軍した(「武帝紀」)。酒の席で一尺ほどの大斧を持って張繡たちを睨みつけたため、誰も顔を上げられなかったという。

 その後、張繡が謀反を起こすと、曹操を逃がすべく部下達とともに戦った。典韋が守っていた陣門には敵が侵入できなかったが、敵は他の門から陣に侵入した。典韋と十数人の部下は多数の敵に囲まれたが、みな一人で十人を相手にした。典韋が鉄戟を一振りすると、敵の矛が十数本砕かれた。いよいよ部下が死に絶え、自身も数十の傷を負ったが、典韋は敵二人を両脇に挟んで撃殺した。これを見た敵は近づくことができなかった。典韋は最後、突進し数人を殺してから、目を怒らせて口をあけ、大声で罵りながら死んだ。敵は恐れながら近付いて典韋の首を取り、全員でその遺体を見物したという。

 曹操は舞陰で典韋の死を聞くと涙を流し、子である曹昂の死以上に悲しみ、遺体を取り戻すために志願者を募った。曹操は告別式で泣き、棺を陳留郡襄邑に送り届けさせた。その後、曹操は戦死した場所を通るたびに典韋を弔い、彼の子である典満を郎中とし、後に司馬に採り立てて側に置いた。

 正始4年(243年)秋7月、曹芳(斉王)は詔勅を下し、曹操の廟庭に功臣20人を祭った。典韋は校尉という高くはない地位であったにも関わらず、この中に含まれている(「斉王紀」)。

陳寿は、許褚と典韋が曹操の左右を警護したことは、漢の樊噲に準えると評している。

小説「三国志演義」では、張邈配下であったが他の者と衝突し、殺人を犯して山中に逃亡する。虎を追いかけていたところを夏侯惇に見出され推挙される。また、黄巾の残党何儀を捕らえようとしたところに許褚が現れて、身柄を争う。その怪力から曹操に「古の悪来のようである」と言われている。因みに張繡反乱の際には、張繡軍の胡車児(こしゃじ)に酒で酔わされた隙に武器を奪われたため、敵の武器を奪って戦うが、敵の弓兵の一斉射撃を全身に浴び、直立不動のまま息絶えたことにされている。

蛇足:日本にも「悪源太 義平」という武将がいましたが、これにも「悪」という字が付いています。「悪」とは中国の故事から。「悪=強い」という意味で使われています。

             
                   悪源太 義平

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鬼谷子という人

2021-05-11 06:49:29 | 漢詩・古典・エトセトラ

今ケーブルTVで中国戦国時代の鬼谷子が放映されています。かいつまんで説明すると
戦国時代,群雄割拠の乱世に、奴隷解放の変法を推し進め、民に慕われた偉才がいた。 鬼谷は陳(楚の地)の人であるが、稷下の学士であったかどうかは不明であり、専門といえば国際外交のような謀略である。学問というよりは、術のようなものを得意とします
名は魏国宰相・王錯(おう・そ)。変法を憎む王侯貴族らに殺され、一族も虐殺されたが、赤子だった遺児・王禅(おう・ぜん)だけが侍女・鍾萍(しょう・へい)に救われ生き延びた。

                   

 名は王禅(王詡[おうく]とも言います)。 数学や天文学、兵学や軍略などに通じていた鬼谷子は、謀略家・縦横家の祖として知られている。 司馬遷の『史記』には、縦横家の代表的存在で「合従連衡」の故事で知られる張儀と蘇秦がいずれも「鬼谷先生」に学んだとあります。
鬼谷は縦横家の張儀と蘇秦の師とされるが、鬼谷個人の伝はなく、その実在が疑われている。

         
                                      嫦娥(姮娥)

 また『鬼谷子』は「隋書」の「経籍志」に初めて見え、「漢書」「芸文志」には見えないため、後人の仮託とする説が有力である。
 一方で『漢書』「芸文志」に蘇秦の著作『蘇子』がありながら、『隋書』「経籍志」に見えないことから欧陽脩のように『鬼谷子』を蘇秦の作と考える者もいる。また『鬼谷子』には物語のような話が多いことから、近代の擬古史家の中には前記のような『鬼谷子』を蘇秦の作とすることから発展し、鬼谷も蘇秦も実在しなかったという説がある。おそらく『鬼谷子』の物語のような要素は、後の時代の人が創り出したとも考えられる。
 ただ針外しが以前読んだ古書の中に「鬼谷子」の逸話が載っていたのを覚えています。でもそれが思い出せないね。

