2011.2.12(土) 曇、雪
次のお目見えのときには完成してるかも、なーんて言ってたが、完成なんてとんでもない、まだドアも着いてない状況である。前回1月14日から18日間作業して、出来たことは、窓作製、下部化粧板張り、換気扇作製、空気取り入れ口作製、ドアが八分方完成というところだ。昨年の10月末からもう3ヶ月半たっている。これじゃあ住んでる家と工期が変わらない。素人がやってることだからということもあるが、それにしても時間がかかるぜ、本に書いてある工期ってえのは一体何だ。それにDIYの本のくせして、基礎は業者に頼みましょう、ドアは専門家に任せましょうなーんて書いてある。それってDIY違うやろ。
工期が遅れる理由の最大なものは天候である。計画している間は絶好の日和が続いたが、さて始めると雨天続き、その上年が明けると大雪が降って作業が出来なくなってしまった。特に塗装が出来なくて作業がストップしていたが、最近は室内で塗装するようになった。それと未経験の道具や作業を試してみようと取り組んでいることだ。例えばトリマーを使った溝切りや面取り、電動糸鋸、ハンダ付け、屋根葺きだって初めてのことだ。
昨年は雨、今年は雪に悩まされる。
それでは1月14日以降の作業を順次お知らせしよう。
窓は明かり取りのために正面右にはめ込みの小窓を作る予定であった。村上さんに厚めのアクリル板を頂いたのでちょっと凝ったものにしようと開閉式の窓とした。将来ガーデンハウスなど作ろうかというときに窓造りは慣れておいた方が良かろうということもある。窓の枠は1×4材を半分に切ったものとし、トリマーで溝を切り、四隅が斜め45度で交わるよう工夫した。これが間違いの元でえらい歪んだ窓が出来上がった。なんとなくしまりがないので飾りに十字の桟を付けたので余計歪んでしまった。こんな細かい作業はしたことがなかったので、苦労もし時間もかかってしまった。
外枠はきちっと測って正確なものを作り上げたが、それでは窓がはまらない。適当に調整して作り上げ、小屋に取り付けたら凄く斜めで、愛嬌を通り越している。大きいところでは1,5cmほど隙間が空いてしまった。それでも化粧板を貼ったらちょいと見は分からなくなった。小屋内部の隙間はいかんともしがたい。ベニヤ板を隙間に入れたがみっともない。コーキング材で塞いだら、色が白色だったため余計目立つようになった。そこで斜めに切った端材を隙間の上に張り付けたらそれなりに見られるようになった。これが職人の技だってか。窓での失敗はドア作製に大変参考になった。
つづく
【作業日誌 2/12】
ガーデンシェッドドア作製、ドア板、飾り窓はめ込み、ドア寸法合わせ、ドア板塗装
荷作り用のテープで縛って寸法あわせする。このテープは何かと便利だ、もう一本買っとこう。
今日のじょん:今日は定休で家族と一緒なので安心して一日寝ていた。写真はうらめしじょんになりかけの半うらめし。雪が降り始め、風が吹き出したら落ち着いて寝てられなくなってきた。なんで風が怖いんやろね。
2011.2.11(金・祝)曇
大雪の情報だったが、うっすらと雪化粧というだけで助かった。南部の方は積雪があったようで、皆が喜んでいる報道を見て複雑な気持ちになる。
前回、明治期に邪神として排除された神社の文献などと言っていたが、読み直してみると明治期ではなかったので訂正する。「古代の朱」(松田壽男著)の中の「水がね姫の変身」という項にあるのだが、水がね姫とは朱砂の女神ニウズヒメのことである。朱砂の採掘を生業としていた村人がやがて農民に変わってしまい、一体何の神さまか分からなくなったという話だ。そのために「不祥の淫祠」として丹生神社ごと消滅させられたという事実である。正徳二年(1712年)ということだから、明治期の神社明細帳、廃仏毀釈とは無関係である。
ところが明治政府により国家神道が形成されるにあたって、神仏混淆では具合が悪いので仏教部分を神社に変えたり、祭神を変えたりした事実はあったと言われる。
