晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

上林の盃状穴(39) 善福寺-1 9/13

2013-09-13 | 盃状穴

2013.9.13(金)快晴 上林の盃状穴(38)は2013.8.1

 川端先生から引地の善福寺に盃状穴があることは伺っていた。なんでも光明寺の住職の紹介ということだ。考えてみれば今まで発見の盃状穴は神社ばかりでお寺というのは初めてだ。
 睦合町引地にある悲喜滋山善福寺は高野山派真言宗のお寺である。開基は聖徳太子と言われているそうだが、光明寺ともどもこれはどうかと思う。現在無住職で光明寺の住職が兼任されているようだ。
 府道に面して善福寺の案内看板が立っているのですぐにわかるが、自動車の駐車場は見当たらない。やはりこういうときは自転車に限る。
P1010111



 参道入り口右手には愛宕山の石灯籠がある。その前に「国廿九番」と刻んだ石碑がある。丹波西国三十三ヶ所観音霊場二九番の意だろう。どちらも自然石で作られたもので年代はわからない。盃状穴は見当たらない、石材が硬いのだろうか。
 左の石塔は秋葉山のものである。裏面に「文政九年戌年六月日」と書かれているそうだ。(上林風土記)
 
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秋葉山の石灯籠の基礎部分、札所を表す石塔の頭と隣の石造物に顕著な盃状穴発見。

 問題はその基礎の部分である。周囲に完全なもの5個、不完全なもの5個、計10個の盃状穴が見られる。なお、裏面の部分は一部コンクリートで補修されており、その中にもいくつかの盃状穴があると予想される。
 そしてその灯籠の前に石塔とその左に用途不明の石造物があるのだが、石塔の頭部に7個、石造物に4個と不完全なもの2個が発見される。
 なお石塔には「郡 〇十三番」と書いてあるように思えるのだが、何鹿郡三十三ヶ所札所が室町以降にあったそうで、郡(こおり)〇〇番と書いてあるようだ。こういった石塔の頭に穿たれたものは初めてお目にかかる。
 さて、参道を進み直線的に登る石段を見上げ、期待感にわくわくする。つづく

【作業日誌  9/13】
山内の薪収集二回目
大根播種

【今日のじょん】プロ野球阪神戦観戦の罵声にもすっかり慣れっこになってきた。テレビの前のこたつの穴に頭突っ込んで眠っているのでかみさんが、「頭に血がのぼるで」なんて言っている。P1010179

頭に血がのぼるのはコチトラだ。「ばーろー久保、何しとんじゃい

 
 

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日置のこと(27) 日置氏の正体は? 9/12

2013-09-12 | 上林地名考

2013.9.12(木)晴れ

 以前に「日置氏の正体は?」という記事を書いた。(2010年1月10日~11日参照)この記事が検索サイトからのヒットが実に多いのだ。日置氏や日置に関する関心や興味が多いことが解ると同時に、誰もが納得のいかない状態にあるということも想像できる。
 「日置氏の正体は?」の記事は、「古代の鉄と神々」(真弓常忠氏)Vs.「知られざる古代」(水谷慶一氏)のこと、つまり鉄の道と太陽の道の争いである。
 この記事を書いた当時、わたし自身は鉄や金属が古代歴史の流れの中心にあったと考えていたので、真弓氏の主張に傾注していた。つまり太陽祭祀の道なんて夢物語で、権力はひたすら金属の発掘、開発に突き進んでいたと考えていた。
 ところが歴史というか人間の営みというのはそれほど単純なものでなく、ましてや国家を建設しようかという人間にとっては事はそれほど単純でないということだ。
 そして当時の自らのスタンスは常に科学的であって、スピリチュアルなものを排した説となるよう心がけていた。
 金属というのはきわめて科学的な物質である。発掘をして精製して製品にする。その製品が食糧の増産はもとより、権力の維持発展に大きく貢献する。もちろんその生産の過程で宗教的なものは随所に現れるのだが、それは単に付随した所作と考えてもいい。
 逆に太陽信仰に基づく謎のラインなどというのはスピリチュアルそのものだという考えが、その当時あったことは隠せない。
P1040911

