針外し/爺さんの独り言。役にたたない情報ばかり。

自作のスピナーベイトで今日もバスを釣るぞ!。人はそれを「G」と呼ぶ。爺さんの「G(ジー)」の意味だった。ガクン!。

唐宋八門

2022-02-02 19:36:21 | 漢詩・古典・エトセトラ

唐宋八大家(とうそうはちたいか/とうそうはちだいか)は、唐~北宋にかけての八人の文人をさします。

唐の韓愈・柳宗元、北宋の欧陽脩・蘇洵・蘇軾・蘇轍・曾鞏・王安石の八人を指し、特に蘇洵・蘇軾・蘇轍は親子(父、長男・次男)で、三蘇とも称されています。

                      
  韓愈『雑説』  柳宗元『柳河東集』   欧陽脩『欧陽文忠公集』  蘇洵『嘉祐集』

                                蘇軾『烏台詩案』  蘇轍『集』50巻  曾鞏『戦国策目録の序』 王安石『臨川集』

昔、「燃えよ剣」だったか忘れましたが、栗塚 旭・左右田一平・島田順二出演で島田順二が何処かの若様だったか武士の子弟が「唐宋八家門文士録」を読んでいるのを見て「凄い書をよんでいますね、偉いなあ!」と言っていたのを覚えています。         

 その中の、中唐の韓愈は、当時流行の四六駢儷文(しろくへんれいぶん)がいたずらに華美であることを忌み、文はすべからく漢・魏の古文を宗として、質朴かつその意を尊ぶべしと主張した。いわゆる古文復興運動です。
 同時に六朝を軸に、隠逸を尊ぶ老荘趣味的な文人の嗜好をあらため、廉士として積極的に社会にまじわり、経世済の経済概念の手段としての文学を行うべしという儒学的文人観の復興、確立でもあり、唐宋を通じて次第に整備される科挙制度の発達とともに、知識人たちのあいだに大いに流行しました。

 また、蘇軾は(057年)22歳のときに(嘉祐2年)弟の蘇轍とともに進士となる。このときの科挙は、欧陽脩が試験委員長を務め、当時はやりの文体で書かれた答案は全て落とし、時流にとらわれない達意の文章のみ合格させるという大改革を断行した試験であり、蘇軾・蘇轍・曽鞏の3名のみ合格した。合格後、地方官を歴任し、英宗の時に中央に入ります。この時期に親子三人(蘇洵・蘇軾・蘇轍)で唱和し作成した「南行集」は、杜甫や梅堯臣の詩を学び五言古詩が多く収録されている。しかし現存しておらず、50巻の詩集(合註本)の巻一に収める42首が面影を残しているのみである。治平3年(1066年)に父の蘇洵が亡くなってからは、政界から一度離れ故郷に帰って喪に服す。再び政界に復帰したのは熙寧2年(1069年)蘇軾が34歳の時です。(この後も続きますがWEB検索して下さい。(おいおい、此処でうっちゃるのかよ!?。)

まあまあ、個別にやると大きくなっちゃうから、興味があったら勝手に見てね。(笑)。

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王維

2022-01-31 08:56:04 | 漢詩・古典・エトセトラ

王 維(おう い、生卒年は、『新唐書』では701年~761年以降の記述は一応『新唐書』に準拠、(長安元年から上元2年)は、唐朝の最盛期である盛唐の高級官僚で、時代を代表する詩人。また、画家・書家・音楽家としての名も馳せた。字名は摩詰、最晩年の官職が尚書右丞であったことから王右丞とも呼ばれる。本貫(出生地)は太原郡祁県です。

         

同時代の詩人で李白が“詩仙”、杜甫が“詩聖”と呼ばれるのに対し、その典雅静謐な詩風から詩仏”と呼ばれています。南朝より続く自然詩を大成させた。韋応物・孟浩然・柳宗元と並び、唐の時代を象徴する自然詩人です。とりわけ、王維はその中でも際だった存在である。画についても、“南画の祖”と仰がれています。

王維は、仏教を信奉し、乱の際に「香水銭」(これ何だか分かりません)と呼ばれる授戒による軍費調達によって粛宗の信任を得た荷沢神会(かたくじんね・人の名前だよ。禅僧。荷沢宗の開祖。)の支持者の一人であった。そのため、なまぐさを食べず、派手な服装はしなかったと伝えられる。また、早くして妻を亡くしたが、以後、再婚せず、30年間、独身を貫いた。

王維はその高潔清雅な性質と作品群によって、後世、高い評価を受けていたが、朱熹のように「其の人既に言うに足らず、詞も清雅なりといえども、また萎弱にして、気骨少なし」という評価や、清代の徐增からは「天才は李太白(李白)、地才は杜子美(杜甫)、人才は王摩詰」という評価も受けている。
代表作
送元二使安西は以前にやったので此処では省きます。どちらも「唐詩三百詩」の中に入っています。
               鹿柴 
空山不見人  空山 人を見ず      ひっそりとした山に人影もなく
但聞人語響  但だ人語の響きを聞く   ただかすかに人の声だけが聞こえる
返景入深林  返景 深林に入り     斜陽が深い林の中に差し込み
復照靑苔上  復た青苔の上を照らす   また青い苔の上を照らし出す

 朱熹が王維に対して批判的ってありますけれども、誰だって自分の作品が並外れて秀作だと認識して詩を作っている奴なんかいませんよね。その時の情景とかを皆と分かち合って詠っていればそれでいいじゃないか。

 自分の気持ちに素直になって詠んでいるので、邪推な面は無い筈でありますね。この「鹿柴」だって私たちが素直に見て詠んで「いい」と思えばそれでいいじゃないか・・です。

 だから針外しは「佳作」とか「優秀作」とかの判断・評価をする奴は嫌いですね。ケチを付けようとすればいくらでもできます。そんな事よりも、この詩で同じような気持ちにさせてくれる、持たせてくれる方をえらびます。兎角、例えば野球界にしても「一億総監督」で批判ばかりしているよりも、野球をやって楽しむ方がよっぽど「マシ」ですね。もっと風情を楽しんで、「粋」な気持ちを持ちたいもんです。

漢詩の良さってそういう所にあると思っています。

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赤匪

2022-01-29 09:02:15 | 漢詩・古典・エトセトラ

 赤匪(共匪)(きょうひ)とは、中華民國統治下の中国において、中国共産党の指導のもとに活動したゲリラのことである。匪賊のうち共産主義を掲げる集団とされ、共産匪赤匪毛赤匪中共匪とも呼ばれた。
 これは、馬賊とも違う。また書く村々では自警団を作って村を守ったがそれとも違う。共産主義を理想として革命を起こそうとしたが実際はとんでも無い集団です。
共産党…階級闘争を提唱し、農工を欺騙し、民意を偽造し、無罪者を殺戮し、財産を強奪し、礼教を毀棄し、親族を仇視し、青年学子を誘惑し、赤色恐怖を引き起こし、害毒を流すは、財産多寡に分けること無く、人格賢愚を論じず、「土地を有するは皆横暴で、紳の劣らぬこと無し」に及ぶ。凡(おおよそ)我が真正農工ならび武裝同志は、室家を破り毀されぬものなく、その賊害を被っている。

         


国民党「農政視察団」の報告

  此の度軍に従ひ某地を出発し、共匪討伐に赴いた。共匪の難を蒙つた地方の惨状を目撃して、自分は一個の感想を抱いた。共産党は農工革命を標榜してゐるけれども、その実は却つて農工を欺騙して居る。この地方一帯は本当の農民と労働者は凡て共匪に殺され尽して居る。共産党の暴動に従ふ者は凡て流民や悪漢であつて、本当の農民労働者は逃亡するか、若しくは殺害されて居る。この地方一帯の田地には耕作する者が無い。この情態は実に残酷を極めて居る。共産党は本来、露西亜(ロシア)の走狗である。

 露西亜に於てすら適当ならざる共産主義を堅く執つて支那に持つて来て実行せんとして居る。誠に遺憾至極のことである。玆に於て自分は共産党員が国を害し民を害する分子であることを悟り得た。我等はまさに同心協力して共産党を滅ぼさねばならぬ・・・・・。

 針外しは以前に「赤い故郷を捨てた人々」という書を紹介した事があるが、紅衛兵=赤匪=共産軍は日本と戦っているが、連戦連敗を重ね、ある村に駐留すると、其処を日本軍に占領される位なら、村民は全員銃殺、物資は全て略奪か焼却だったといいます。

  また、当時の富裕層=地主が表に出されて所謂「人民裁判」を紅衛兵が執り行い、ある小作農の爺さんが「此奴らは地主階級だ」と言うと、その場で全員(子女迄)銃殺にされたとあります。
そうした事で恐怖で身の危険を感じた人達は台湾海峡を泳いで渡ったとあります(赤い故郷を捨てた人々)

