再び、札幌に来ています。北海道環境教育研究会シンポジウム「北海道における環境教育推進の課題と展望」、日本環境教育学会北海道支部が設立されました。大学の社会教育研究がコアになっての支部。20年以上環境教育をテーマにしているという学者さんがいました。自然体験型環境教育を旗印のひとつにしている私がこれまで出会ったことがない方々もたくさんいました。
「体験あって学びなし」という批判が時折、遠巻きに聞こえてきますが、
「学習活動における活動と動機」 レオンチェフ「活動の三層構造」。活動と動機、行為と目的、操作と条件・・・協同的学習主体形成 などという発表を聞くと、その分析検証には感服するけれど、だから・・・どうなの? なんて気もしてしまいます。
学校教育と社会教育を重ね合わせた領域、「学社融合」という言葉があり、その必要性が唱えられますが、環境教育の学問性と社会性の「学社融合」が今後は必要だなあと感じるシンポジウムです。
今日の四つの発表は、
大学研究者の立場からO教授「学校環境教育の構造と活動・主体の形成について」
NPOから私・・「北海道の環境系NPOと北海道ならではの環境教育」
博物館から札幌のY学芸員から「道草のススメ~札幌周辺にて」
高校の立場から 「札幌藻岩高校の環境教育」
噛みあいそうで、かみ合わない・・・噛みあわなそうで、かみあう・とうような感じのお互いの発表でした。
指定討論者というコメンティターは元高校教員と教育付属中の先生。次のようなキーワードが提議されました。
出てきたキーワードは、体験(活動)、関り(関係性)、つながり(空間的、時間的)、主体(自分ごととして)、考える力(認識、批判、説明、選択、想像、参画、創造、判断、検索する九つの力)、学びの場(学習者と指導者の役割)、教育の三要素(学校、地域、家庭)がどのように関りあっていくかが大切、コーディネイター、エンターティナー
◆環境教育といっても異分野・異なるフィールドで・異なる対象者へ働きかけている人達が数多くいるのですが、意味あるネットワーキングはできていません。しかし、連携のための連携になってしまっては長続きしない。
連携するためには自らの活動の問題の課題化が必要。課題化されると自らだけでは解決できないことがわかる。だから連携が必要になる。こういったプロセスが必要でやっとその段階にやっと入りつつあると感じてます。
◆最後にいくつか質問を受けました。その回答です。
「どのように経験不足の教師や教師志望の学生を育てるか?」
1回2回の研修で自然体験や環境教育がわかるはずがない。知識として覚えて教える分野でない。経験知が必要。だから教師の自然体験活動の不足を指摘しても仕方がない・・・学校で先生が自然体験活動を授業するのは無理。教えなければならない呪縛から解いてあげよう。・・大きな役割分担化へ・・・学校が学校から外にでていろいろな人と関って授業をしようよ。先生はそのコーディネイターになってゆくといい。
環境教育は学校で自己完結できないと思う。
◆評価の問題
環境教育は理解度が一元的にはかれない、評価できないから、学校内、一人の先生だけではできないと思う。環境教育は学校教育システムの「学びと評価」の方法そのものを転換するべく学校教育にアプローチすべき。
自己評価、自己決定させることが 学校自然体験・環境教育の評価にかわることになる?