 

同じラインを「太陽の道」「鉄の道」と主張している。

  しかし今一つの大きな転換がある。それはスピリチュアルなもの、呪術的なものに対する考えだ。もちろん現在の考えとしてはそういう考えに属するものではないが、古代の社会においてそういったものが社会を支配する要素であったことは誰もが認めることだろう。おそらく教科書にだってそう書かれているだろう
 ところが史学にしても考古学にしても呪術的な部分には目を背けているのが現実ではあるまいか。そういった分野に目を向けているのは学者ではなく、素人の巷の研究者である場合が多い。中には度が過ぎてオカルトチックな内容になっているものもあり、宗教団体のパンフレットのような論文もある。
 古代の政(まつりごと)は祭政一致というのは誰もが認めるところである。
考古学の論文などを見ていると、祭の方には随分無頓着なのに、出土物で用途がわからものなどには必ず「呪術や祈祷に使われたものだろう」という結果になっている。一体誰がどのような祈祷で使ったものか考察はされない。解らないものは宇宙人が持ってきたと言っているのと同じである。
 現代人には信じられない呪術的なものスピリチュアルなものであっても、古代人にとっては重要な要素であったことを理解しないと、古代の謎は解けないと思うし、その解き方は科学的でなくてはならないと考えている。
 3年前に書いた記事では、太陽の道を否定的に書いているが、現在では太陽の道はあり得ると思うし、実は鉄の道も同時にあるものと思っている。
 そしてそれらは同じ権力、同じ氏族、集団によってなされたものと考える。
そのことを少しでも証明するために、「日置のこと」を書いていきたい。つづく

【作業日誌 9/12】
ジャガイモ(男爵)植え付け
大根播種準備

【今日のじょん】モモ姉さん来じょん
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出してくれ~

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ヒコヒコ。いつもいっしょやないけ~。
 

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雨読 神々のメッセージ他二冊 9/11

2013-09-12 | 雨読

2013.9.11(水)晴れ

 「神々のメッセージ 古代祭祀線への挑戦」(堀田総八郎著)中央アート出版社1995年4月初版 古書

 「続 知られざる古代 龍王のきた道」(水谷慶一著)日本放送協会昭和56年8月発行 古書

 「濃飛古代史の謎 水と犬と鉄」(尾関章著)三一書房 1988年発行
 

 古代測量技術の方法や日置に関する事柄を調べたくて上記三冊の本を読んだ。順に紹介してみたい。

 「神々のメッセージ」
 古代測量に関する読み物をいくつか読んだが、いずれも歴史家であったり、郷土史家であったりで専門の技術者の手になるものは無かった。堀田氏は機械工学科卒の理系の方で、ヨットの航海術をもとに古代の測量や航路の研究をなされている。そういう意味で科学的に理論展開されていると思えるのだが、エセ理科系のわたしには理解できないことが多く、幸い船舶免許や測量士免許をもち、風水にも詳しいうってつけの知人が居るので、本書を読んでもらった。理解できるまで読んで解らなかったら尋ねようと思っている。
P1040912P1010090
古代測量について色々読んだ中の一冊。



 「続知られざる古代」
 「謎の北緯三四度三二分をゆく」は小川光三氏のいわゆる太陽の道をドキュメンタリー化した大作で、太陽の道の証明のための実験や考察が大変興味深い本だ。現在二回目の読書をしているが、それは初めて読んだときとこちら側のスタンスが全然違うからだ。それはともかく、本書はその続編なのだが、元の太陽の道とはつながりがあるような無いようなつかみどころの無い感がする。朝鮮半島に於ける寺院や墓所の設置が太陽の祭祀に関わりがあるというような主旨だと思っている。
 わたしの読書の動機は、太陽の道や日置に関する地域に不思議と龍、竜の付く山が多く、龍王というのがなにか関連するのかと思ったことである。結果、その関連は何も解らなかったのだが、それはわたしの読解力のせいかもしれない。
 いずれにしても再度本書を開くことはないだろう。
P1010091