日本軍と戦って当然負ける訳ですが、日本軍にやる位ならと、村を全部焼き討ちして村民も全員殺して逃げたとあります。また韓国軍の捕虜にしても、移動の際は必ず殺してから動いたとあります。
共産党軍が華々しく勝って国家を樹立したなんて言うのはほとんどが嘘だという事です。
華僑にしても自国の救いようのない腐敗政治、独裁政治から逃げて国外にでた人々である事は間違いないね。

           

 昔、曲波の「林海雪原」という本を読んだ事がありまして書いてあることは全部「綺麗ごと」神田の「東方書店」辺りで出た頃テレビでも京劇で「智取威虎山」と言う名で放映されていました。(その中で「楊 子栄」なる主人公が活躍するもの。)皆、英雄視。綺麗な掻き立てられるような美辞文句だった。曲波は敵のpropagandaによって苦しめられたと書いてありましたが、共産軍の方のやり方の方がとんでもなくえげつなかった。

           
                  真ん中が楊 子栄

憲兵の特務機関云々が言葉巧みに誘導して騙して・・なんてあります。またよく日本軍の南京大虐殺を取り上げますが、共産党、紅衛兵の方が何百万人と同胞を殺害した事は消す事の出来ない事実であり最大の汚点であます。

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淮南子と言う書

2022-01-28 09:38:08 | 漢詩・古典・エトセトラ

 『淮南子』(えなんじ/わいなんし)、前漢の武帝の頃、淮南王の劉安が学者を集めて編纂した思想書です。日本へはかなり古い時代から入ったため、漢音の「わいなんし」ではなく、呉音で「えなんじ」と読むのが一般的である。色々な言い方がありますね。国士無双の韓信は劉邦の意向を被って淮南の地の王になったので淮南王(わいなんおう)韓信と呼ばれましたからね。この淮南王の劉安も「わいなんおう」と読むのが合っていると思います。(針外しはね。)その中に「人間万事塞翁が馬」と言う言葉があります。

                                       
                                                淮南王 劉安  
普通「人生」(じんせい)とか「人間」(にんげん)間違って覚えている事が多いのですが、人間(じんかん)が正しい。でも「世間」を意味するので、誤りではありません。でその意味は

人間万事塞翁が馬」とは幸せが不幸に、不幸が幸せにいつ転じるかわからないのだから、安易に喜んだり悲しんだりするべきではないというたとえです。 また、人生において、何がよくて何が悪いのか、後になってみないとわからない。 という事です。。

 昔、中国北方の塞(とりで)近くに住む占いの巧みな老人(塞翁)の馬が、胡の地方に逃げ、人々が気の毒がると、老人は「そのうちに福が来る」と言った。

        
 やがて、その馬は胡の駿馬を連れて戻ってきた。人々が祝うと、今度は「これは不幸の元になるだろう」と言った。すると胡の馬に乗った老人の息子は、落馬して足の骨を折ってしまった。
人々がそれを見舞うと、老人は「これが幸福の基になるだろう」と言った。一年後、胡軍が攻め込んできて戦争となり若者たちはほとんどが戦死した。しかし足を折った老人の息子は、兵役を免れたため、戦死しなくて済んだという故事に基づく。単に「塞翁が馬」ともいいます。

「が」は所有を表す格助詞だが、「塞翁の馬」と言いません。
人間を「にんげん」と読むのは間違いで、正しい読みは「じんかん」であるとの指摘も多いが、どちらの読み方をしても「世間」の意味があり、「にんげん」が誤読ということはないですね。

ま、普通にこういう老人がいると、変にひねくれ者と感じてしまうでしょね。物の道理を問うたもので、どっちが正しい事か何て人智では測れないと思っていた方がいいね。

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杜甫の「飲中八仙歌」

2022-01-24 10:14:35 | 漢詩・古典・エトセトラ

李白と杜甫は交流があり李白の元にショッチュウ遊びに行っていたのですが李白の仲間には当然酒飲みが集まっていた訳です。でその頃の酒仲間を詠ったのが「飲中八仙歌」です。

        
          真ん中の抱えられているのが李白だね。

賀 知章(ガチショウ)  字は季真、四明狂客と号します。会稽郡永興県の人。証聖元年(695年)に進士に及第して、後に太子賓客・秘書監に至る。詩をよくして李白と交友があり、また草書と隷書に巧みであったという。無類の酒客にして脱俗の趣あり、後に官を辞して故郷に帰り道士となって86歳で没した。酔って馬に乗る姿は揺れる船に乗るかのようで、井戸に落ちてもそのまま眠り続けたという事です。

汝陽王・李璡(ジョウヨウオウ リシン) 譲皇帝李憲の長男。汝陽王に封ぜられる。太僕卿に至り醸王と号した。弓と鞨鼓に優れて叔父の玄宗皇帝は、はなはだしくこれを愛したと伝える。性謹直であったが無類の酒好きで、毎朝出仕の前に三斗の酒をあおり、途上、麹車に出会えば涎を流し、いっそ酒泉王に封ぜられたかったと言ったと歌う。

李 適之(リテキシ) 左丞相の地位にあった。毎日、一万銭を費やし、大鯨が百の川の水を吸い込むがごとき飲みっぷりであって、清酒は飲むが濁酒は飲まない。

崔 宗之(サイソウシ) 崔日用の子。侍御史・斉国公となった。美少年が杯を手に青空に白目をむけば、その輝かしさは美しい木が風に揺られるかのようと歌う。

蘇晋(ソシン) 蘇珦の子。玄宗の詔勅などを起草し、太子左庶子・吏部侍郎となった。仏像の前で肉食はしないが、酔えば座禅などしていられないと歌う。

李白(リハク) 一斗の酒を飲めば百篇の詩が吐き出され、酒場で眠り、天子の召し出しがあっても「自分は酒飲み仙人」だとうそぶくと歌う。なお、日本の川柳に、これを踏まえた「李太白一合づつに詩を作り」「四日めにあき樽を売る李太白」といった句がある。

張旭(チヨウキョク)三杯の酒で草書の達人と伝えられるが、王侯の前でも頭を剥き出しにして筆を揮い、その書は雲煙の湧きおこるかのようと歌う。

焦遂(ショウスイ)在野の人。五斗の酒で意気上がり、気炎を吐いては周囲を驚かせると歌う。

で、この中の6篇目 の   李白を詠った詩

   李白一斗詩百篇  李白一斗詩百篇         李白は酒を一斗呑むごとに百篇の詩を作る。

   長安市上酒家眠  長安市上酒家に眠る       長安の町中の居酒屋で飲んだくれて眠っている

   天子呼来不上船  天子呼び来きたれど船に上がらず 陛下からのお召しがあっても船に上がらない。

   自称臣是酒中仙  自ら称す臣は是れ酒中の仙と   そして自分のことをこう言うのだ。「酒中の仙人でございます」と。

(蛇足) 
因みに、これに合わせて酔拳の中で八人の仙人が出来たのだろうか?。中国では数を誇張する傾向がありますがこれもそうかね?。でも酔八仙の文字は春秋戦国の頃からあるとも言われているしね、どっちが先で後かなんて問うのは愚の骨頂だね。
 伝説では各地に伝わる酔拳を、蘇乞兒(日本語当て字:蘇化子そかし)、別名:蘇燦)と范大杯という2人の武術家が研究し、それに少林拳や、八仙拳、地功拳などの技術を組み合わせることで、酔八仙拳を創始したと言われています。

八仙のメンバーは時代によって違いがあるんですけれども、小説『八仙東遊記』成立後は、以下の八人で固定されました。

  • 李鉄拐(りてっかい、リーテッグァイ)または鉄拐李(てっかいり、テッグァイリー)
  • 漢鐘離(かんしょうり、ハンツォンリー)または鍾離権(しょうりけん)
  • 呂洞賓(りょどうひん、ロイドンピン)
  • 藍采和(らんさいか、ランツォイウォー)
  • 韓湘子(かんしょうし、ハンシャンツー)
  • 何仙姑(かせんこ、ホウシングー)
  • 張果老(ちょうかろう、チャングォロウ)
  • 曹国舅(そうこっきゅう、ツォウゴッカウ)

           
                   酔 八 仙

有名な伝承者には
  李元智(1903-1972)秘宗拳(水滸伝の浪士の燕青が祖)で知られる武術家。傳万祥に酔八仙を習ったとされる

  黄漢勛(オウカンクン)七星螳螂拳で知られる武術家。羅光玉の弟子。羅光玉に酔羅漢拳を習ったとされる。酔羅漢拳は蟷螂拳に伝わる地功拳の拳套(型)。

  龍飛雲(1955-2007)日本の武術家。単身台湾に渡り北派拳法の修行を重ねる。酔八仙拳を日本に伝承した最初の人物。・・・がいます。

尚、酔拳は太古の昔からあったとされて、春秋戦国の時代の朱豹、水滸伝の花和尚の魯知深、景陽崗で素手で虎退治した武松がいますね。武松には玉環歩 鴛鴦腿なんて技の名前が出てきます。