丹後風土記残欠に関する加藤晃氏の論文(2011.1.20参照)の中でも明治新政府による廃仏毀釈、国家神道の形成のために、村の氏神にいたるまで古事記等の神話体系の神々を祀ることに偽造されていった、という風に書かれている。上林の中小の神社において祭神が過去の天皇になっている例がいくつかある。これらは明治期のやむにやまれぬ理由があるのかも知れない。特に聖神社のように江戸時代の天皇を祭神としているのは何かあると勘ぐりたくなるのである。
祭神が藤元善右衛門氏というのはともかく、大蜘蛛の霊も祀ってあり、別名大蜘蛛神社というのは政府に報告するのはまずかったのではないだろうか。
しかしこのことは神社明細帳に「御加宜神社、祭神仁孝天皇、云々」と実際に書かれているのか、あるいは村の人や神社関係者がそのことについて認識しているのか確認してからでないとどうこう言えないことである。
順次確認調査していきたいが、なによりも知りたいのは、末社二社祭神不詳とあることだ、なんとか調べる手だてはないものか。つづく
(大唐内のこと(36)は2011.2.10)
【作業日誌 2/11】
ガーデンシェッドドア作製、飾り窓切り抜き、塗装
借りてきた電動糸鋸で板を切り抜く。
今日のじょん:「おとーさん大変、芝生がえらいことになっている」てんで行ってみると、雪解けで出てきた芝生に縦横無尽に溝が掘られている。獣のようでなく、これはきっとモグラだろう。本来は土の下に掘るものを、積雪があるので表面で良かったわけだ。じょんは知らん顔しているが、これも雪の被害だなあ。
うへー、なんじゃこりゃあ。
2011.2.10(木)曇、雪
雪解けの記事を書いたらいきなり雪が降ってきた。そろそろ大唐内や有安に行けるかなと思っていたらこれだから、やはり行動は3月になってからか。
大唐内の聖神社の祭神は藤元善右衛門氏である。和泉市の聖神社が発行する「聖さん」という広報紙には、大蜘蛛を退治した救難の英雄、貢献者であるから「聖」とは聖人信仰の現れだろうと書いている。また大蜘蛛の霊を鎮める大蜘蛛神社という別名もあり、故屋岡町の白髭神社の分霊を合祀したという説もあるようだ。
ところが神社明細帳に基づいて各地の神社を紹介しているサイトを見て仰天する。大唐内の聖神社は、「御加宜神社」、祭神は仁孝天皇(にんこう)となっているのだ。写真を見ると確かに聖神社だし、住所も間違いないようである。神社明細帳とは明治時代に神社の社名や祭神、祭事、由来等々の情報を報告するよう内務省達が出され、京都府に保管されていると言うものである。総合資料館にでも行くと閲覧できそうだが、今すぐに確認できそうにもない。
もし神社明細帳にそのように記載されているとしたらこれは一体どのようなことなのだろうか。
写真は確かにこの神社だけど、名は御加宜神社とある。
御加宜(みかげ)神社は舞鶴市に弥加宜神社、滋賀県の三上山にある御上神社などと同様の神社となるのだろうが、これらは天御影命を祀り、金属に由来する神さまである。三上山は俵藤太の百足退治の舞台でもある。ところが祭神は仁孝天皇というのだから、ちと怪しげな雰囲気がしてくる。仁孝天皇とは寛政から弘化に生きた天皇で、つまり1800年代の江戸時代の天皇である。
神社明細帳が作成された目的や意図はよく解らないのだが、少なくともそれまでに種々雑多あったところの神社や寺院を整理し、社寺取扱規則に合致したものを明細帳に記載し公認したもののようである。文献を見ているとこの時期にいわゆる邪教、邪神などとされて公認されなかった神社や寺院があったようである。言ってみれば明治政府による宗教の統制、干渉への第一歩と言うべきものではなかろうか。つづく
(大唐内のこと(36)は2011.2.2)
【作業日誌 2/10】
ガーデンシェッドドア飾り窓枠作り
今日のじょん:先週かみさんがキツネを目撃した。キツネは数が減っており、イノシシやシカの子供を襲うので益獣だそうだ。害獣だ益獣だと人間の都合ばかりで申し訳ないのだが、確かにじょんのび村の近くに居るようだ。今夜は降雪が予報されている、夜になってじょんが強烈に吠えた。少しするとギャーという鳴き声、やはりキツネらしい。
