晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

雪中八策 防獣編(5) 2/24

2012-02-24 | 日記・エッセイ・コラム

2012.2.24(金)曇

 わたしの隣家は空き家である。綾部の市街にお住まいで、畑仕事や家の守にしょっちゅう来られて励んでおられるが、住まれては居ない。わたしの家との境界側は20坪ほどの畑だが、今は栽培はしておられない。そして保安林と空き地が境界にあるのだが、実はこのあたりは獣たちの独壇場なのである。猪は掘り返すは鹿は木や草を食べるは猿の通路となっているはで大変である。おまけに柿、栗があるのでシーズンは格好の餌場となっている。P1000163 P1000162

隣地は獣の独壇場


ところが彼らに境界線は判るはずも無いのだが、我が家の土地には入ってこないのだ。しかし隣地の荒らされようを見ると不安なので、申し訳程度のネットを張っている。これは形だけで、隙間はいくらでもあり、接地部分も留めていない。畑もそうなんだが、いまのところ入ってこない。畑の際なんざ獣道となっており、足跡だらけなのだが畑には入ってこないのだ。もちろん例外もあるので、それは後で述べることにする。
 わたしはこれこそが人と動物を分けている「人の営みの圧力」だと思っている。その境界は動物には判るけれども、人間の目には見えない。動物たちの視覚、嗅覚、触覚、聴覚などあらゆる感覚の他に、気配だの予感だのといった動物の持つ本能的な感覚で怖ろしい人間との境界を感じているのだろう。
 もともとは動物たちだけの世界に人間が侵入し、見えない境界をどんどん広げて、動物たちを山に追いやったことだろう。そして動物たちは領域が少なくなる分だけ個体数を減らしたもののその後長い間人間とバランスを保って棲息してきたのでは無いだろうか。
 昔は鹿も猿も居なかったとよく聞くが、居なかったのでは無くて山の奥深く、人の営みの圧力の及ばないところでひっそりと生きていたのだろうと思う。
人の営みの圧力による境界ラインは居住することと農耕によって集落全体を取り囲み、周辺の農地や里山も下草刈りや薪拾い、山菜採り、農耕に毎日通うことによって境界ラインは二重の濠のごとくとなってきたのだろう。
 そして山は本来動物たちの領域なんだが、人が伐採や植林、下刈りや間伐、山菜やきのこ採りなどもあろうかあらゆることで山に入ることとなる。わたしは子供時分の山道を憶えている、随分綺麗で倒木など在るはずも無く、走って上り下りが出来たものだ。それは人々が毎日のように通った道だからだろう。そういう山には人も通うが獣も居るという、人間にとっては緩衝地帯となっていた。Img_3548
 
鳥垣の居住地、里山、山。茅刈をされている頃は稜線近くまで里山としての効果があったのではなかろうか。


 そしてその奥は奥山、深山で人もゆくことのない原生林の地帯である。こここそが動物たちが生き延びた地帯であって、人にとっては怖ろしいところだったのだろう。
つづく

【作業日誌 2/24】
バイクハンガー作製

今日のじょん:バブルさんに爪切りとヒゲ切りと歯磨きを予約して行く。怖がりのじょんが果たしてそんなことさせるかなあと疑問ではあったが、予想どおり出来たのは爪切りだけ。P1010152

ガラスの向こうで爪切ってもらってるのだけど、パピヨンちゃんが喜んで写ってしまった。


  怖い思いをさせて可哀想とばかりにホノホノさんに連れて行く。久々にマック隊長とマウイちゃんに会ってひこひこ。P1010153

うれしそーでしょ。

コメント
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