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瓜田に履を納れず李下に冠を正さず

2022-01-21 16:11:51 | 漢詩・古典・エトセトラ

 この句は粱の武帝の子、蕭統(しょうとう)が編纂した「文選」の中の楽府古辞四首の中の「君子行」という一首です。此処に言う楽府古辞とは民間で謳われていて誰が作者か分からない物をいいます。前半六句は君子のあり方。疑いを掛けられるよう行動を慎んで。後半は功労を誇る事をせず謙虚でいろと説いています。

                 
                        斉の武帝

  464年~549年 蕭衍は字は叔達。梁の初代皇帝・武帝である。南朝の皇帝のなかで最も長い四八年の在位で、安定した治世だったことで知られる。残虐だったり無能だったりする皇帝が多い南朝のなかでは、ひときわ名君として名高い。
四七九年に始まった南斉は、五〇一年までの短期王朝だった。皇帝は蕭道成(高帝)から五代まで続いたが、まともなのは高帝と息子の武帝だけだった。四九八年、東昏侯(愚かな東の侯爵、という意味)が帝位についた。殺戮が趣味であるかのように、この皇帝は殺しまくった。朝廷の重臣たちも次々と殺され、蕭衍の兄も犠牲となつた。ここにいたり、ついに蕭衍は決起した。東昏侯を倒すと、その異母弟を皇帝に擁立(和帝)。そして、その和帝から帝位を譲られるかたちで、梁を建国し、皇帝となったのである。五〇二年のことだった。
武帝はその姓が示すように、斉を建国した蕭の一族である。本来ならば、同姓の国を滅ぼすのは、よくない行為だし、彼がいつ皇帝になろうという野心を抱いたかは、よく分からない。

              

 ともあれ、斉末期があまりにもひどかつたので、彼の行動も支持されたのである。殺さなければ殺される。そんな時代だったのだ。
武帝は文武両道のオ能があり、邸宅には多くの文化人・教養人が招かれていた。仏教に熱心で、僧侶以上に修行をしたともいう。功績のひとつとして、国立の大学を設立し、 一般の秀才にも入学を許可し、それとともに国家試験に合格すれば、家柄に関係なく、高級官吏として採用する制度を作った

君子防未然  訓氏は未然を防ぎ        君子は災いが起らないように未然に防がねばならない。

不處嫌疑閒  嫌疑の間に処らず        疑いを掛けられるような位置に自分を置かない。

瓜田不納履  かでんに履を入れず       例えば瓜畑の中で履を履きなおしたり、

李下不正冠  りかに冠を正さず        スモモの木の下で冠を直しては駄目だ。

嫂叔不親授  そうしゅくはしんじゅせず    義弟が嫂に直接物を手渡したり

長幼不比肩  ちょうようはかたをならべず   若僧が年長のものと一緒に並んだりしては駄目だ。

後半は周公みたいな聖人であれと詠っています。 孔子はこの周公を敬慕していました。

勞謙得其柄  ろうけんにしてそのへいをう   功労を誇ることなく初めて人間としての本領を得る事が出来。 

和光甚獨難  わこうははなはだ独り難し    自分の知恵を世俗のチリと思えるようにならねばならない。

周公下白屋  しゅうこうははくおうに下り   就航は粗末なあばら家に住んでいる人に対しても謙虚でいた。

吐哺不及餐  ほを吐きて餐に及ばず      食事中に来客があっても口から吐き出して面会したし、

一沐三握髪  ひとたび沐してみたび髪を握る  洗髪中に人が来ても、髪を握ったまま会いにでたほどであった。

後世稱聖賢  こうせいせいけんと称す     だから後世に至っても聖賢と称されるのであります。

所謂、君子論ですが、中国派ご存知「儒教」の国、孔子が時の王に遊説して回って君子は「如何にあるべきか」を説いて回りました。それを時の権力者は取り入れて儒教国家となった訳です。するとこれに老耼(ろうたん)(老子の事)が皮肉った。大道廃れて仁義有り。「お前が礼だの義などとくだらない事を言うもんで仁や義などの根本の道徳が必要とされるようになったんだよ。」
老子は無為自然の道を説きました。
因みに孔子の説いたのが八徳南総里見八犬伝でも有名な仁・義・礼・智・忠・信・考・悌ですね。

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創業は易く、守成は難し

2022-01-06 07:18:36 | 漢詩・古典・エトセトラ

 唐の太宗と侍臣達の政治上の論議を集大成した書で唐の呉兢(ごきょう)の著の中にある言葉です。

太宗が言うには「帝王たるものの事業は創業と守成とではどちらが難しいと思うか?」すると左僕射(さぼくや)の房玄齢が答えて「国家を打ち立てるには群雄の並び立つ乱世において悉くこれに打ち勝って行かなければならないので創業の方が難事でしょう」と言ったのですが、諫議大夫(かんぎたいふ)の魏徴がこれに反対して、「新たに帝王が起るのは悪性が行われていて国が乱れている時ですから人民はむしろ喜んで従います。故にそれ程難事ではありません。一旦天下を手中に入れると慢心して政務を怠る様になります。国の衰えはいつも其処から起こります。そう思うとむしろ守成の方が難事と言えます」

                                                 
                                                              魏徴の像

また、昭和に戦争が勃発して当時の人達は学校どころではありませんでした。当然、前線に駆り出されて、喰う事にも困っていましたので、其処で事業を始めるにしても、いい悪いなんか言っていられなくて、多少の悪い事、法律に引っかかる事でも強引に推し進めました。だからバイタリティーだけで創業できたのですが、教養を身に着けた若者は「〇✕すると法律に引っかかる」とかで手足をもがれた状態です。

また親が創業者の場合、その家の長男は学を身に着けてしまって、また親の様に強引さで人を引っ張っていく事も出来なくなっています。こういう場合創業よりも守成の方が何倍も難しくなっています。
これを、「攻撃は最大の防御」と結び付けるのはちょっとちがいますね。

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鴻門の会

2021-12-23 08:33:03 | 漢詩・古典・エトセトラ

天下に名高い「鴻門の会」です。

〚鴻門の会迄の流れ〛
ちなみに鴻門の会(こうもんのかい)は、紀元前206年、楚の項羽と漢の劉邦が、秦の都、咸陽の郊外(現在の陜西省西安区臨潼区)で会見した故事。楚漢の攻防の端緒となった。がその前にとんでも無い事が起こります。とこれはさておいて。

 宋義は趙の張耳・陳余の救援要請を受けて趙の鉅鹿(きょろく)へ向かったが、進軍を安陽までで止めてしまった。そして46日間安陽に留まってしまった。項羽は進軍すべきと宋義に直訴したが「秦が趙との戦いで疲弊したところを打ち破る」と言い、「狂暴で使命に従わないものは斬刑に処す」という項羽に対してあてこすった命令を全軍に出す。宋義は斉と和親、講和するため、斉の宰相に就任しようと楚軍から離れていく息子の宋襄を送るための大宴会を開く。

 その一方で、兵は飢え、凍えて苦しんでいた。二世3年(紀元前207年)11月、項羽は、「秦が趙を打ち破れば、さらに強大になる。懐王は宋義を上将軍に任じ、国運を託しているのに、宋義は兵を憐れまず、子の出世という私事ばかり考えている。社稷の臣ではない」と言い、懐王の命令と偽り、宋義が斉と謀り反逆したとして、宋義が帰ってきたところを殺害する。諸将は項羽に従い、項羽を仮の上将軍とする。また、宋襄も追いかけて殺害した。懐王は、項羽を上将軍に任じ、項羽が趙救援の軍を率いることとなった。

                                   
                 劉   邦

 項羽は北進を開始し、鉅鹿を包囲していた秦の章邯が率いる20万を超える大軍と決戦を行い、大勝利を挙げる(これを鉅鹿の戦いと言います)。この戦いで数に劣る楚の兵は皆一人で十人の敵と戦ったと伝えられる。同年12月、項羽の勇猛さと功績により各国の軍の指導者たちは項羽に服属し、項羽は各国諸侯の上将軍となり、諸侯の軍はその指揮下に入った。

 項羽はその後も章邯率いる秦軍を攻めて連戦連勝する。同年6月章邯は配下の司馬欣や趙の陳余に降伏するよう進言を受け、項羽と盟約を結ぼうとする。この時の盟約は成立しなかったため、項羽はさらに章邯を攻撃して勝利して、章邯と盟約を結んだ。同年7月、章邯は降伏し、擁王(の位)に引き立てることで、戦いは終わった。降伏した20万人以上の秦兵を先鋒にして、新安に進ませた。

しかし、漢の元年紀元前206年、秦の兵隊が(秦卒)暴動の気配が見えたため、新安において、夜襲を行い、章邯・司馬欣・董翳(とうえい)の3名を除いて、全て阬(穴に埋めて殺すこと)した。一説によると、20余万人の投降を受け入れたものの、兵糧が全くない。其処で谷合いに駐屯させ、入り口を塞いで、火、火焔を用いて焼き殺し穴埋めにしたと「史記」では書いてありますね。