これが2月3日に現れた狐の足跡、もちろんじょんの反応も著しい。
2011.2.9(水)曇、雨
昨日辺りから暖かく、雨も降り出して雪解けに拍車がかかってきた。春まで残るかもなんて大げさに考えていたのが、こうもあっけなく解けるとは、今までおとなしくしていた地球温暖化論者がまたうるさくなりそうだ。
とは言っても畑や田んぼなどは真っ白でまだまだ残雪が残っている。綾部にはほとんど無くて、口上林、中上林と白さが目立つ。これは降雪量の多さにもよるが、日照時間や気温差も関係しているのだろう。
「雪はいらわな解けへんで」とこの辺では言われる。そのとおり一度かいたところや踏んだところは早く解ける。田んぼや畑にいつまでも残っているのはそのためである。ではなぜ触った雪は早く解けるのだろう。なかなか答は得られない、私の考えは次のとおりである。
今年のように気温が低い場合雪は結晶のまま降ってきて、ふわっと積もる。これを踏んだりかいたりすると結晶が壊れて結合する。ということは結晶中、或いは結晶間の空気が無くなるということだ。空気は最大の断熱材だから、結晶のまま残っている場合は熱伝導率が低い。結晶が壊れている場合は熱伝導率が高くて早く解ける。
ということではなかろうか。気象学専攻の私としてはこう結論づけたのだが、、、。
それにしてもあれほど待ちこがれた雪解けなのに妙に憂鬱だ。雪はあらゆる汚いもの、醜いものを全て覆い隠してしまう。そしてそれらは少しずつ、隠れる前より汚く醜くなって現れるのだ。最も気になるのが犬や獣の糞、獣はともかく犬の糞を拾う習慣は上林にはない。しかも都会と違ってこのうんPはどこの犬、あのうんPはどこの犬と落とし主が特定できるのだ。これが雪解けと同時にわんさか出てくるのでうんざりする。
つぎに憂鬱なのが庭木やガーデニングのグッズが折れて傷んで現れてくることだ。これを元通りにするには相当苦労する。その上雪の下でも雑草だけは元気に生き延びていることだ。草木が元気になる前にこいつらを駆除しなければならない。
そして雪で壊れた椎茸小屋の修復、昨年切り倒した薪の搬出など雪解けとともに多くの作業が始まる。それともう一つ気になるのが薪の需要だ。冬の厳しさに比例して薪の使用量が増えている。4月中旬まではいけるだろうと思っていたのが、このままだと3月中旬で無くなりそうだ。てなわけで薪割りも必須になってきた。
積雪で屋根部分が壊れてしまった椎茸小屋。
【作業日誌 2/9】
ガーデンシェッドドア作製、ドア枠塗装、飾り窓の枠作製
今日のじょん:先日まで朝の積雪はカチンカチンで、どこでも行けるのが気に入っていたみたいだけど、ここんところの高温でぐずぐずのザラメ雪となって、大変な様子。一歩ごとに身体が沈むので、おしっこうんPもぽんぽこぽんも苦労してるみたい。
2011.2.8(火)曇、雨
生活も不可解なら風貌も怪しげで、少なくとも登山家というものに凛として筋骨たくましく精悍なイメージを持っていた私の憧憬は早々に壊されてしまった。
そんな根深さんが山と自然を愛し続け、海外の山でも活躍し、そして素晴らしい文章を書かれるとは思いも寄らなかった。東北の山に対する二冊の本「白神の四季」「ブナの山々」は私の宝物だし、先日大津の古書店で見つけた「チベットから来た男」はまだ読んでいないのだが、根深さんの学生時代のことなども書かれているようで楽しみにしている。
私の持ってる根深さんの本。
夢枕獏の「神々の山嶺(いただき)」という長編のフィクションがある。友人に勧められて読んだのだがとても面白くて一気に読んでしまった。井上靖の「氷壁」の現代版というか、スケールを大きくしたような作品である。
