晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

瀬尾谷のこと(3) 2/17

2012-02-18 | 上林地名考

2012.2.17(金)曇

 上林のシオ谷候補を調べてみた。
 まず佃の塩谷である。武吉側から佃、忠を巡る市道を行くと川向こうに顕著な円い山を望む。これが丸山で、上林側左岸によく見られる環流丘陵ではないかと思う。横に長いので下佃あたりからはどっしりした山に見えるが、十二所神社あたりからはすっきりした三角錐の山に見える。P1000834

丸山、北から見ると長い。


 わたしはこの山に祭祀の跡がないかと予想しているのだが、まだ調査していない。それはともかくその丸山の東が小字塩谷である。394mのピークに遡っている谷が塩谷と思われ、完璧なシオ谷地形である。ここでシオ谷地形とはどのようなものか確認しておきたいのだが、「地名の語源」(鏡味完二)では、
 シオ 塩の山間の地名にはシボむ地形からのものが多い〈松尾俊郎〉。(1)楔形の谷の奥(2)川の流曲部(3)撓んだ土地(北信にみられる)。(4)牛尾菜(シオデ)。(5)塩類泉とある。
 
 わたしが地形的に確認できているのは(1)であって、谷の出合附近は細めの扇状地となっており、谷は比較的直線的になっている場合が多い。
 さて小字塩谷は遡って行くと中ノ坪という字となり、その上流域の広い部分、国土地理院の地形図に山道が二本ある間が塩谷という字になっている。西側は尾根道で東側が塩谷であろう。この道は394mのピーク附近で合流し、和知との境界の稜線に向かっている。そして西河内川から下粟野に出るのだが、その峠がいわゆる稲葉坂のようである。建田三町(武吉、佃、忠)の宝永の直訴を成し遂げた三人の若者を追っ手から逃がすためこの峠から他国に潜伏させたという。その際生の大根、柚子、唐辛子でささやかな宴が開かれたという。秋のこんぴら大祭には今でもこの三種が供えられている。P1000339
 
2011年の大祭、三町回り持ちで1000年続ける事になっている。


 その下粟野から由良川に出て、2Kmほど遡ると塩谷がある。この地も楔状の谷であり、シオ地形といえる。
 老富町のショウガ谷は小唐内の最奥の家を過ぎて左岸からの最初の大きな谷のようで小唐内川河畔からこの谷一帯が小字ショウガ谷である。山間の谷であり、扇状地を作るような規模ではない。
 老富町のもう一つの初ヶ谷は府道を栃から下がってきて右側にある小さな谷辺りを言うのだろうが、読みが解らないのでショガ谷かハツガ谷か解らない。いずれにしてもシオ地形ではない。
 小唐内川を詰めると猪鼻峠となり、若狭側に降りる道を貝坂という。この貝坂に塩に関する伝説がある。丹波の国のものが塩水を汲んでこの坂を上り、転んでこぼしてしまった。すると海水があふれ、波風が立った。それで土中から貝が出てくる。というような話のようだが、なにせ漢文の資料なので定かではない。塩地名に塩伝説という点では、ショウガ谷は塩ガ谷なのかも知れない。Img_3544


小唐内川、正面は丸山。

 また小唐内(こがらち)川というのは大唐内(おがらち)に対応して付けられたという気もするので、もともとはシオガ谷であったということも考えられ無いことはない。さすれば小唐内は塩地形といってもいいのではないだろうか。つづく

【作業日誌 2/17】
ベランダドア修理

今日のじょん:雪も少なくなってきたら、獣どもが出没し始めた。朝はその追跡で大わらわである。念道橋の難関ゲートもなんとかクリアして田んぼの視察もしてくれた。P1010062 P1010063


家の横までイノシシの形跡が、、、。  

  P1010065

ネットの中もしっかり入ってる。

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瀬尾谷のこと(2) 2/16

2012-02-18 | 上林地名考

2012.2.16(木)曇

 瀬尾谷の語源がシオであるとしたら、以外な思いをされる方が多いと思う。しかし地形によるシオ地名は随分多くて一般的なのである。例えば上林でそれらしい小字をひろってみると次のとおりである。
 塩谷(佃町)、ショウガ谷、初ヶ谷(老富町)P1010072_2

佃町塩谷方面、写真ではよく解らないが、地形図ではシオ谷地形である。


 小字になっていなくても谷の名前を探ればもっと出てくると思う。上林ではないが上原町に惣谷という小字がある。いづれも地形を確認してみたいと思っている。
 全国的にも塩地名は多く、塩竃(宮城県)、塩原(栃木県)、塩尻(長野県)、塩見岳(南アルプス)
などが著名で、京都府では洛西大原野に小塩山(おしおやま)、京北町(現京都市右京区)に小塩(こしお)などが有名である。概して海沿いのところは塩(salt)や潮に関する語源が多いのだろうが、問題は山間部の塩地名だ。
 内陸に塩が出るはずが無いと思えば、塩原温泉のように塩泉が湧いているところもあるわけだ。そして塩を運んだ道とか塩の市場があったとか、塩に関する伝説、いわれが必ずと言っていいほどついてまわる。例えば長野県の塩尻は北の塩と南の塩、つまり日本海と太平洋の塩が運ばれてその採集到着地点だと言われている。洛西の小塩山は難波から運んだ海水で製塩をしたと言われ、京北の小塩は塩を売りさばいたところと言われている。
 これらの話には矛盾があり、やはり地形から来た塩地名があって出来上がった話だろうと思う。
 琵琶湖の最北に塩津という歴史的な港がある。ここから敦賀までを塩津街道と言って、古代の重要な街道となっている。朝鮮から敦賀、塩津街道を南下し、琵琶湖を船で渡り都へ向かう国際的なルートであったのだ。その塩津については、若狭の塩が都に運ばれた港だから塩津という説がある。(日本地名ルーツ辞典など)
 しかしわたしはこの地はシオ地形説をとりたい。確かに塩も運ばれただろうけど、それがすべてでも無いし、主な交易物だったとも思えない。それこそ様々な物と文化や宗教と言ったもの、そして半島の人々も通った道のはずである。塩津を地図で見ると琵琶湖が深く切れ込んでいて、ちょうどフィヨルドを思わせる。そして港として重要視されたということは水深も在るのでは無いだろうか。そうだとするとこの入江はもともと侵食された谷つまりシオ谷であって、沈降して今の形になったのではないだろうか。琵琶湖は長い年月をかけて北進しているという。だからこそ琵琶湖の北辺に切れ込んだ入江がいくつもあるのかも知れない。言ってみればリアス式海岸の沈降谷のようなところなのだろう。そんな地形を古代の人が塩津と呼んだのに違いないと思うのである。
 そんな時ニュースで琵琶湖にも津波があったようだというのを聞いた。塩津港の神社遺跡で柱が湖面と反対側に傾いており、神体の一部があり得ないところから発見されたというもので、平安期に起きた大地震による津波の被害を受けたようだと報じていた。琵琶湖では津波は起きないという説が一般的であったので、重要な発見だということだ。Img_0110
 塩津が沈降谷であることに確信をもつと共に、古代の人がその地形を見定めて命名したのならその観察眼と知恵に感服したい。海岸沿いに塩津という地名があれば、津波の可能性が大きいといえるだろう。つづく

今日のじょん:雪の上でうんPするときは探しやすくていいんだけど、とにかく時間がかかる。場所が定まるまでクルクルクルクル4,5分歩き回り、さてとなったら足がズコッと雪に沈んでまたいちから、、、、、。P1010052



 

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