                               
                                                                項  羽

また紀元前207年、倒秦に立ち上がったの懐王は関中を初めに平定したものを関中の王とすると諸将に約束した。

項羽は行く先々で秦の土地の平定を行い、同年12月、関中に入ろうとしたが、その時すでに、別働隊として咸陽を目指していた劉邦が先に関中に入っていた。劉邦は、項羽によって章邯が雍王になると聞き、劉邦が関中の王になれないと思い、函谷関を兵で防ぎ、項羽の関中入りを拒否したため、項羽は関中に入れなかった。劉邦に関中入りを阻まれたことと、先に劉邦が咸陽を陥落させていたことを聞いて、項羽は大いに怒り、函谷関を攻撃して関中に入った。また、劉邦の配下の曹無傷から「劉邦が関中の王となろうとして、元の秦王・子嬰(しえい)を宰相にして、咸陽の財宝を自己の所有としました」と知らせたため、項羽は怒って、劉邦を攻め殺そうとした

劉邦は慌てて項羽の叔父の項伯を通じて和睦を請い、項羽と劉邦は酒宴を開いて和睦の話し合いを行い、劉邦は命拾いをした。これが有名な鴻門の会であります。

項羽の叔父の項伯は夜密かに馬を走らせ、劉邦に客将として従っていた張良に会った。項伯は張良とかねてより親しく、また仇持ちとなった際に匿ってもらった恩義があった。事の顛末を話し、君だけは助けたいと共に脱出するよう誘うが、張良はそれを拒否し一部始終を劉邦に伝えた。劉邦は驚き、項伯と会って姻戚関係を結ぶことを約束し「咸陽に入って以来、宝物などを奪う事もせず、項羽将軍を待っていました。

関中に兵を置いたのは盗賊と非常時に備えたものです。これを項羽将軍に伝えて下さい」と言った。項伯は納得するがそれを項羽へ伝える条件として、劉邦が明朝項羽の陣営へ直接来て謝罪する必要があると言い、劉邦はこれを受け入れた。一方の項羽も項伯の取り成しにより怒りを和らげ、弁明を聞くことにした。そして翌日、後に言う「鴻門の会」が行われることとなった。

劉邦は慌てて項羽の叔父の項伯を通じて和睦を請い、項羽と劉邦は酒宴を開いて和睦の話し合いを行い、劉邦は命拾いをした。これが有名な鴻門の会であります。

鴻門の会

翌朝、劉邦は鴻門に項羽を訪ねた。しかし護衛の兵は陣外に留め置かれ、本営には劉邦と張良だけが通された。劉邦はまず項羽に謙って謝罪し、「私達は秦を討つために協力し、項羽将軍は河北に、臣は河南に戦いました。思いもよらず先に関中に入りましたが、小人の讒言によって、互いの関係にヒビが入っているのは残念でなりません」と弁明した。それに対して項羽は、「それは曹無傷が言った事だ」と返した。

項羽は宴会を始め、項羽・項伯は東に向いて上座に座った。范増は南向き、劉邦は北向き、張良は西向きにそれぞれ座った。宴会中、范増は項羽に目配せして、劉邦を斬るよう合図を送った。そもそも劉邦を陣中に入れたこと自体が謀叛を大義名分として斬ることを目的としたもので、彼を項羽のライバルとして警戒する范増が強く進言したものだった。

しかし、劉邦が卑屈な態度を示し続けていたので、項羽は討つ気が失せ、一向に動かなかった。三度合図を送っても全く動かなかったので、范増は一旦中座して項荘(項羽の従弟)を呼び、祝いの剣舞と称して劉邦に近づき、斬るよう命じた。これを受けて項荘は剣舞を始めたが、企みに勘づいた項伯も相方として剣舞を始め、項荘を遮り続けた。

この時、張良も中座し、陣外に待機していた樊噲に事態の深刻さを伝えた。樊噲は髪を逆立てて護衛の兵士を盾ではじき飛ばし宴席に突入。「戦勝の振る舞いがない!お流れを頂戴致したく願います!」と項羽をにらみつけ、その凄まじい剣幕に剣舞が中止となる。項羽はその豪傑ぶりに感心し、大きな盃に酒をなみなみと注いで渡すと、樊噲はそれを一気に飲み干した。更に、豚の生肩肉をここで項羽がもう一杯と丸々一塊出すと、樊噲は盾をまな板にして帯びていた剣でその肉を切り刻み、平らげた。酒を勧めると、樊噲は「私は死すら恐れませんのに、どうして酒を断る理由がありましょうか。これが有名な一場面、項伯と樊噲の剣舞です。

その後、劉邦が席を立ったまま戻ってこないので、項羽は陳平に命じて劉邦を呼びに行かせたが、劉邦は樊噲と共に鴻門をすでに去り、自陣に到着していた。この際、張良は、劉邦が酒に酔いすぎて失礼をしてしまいそうなので中座したと項羽に謝罪し、贈り物を渡すと自らも辞去した。

 贈り物を前にした項羽はご機嫌だったが、范増は情に負けて将来の禍根を絶つ千載一遇の機会を逃した項羽に対し「こんな小僧と一緒では、謀ることなど出来ぬ!」と激怒し、贈り物の玉斗を自らの剣で砕く。さらに深い嘆息をもらして、劉邦を討ち取る事ができなかったので、「そのうち天下は必ず劉邦に奪われ、我らは捕虜となってしまうだろう」と嘆いた。劉邦は自軍に戻ると、さっそく項羽に讒言をした曹無傷を誅殺した。

これが有名な「鴻門の会」の一節です。漢の劉邦は危機の連続を巧くかわしてとうとう項羽を追い詰めて自刃に追い込み天下を手中に収める事になります。

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李白の静夜思

2021-12-16 09:18:25 | 漢詩・古典・エトセトラ

   静夜思 李白
               

李白の代表的な詩「静夜思」です。中学校の教科書には大概載ってました。中国でも誰もが知っていると言ってよい有名な詩です。非常にわかりやすく、通俗的ではない、清らかな月の光としみじみとした郷愁が染み入ってくる詩です。訳文を沿えなくても十分に理解できます。

静夜思の原文

床前看月光   床前しょうぜん月光を看る       寝台の前で月の光を見る

疑是地上霜   疑うらくはれ地上の霜かと  地面に降りた霜のようだ

挙頭望山月   こうべを挙げて山月を望み     顔を挙げて山の上の月をながめ

低頭思故郷   首をれて故郷を思う     頭を垂れて故郷を思う

中国人は古代からベッドで眠り、これを「床」と言います。冬にはこの下に炭、石炭?なんかを入れて暖を取りました。(温床・オンドル)冬は厳しい寒さの中国東北部では炕(オンドル…煮炊きの熱を誘導して暖かいベッドのようにした暖房装置)の上では小机を置いて食事をしたりお茶を飲んだりしています

またこの「床」を井戸(正確には井戸の縁)と取る説もあります。中国語では今も「井床」と言います。もしこの意味なら詩人は部屋の中ではなく、外で月を眺めていることになります。

第1句の最後「看月光」の3字を「明月光」とする読み方もあり、中国人にこの詩を読んでもらうとこちらで読む人が多いです。古い資料では「看月光」となっており、日本の漢文の教科書もそうなっていますので日本人はたいていこちらで覚えています。

実は漢詩は長い時間をかけて写し続けているうちに一部の作品は元の姿とは幾分違ってしまっているのですが、その中で昔の面影をそのままとどめているものが2種類あります。そのうちの一つは遣唐使などが日本に持ち帰ったもの、もう一つは敦煌文書として発掘されたものです。遣唐使が持ち帰った唐代の写本は正確に写されて後世に伝わり、元の作品と異なってしまっているものはありません。替えるほどの中国語の知識がなかったこともあるでしょうが、やはり何といってもそこには深い尊敬があったのでしょう。

敦煌文書というのは20世紀になって発掘された中国の敦煌・莫高窟からの大量の文書で、11世紀の宋代初期、この石窟の入り口が封印されたために昔のものがそのまま保存されているのです。

ともあれこうしたことを考えるとおそらく李白が書いたのは「看月光」、その後伝わる中で中国では「明月光」となり、多くの中国人はこちらで覚えているのでしょう。

ニュアンスとしては「看月光」は最初から月の光を見ようとして見ていますが、「明月光」だと月光にふと気づいた感があります。こちらの方が味わい深いとする人もいます。

第2句の冒頭「疑是」は「~と疑った」ということではなく「これって~ではないの?」という語感を持つ比喩・たとえです。「霜かと思ったら月の光だったんだ…」ということです。地面が白く光っていたんでしょうね。そして一瞬霜と見間違えるのですから季節は秋、それも深まりつつある秋でしょう。