その冒頭で意外な文章を見て驚愕する。内蔵助平から剣岳に登ったときの根深さんともう一人のOB、長谷川良典氏が実名で出てくるのだ。この小説には幾人かの登山家が実名で出ているので不思議ではないのだが、内容が問題だ。1924年の第三次エベレスト登山隊で遭難死したマロリーとアーヴィンのどちらかと思われる遺体を8,100m地点で見かけたという情報を中国隊員の王洪宝から得たというものである。この二人はエベレスト最大の謎となっており、つまり彼らが遭難前に目撃されたのは登頂前なのか、後なのかと言うことである。その29年後にエベレストは初登頂されるのだが、もしマロリーたちが登頂後に遭難していたとしたら、歴史は塗り替えられるわけだ。このマロリーの遺体やマロリーの持っていたコダックのカメラを中心に小説は展開していくのだが、なぜ長谷川さんが実名でこの小説に出てくるのか不思議であった。ここの部分は実話だったのである。現実にこの情報発現以来捜索がなされ、1999年にマロリーの遺体が発見されたそうである。
神々の山嶺上下巻
実はこの小説のフィクションの登場人物の多くが、学生時代の山仲間の名前と一致するのである。もちろん単なる偶然なのだろうが、主人公羽生丈二だけは憶えがないが、最も近い深町誠はこれは根深誠氏ではないかと勘ぐっている。なんとなく面白いでしょ。
【作業日誌 2/8】
ガーデンシェッド、ドア作製、ドア枠と下部ドア板完成、丁番取り付け準備
今日のじょん:今冬初めて上林川河原に下りる。やっと雪が少なくなって下りられるようになったのだ。ところがそこはイノシシと鹿の独壇場で、臭ぎ廻って散歩にならない。
念道橋から下りられるようになったが、獣の臭いが大変。
2011.2.7(月)曇 朝の気温0℃
日曜日の楽しみは讀賣新聞の「本・よみうり堂」の記事である。新刊書の書評や文庫本、新書本の紹介、本に関するエピソードなど三面に渡って楽しく読ませてくれる。最近の本はとても高くて買えないので、書評を読んで読んだつもりになるのだ。どうしても読みたい本は買ってしまうが、大体は切り抜きをしておいて古書になってから買う。何年もたってから、忘れずに購入するような本は本当に読みたい本だからだ。何年も古書サイトで値が下がるのを待って買うのも楽しいものだ。
2月6日のよみうり堂では、根深誠氏の「ヒマラヤのドン・キホーテ」という本を見つける。根深誠氏は私の知りうる人で数少ない著作者である。先日埋蔵金という記事で剣岳に登った話を書いたが(2011.1.28)この時の同行のOBが根深誠氏と長谷川良典氏であった。
よみうり堂の記事。
学校を出てから20年近くたったある日、長岡京市の書店で一冊の本を見つけた。「白神の四季」という小さな本だったが、著者に根深誠と書いてあるのだ。私の知っている根深さんとは別人だろうと思った。美しい写真と美しい文章で綴られているこの本が、あの根深さんが書いたとは思えなかったのだ。著者略歴を見ても日本山岳会会員、ヒマラヤ登山遠征などで活躍などと書いてあって、根深さんが登山を続けているというのも半信半疑であった。ただ、根深さんの故郷は確か弘前だったからやっぱり本人かなあという気もしないでも無かった。
私の疑問はすぐに氷解した。日経新聞の書評欄に根深さんの紹介があったのだ。
それほどまでに学生時代の根深さんのイメージは違っていた。私とは4才違うので、私が一年生のときにはOBだったが、まだ学生であった。なんでも8年間学校に行くこともなしに、学費を払っていたら弘前の実家に卒業証書が送られてきたという話だった。とにかく4年間の間でキャンパスで見かけることは一度もなかった。かといって部室やOBの来られる集まりに出るわけでなく、どうも怪しげな仕事をしていたみたいだ。一度根深さんが元締めで千葉の某石油コンビナートにアルバイトに行った。一軒の民家に泊まりがけで数日間働いたが、三食付きで凄く高給だった。夜はドンチャン騒ぎで明け方近くまで呑んでいるので仕事にならない。氏は海岸に出て一日中昼寝していたみたいだ。それでも仕事になるんだから怪しげなもんだ。また夜が来て宴会となる。根深さんの話は怪談話とキセルの自慢話だった。青森から上野までキセルするんだからなかなかの強者である。つづく
【作業日誌 2/7】
ガーデンシェッド、ドア枠作製、カット、切り欠き
今日のじょん:2月のじょんカレンダー御紹介。情けない顔が何とも言えない。
