唐宋八大家(とうそうはちたいか/とうそうはちだいか)は、唐~北宋にかけての八人の文人をさします。
唐の韓愈・柳宗元、北宋の欧陽脩・蘇洵・蘇軾・蘇轍・曾鞏・王安石の八人を指し、特に蘇洵・蘇軾・蘇轍は親子(父、長男・次男)で、三蘇とも称されています。
韓愈『雑説』 柳宗元『柳河東集』 欧陽脩『欧陽文忠公集』 蘇洵『嘉祐集』
蘇軾『烏台詩案』 蘇轍『集』50巻 曾鞏『戦国策目録の序』 王安石『臨川集』
昔、「燃えよ剣」だったか忘れましたが、栗塚 旭・左右田一平・島田順二出演で島田順二が何処かの若様だったか武士の子弟が「唐宋八家門文士録」を読んでいるのを見て「凄い書をよんでいますね、偉いなあ!」と言っていたのを覚えています。
その中の、中唐の韓愈は、当時流行の四六駢儷文(しろくへんれいぶん)がいたずらに華美であることを忌み、文はすべからく漢・魏の古文を宗として、質朴かつその意を尊ぶべしと主張した。いわゆる古文復興運動です。
同時に六朝を軸に、隠逸を尊ぶ老荘趣味的な文人の嗜好をあらため、廉士として積極的に社会にまじわり、経世済の経済概念の手段としての文学を行うべしという儒学的文人観の復興、確立でもあり、唐宋を通じて次第に整備される科挙制度の発達とともに、知識人たちのあいだに大いに流行しました。
また、蘇軾は(057年)22歳のときに(嘉祐2年)弟の蘇轍とともに進士となる。このときの科挙は、欧陽脩が試験委員長を務め、当時はやりの文体で書かれた答案は全て落とし、時流にとらわれない達意の文章のみ合格させるという大改革を断行した試験であり、蘇軾・蘇轍・曽鞏の3名のみ合格した。合格後、地方官を歴任し、英宗の時に中央に入ります。この時期に親子三人(蘇洵・蘇軾・蘇轍)で唱和し作成した「南行集」は、杜甫や梅堯臣の詩を学び五言古詩が多く収録されている。しかし現存しておらず、50巻の詩集(合註本)の巻一に収める42首が面影を残しているのみである。治平3年(1066年)に父の蘇洵が亡くなってからは、政界から一度離れ故郷に帰って喪に服す。再び政界に復帰したのは熙寧2年(1069年)蘇軾が34歳の時です。(この後も続きますがWEB検索して下さい。(おいおい、此処でうっちゃるのかよ!?。)
まあまあ、個別にやると大きくなっちゃうから、興味があったら勝手に見てね。(笑)。