秋の夜更け、すでに人は寝静まっている時間です。詩人は寝付かれないまま寝台の前の月の光を眺めます。一瞬霜かと思うほどの白い光に、「ああ月の光だ」と顔を挙げると遠くに山並みが見え、その上にしらじらとした光を放つ月がかかっています。

この月は満月でしょう。中国人が愛でる月は基本満月です。満月こそが家族だんらんのシンボル。満月を見れば家族を思うというのが、典型的な中国人の心性です。

中国の中秋節は秋の満月を愛でる節句ですが、この日は家族団らんの日でもあります。まるい形は一人として家族が欠けていない、中国人の幸福と理想を意味するのです。

また月を見れば別の場所を思うというのも中国詩における定型的な発想の一つです。月はこの世をあまねく照らしていますから、自分が見ているこの月をはるか彼方のあの人も見ているだろうと思うのです。

月を見れば家族を思い故郷を思い…詩人はいつの間にかうつむいて思いにふけっています。

『静夜思』李白 【原文・書き下し文・現代語訳・解説】 (chugokugo-script.net) 引用させて頂きました。

 

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またまた退屈な話しですけど

2021-12-09 08:38:01 | 漢詩・古典・エトセトラ

 今、ケーブルテレビで明代の 第3代 朱棣 (永楽帝)から朱高熾 (洪煕帝)、その直孫の朱瞻基(宣徳帝)まで話をまとめた「大明皇妃」の映画が放映されています.この話は朱元璋から3代目からです。

モンゴル帝国(Yeke Mongγol Ulus)から分裂した後、大汗(大ハーン位)を継承しモンゴル平原と中国大陸を支配した元(Dai-ön Yeke Mongγol Ulus)は、14世紀に入ると複数の皇后が生んだ男子に漢人が文官として後ろ盾となり、(かつてジンギス汗の時は耶律楚材 がいた。他)帝位の相続争いが起こり統治能力が低下した。


                                                                     

 さらに疫災が相次いだため、白蓮教徒が1351年に「紅巾の乱」を起こすと反乱は瞬く間に広がった。紅巾軍の一方の将領であった貧農出身の朱元璋(太祖洪武帝)は南京を根拠に長江流域の統一に成功し、1368年に明を建国した。洪武帝は建国するとただちに北伐を始め、元の皇帝・恵宗(トゴン・テムル・ハーン)は大都を放棄して北に逃れ、万里の長城以南の中国は明に統一され、江南から誕生した王朝が中国を統一した。

 洪武帝は中華統一を達成すると外征を抑え、農村の検地や人口の調査を進めて里甲制・衛所制を布き、内政の安定に力を注いだ。一方で洪武帝は建国の功臣を粛清し、宰相にあたる中書令を廃止して六部を皇帝に直属させる皇帝独裁体制を築いた(詳細は胡藍の獄を参照)。

 1398年に洪武帝が崩じて皇太孫の建文帝が即位すると、建文帝の叔父に当たる各地の親王は帝室の安定のために排除されるようになった。北平を中心に北方の防備を担っていた洪武帝の四男である燕王朱棣は追い詰められ、遂に反乱を起こした。1402年燕王朱棣は首都南京を占領して建文帝から帝位を簒奪し自ら皇帝に即位した。(これを靖難の変と言います)。これが永楽帝である。永楽帝の即位により、政治の中心は再び北平改め北京へと移った(ただしその後も南京に南京六部を置き、副都的な扱いをしていた)。

 永楽帝は、北京に遷都し洪武帝の慎重策を改めて盛んに勢力を広げた。北に退いた元朝の残党(北元、明ではこれを韃靼と呼んだ)は1388年にトゴン・テルム・ハーンの王統が断絶していたが、永楽帝は遠征により制圧した。満洲では服属させた女真族に名目的な役職を与え羈縻衛(キビエイ)とし、1411年(永楽9年)黒竜江流域に奴児干都司を設置し管轄した。南方では大越(ダイベト・ベトナム北部)を陳朝・胡朝の内乱に乗じて征服した。

 さらに海外の東南アジア。印度洋にまで威信を広げるべく鄭和に率いられた大艦隊を派遣し、一部はメッカ・アフリカ東海岸まで達する大遠征の結果、多数の国々に明との朝貢関係を結ばせた。ジンギス汗以来西方への討伐侵略が象徴されていましたが、明王朝も負けじ劣らず、世界征服に近い事をしていた訳です。

 永楽帝の死後、モンゴルへの遠征、東南アジアへの艦隊派遣は中止され、女真族を管轄した奴児干都司も1435年(宣徳10年)に廃止、大越(ダイベト)では征服からわずか20年で黎朝が独立した。しかし永楽帝の子の洪武帝・孫の宣徳帝の二代に明は国力が充実し、最盛期と評価される。(仁宣の治)。 

1 太祖 開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊徳成功高皇帝 洪武帝 朱元璋 洪武 1368年 - 1398年 孝陵
2 恵宗[1] 嗣天章道誠懿淵功観文揚武克仁篤孝譲皇帝[1]
恭閔恵皇帝[2]
建文帝 朱允炆 建文 1398年 - 1402年  
3 太宗
成祖[3]
体天弘道高明広運聖武神功純仁至孝文皇帝
啓天弘道高明肇運聖武神功純仁至孝文皇帝[3]
永楽帝 朱棣 永楽 1402年 - 1424年 長陵
4 仁宗 敬天体道純誠至徳弘文欽武章聖達孝昭皇帝 洪熙帝 朱高熾 洪熙 1424年 - 1425年 献陵
5 宣宗 憲天崇道英明神聖欽文昭武寛仁純孝章皇帝 宣徳帝 朱瞻基 宣徳 1425年 - 1435年 景陵
6 英宗 法天立道仁明誠敬昭文憲武至徳広孝睿皇帝 正統帝 祁鎮 正統 1435年 - 1449年 裕陵
7 代宗[1] 恭仁康定景皇帝[4]
符天建道恭仁康定隆文布武顕徳崇孝景皇帝[1]
景泰帝 祁鈺 景泰 1449年 - 1457年 景泰陵
8[5] 英宗 法天立道仁明誠敬昭文憲武至徳広孝睿皇帝 天順帝 祁鎮 天順 1457年 - 1464年 裕陵
9 憲宗 継天凝道誠明仁敬崇文粛武宏徳聖孝純皇帝 成化帝 朱見深 成化 1464年 - 1487年 茂陵
10 孝宗 建天明道誠純中正聖文神武至仁大徳敬皇帝 弘治帝 朱祐樘 弘治 1487年 - 1505年 泰陵
11 武宗 承天達道英粛睿哲昭徳顕功弘文思孝毅皇帝 正徳帝 朱厚㷖 正徳 1505年 - 1521年 康陵
12 世宗 欽天履道英毅聖神宣文広武洪仁大孝粛皇帝 嘉靖帝 朱厚熜 嘉靖 1521年 - 1566年 永陵
13 穆宗 契天隆道淵懿寛仁顕文光武純徳弘孝荘皇帝 隆慶帝 朱載坖 隆慶 1566年 - 1572年 昭陵
14 神宗 範天合道哲粛敦簡光文章武安仁止孝顕皇帝 万暦帝 朱翊鈞 万暦 1572年 - 1620年 定陵
15 光宗 崇天契道英睿恭純憲文景武淵仁懿孝貞皇帝 泰昌帝 朱常洛 泰昌 1620年 慶陵
16 熹宗 達天闡道敦孝篤友章文襄武靖穆荘勤悊皇帝 天啓帝 朱由校 天啓 1620年 - 1627年 徳陵
17 毅宗[1]
威宗[6]
懐宗[7]
紹天繹道剛明恪倹揆文奮武敦仁懋孝烈皇帝[1]
荘烈愍皇帝[7]
崇禎帝 朱由検 崇禎 1627年 - 1644年

 とまあ、「明朝の系図」はこんな処です。普段こんな系図なんて見もしませんが、書籍やDVDを見る時に多少なりとも把握が出来ていればより一層理解を深める事が出来ますね。この後満州王国となる訳ですが、満州だって中国の北の民族で、滅茶苦茶、「毛嫌い」する事も無いと思うのですが中国は万里の長城の中が漢民族と思っているのか、清王朝は、「反清復明」として根強い抵抗を受ける事になります。一説によると、忠告以外の部族は皆「辮髪」(べんぱつ)でありそうした民族は東夷、西戎、北狄、南蛮とされ日本の髷(まげ)も辮髪の一種だそうです。

 今、新疆ウイグル自治区にしても目の敵にしていますね。嘗て、チベットのダライラマでお馴染みの「ラマ教」も目の敵にされ、毛沢東はラマ僧を何十万人も虐殺した事があります。昔「片腕ドラゴン」の中でもラマ僧の左龍、左虎が悪逆非道の僧として設定されてとり上げられていました。ラマ僧にそんな僧はいません。