2011.2.6(日)晴 朝の外気-2℃
讀賣新聞のUSO放送に投稿してもちっとも採用してくれないので、じょんのびUSO放送で発表しよう。
データ残存
最近ケータイの投棄が多いのよね。
隅田川のかっぱ
誰でもが当然のごとく知っていたことをあたかも突然起こったように振る舞い、連日のように話題になる日本って、不思議な国だと思わないかい。
さて、雨読の続編だが丹後地方については天橋立トライアスロンの思い出がある。
20数年前第3回から10回まで大会の運営に携わることとなった。特に当初のミニトライアスロンからオリンピックディスタンスへの変更、国道バイパスの新設などによりラン、バイクコースの変更新設を一人で担当することとなった。毎週丹後に通い、宮津、伊根、岩滝、野田川、加悦方面を走り回ることとなった。自家用車で距離を測りながらコースになりそうな道路を走り回るのだが、同じところを何度も廻ったり、停まって写真を撮ったりするので怪しまれてパトカーに追跡されたこともあった。トランジションエリアが176号線の道の駅(当時はまだ無かったのだが)の近くだったので、明石、温江、香河の辺は特に細かく回り、地元の人よりも詳しく地理を知ることとなった。そこには多くの古墳があり、その間を縫うようにコースを作っていたのだが、古代の文化についてまるで興味のないときだったので気にもしなかったのである。またその辺りが丹後の古代文化のひとつの中心地でもあることが今になって分かってきた。横目で見ていた古墳は蛭子山一号墳で、何と145mの巨大前方後円墳である。
この地は大江山の北西麓に当たり、近くでは日本冶金のニッケル鉱山が操業していた。金屋、湯ノ谷などの製鉄をにおわす地名も残り、古代の海人族による稲作と製鉄に依る文化が定着していたのだろう。そしてなにより大陸、半島に直結していることが最も有利な条件であると思う。それらのことは伴氏の地名探究の論文にも書かれている。
地名探究と歴史読本。
本書は私が知りたいと言うこととは少し方向が違っていたけれど、古代の丹後を探る上で参考となるものであった。
【作業日誌】
ガーデンシェッド、ドア枠作製
2011.2.5(土)晴 朝の外気-3℃
丹波、丹後の古代を探るとき、海人族の存在を抜きにしては考えられない。ところが歴史の教科書にも一般的な常識にもこのあたりは出てこない。教えられるのは弥生時代に海洋民族によって稲作が伝えられたというぐらいだ。
海人族について知るためには、丹後一宮籠神社の海部氏(あまべうじ)についての記述を読むべしとこの本を選んだ。
「古代丹後王国はあった」秘宝『海部氏系図』より探る(伴とし子著)すばる出版発行平成10年1月第一刷、定価1,600円買価367円 古代丹後王国を初めて提唱されたのは門脇禎二教授であり、海部氏系図については金久与市氏の著書がある。どちらも難しそうなので本書を選んだという単純な動機なんだが、この本とて私の理解できる範疇のものではなかった。
古代丹後王国とはヤマト政権樹立以前にヤマトの政権になりうる強力な王国が丹後に存在したという説である。そのことを籠神社に所蔵される国宝海部氏系図から読み解こうという趣旨の書である。この説の正否を判断すべき知識と読解力を私は持ち合わせていない。ただヤマト建国の前後に海人族による巨大な文明がこの地にあったことは確かなようである。そしてその文化が若狭や由良川周辺の内陸部に波及したことも事実だろう。しかしそういったことはこの書の趣旨ではない。
丹後王国については、参考に雑誌歴史読本の特集「謎の日本海王国」(昭和62年6月号)や京都地名研究会の発行する「地名探究」7号(2009年)の伴氏の論文なども読ませて貰った。前者は加悦町教育委員会の佐藤晃一氏の記述で、丹後をめぐる多くの古墳からの考察である。内容は差し控えるが、結論は、「丹後にかつて独自性を持った「王国」の存在を考えることは難しい」というものである。つづく
【作業日誌 2/5】
ガーデンシェッド、前面化粧板張り
