2014.11.19(水)曇り
「日本中世の墓と葬送」を読む(2)
四塚は現在も四ツ塚町の町名が残っており、東寺の西、千本九条の辺りと想像されている。九条通に面して矢取地蔵堂や羅生門跡がある。古文書により、四塚というのが狐塚、光明塚、経塚、もう一つ不明の塚と4つの塚があるためかとも書いている。狐塚は八条通が新幹線ガード下と出会うようになった少し西、唐橋井園町にあり、八条通からよく目に付く大きな墓地である。その墓地から南に針小路を越えた所に、小さな区画だが高台状になった古い墓地がある。これが光明塚に付定されるようだ。実はこれらの地域も仕事上の営業エリアであったときがあり、これらの墓地はよく見ていたし、矢取地蔵堂の隣の焼き肉屋さんは仕事帰りによく利用していた。経塚は現在地が不明だそうだが、よく似た町名を憶えていたので調べてみたら、羅城門跡から南に九条通を越え、千本通りの西に唐橋経田町(けいでんちょう)というのがあった。
位置的には四塚の一つがあってもおかしくない位置だが、墓地は見当たらなかった。
これらの塚と四塚の名称が関連するものかは判断が難しいようである。狐塚にも火葬場があり、「狐が岡は東寺の西に有、此処と西院とが焼料心やすきにより、云々」という近世の文書があり、近世では狐塚と西院(最勝河原)が火葬料金が安かったようだ。
地域を熟知している二つの三昧を紹介したが、もちろん最大で意義の深い三昧は鳥辺野なのだがここでは省略したい。京師五三昧の研究は初めて目にするもので興味深いものだが、今回の読書の目的はそこでは無かった。
一連の中世の葬送、墓制の書物を読む最も大きな目的は、「中世の葬送・墓制」(水藤真著)の中に、
1.『大乗院社寺雑事記』に、御葬火所穴等拝見という文がある。
2.『観智院法印御房中陰記』の当初の見積もりと、火葬所を取りしきる善阿弥の苦情後の見積もりの中に穴賃100文とある。
文から、穴とは火葬場に関連する装置、場所などと考え、それが何かを確認したかったことである。
火葬に関する語彙のほとんどが明らかになり、火葬の葬法も充分に理解できたのであるが、後読の本からは火葬に関して「穴」という言葉は遂に見つからなかったのである。
本書の中で唯一穴について書かれたものは、第三章鳥辺野考3南無地蔵の中にある。
近世の書であるが、『京師順見記』明和四年(1767)閏九月十四日
鳥辺野左の方乞食小屋有レ之。右小屋の後に南無地蔵と云う穴有レ之由。是は当所にて心中にて果、或は行倒者など打込候穴也由、見不レ申候。
幕府巡見使の記録だが、南無地蔵という穴は心中者行路死人を葬る穴だということである。
南無地蔵の火葬場は元は六波羅蜜寺の東、東大路より東にあったと目されているが、やがて移転し建仁寺西門ゑびす神社の南、旧新道小学校の辺りかと思われる。それも移転して、西三条、西院のむしょの北と言われている。当時南無地蔵付近にあった鶴林が西院の北に在るのはそのためであろう。
前記1,2の火葬は僧や貴族など高級な層の話であるので、南無地蔵の場合とは無縁ではあるが、穴というのが火葬骨を納める穴という意味にとることもできよう。
わたしの仮説では穴は火葬場に穿たれた浅い窪みのこととして、穴虫は穴蒸しという風に考えたのだが、火葬骨を納める穴となれば穴虫=穴墓所ということになる。
多くの文書の中で火葬における装置や葬法について事細かに書かれているのに、火葬場の浅い穴のことについて一言も書かれていないのはやはり不審である。
【作業日誌 11/19】
芝生張り
【今日のじょん】
やっぱりじょんじょんロードを歩くのデス