「中華思想」と言う言葉がありますが、中国人にとって自分達以外は全て蛮族で「奢りとも取れる誇り」を持っていました。

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陣形

2021-11-10 07:02:16 | 漢詩・古典・エトセトラ

針外しは以前は戦いに、所謂「陣形が必要なのか?」なんて自分の無知を棚に上げて思ってました。年齢を重ねるうちに段々とその重要性が分かってきましたね。

 陣形は戦闘での部隊の展開を決める重要な戦術的な問題であった。陣形は部隊の規律を高めることで人員の孤立と部隊の混乱を回避し、部隊に対する通信と指揮統制を確実にさせ、そして部隊の戦闘力を集中させるために欠かせない措置であった。

 陣形の基本的な形態として部隊単位の縦隊や横隊という教練陣形(drill formation)があり、これらは行軍や式典でも使用することができる。これは陣形転換が容易であるだけでなく、迅速かつ適確に部隊を前進させる上で優れた陣形である。さらに教練陣形の訓練を通じて部隊の規律を強化し、より複雑な陣形への転換を行うための基礎とすることができる。

 古代から中世において陸軍は槍や盾を装備した歩兵部隊や騎兵部隊、弓矢を装備した部隊を密集した隊形で運用していた。近代になって火器の性能が大幅に向上するとともに密集する隊形に代わって散兵の戦闘隊形が主流となっていった。海軍や空軍においては現代でも陣形が使用されており、艦艇や航空機を効率的に配置して運用するために戦闘陣が採用されている。

日本の代表的陣形

とは言っても、出処は中国です。中国は太古の昔からチャンチャンバラバラと戦争に明け暮れていましたからね。
 
武田八陣形

古代中国の八陣については風后により作られ孫子や呉起、諸葛孔明などに利用されたと多くの史料が伝承しているものだが、その実体は明らかでなく、後世の史家や兵家、好事家らが想像し推測したものが残されているのみである。日本では中国の八陣図が古くから知られ、平安時代に大江維持により魚鱗、鶴翼、雁行、彎月(偃月)、鋒矢、衡軛、長蛇、方円という和名が作られたまた意味する内容が戦術なのか構築陣地の建設法なのか、軍団の配備なのか要塞群の配置なのか明確にできない点がある

               
ここで風后について

風后は古代中国神話中の黄帝の臣下です。風后には二つの説があり、一つは風后とは即ち風伯であるというものです。后とは后羿などのように首領や君などの呼称でもあります。風は風姓で即ち風姓の部落の首領の意味になります。風后は天文を伝え、風雨の予測を司っていた官職だったのではないかと推測できます。もう一つの説は、風后は山西解州人で、海隅の地で生まれ、農業を行い《易》に精通し、天道に明るく慎ましやかに隠遁生活を楽しんでいた、という内容です。

横陣おうじん)
部隊を横一列に並べる。もっとも基本的な陣形。大陸平野での横陣同士の会戦はもっとも遊軍が少ないが、縦隊で戦線突破されれば左右の伝令が分断され個別撃破されやすい。また局所に攻撃が集中すれば他の戦列すべてが遊軍となる。一般には馬防柵や塹壕、防塁などの地形を利用する。
魚鱗(ぎょりん)
中心が前方に張り出し両翼が後退した陣形。「△」の形に兵を配する。底辺の中心に大将を配置して、そちらを後ろ側として敵に対する。戦端が狭く遊軍が多くなり、また後方からの奇襲を想定しないため駆動の多い大陸平野の会戦には適さないが、山岳や森林、河川などの地形要素が多い日本では戦国時代によく使われた。

全兵力を完全に一枚の密集陣に編集するのではなく、数百人単位の横隊(密集陣)を単位として編集することで、個別の駆動性を維持したまま全体としての堅牢性を確保することから魚燐(うろこ)と呼ばれる。
多くの兵が散らずに局部の戦闘に参加し、また一陣が壊滅しても次陣がすぐに繰り出せるため消耗戦に強い。一方で横隊を要素とした集合のため、両側面や後方から攻撃を受けると混乱が生じやすく弱い。また包囲されやすく、複数の敵に囲まれた状態のときには用いない。特に敵より少数兵力の場合正面突破に有効である。対陣のさいに前方からの防衛に強いだけでなく、部隊間での情報伝達が比較的容易なので駆動にも適する。
信玄が三方ヶ原の戦いに於いてこの陣形で家康と戦闘し、これを討ち破っている。家康は後の関ケ原の戦いで西軍の鶴翼に魚鱗をもって対峙した。
鶴翼(かくよく)
両翼を前方に張り出し、「V」の形を取る陣形。魚鱗の陣と並んで非常によく使われた陣形である。中心に大将を配置し、敵が両翼の間に入ってくると同時にそれを閉じることで包囲・殲滅するのが目的。ただし、敵にとっては中心に守備が少なく大将を攻めやすいため、両翼の部隊が包囲するまで中軍が持ち堪えなくてはならないというリスクも孕んでいる。そこで中央部本陣を厚くし、Y字型に編成する型がある。完勝するか完敗するかの極端な結果になりやすいため、相手より兵数で劣っているときには通常用いられない。こちらの隙も多く、相手が小兵力でも複数の方向から攻めてくる恐れのある場合には不利になる。部隊間の情報伝達が比較的取りにくいため、予定外の状況への柔軟な対応には適さない。
第四次、川中島の戦いでは、車掛の陣形で襲い掛かる上杉謙信の軍勢を、武田信玄の本隊は鶴翼の陣形で、別働隊が帰ってくるまでの間を凌いだ。
偃月(えんげつ)
鶴翼とは反対に中軍が前にでて両翼を下げた「Λ」の形に配置する。大将が先頭となって敵に切り込むため士気も高く、また馬回りの精鋭が開幕から戦うので攻撃力も高い。しかしそれだけ大将が戦死する可能性も高い。また大将の付近が常に戦闘中になるため両翼へ指示を出す余裕がなくなることも多い。敵の横隊を精鋭で突破し戦列を分断するなど陣形の駆動を前提としており、小規模な部隊や練度の低い部隊を指揮するときに用いられる。
鋒矢(ほうし)
「↑」の形に兵を配する。矢印の後部に大将を配置し、そちらを後ろ側として敵に対する。長所と短所、どちらも魚鱗の陣をより特化した物である。強力な突破力を持つ反面、一度側面に回られ、包囲されると非常に脆い。縦横あらゆる偵察から兵を多く見せることができ、敵より寡兵である場合、正面突破に有効である。陣形全体が前方に突出し、主戦場が本陣(司令部)よりつねに前方を駆けてゆくため、柔軟な駆動にはまったく適さない。また、陣の前方が重厚な敵部隊陣形により阻止されれば後方の部隊は遊兵となり、前方部隊の壊滅による兵の逃走が同士討ちなどの混乱をもたらす危険もある。先頭は非常に危険であり勇猛かつ冷静な部隊長が必須であるとされる。
実戦では島津家の軍(大将複数)が関ヶ原の戦いにおいて退却時にこの陣形で井伊直政本多忠勝松平忠吉と戦闘し、忠勝を落馬させ直政と忠吉を負傷させて、退却に成功している。
方円(ほうえん)
大将を中心として円を描くように兵で囲む陣形。全方位からの敵の奇襲に対処できる防御的な陣形。移動には適しておらず迎え撃つ形となる。人数が拡散するため、局所的な攻撃に長時間対応するには適しておらず、攻撃を受けた場合には直ぐに別の陣形に移して戦闘する必要がある。こちらから攻撃する場合には用いない。
長蛇(ちょうだ)
兵を隊ごとにほぼ一列に並べる陣形。縦方向に敵陣を突破する場合には、非常に有力な陣形である。ただし横方向からの攻撃に全く対応できないため、谷などの特殊な地形でのみ用いる。敵が正面以外の位置にいるときには攻撃を避けられてしまうので不利である。意図してこの陣形を構えるのではなく、地形的理由などでやむなくこの形になったと言う方が適切である。
衡軛(こうやく)
段違いにした二列縦隊。敵の動きを拘束し、包囲殲滅することを目的とした。山岳戦などで用いられた。
雁行がんこう)
長蛇の場合よりも横幅を太くした列にし、少しずつ隊を斜めにした格好で構えた陣形。列の真中あたりに大将を配置することが多いが、敵の位置による。この場合は縦方向に相手に突撃することはなく、味方の後詰があるときにのみ先鋒部隊が用いる。後詰が休息しているときに、即戦力として敵と対峙する役目もある。消耗戦に弱く、長時間の戦闘では不利となる。
車掛(くるまかり、くるまがかりとも)
先に出撃した部隊が後退し、替わりに新手が出撃するという、次々に部隊ごとに攻めては退く戦法ないし陣形。越後でよく採用された陣形で、寒い冬季における合戦の際、移動し続けることで兵士の体を温める必要性から生まれたという。大将を中心に、その周囲を各部隊が円陣を組み、車輪が回転するように入れ代わり立ち代わり各部隊が攻めては退く、というのが有力説。
これは国士無双、韓信が編み出した陣形と言うのは以前述べました。十面埋伏の計、陣とも言います。