今日のじょん:最近朝の楽しみは、「ショーグンさま、入ってます」ゲームである。雪が解けてきて雪面に開いた穴ぼこにぽんぽこぽんのボールを投げ込むのである。ゴルフ同様キックが悪かったり、距離が足りなかったりでなかなか入らない。うまくホールインワンしたボールをじょんが探し出すのも面白い。
左奥に見える木の辺りがホール。
2011.2.4(金)快晴 朝の外気-4℃
「丹後風土記残欠は偽書?」の記事を書いて、やっとコメントが入った。実はもっといろんな方が何かと教えてくれるだろうと期待していたのだが、内容が内容だけにほとんどの人には興味のない事なのかも知れない。
ビヨリさんの言われる、「官撰風土記の体裁を取ったのは不誠実です」というのはごもっともなご意見だ。
官撰風土記とは出雲、播磨、常陸、備前、豊後風土記で古風土記と言われるものだが、郡郷の名、産物、土地の肥沃、地名の起源、旧門異事などが記されている。それ以外の国の風土記が様々な形で残されている、これが「日本総国風土記」なるもので内閣文庫が所蔵しているものだそうだ。
先日大津の古書店で購入した本の中に、「異端日本古代史書の謎」(田中勝也著)というのがある。世の中には多くの偽書と呼ばれる古文書がある。それらが如何なるものか知りたいという思いで購入したのだが、その中にも「丹後風土記」についての記述もある。その部分だけ読んでみたのだが、結局杳として分からない。
ただ、私が考えるのはその文書がまるっきりの作り話でない限り、史料として価値があるか否かは読み取る側の真偽を見極める力量の問題なのではないだろうかということである。例えば記紀ならば天皇家の都合があるし、役人が書いたものなら役人の都合があるだろう。戦争に関する軍部の文書など端的なものである。その都合に充ち満ちた文章から史実をつかみ取ろうとすれば、あらゆるフィルターを通して読み取らなければならない。中には100%そのまま受け取っていい文章もあるだろうし、フィルターにかけたら何も残らないような文章もあるだろう。より精度の高いフィルターを持つことが歴史家の力量なのではないだろうか。
加藤氏が二つの根拠を以てまるっきり史料として不的確とされるのは納得がいかない。万に一つでも真実があるのなら、それを見いだすのが歴史家の使命だと思う。この書には万に一つも真実など無いよと言われるのなら、その根拠を示して欲しいものだと私は言っているわけである。
ビヨリさんが宗教的な権益云々と言われるのは、残欠が籠神社に関わる海部氏に所以するものであるところからおっしゃっておられるのかと思うが、それも一理あろうかと思う。面白いのは加藤氏のこの論文は、京都地名フォーラムで発表されたものであり、実はその一人前に判とし子氏が、「『海部氏系図』から探る大丹波王国と初期ヤマト政権」と題して発表されているのである。
【作業日誌 2/4】
ガーデンシェッド、ドア外枠完成、化粧板張り
なかなか様になってきた。
今日のじょん:気温が下がり、雪が締まってきて朝はどこでも歩けるようになった。昨日かみさんが見つけたというキツネの足跡を追ってみる。いやあ、イノシシなどの足跡でえらいことになっている。念道橋下流も獣の王国となっている。
キツネの足跡を臭ぐ、河原附近もイノシシの足跡ばかり。
2011.2.3(木)快晴
今年になって初めて京都、大津に行く。雪で真っ白の上林を出て、和知の辺りに行くともう雪はちらほら残っている程度、須知の附近ではまったく見られない。カルチャーショックといえば大げさだが、何か別世界に来たみたいだ。雪に閉ざされていると閉塞感を覚える。雪がないというだけでこれほどまでに開放感を感じるのは、ひょっとすると久々の好天のせいか。
かみさんを病院にとどけて外に出る。好天と雖も肌をさす空気は冷たい。行きたいところはいくらでもあるんだが、診療の時間は短時間なのであまりどこにも行けない。
一番行きたいのは瀬田の唐橋だ。ここは三上山の百足退治で有名な俵藤太の伝説の舞台である。実は職場から研修で当時の青年会館に一泊したことがある。ところが伝説のことなど興味もなかったし、知るよしもなかったので何も憶えていない。
