我が家は旧教職員住宅ニ軒を廊下でつないでいます。 その間がちょうどコの字型のスペースになって雑草が生えています。 日当たりもいいのでここでガーデニングしたいと何年も前からずーと思っているのですが、なにしろ牧草のような根が張っているのでなかなか腰があがりませんでした。
今年はなんとかしようと、鍬掛けを始めたのですが、Mさんのフキ採り現場でもあって、ストップがかかってしまいました・・・。
我が家は旧教職員住宅ニ軒を廊下でつないでいます。 その間がちょうどコの字型のスペースになって雑草が生えています。 日当たりもいいのでここでガーデニングしたいと何年も前からずーと思っているのですが、なにしろ牧草のような根が張っているのでなかなか腰があがりませんでした。
今年はなんとかしようと、鍬掛けを始めたのですが、Mさんのフキ採り現場でもあって、ストップがかかってしまいました・・・。
黒松内の三セク公社が運営する宿泊施設「自然の家」が閉館する事が急遽施策された。 町内には民間旅館が二軒あるのですが、工事関係者やらで一般観光客や団体の予約を入れることがほぼできません。 当自然学校にもゲストハウスがあり、元学校教室にも雑魚寝大部屋ではありますが、簡易宿泊施設の許可がありますが、最近の学校団体も大部屋宿泊をせずに「自然の家」に泊りプログラムだけを自然学校が受け入れる体制が多くなっています。 なので、「自然の家」の閉館は私どもにとっても大きな打撃となります。
まちづくりの大きな方向として地域外からの交流人口を増やすという「ぶな里構想」を推し進めてきた黒松内町なのに、この大きな施策転換はしっかりと論議されてきたのだろうか、少なくとも交流観光に関わる私としては、あまりにも突然である。
なので、関心のある町内の方々に集まって意見交換交流会を開催をしました。商工会、観光協会、ブナセンターや一般町民が20数名集まり、何人の方から主張を頂き、それに基づいてグループで意見交換をするというワークショップ形式で実施しました。
ここで結論を出すつもりはありませんが、この問題について皆さんの関心が高めることは出来たかな。
引き続き、もう少し、大きな仕掛けでフォーラムを実施したいともくろんでいます。
黒松内町議会の傍聴に行ってきた。 私が関心をもっているは、町の公共施設(三セクの地域公社が運営)である宿泊施設である「黒松内町自然の家」が廃館となり、レストラン部門のみ移設するという計画だ。 以前から役場内では検討されていたらしいが、町民にとっては突然の話であった。 議会本会議では、それまでに各委員会で検討された次年度予算についての一括審議であり、この計画については設計などをコンサル委託する予算案が含まれていた。 議会では決定尚早しとの反対意見も出たが、可決されてしまった。ただ、町長の最終答弁で、「今後、町民へのパブリックコメントも集めたい」との発言もあったので、ちょっとは立ち止まってはっくれたかなとも感じだ。
私の理解では、「自然の家」は、黒松内町の町是でもある「ぶな里構想」にあって、バブル期後期まで続いた大きな資本導入ではなくて、身の丈にあった環境重視のまちづくりをしてゆこうという考えのもとに町内外交流ができる町全体エコニュージアムの宿泊中核施設であったはずだ。 その考えの元に道の駅などの他の施設の交流人口も伸びだ。 閉館は公社全体の赤字対策でもあるらしいが、本当の赤字は他の部門でもあるらしいが、その整理に経営に手間もかかる宿泊施設に白羽の矢が立ったように思える。
町内には、ほかに民間宿泊旅館が二件有るが、工事や仕事関係の宿泊利用でいつも満杯であり、ぶな林観光客を泊めることはほぼ不可能である。自然学校を含めた簡易宿泊施設が複数(二軒)あるが、遠来のVIP客を泊めるには快適とは言えないだろう。つまり、宿泊施設が不足しているのである。 なお、当自然学校の簡易宿泊施設はゲストハウスもあるが、大人数だと旧学校の教室を利用した雑魚寝スタイルである。昨今の小学校からも敬遠(子供にとってはいいだろうが、引率先生が好まないようすだなあ)され、最近では自然の家の宿泊して、うちでプログラムをたんとうするという分業が定着しつつあるので、当方にとっても問題ありなのです。
そこで、このことに関心がある関係者に集まってもらい、ちょっと意見交換をしようやと画策をしております。 反対をするのではなくて、「なにが、まちの将来にとってよりベターなのだろうか」と、町民でも知恵をしぼろうとね。
「南後志の環境を改めて考える会」なる集まりをやってます。 発足発端は、北海道新幹線の札幌伸延工事で黒松内町域で掘削されるトンネル残土から重金属が出て、それが含まれる残土が町内に残置されることに対して学習会を開いたことでした。
そして、今度は、大規模発電風車計画が2つも持ち上がり、このことについての学習会をすることにしました。今回は風車についての二回目でした。 黒松内は自然環境が良く、広大な使われていない農地。牧草地や黒松内低地帯を抜ける風など、自然エネルギー創出に良い自然環境がたくさんあります。 地球温暖化防止のためにも人間が必要とする電力エネルギーの自然エネルギー利用はまったなしの状況にあるのは自明でありますが、その最大の消費地は都会であるわけで、核ゴミ問題しかり、その供給地は郡部田舎となる理不尽さもあります。