その他ヨーロッパにも陣形はありますが、鉄砲でドンパチやっていたから、あんまり陣形は関係ないかもね。と面倒臭がりの針外しは此処でうっちゃらかしてしまうのでありました。
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杜甫の登高

2021-11-07 19:34:45 | 漢詩・古典・エトセトラ

杜甫の詩でもう一つ有名な詩が登高です。

  登 高(とうこう) 杜甫

 風急天高猿嘯哀 風急に天高くして猿嘯哀し
(高台に登ると)風は激しく吹き、天は抜けるように高く(澄んでおり)、(そんな中)猿の鳴き声が悲しそうに聞こえる。

 渚清沙白鳥飛廻 渚清く沙白くして鳥飛び廻る
なぎさきよく すなしろくして とりとびめぐる
(見下ろすと揚子江の)波打ち際は清らかで、砂は白く、(その上を)鳥が飛び回っている。

 無辺落木蕭蕭下 無辺の落木蕭蕭として下り
むへんのらくぼく しょうしょうとしてくだり
果てしなく続く木からは葉がさびしく落ち、

 不盡長江滾滾来 不尽の長江袞袞として来たる
ふじんのちょうこう こんこんとしてきたる
尽きることのない揚子江の水は、盛んに流れてくる。

 万里悲秋常作客 万里悲秋常に客と作り
ばんりひしゅう つねにかくとなり
(故郷から)遠く離れた土地で物悲しい秋を迎え、(私は)相も変わらぬ流浪の身の旅人であり、

 百年多病独登台 百年多病独り台に登る
ひゃくねんたびょう ひとりだいにのぼる
一生多病である身で(この重陽の節句に)一人高台に登っているのである。

 艱難苦恨繁霜鬢 艱難苦だ恨む繁霜の鬢
かんなん はなはだうらむ はんそうのび
とても恨めしく思う、(長年の)悩みや苦しみで霜のように髪の毛が白くなってしまったことを。

 潦倒新停濁酒杯 潦倒新たに停む濁酒の杯
ろうとう あらたにとどむ だくしゅのはい
年老いて落ちぶれ(たこの私は)、(病のために、楽しみであった)濁り酒もやめたばかりである。
 律詩のルールでは2聯3聯で対句にすることになっていますが、この詩は全聯すべて、つまり1句と2句、3句と4句、5句と6句、7句と8句すべてが対句になっています。

「哀、廻、飛、来、台、杯」。韻を踏んでいます。

■登高 九月九日の重陽の節句に高台に上って菊酒を飲んで邪気払いをする習慣のことです。 ■猿嘯 サルの鳴き声。 ■無辺 果てしない。 ■落木 落葉。 ■蕭蕭 さびしげな様子。 ■滾滾 こんこん。水が流れ続ける様子。 ■客 旅人。 ■艱難 苦労。 ■繁霜鬢 霜のように白くなった鬢。 ■潦倒 ろうとう。老いぼれ。落ちぶれたさま。 ■濁酒 濁り酒。どぶろく。 

大暦2年(767年)、杜甫56歳の作。故郷を目指す途中、キ州(四川省奉節県)に滞在した杜甫は重陽の節句を迎えました。九月九日重陽の節句には高台に上り菊酒を飲んで邪気払いをする習慣がありました。

しかし、杜甫には一緒にこの日を祝う相手もなく、独り老年の孤独の中に高台に登るのです。晩年の孤独が、しみじみと伝わってくる詩です。

本来律詩は顎聯と頸聯のみ対句であればいいのですが、この詩は四聯すべてを対句にしています。こういうのを全対格(ぜんついかく)といいます。しかしわざとらしさは感じられず、自然な言葉の流れの中に杜甫の深い孤独が伝わってきます。

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計略(3)

2021-10-31 10:04:31 | 漢詩・古典・エトセトラ

針外しも詳しくないのでなんか説明になってないですね。ま、昔読んだ本の中で記憶に残っているのを引っ張りだしてみました。

 勝戦計こちらが戦いの主導権を握っている場合の定石。

満点過海- 敵に繰り返し行動を見せつけて見慣れさせておき、油断を誘って攻撃する。城攻めで正面攻撃を繰り返して実は裏山の間道から攻め落とすなんてのはこれに当たります。

囲魏救趙- 敵を一箇所に集中させず、奔走させて疲れさせてから撃破する。国士無双・韓信の「十面埋伏の計・別名、車懸かりの計」がこれですかね?

借刀殺人- 同盟者や第三者が敵を攻撃するよう仕向ける。敵の中に潜入して、信用を得て、離間の計で敵の大将を討ち取ったりします。プロイセン王国のビスマルクが遊説して戦わせたり(何処の国だか忘れてしまったよ)。諸葛亮が呉の国に赴いて魏軍と呉軍の開戦を促したりしました。

以逸待労- 直ちに戦闘するのではなく、敵を撹乱して主導権を握り、敵の疲弊を誘う。兵糧攻めや、劉邦の項羽を囲んだ時の四面楚歌がこれですね。

趁火打劫- 敵の被害や混乱に乗じて行動し、利益を得る。火攻めなんかがこれにあたります。

声東撃西- 陽動によって敵の動きを翻弄し、防備を崩してから攻める。文字通り「東を攻めるぞ!」と言いながら西を攻め込みます

連環計- 敵と正面からぶつかることなく、複数の計略を連続して用いたり足の引っ張り合いをさせて勝利を得る。この連環の計にはもう一つの話があります。これも三国、赤壁の戦いで何十万の曹操軍が船団を組んで南下してきましたが、強風により川が怒涛の様に荒れ狂い、兵士が船酔いで戦意が喪失し、挙句に疫病迄流行り始めた時に、まだ野にいた龐統が曹操の元に赴き、船と船を鎖で繋ぐ献策をします。船団があれほど揺れていたのが不思議な位収まったので曹操がいたく喜んだとあります。しかしこれは火攻めを前提にした龐統の謀でした。苦肉の策で黄蓋が火攻めをした途端折からの風によって火の海となり鎖で繋がれた船が全焼してしまいます。

走為上- 勝ち目がないならば、戦わずに全力で逃走して損害を避ける。これが所謂「36計逃げるにしかず」です。

兵法書には六韜三略、孫氏の兵法、孫臏の兵法、呉子の兵法等色々ありますが、こういう知恵は現代にも通用します。ただ、人を陥れるだけのものは非難されるべきものであり、そういう時に使いたくないもんだね。今の世の中詐欺が蔓延していますが、そういうのを見破る助けになるやも知れません。

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計略の続き(2)

2021-10-26 19:03:09 | 漢詩・古典・エトセトラ

 兵法、計略の続きです。
1941年、邠県(ヒンケン)(陜西省咸陽市彬州市)において再発見され、時流に乗って大量に出版された。様々な時代の故事、教訓がちりばめられているため、中国では兵法書として世界的に有名な孫子よりも民間において広まり、学校での教育も相まって現代人の思想や行動原理にも影響を与えている

戦術とは関連が薄い内容も含まれ、権威付けのために易経からの引用を使って解説しているなど、純粋な兵法書としては荒削りな部分が見られるためか、孫子などの武経七書と比較し軍事面では評価が低い。

  • 無中生有- 偽装工作をわざと露見させ、相手が油断した所を攻撃する。
  • 暗渡陳倉- 偽装工作によって攻撃を隠蔽し、敵を奇襲する。
  • 隔岸観火 - 敵の秩序に乱れが生じているなら、あえて攻めずに放置して敵の自滅を待つ。
  • 笑裏蔵刀- 敵を攻撃する前に友好的に接しておき、油断を誘う。戦いで分が悪くなると「和平」に持て行きますが、和平を謳っておきながら、油断させて敵が退いている途中で攻撃して殲滅してしまうなんてあります。項羽と劉邦が戦って、項羽が所謂「四面楚歌」になった時に、和平を持ちかけますが、項羽が楚の国に退いている途中に追い打ちをかけて項羽は自害して果てました。こんなのもこれに当たりますかね。
  • 李代桃僵- 不要な部分を切り捨て、全体の被害を抑えつつ勝利する。
  • 順手牽羊- 敵の統制の隙を突き、悟られないように細かく損害を与える。

攻戦計
(相手が一筋縄でいかない場合の作戦。)

打草驚蛇- 状況が分らない場合は偵察を出し、反応を探る。西遊記の中で猪八戒がむやみと草を叩いている処があります。悟空がそれを見て大笑いして詰ってました。
借屍還魂- 死んだ者や他人の大義名分を持ち出して、自らの目的を達する。ちょっと飛躍ですけど、諸葛亮が自身が死んだあと車椅子の括り付けさも生きているように見せて司馬懿を混乱させた。「死せる孔明生ける仲達を走らす」なんてのはこれに当たるかも。

混戦計
(相手がかなり手ごわい場合の作戦。)