左のが三上山かな。
次に行ってみたいのが、茶臼山古墳である。これは国の史跡とされている巨大な前方後円墳で、大友皇子一族或いは彦坐王(ひこいますおう)の墓かとも言われているそうだ。彦坐王とは青葉山、大江山で玖珂耳の御笠を討ったという日子坐王のことだろう。病院からは1Kmあまりなので徒歩でも充分可能な距離である。なお、古墳は公園となっているそうだ。
結局時間がないのでいつもの古本屋さんに行く。実は昨年に行ったとき気に入った本が数冊あったのだが、少し値のはるものもあったので躊躇していたのだ。今回残っていたらと思いつつ訪ねたわけである。「いび郡の地名」という本で、揖斐郡教育会が出している本である。揖斐郡とは揖斐川に沿った岐阜県の山里である。発行者の意図からして教育書の感があるが、真摯に研究されているようで、是非手に入れたい本であった。もう病院に来る機会もないだろうと他の数冊と一緒に購入した。
かみさんに聞くと定期的に診察を受けるそうで、慌てて購入することも無かったかなと思ったが、次回は茶臼山古墳でも訪ねるか。
こんなに買っちゃった。
今日のじょん:久々の一日留守で心配したが、何事もなくお留守番が出来たようでめでたしめでたし。普通留守番なんて毎日のことなんだろうけど、じょんの場合はいつも家族と一緒にいるので心配してしまうのだ。
きっと なべ猫じょんで寝てんだろうなあ
2011.2.2(水)晴
(4)聖神社
大唐内大蜘蛛退治伝説の根本は丹波志にある伝説だと考える。もう一度見ていただきたい。
当社ノ謂往古奥ノ山ニ人ヲ取大蜘住ケル由 草ヶ部村ニ高野聖リ住シ当山ニ来リ祈リ退治ス 今其谷ノ名大蜘谷ト云 其聖リヲ祭ト云
これは聖神社の由来についての文章である。ポイントは大蜘、草ヶ部村、高野聖であろう。まず高野聖だが、藤元善右衛門氏とされ主祭神となっている。藤元家を招いて甘酒講が執り行われるなど、祭神として間違いないものだろう。しかし藤元善右衛門氏が実在したとして、それはかなり時代が下がるように思われる。や神様がろくぶ(君尾山の僧兵のワル)とすると、光明寺の開山599年以降となるが、僧兵となると中世以降となる。大唐内はもっと古い時代からの集落と思うので、善右衛門氏が祀られる以前の神様があるのではないかと想像している。神社にはよく本来の祭神が末社に祀られたりしているケースがあるが、そのようなことはないのだろうか。当神社を訪ねた際にはそういう考えは微塵もなかったので、末社などを観察する事もなかったし、土地の人に聞き取りをした際もそのことを聞くことはなかった。
つづく
(大唐内のこと(34)は2011.2.1)
末社とか気にもしなかった、聖神社。
今日のじょん:先日長靴足跡の記事で報告できなかったのだが、あの日ユキちゃんが遊びに来たので写真をお目にかけよう。会うたんびに明るく、元気になっているようで嬉しいのだが、品の良さが上林には似つかわしくないみたい。
じょんが小鳥を見つけて吠えているところ、毛が逆立っているぞ。
2011.2.1(火)曇
大唐内の大蜘蛛を退治した有安の藤元善右衛門という人物は弓の名人であった。時代は解らないが、乱暴狼藉をはたらいたろくぶを百メートル離れたところから射抜いたという。倒れたところがや神さまで脇腹の痛みにご利益があるという。善右衛門のお墓は山の小高いところにあると言われているので、雪が解けたら是非訪ねてみたい。藤元家も訪れたら善右衛門の人となりについて言い伝えがあるかも知れない。酒呑童子退治の渡辺綱も弓の名人である。ここのところに何か共通する理由があるのだろうか。
弓というのは鬼を退治する、あるいは追い払う道具のようである。「延喜式」には鬼払いの儀式に桃の木で作った弓を使用した旨記述がある。「酒呑童子の誕生」(高橋昌明著)でも「保元物語」の中に弓を以て悪鬼、行疫神を追う文章を紹介している。弓は武具としてだけでなく、邪鬼払いの儀式に多用されたようだ。例えば鳴弦の儀(めいげんのぎ)とは矢をつがえることなく、弦だけをひいて放つ邪鬼払いの儀式である。弓の名人が登場するというシチュエーションは大蜘蛛伝説=鬼退治伝説であるというひとつのヒントでは無かろうか。
