2011.2.4(金)快晴 朝の外気-4℃
「丹後風土記残欠は偽書?」の記事を書いて、やっとコメントが入った。実はもっといろんな方が何かと教えてくれるだろうと期待していたのだが、内容が内容だけにほとんどの人には興味のない事なのかも知れない。
ビヨリさんの言われる、「官撰風土記の体裁を取ったのは不誠実です」というのはごもっともなご意見だ。
官撰風土記とは出雲、播磨、常陸、備前、豊後風土記で古風土記と言われるものだが、郡郷の名、産物、土地の肥沃、地名の起源、旧門異事などが記されている。それ以外の国の風土記が様々な形で残されている、これが「日本総国風土記」なるもので内閣文庫が所蔵しているものだそうだ。
先日大津の古書店で購入した本の中に、「異端日本古代史書の謎」(田中勝也著)というのがある。世の中には多くの偽書と呼ばれる古文書がある。それらが如何なるものか知りたいという思いで購入したのだが、その中にも「丹後風土記」についての記述もある。その部分だけ読んでみたのだが、結局杳として分からない。
ただ、私が考えるのはその文書がまるっきりの作り話でない限り、史料として価値があるか否かは読み取る側の真偽を見極める力量の問題なのではないだろうかということである。例えば記紀ならば天皇家の都合があるし、役人が書いたものなら役人の都合があるだろう。戦争に関する軍部の文書など端的なものである。その都合に充ち満ちた文章から史実をつかみ取ろうとすれば、あらゆるフィルターを通して読み取らなければならない。中には100%そのまま受け取っていい文章もあるだろうし、フィルターにかけたら何も残らないような文章もあるだろう。より精度の高いフィルターを持つことが歴史家の力量なのではないだろうか。
加藤氏が二つの根拠を以てまるっきり史料として不的確とされるのは納得がいかない。万に一つでも真実があるのなら、それを見いだすのが歴史家の使命だと思う。この書には万に一つも真実など無いよと言われるのなら、その根拠を示して欲しいものだと私は言っているわけである。
ビヨリさんが宗教的な権益云々と言われるのは、残欠が籠神社に関わる海部氏に所以するものであるところからおっしゃっておられるのかと思うが、それも一理あろうかと思う。面白いのは加藤氏のこの論文は、京都地名フォーラムで発表されたものであり、実はその一人前に判とし子氏が、「『海部氏系図』から探る大丹波王国と初期ヤマト政権」と題して発表されているのである。
【作業日誌 2/4】
ガーデンシェッド、ドア外枠完成、化粧板張り
なかなか様になってきた。
今日のじょん:気温が下がり、雪が締まってきて朝はどこでも歩けるようになった。昨日かみさんが見つけたというキツネの足跡を追ってみる。いやあ、イノシシなどの足跡でえらいことになっている。念道橋下流も獣の王国となっている。
キツネの足跡を臭ぐ、河原附近もイノシシの足跡ばかり。