仮道伐虢- 攻略対象を買収等により分断して各個撃破する

併戦計
(同盟国間で優位に立つために用いる策謀。)

  • 偸梁換柱- 敵の布陣の強力な部分の相手を他者に押し付け、自軍の相対的立場を優位にする。赤壁で戦力で劣る劉備軍が諸葛亮の「大喬・小喬」の入知恵で孫権軍を曹操軍に当たらせた。
  • 指桑罵槐- 本来の相手ではない別の相手を批判し、間接的に人心を牽制しコントロールする。
  • 仮痴不癲- 愚か者のふりをして相手を油断させ、時期の到来を待つ。
  • 上屋抽梯- 敵を巧みに唆して逃げられない状況に追い込む。
  • 樹上開花- 小兵力を大兵力に見せかけて敵を欺く。これはよく伏兵を置く時に用いますよね。旗竿や鳴り物を鳴らしてさも大勢がいるように見せかけます。またその逆でわざと大人数がいると見せかけてその実本当に大人数を配置しているなんてあります。
  • 反客為主- 一旦敵の配下に従属しておき、内から乗っ取りをかける。

敗戦計

自国がきわめて劣勢の場合に用いる奇策。

美人(女)の計- 土地や金銀財宝ではなく、あえて美女(傾国・傾城)を献上して敵の力を挫く。三国の時代、貂蝉と言う絶世の美女がいまして、当時親子の縁を結んでいた董卓と呂布の二人同時にこの美女を貢ぎました。当事者たちは自分こそが貂蝉と連れ合いと思い込み、挙句に呂布は董卓を亡き者にしてしまいました。その後、貂蝉は自害してしまいます。董卓の亡骸は、兵士が面白がって腹に「ろうそく」を立てて火を灯した所,一昼夜半燃えて尽きたとあります。

空城の計- 自分の陣地に敵を招き入れることで敵の警戒心を誘い、攻城戦や包囲戦を避ける。諸葛亮がよく行った計でわざと門を開けて中に火薬等を敷き詰めて琴を弾いて敵を導き入れて殲滅させる計。敵が訝って用心して攻め入らないようにする場合もあります。(これは自軍の戦力が劣っているような時に使われる、孔明のような名の通った者の方がより掛かり易い。

反間の計 - スパイを利用し、敵内部を混乱させ、自らの望む行動を取らせる。昔の中国は四方を塀で囲まれた城塞都市ですが、その城内に忍び込み「火を放って」混乱させるなんてあります。

 苦肉の計- 人間というものは自分を傷つけることはない、と思い込む心理を利用して敵を騙す。
『三国志演義』の赤壁の戦いにおいて描かれ、黄蓋が周瑜に献じた偽計である。周瑜率いる劉備・孫権の連合軍は曹操軍の艦隊を焼き払うためこの奇策を実行し成功させた。

赤壁に布陣した連合軍に対し、曹操軍は3倍という兵数であった。周瑜配下の黄蓋はこの劣勢を前に有力な対抗案を出せないとして司令官である周瑜を罵倒。これを咎めた周瑜は兵卒の面前で黄蓋を下半身鞭打ちの刑に処した。これにより重傷を負った黄蓋は、敵である曹操軍に投降を申し出る。一連の出来事は間者が報告していたため、曹操はこれを受け入れて一旦自軍へ招く。しかし黄蓋の書面を見て策を看破し、「私を苦肉の計で騙そうというのか」と言うが、孫権軍の使者である闞沢が曹操を諭し黄蓋を受け入れてしまった。

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兵法 計略の内9つ

2021-10-22 08:57:45 | 漢詩・古典・エトセトラ

良く「三十六計逃げるにしかず」なんてありますが、出てくる計略の内、取り敢えず9つ。
調虎離山の計

調虎離山(ちょうこりざん)
虎を調(あざむ)き山を離れさす

カテゴリ:攻戦の計
攻戦の計は手段を選ばず、謀略によって目的の達成を行う計略。日本人はあまり好まない計であり、もっとも謀の臭いのする計。西遊記にも水滸伝にも読んでいると出てきますね。

意味
「虎を調き山を離れさす」とは、戦闘において、有利な地勢にいる敵軍を誘き出して殲滅する計略である。虎を外におびき出して、その間に「虎の子」を捕まえてしまう。例えば、あるブログの主催者を気に入ったとします。まず「悪い論評、や噂、を流して其処に参加している人を剝がして遠ざけようとします。自分がそのブログを支配出来ると、主催者に同調して悦に入るなんてのはこれに当たるのかね?。得てしてこういう人は、長い文章を書けない。知識が浅いもんだから、人を批判する事しか出来ない。いざ論戦すると、訳の分からない、理論しか言えませんね。こういう人と論戦して言い諭そうとしても「馬鹿に付ける薬」はありません」。こちらが言えば言うほど激高してしまうので、こういう時は一旦その輪から出て傍観します。しまいに何処かへ行ってしまいますね。とまあ、ちょっと違うかね?。

欲擒姑縦の計

欲擒姑縦(よくきんこしょう)
擒(とら)えようと欲すれば姑(しばら)く縦(はな)て

カテゴリ:攻戦の計
攻戦の計は手段を選ばず、謀略によって目的の達成を行う計略。日本人はあまり好まない計であり、もっとも謀の臭いのする計。

意味
「擒えようと欲すれば姑く縦て」とは、敵軍を捕捉し殲滅するために、しばらく敵軍に対する行動を控え、敵軍の兵力が分散、減退したり、敵軍の作戦が明らかになったりしてから、行動に出る作戦である。

抛磚引玉の計

抛磚引玉(ほうせんいんぎょく)
磚(かわら)を抛(な)げて玉(ぎょく)を引く

カテゴリ:攻戦の計
攻戦の計は手段を選ばず、謀略によって目的の達成を行う計略。日本人はあまり好まない計であり、もっとも謀の臭いのする計。

意味
「磚を抛げて玉を引く」とは、偽りの状況を設定し、敵軍を罠にかけて勝利を勝ち取る計略である。

擒賊擒王の計

擒賊擒王(きんぞくきんおう)
賊を擒(とら)えるには王を擒えよ

カテゴリ:攻戦の計
攻戦の計は手段を選ばず、謀略によって目的の達成を行う計略。日本人はあまり好まない計であり、もっとも謀の臭いのする計。

意味
「賊を擒えるには王を擒えよ」とは、まず敵軍の主力を殲滅し、敵軍の指導者を捕らえて、敵軍を混乱させ、瓦解させる作戦である。

釜底抽薪の計

釜底抽薪(ふていちゅうしん)
釜の底から薪(たきぎ)を抽(ぬ)く

カテゴリ:混戦の計
混戦の計は状況が込み合っていたり、混乱している場合に有効な計略。状況を混乱させその混乱に乗じて目的を達成するようなものもある。

意味
「釜の底から薪を抽く」とは、戦闘のカギを握る問題を自軍の有利に解決し、敵軍の戦闘能力を奪って勝利を勝ち取る作戦である。

混水摸魚の計

混水摸魚(こんすいばくぎょ)


水を混(かきま)ぜて魚を摸(さぐ)る

カテゴリ:混戦の計
混戦の計は状況が込み合っていたり、混乱している場合に有効な計略。状況を混乱させその混乱に乗じて目的を達成するようなものもある。

意味
「水を混ぜて魚を摸る」とは、敵軍が混乱に陥ったとき、機に乗じて自軍の利を計る作戦である。敵陣に火を放って混乱させているうちに敵の大将を討ち取る。

金蝉脱殻の計

金蝉脱殻(きんせんだっかく)
金の蝉(せみ)、殻を脱ぐ

カテゴリ:混戦の計
混戦の計は状況が込み合っていたり、混乱している場合に有効な計略。状況を混乱させその混乱に乗じて目的を達成するようなものもある。

意味
「金の蝉、殻を脱ぐ」とは、現在の態勢を維持しているふりをして、ひそかに主力を移動させ戦略上の目的を実現する作戦である。

関門捉賊の計

関門捉賊(かんもんそくぞく)
門を関(と)ざして賊を捉(とら)える

カテゴリ:混戦の計
混戦の計は状況が込み合っていたり、混乱している場合に有効な計略。状況を混乱させその混乱に乗じて目的を達成するようなものもある。

意味
「門を関ざして賊を捉える」とは、敵軍の退路を断って包囲し、殲滅する作戦である。

遠交近攻の計

遠交近攻(えんこうきんこう)
遠くと交わり近くを攻める

カテゴリ:混戦の計
混戦の計は状況が込み合っていたり、混乱している場合に有効な計略。状況を混乱させその混乱に乗じて目的を達成するようなものもある。

意味
「遠交近攻」とは、敵の同盟を瓦解させて各個撃破する、すなわち、まず遠国と同盟を結んで、隣国を攻め滅ぼす作戦である。真逆の言葉で「遠い親戚より近くの他人」なんて言葉が生まれました。

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