ところで綾部でもいくつかの神社で弓神事があることが知らされている。先日テレビのニュースで弓神事を報道していたが、的の裏に鬼の文字が書いてある。さもありなんと思ったわけだが、弓神事の本来の意味は海人族の日神祭祀であろうと真弓常忠氏は「古代の鉄と神々」の中で述べている。
阿須々伎神社の弓を射るお堂(なんて言うのか解らない)百射の神事が行われるという。うどん屋は竹松うどんの竹原さん。(’09.2)
物部町には的場の地名があり、的場さんとおっしゃる方にもお目にかかった。上林の老富町にも的場があり、産屋の大原にもマトバ、上川合にはハマイバ(浜射場か)まである。
海人族→弓矢→鬼退治といった構図が想像できるのだが。つづく
(大唐内のこと(33)は2011.1.30)
【作業日誌 2/1】
ガーデンシェッド、ドア作製(面取り等)、外枠ペンキ塗り
今日のじょん:かみさんが腰痛で曲がったまま歩いているので、「ネアンデルタール人みたいやなあ」と言っていたら、「おとーさん、じょんがナヤンデルタール人しとるで」と笑っている。「入いろか止めよか考え中」みたいな考える人風な恰好で眠っている。これは笑える。
2011.1.31(月)晴
土曜日から大雪の予報が出ており、昨晩には大雪警報まで出たんだが、遂に1cmも積もることなく、好天の朝を迎えた。こんなありがたい予報間違いは中々ないが、北陸以北や中国地方の日本海側は激しく降ったようだ。各地で積雪の新記録が報告され、雪下ろしなどの痛ましい事故も多く、死亡者が80名を越えたように報道されている。この三日幸い上林の雪は少なかったが、気温はぐっと下がり、寒気の強さを物語っている。朝8時のじょんのび村の気温-5℃はここ3年間の最低気温である。身体が寒さになれているせいか、あまり苦痛には思わないのだが、じょんの散歩などで長時間外にいると芯から冷えてくる。
外気がこのように下がっても室内は暖かく、寝室で12℃、居間で10℃、店で11℃と普段とそう変わらない。気密性が高く、断熱材やペアガラスなど使っているためだと思うが、古民家などではいかばかりかと心配する。
雪による被害は死亡事故がなくてもいろんなことが起きていそうだ。我が家での被害は、花木の損傷、椎茸小屋の崩壊ぐらいだ。木は相当折れていそうだが、今のところ雪の下なので解らない。椎茸小屋は屋根部分を作り直す必要がある。梁や桟など積雪を考えたものが必要だ。またこれからつくる小屋などの建物も、積雪に耐える強度と屋根からの雪をうまく処理できるよう工夫しなければならない。
屋根が壊れたと言う話しもよく聞くようになった。今年の雪はこの地方にしては低温、乾燥の雪で屋根に積もったまま落ちてこない。茅葺き屋根にトタン張りしてある屋根では順次落ちるのだが、下部の庇部分は瓦葺きで傾斜が緩いためそこに全てが溜まり垂木が折れたりしている。また、トタン張りであっても近くに倉庫や蔵などがある場合、相互の雪が集まって、屋根を壊しているケースが多い。
左:母屋の屋根と倉庫や蔵などの屋根が接近していると雪が詰まって庇が壊れる
中:屋根が直角に交わると雪が溜まる。重さで庇が壊れる。
右:家の裏は土手や斜面になっており、雪が繋がってしまい、屋根が壊れる。
我が家の屋根も雪が溜まったままになっているが、東側は高さがあるので、落下に遭遇したらひとたまりもない。
農業ではハウスが倒壊したり、ビニールが破れたりという被害があるようだ。また山で食料がとれないので鹿や猿が家の周りまで来て、なんでも食い荒らされるという被害があるそうだ。
一昨年は重い雪が一気に降ったので植林が沢山折れたが、今年は雪が軽いせいかあまり聞かない。
このように目に見える被害、見えない被害が拡がっているようだ。
【作業日誌 1/31】
ガーデンシェッド、ドアの外枠造り
今日のじょん:
今朝は府道もカチカチ氷