    
         王禅と姮娥


    
            韓の公主・今淑

道教では鬼谷子を「古の真仙」とみなし、人間界で100歳あまり生き、その後は分からないとしている。本の『鬼谷子』は道教の経典『道蔵』に保存されている。

 民間の伝説では鬼谷子は占い師の開祖であり、道教では鬼谷子を玄都仙長と尊称する。『孫龐演義』という通俗小説では、孫嬪と龐涓の師としている。

王禅の幼馴染に姮娥(コウガ)という女性が出ていますが、中国の女優さんで徐麒雯(シュー・チーウェン )。姮娥とは月の女神、嫦娥(ジョウガ)の別名でありまして、中国名でこの名は珍しいですね。西遊記の中で猪八戒が姮娥を見締めて戯れる処も出てきます。

 

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管仲って、どんな人?。

2021-03-01 09:09:14 | 漢詩・古典・エトセトラ

陳寿は諸葛亮伝において、諸葛亮の才能を管仲・蕭何に匹敵すると評し、諸葛亮も自らを管仲・楽毅に比していた、と記した

管 夷吾(かん いご)は、春秋時代における斉の政治家。桓公に仕え覇者に押し上げた。一般には字のがよく知られており、以下本稿でも管仲かん ちゅう)として記す。三国時代の管寧はその後裔であります。鮑叔との関係が実際にどうであったか同時代の資料には残っていない。以下は史記など後世に作られた資料によるものです。

          
              管     仲

 有名な話しとしては、「昔、鮑叔と一緒に商売をして、利益を分ける際に私が余分に取ったが、鮑叔は私を欲張りだと非難しなかった。私が貧乏なのを知っていたからだ。また、彼の名を成さしめようとした事が逆に彼を窮地に陥れる結果となったが、彼は私を愚か者呼ばわりしなかった。物事にはうまく行く場合とそうでない場合があるのを心得ていたからだ。

 私は幾度か仕官して結果を出せず、何度もお払い箱となったが彼は私を無能呼ばわりしなかった。私が時節に恵まれていないことを察していたからだ。私は戦に出る度に逃げ帰ってきたが、彼は臆病呼ばわりしなかった。私には年老いた母が居る事を知っていたからだ。公子糾が敗れた時、召忽は殉死したが私は囚われて辱めを受けた。だが鮑叔は破廉恥呼ばわりしなかった。私が小さな節義に恥じず、天下に功名を表せなかった事の方を恥としている事を理解していてくれたからだ。 私を生んだのは父母だが、父母以上に私を理解してくれる者は鮑叔である」

二人は深い友情で結ばれ、それは一生変わらなかった。管仲と鮑叔の友情を後世の人が称えて管鮑の交わりと呼んだ。

 二人は斉に入り、管仲は公子糾に仕え、鮑叔は公子小白(後の桓公)に仕えた。しかし時の君主襄公は暴虐な君主で、跡継ぎを争う可能性のある公子が国内に留まっていては何時殺されるかわからないため、管仲は公子糾と共に魯に逃れ、鮑叔と小白も莒に逃れた。その後、襄公は従兄弟の公孫無知の謀反で殺されたが、その公孫無知も兵に討たれ、君主が不在となった。斉国内は小白のどちらを新たな君主として迎えるべきかで論が二分され、先に帰国した方が有利な情勢になった。

 ここで管仲は公子糾の帰国を急がせる一方、競争者である小白を待ち伏せして暗殺しようとした。管仲は藪から毒を塗った矢を射て車上の小白の腹に命中させたが、矢は腰巻の止め具に当たって体に届かず、小白は無事であった(ただし、俗説もあり春秋左氏伝などにはこのことは書かれていない)。この時、小白は咄嗟に死んだ振りをして車を走らせてその場を急いで離れ、二の矢以降から逃れた。更に小白は自分の死を確認する刺客が再度到来することを危惧して、念のために次の宿場で棺桶の用意をさせた。このため管仲は小白が死んだと思い込み、公子糾の一行は悠々と斉に帰国した。しかし、既に斉に入っていた小白とその臣下たちが既に国内を纏めており、管仲と公子糾はやむなく再び魯へ退却した。