◆学校の先生になる直前の教育学の学生さんの質問
「学校で環境教育を教えたらいいのか不安です。学校では座学が多かった。これからどうしてゆけばいいか?」「社会には環境教育をしなければならないという風潮がある」
どうしたらいいか、教えて・・・と会場に来ている教育学の先生や現役の先生に対して質問をした・・。
大学人でない人が会場にたくさんいるのに、学校の領域を出られない人達を感じてしまった。
さらに、「なぜ、環境教育が学校で必要なの」という学生さんの問いに、
「環境教育をやると、人が優しくなるよ」
「となりに誰かいるよ」と教えてあげられる。
もう一歩・・
「となりに何か生き物がいるよ」
と伝えることができるのが環境教育とM高校の実践型先生が応えた(答えた?)。
なるほどと思いましたが、その解答、話ぶりに教え子への「先生」を感じてしまいました。
教師とは、「解答」を必要とする仕事なんだなあと思いました。
「体験あって学びなし」という批判が時折、遠巻きに聞こえてきますが、
「学習活動における活動と動機」 レオンチェフ「活動の三層構造」。活動と動機、行為と目的、操作と条件・・・協同的学習主体形成 などという発表を聞くと、その分析検証には感服するけれど、だから・・・どうなの? なんて気もしてしまいます。
学校教育と社会教育を重ね合わせた領域、「学社融合」という言葉があり、その必要性が唱えられますが、環境教育の学問性と社会性の「学社融合」が今後は必要だなあと感じるシンポジウムです。
今日の四つの発表は、
大学研究者の立場からO教授「学校環境教育の構造と活動・主体の形成について」
NPOから私・・「北海道の環境系NPOと北海道ならではの環境教育」
博物館から札幌のY学芸員から「道草のススメ~札幌周辺にて」
高校の立場から 「札幌藻岩高校の環境教育」
噛みあいそうで、かみ合わない・・・噛みあわなそうで、かみあう・とうような感じのお互いの発表でした。
指定討論者というコメンティターは元高校教員と教育付属中の先生。次のようなキーワードが提議されました。
出てきたキーワードは、体験(活動)、関り(関係性)、つながり(空間的、時間的)、主体(自分ごととして)、考える力(認識、批判、説明、選択、想像、参画、創造、判断、検索する九つの力)、学びの場(学習者と指導者の役割)、教育の三要素(学校、地域、家庭)がどのように関りあっていくかが大切、コーディネイター、エンターティナー
◆環境教育といっても異分野・異なるフィールドで・異なる対象者へ働きかけている人達が数多くいるのですが、意味あるネットワーキングはできていません。しかし、連携のための連携になってしまっては長続きしない。
連携するためには自らの活動の問題の課題化が必要。課題化されると自らだけでは解決できないことがわかる。だから連携が必要になる。こういったプロセスが必要でやっとその段階にやっと入りつつあると感じてます。
◆最後にいくつか質問を受けました。その回答です。
「どのように経験不足の教師や教師志望の学生を育てるか?」
1回2回の研修で自然体験や環境教育がわかるはずがない。知識として覚えて教える分野でない。経験知が必要。だから教師の自然体験活動の不足を指摘しても仕方がない・・・学校で先生が自然体験活動を授業するのは無理。教えなければならない呪縛から解いてあげよう。・・大きな役割分担化へ・・・学校が学校から外にでていろいろな人と関って授業をしようよ。先生はそのコーディネイターになってゆくといい。
環境教育は学校で自己完結できないと思う。
◆評価の問題
環境教育は理解度が一元的にはかれない、評価できないから、学校内、一人の先生だけではできないと思う。環境教育は学校教育システムの「学びと評価」の方法そのものを転換するべく学校教育にアプローチすべき。
自己評価、自己決定させることが 学校自然体験・環境教育の評価にかわることになる?
◆学校の先生になる直前の教育学の学生さんの質問
「学校で環境教育を教えたらいいのか不安です。学校では座学が多かった。これからどうしてゆけばいいか?」「社会には環境教育をしなければならないという風潮がある」
どうしたらいいか、教えて・・・と会場に来ている教育学の先生や現役の先生に対して質問をした・・。
大学人でない人が会場にたくさんいるのに、学校の領域を出られない人達を感じてしまった。
さらに、「なぜ、環境教育が学校で必要なの」という学生さんの問いに、
「環境教育をやると、人が優しくなるよ」
「となりに誰かいるよ」と教えてあげられる。
もう一歩・・
「となりに何か生き物がいるよ」
と伝えることができるのが環境教育とM高校の実践型先生が応えた(答えた?)。
なるほどと思いましたが、その解答、話ぶりに教え子への「先生」を感じてしまいました。
教師とは、「解答」を必要とする仕事なんだなあと思いました。
その勉強の過程で思ったのは、
「合格することも大事だが、環境について興味を持ち、知ること、学ぶことがもっと大事なんだな」
ということでした。
最近では、自分や他人の一つひとつの言動が、
「エコだな~」
「エコじゃないな~」
と思うようになりました。
まずは身近なところから、自分にできることから始めて、その経験を雑談の上でも話すことも、一つの「環境教育」ではないかと思っています。