2012.2.17(金)曇
上林のシオ谷候補を調べてみた。
まず佃の塩谷である。武吉側から佃、忠を巡る市道を行くと川向こうに顕著な円い山を望む。これが丸山で、上林側左岸によく見られる環流丘陵ではないかと思う。横に長いので下佃あたりからはどっしりした山に見えるが、十二所神社あたりからはすっきりした三角錐の山に見える。
丸山、北から見ると長い。
わたしはこの山に祭祀の跡がないかと予想しているのだが、まだ調査していない。それはともかくその丸山の東が小字塩谷である。394mのピークに遡っている谷が塩谷と思われ、完璧なシオ谷地形である。ここでシオ谷地形とはどのようなものか確認しておきたいのだが、「地名の語源」(鏡味完二)では、
シオ 塩の山間の地名にはシボむ地形からのものが多い〈松尾俊郎〉。(1)楔形の谷の奥(2)川の流曲部(3)撓んだ土地(北信にみられる)。(4)牛尾菜(シオデ)。(5)塩類泉とある。
わたしが地形的に確認できているのは(1)であって、谷の出合附近は細めの扇状地となっており、谷は比較的直線的になっている場合が多い。
さて小字塩谷は遡って行くと中ノ坪という字となり、その上流域の広い部分、国土地理院の地形図に山道が二本ある間が塩谷という字になっている。西側は尾根道で東側が塩谷であろう。この道は394mのピーク附近で合流し、和知との境界の稜線に向かっている。そして西河内川から下粟野に出るのだが、その峠がいわゆる稲葉坂のようである。建田三町(武吉、佃、忠)の宝永の直訴を成し遂げた三人の若者を追っ手から逃がすためこの峠から他国に潜伏させたという。その際生の大根、柚子、唐辛子でささやかな宴が開かれたという。秋のこんぴら大祭には今でもこの三種が供えられている。
2011年の大祭、三町回り持ちで1000年続ける事になっている。
その下粟野から由良川に出て、2Kmほど遡ると塩谷がある。この地も楔状の谷であり、シオ地形といえる。
老富町のショウガ谷は小唐内の最奥の家を過ぎて左岸からの最初の大きな谷のようで小唐内川河畔からこの谷一帯が小字ショウガ谷である。山間の谷であり、扇状地を作るような規模ではない。
老富町のもう一つの初ヶ谷は府道を栃から下がってきて右側にある小さな谷辺りを言うのだろうが、読みが解らないのでショガ谷かハツガ谷か解らない。いずれにしてもシオ地形ではない。
小唐内川を詰めると猪鼻峠となり、若狭側に降りる道を貝坂という。この貝坂に塩に関する伝説がある。丹波の国のものが塩水を汲んでこの坂を上り、転んでこぼしてしまった。すると海水があふれ、波風が立った。それで土中から貝が出てくる。というような話のようだが、なにせ漢文の資料なので定かではない。塩地名に塩伝説という点では、ショウガ谷は塩ガ谷なのかも知れない。
小唐内川、正面は丸山。
また小唐内(こがらち)川というのは大唐内(おがらち)に対応して付けられたという気もするので、もともとはシオガ谷であったということも考えられ無いことはない。さすれば小唐内は塩地形といってもいいのではないだろうか。つづく
【作業日誌 2/17】
ベランダドア修理
今日のじょん:雪も少なくなってきたら、獣どもが出没し始めた。朝はその追跡で大わらわである。念道橋の難関ゲートもなんとかクリアして田んぼの視察もしてくれた。
家の横までイノシシの形跡が、、、。
ネットの中もしっかり入ってる。