 斉公に即位した小白こと桓公は、後々の禍根となる糾を討つべく軍を魯に向ける。魯も抗戦したが、斉軍は強く、窮地に追い込まれた。ここで桓公は、兵の引き上げの代わりに、公子糾の始末と管仲および召忽の身柄引き渡しを求める。魯はこれに応じ、公子糾は斬首され、管仲は罪人として斉に送られ、召忽は身柄を拘束される前に自決した。しかし、管仲は斉に入ると拘束を解かれる。魯を攻めるにあたり、桓公は初め糾もろとも管仲を殺すつもりだったが、鮑叔から「我が君主が斉のみを統治されるならば、私と高けいの2人で十分です。しかし天下の覇権を望まれるならば、管仲を宰相として得なければなりません」と言われて考え直したためである。

覇者の宰相

鮑叔の推薦により管仲は桓公と面会し、強兵の前に国を富ませることの重要性、そしてそれには民生の安定と規律の徹底が必要だと説き、即日宰相に命じられた。鮑叔は管仲の下の立場に入り、その補佐に回った。管仲は才を存分に発揮できる場所と右腕を得て、その優れた能力を発揮した。

管仲は内政改革に当たり、周代初期以来の古い制度である公田制を廃止し、斉の領土を21郷に分けた。物価安定策、斉の地理を利用した塩・漁業による利益などによって農民・漁民層の生活を安定させた。これらにより民衆は喜んで働き、産業が活性化した。

 安定した生活は消費を生み、活発な産業は商人を呼び寄せ、商業も活性化した。活発な商業は他国から人を呼び、この中から優れた人材を積極的に登用した。 一方で、五戸を一つの単位としてそれぞれの間で監視の義務を負わせたり、不正に対しては厳罰をもってあたった。これらは高い規律と多くの税収を生んだ。

国内を整備した桓公は、桓公の5年(紀元前681年)魯に攻め込み、領土を奪った。講和条約の調印の際、魯の将軍、曹沫は自らの敗戦を償おうと、桓公の首に匕首を突きつけて奪った領土を返還する事を要求した。やむなく桓公はそれに応じたが、斉へ帰った後に「脅迫された盟約など守る必要はない。今一度魯を攻め、曹沬の首を取ってくれよう」と言った。しかし管仲は「たとえ脅迫の結果であろうとも、一度約束した事を破って諸侯の信望を失ってはいけません」と諌め、領地を返させた。これ以降、桓公の約束は諸侯の間で信頼を持って迎えられ、小国の君主達は桓公を頼みにするようになった。

桓公の23年(紀元前663年)北方異民族の山戎が隣国、燕へ侵攻し。燕からの援軍要請を受けた桓公は兵を纏めると山戎を討伐し、孤竹国まで行って引き返した。燕の君主は桓公を出迎え、自ら斉との国境まで見送りに来たが、その際に気付かぬ内に国境を越えて斉の領内に入ってしまった。これに気付いた管仲は桓公の下へ駆け寄り「国境を超えています。諸侯が他の諸侯を見送らせる場合、国境を越えて見送らせてはいけません。越えて見送らせて良いのは天子だけです」と述べた。桓公が「しかし、既に越えてしまった。どうすれば良い?」と問うと、管仲は「ここに溝を引き国境とすれば、越えたことにはなりません」と返答した。桓公は国境の変更に内心不満だったが、燕公に「燕公殿、見送りは国境までが礼です。(溝を見せ)ここが国境だから、見送りはここまでで結構です」と告げて帰還した。燕公は既に本来の国境を越えてしまった事を知り慌てたが、桓公が国境を変えてまで自らの無礼を帳消しにしてくれた事に感謝した。

これらの政策によって増大した国力と信頼を背景に、桓公は覇者への道を歩む。周王室内部の紛争を治め、北上してくる楚を討って周への忠誠を誓わせ、小国を盟下においた。この功績により桓公は、周王室から方伯(周を中心とした四方のうち東を管轄する諸侯の事)に任じられた。

