2012.2.5(日)曇
「大栗峠とその古道」と題して里山ネットの主催で情報交換のつどいが行われた。郷土史家の川端二三三郎氏による史料解説があり、地元の人の生の情報も聞くことができた。舞鶴、上林、和知が街道を通じて緊密なつながりがあったことが解る。それは政治、経済、文化的なつながりであり通婚圏ともなっているようだ。大栗峠が舞鶴街道の一部であり、舞鶴(田邊)以西から京に向かう街道の峠であって、若狭と京を結ぶ街道としては脇役であったように思われる。
会場の観光センターから古城山。
沢山資料をいただいて、川端先生との質疑により多くの謎が解けた。その一つが次の文書である。
文化四年(1807)巡礼道
和知 廿七番妙龍寺→上林 廿八番光明寺
是より廿八番上林君尾山へ三り 上あわの村より左の谷へ入 道わけある所より又左へ行 大くり峠上り三十丁ほど むねより右へ志こ田村へ下ル 道あしけれども小浜辺のうを荷も通る 志こ田村出口大はしをこへ右へ行 山内村より十八丁上り也
(丹波西国三十七所道中記)
これは資料でいただいた文書の一つだが、文化文政の旅行ブームというのがよく解る。和知 廿七番妙龍寺というのは下粟野の明隆寺のことであり、丹波国三十三ヶ所観音霊場の巡礼道が大栗峠に当たっているということだ。三十三ヶ所と三十七ヶ所と数字が違うのは複数のお寺でダブっているところがあるからだそうだ。
巡礼なればこそ志古田道が合致する、手荷物ぐらいで歩けるからだ。荷車ひいて巡礼するものも居ないだろう。少々道は険しくとも、次の霊場光明寺にまっしぐらに進める志古田道が選ばれたことがよく理解できる。
洞峠(左)と大栗峠(右)は上林から京に向かう峠の双璧。
”むねより右へ志こ田村へ下ル 道あしけれども小浜辺のうを荷も通る”という文書は志古田道のことをよく物語っている。むねというのは山稜の一番高い部分、つまりこの場合は粟野道を登り着いたところだから、峠のことを言う。右へ志こ田村へ下ルというのは、左に行く道、弓削道が既にあったことを物語っている。小浜辺のうを荷というのは、小浜産の魚とは限らないだろうし、高浜や舞鶴の魚かもしれない。いずれにしても背に担う程度の荷物なら、弓削道より志古田道が有利ということである。また、魚の行方も必ずしも京都とは限らないだろうし、仏主峠(ほどすとうげ)から肱谷、鏡坂を越えて園部方面などの行商もあっただろう。ただ宮脇に到る道は洞峠か大栗峠か悩ましいところである。これは荷を背負わなくても良いから是非実験してみたいルートである。つづく(大栗峠考(22)は2012.1.23)