全てに反対をするわけではありませんが、町民が自然エネルギーや原発核ゴミ問題のことをしっかりと知っておかないと、30年もすると、風車や太陽光発電パネルが林立し、核ゴミやら産業廃棄物の捨て場と化してしまいます。 まずは、ひとりひとりがこれらの問題についてしっかりと学ぶことから始めたいものです。
私の住んでいる地域(ここら辺では年よりは部落と呼んでいる)には、老人会があります。65歳以上の任意参加なのですが、今や会員は7名しかいません。65歳以上の人はまだいますが、それでも合計で10数人かなあ。私は60歳前に会員数減少のため、先輩のお声がけに抗えず入会しました。 そして、昨年からはなんと会長になりました。 部落全体が親戚つながりがあるような小さなちいきなので、私が唯一の「一般人」なのです。(実際に同年代の農家の人にそう言われたことがあります)
会員全員がなんらかの役員であり、80歳を超える会員も多く、実質活動は何もできなくなっているのが現状であり、今回の集まりでも「外にも出られなくなっているし会員やめるわ、あとは若い人で」「もう解散した方がいいんじゃねえ・・」との議論もありましたが、人数が少なくてもなんとか続けることにはなりました。
地方の少子高齢化が言われていますが、当地域は少子少高齢化が現実なのであります。限界集落という言葉が何年も前から社会問題化していますが、まさに現実を歩んでおります。 さてはて、あたしも古稀をむかえ、あと10年もすれば後期高齢者のど真ん中で数えられるようになってしまいます。 どんな老後を迎えてゆくのでしょうか。 心臓病も抱えてすぐに息切れしてしまう昨今でありますが、雪が溶けて暖かくなったら、今年こそはちゃんと畑作りでもして、「わがや、ここで」のんびりとそれこそ「余生」を楽しんで行こうと思うのですが、なにやら周辺ではいろいろと事態が起こるので、迷惑がられぬ程度に物を申してもいこうという昨今です。 このままでは、地域も日本もなくなっちまうよおーとの危機意識ありなり。
このところ、戦記ものの小説を読んでいます。義和団事件、世界史の中で受験のために覚えただけで実際に何があったのかは知らなかった。 日本やヨーロッパ諸国をはじめとする列強国が北京に租借地をつくり清国に進出していた時代に農民民衆が放棄し各国大使館がある地域を包囲し終盤は清国正規軍も敵対する大々的戦闘が生じた。 その中で日本軍の指揮官が大活躍をして、各国軍を統制し、清国のキリスト教徒も含めた多くの人々を救ったのを知った。 そして、第二次世界大戦終盤にはアリューシャン列島各地の軍隊を投入していた日本軍は(アリューシャン列島沿いに前進基地を造り占領をして行った、北からアメリカを攻めるような戦略だったらしい)。
' ミッドウェイ大海戦で大敗し、有名な硫黄島の戦いでも日本軍はアメリカ連合国軍の大物量展開で島の形が変わったほどの砲撃を受け、米軍上陸の大戦闘の末に多くの軍人がタヒに大敗北をした。日本軍は最後まで自決をするように「万歳突撃」を敢行し「玉砕」を続けた。特攻作戦も「死」を持って航空機、潜水艦で実行された。 これは軍人だけでなく、国民全ての観念であり、一億国民全員が戦闘員になり得ると考えたアメリカ軍は日本各地への大空襲により日本人を絶滅させるような作戦を展開することになった。 日本人そのものを恐れ、それが原爆投下につながり、占領政策も日本人国民が死をも恐れないゲリラ活動を展開するのではないかとアメリカ軍は考え、厳しい統治を実は考えていたらしい。
ところが、終戦間際にアリューシャン列島のキスカ島に取り残され、アメリカ軍に徹底的に砲撃を受けても耐え忍んでいた陸海軍の将兵が5000人もいたのだった。 彼らを玉砕させるかいなか、大本営は実は多いに逡巡していた。 その中にあって、なんと将兵の救出作戦が行われたのであった。もう戦艦も少なくなった海軍は総力をあげて艦隊を組織し陸軍とも協力してアリューシャン列島に向かったのであった。 日本軍の作戦はレーダなどでの傍受で連合軍には筒抜けであった。 当然にアメリカ軍もその海域に艦隊を集結させた。
その無謀とも思える作戦の立ち上がった司令官がいたのだった。 気象予測もまだまだ脆弱な時代に、少なくなった燃料、哨戒機を飛ばし高層の大気圧等を測定し、平面だけでなく高低の気象条件を測定し、霧の発生を予報する技術を編み出し、複数日が海上が霧に包まれる日を予想し作戦は結構された(この技術は米国ではまだ未熟であったらしい)。
米艦隊が包囲する中、海岸の大岩にわざと艦砲攻撃し日本戦艦がいるように陽動したり、島との電信連絡に暗号とひら連絡を交えて敵を惑わせる。接岸地へわざと遠回りするなどさまざまな作戦を展開し、見事に5000人もの撤退作戦を成功させたのである。
この事実はのちにアメリカ軍の通訳兵によって報告され、それはマッカサーまであがったそうだ。このことは、悪魔のような日本人観をもっていたアメリカ人を驚かせ、日本人はアメリカ人と同じように仲間を助けることをする人種だと観念を変えさせ、占領政策は平和りに行われる結果になったそうだ。
義和団事件にしろ、このキスカ救出作戦ことなど歴史では習わなかったよな。とても優れた日本人がいたのだ。
それにしても、アリューシャン列島はどこにあるか、実は知らなかったのですが・・、調べてみると随分と北太平洋の外側であり、とてもびっくりとしました。 太平洋戦争では南はニューギニアから北はアリューシャンまで戦争していたなんて、そもそもまったく勝ち目などなかったんじゃあないかとあらためて思いました。
アリューシャン列島の地図をはっておきますね。