桓公は度々傲慢に傾き、周王朝を蔑ろにしようとするが、管仲はその度毎に諌め、桓公も自らの意に逆らうことであってもその言を受け入れた。曹沬の件や燕斉の国境の不利な変更についても、自分では嫌だと思いながらも管仲の言に従った。

「管子」の中の言葉として「倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る」の言葉があります。                    

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漢の張良

2021-02-28 10:15:21 | 漢詩・古典・エトセトラ

かの諸葛孔明が「管仲・楽毅に又は張良に我が身を例えた」その中の張良の話です。

              
                    張 良
 祖父の張開地は韓の昭侯(宣恵王・襄王)の相国を務め、父の張平は釐王・桓恵王の相国を務めていた。『その祖先は韓の公族であり、周王室と同じ姫姓であったが、秦による賊探索から逃れるために張氏に改氏したことになっている。父の張平が死んでから20年が経った後、秦が韓を滅ぼした。その時にはまだ張良は年若く、官に就いていなかった。

 韓が滅びたのは紀元前230年で、普通20歳にもなれば成人であり、父が死ぬ間際に生まれた訳でなければ張良も官位に就いているはずである。しかし滅亡寸前の国なので、20歳を過ぎてなお官に就けなかったということもあり得るため、韓が滅亡した時点で20代前半とも考えられる。また、項伯よりも年下との記述がある(「項羽本紀」)。祖国を滅ぼされた張良は復讐を誓い、全財産を売り払って復讐の資金とした。弟が死んでも、費用を惜しんで葬式を出さなかったという。張良は同志を求めて東へ旅をし、倉海君という人物に出会い、その人物と話し合って屈強な力士を借り受け、紀元前218年頃に始皇帝が巡幸の途中で博浪沙(現在河南省郷市原陽県の東)を通った所を狙った。方法は重さ120斤(約30kg)という鉄槌を投げつけ、始皇帝が乗った車を潰すというものであった。しかし鉄槌は副車に当たってしまって暗殺は失敗に終わり、張良たちは逃亡した。

始皇帝は自らを暗殺しようとした者に怒り、全国に触れを回して捕らえようとした。そこで張良は偽名を使って下邳(現在の江蘇省徐州市の東の邳州市)に隠れた。

下邳時代の逸話

張良と黄石公(頤和園)

 ある日、張良が橋の袂を通りかかると、汚い服を着た老人が自分の靴を橋の下に放り投げ、張良に向かって「小僧、取って来い」と言いつけた。張良は頭に来て殴りつけようかと思ったが、相手が老人なので我慢して靴を取って来た。すると老人は足を突き出して「履かせろ」と言う。張良は「この爺さんに最後まで付き合おう」と考え、跪いて老人に靴を履かせた。老人は笑って去って行ったが、その後で戻ってきて「お前に教えることがある。5日後の朝にここに来い」と言った。

            

 5日後の朝、日が出てから張良が約束の場所に行くと、既に老人が来ていた。老人は「目上の人間と約束して遅れてくるとは何事だ」と言い「また5日後に来い」と言い残して去った。5日後、張良は日の出の前に家を出たが、既に老人は来ていた。老人は再び「5日後に来い」と言い残して去って行った。次の5日後、張良は夜中から約束の場所で待った。しばらくして老人がやって来た。老人は満足気に「おう、わしより先に来たのう。こうでなくてはならん。その謙虚さこそが大切なのだ」と言い、張良に太公望の兵法書(六韜三略)を渡して「これを読めば王者の師となれる。13年後にお前は山の麓で黄色い石を見るだろう。それがわしである」と言い残して消え去ったとあります。

陳勝・呉広の乱が起こると、張良も兵を集めて参加しようとしたが、100人ほどしか集まらなかった。その頃、陳勝の死後に楚王に擁立された楚の旧公族の景駒が留にいたので、参加しようとした途中、劉邦に出会い、これに合流したという。

張良は自らの将としての器量の不足を自覚しており、それまでも何度か大将たちに出会っては自らの兵法を説き、自分を用いるように希望していたが、聞く耳を持つ者はいなかった。しかし劉邦は張良の言うことを素直に聞き容れ、その策を常に採用し、実戦で使ってみた。これに張良は「沛公(劉邦)はまことに天授の英傑だ」と思わず感動したといいます。

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