二冊一緒に買ったのだが、続編を読んだのは3年後か。

 「濃飛古代史の謎」
 澤潔氏が「西丹波秘境の旅」のなかで、「若狭湾西岸にある日置が、この線上にあるのは不思議な一致と言わなければならない。」と書かれ、その前段に北緯三四度三二分、太陽の道の説明がある。そこに参考文献として本書が載せられていたのである。ちなみに宮津の日置は北緯三五度三六分でまるで話がちんぷんかんぷんなわけだ。なにか宮津の日置を通るラインについて本書に書かれているのかもと思って読んでみたのである。
 太陽の道について一般的なことが書かれているだけで、宮津の日置については何も書かれていない。誠に残念な結果であった。
 本書は古代豪族ムゲツ氏に関する考察を主に書かれたものであるが、実に様々な分野から資料を集められ、どこどこにはこういうことが書いてあるというまるで資料の索引のような内容である。総満艦飾的な資料の羅列からは氏の考察や主張が見えてこない。参考書としてみるにはいいが、何かを得ようとして読む本ではない。買わなくて借りて良かったP1010026



サブタイトルは魅力だが、、、、。

作業日誌 9/11】
芝張り続き
畑植え付け準備

【今日のじょん】
天気が良くなってやっと来じょんワン現る。もみじちゃんもうすぐ四才、かわいいですねえ。
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ルンルンルン

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出してくれ~


P1010088
連れてきたで、ヒコヒコ。

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日置のこと(26) 穴虫-6 9/10

2013-09-10 | 上林地名考

2013.9.10(火)快晴
 アナゼのアナが驚きを表す感動詞であったとしたら、これがなぜ西日本だけの言葉なのだろう。東日本だって北日本だって西風は吹くだろうし、強い風には驚くだろう。アナゼのアナは西の意ではないかと思うのである。
 アナゼ、アナセというのは漢字で書くと乾風となって、苗字として使われているそうだ。乾というのは方角的には北西となるのだが、実際には北北西から南西などの風がアナゼと呼ばれているようで、おおむね西風と解していいのではないだろうか。
アナシ、アナゼ、アナセ(西風)→ニシ(西風)→西、という構図が成り立つとすれば、穴虫=西の道という構図も成り立つわけだ。
 そう考えると、小川氏の言うとおり、長門国が穴門国と書紀に記されていることについて、太陽の落ちる国と難解な解釈をしなくても単に西の国と単純に解釈できるだろう。亀岡の穴虫についても、国府や国分寺の西に続く道という風に解釈すれば筋が通ると思うのだが。ただ虫が道というのは、音の変化というのは異論は無いが、何か別の意味があるのかも知れないという気がしている。
P1060794



丹波国分寺跡から西に続く小径、この先に穴虫はあるのだが、、。

 穴虫地名の例が少ないので考証するのが難しいなと考えていたところ、意外なところで別の穴虫が見つかった。
 大津市富士見台の別所を別所を探すべく、探訪を重ねていたころ(別所探訪(40~46)2012.12.5~22参照)参考にと桜井さんが住宅地図をコピーしてくれた。おかげで富士見台別所は判明したが、その地図をかたづけようとしたところ、地図の端の部分に穴虫池という池が目に付いた。詳しく地図で調べると大津市北大路3丁目にある池で、穴虫池の上には中穴虫池、上穴虫池と仲良く並んでいる。
2012.12.7に富士見小学校の側から名神のガードをくぐって県道に出ている。そのまままっすぐ行けば穴虫池を見ることが出来たのだが、その当時は穴虫地名に興味は無かったので、右折して上別保に向かった。ただ気になっていた焼野のマンガン鉱山跡は穴虫池の近くということなので再度訪問する機会はあるかも知れない。
P1030412

 


 
富士見市民温水プールまで来てしまった。穴虫池は南に600m。

 もう一つは姫路の別所を探している際に、あるブログから見つけた穴虫池で、姫路市大塩町にある。
 どちらも地形的には今までの穴虫と似たところにある。大津の穴虫は谷間にあり、姫路の穴虫は峠の麓にある。ただようやく編み出した「西の道説」にはすんなりと合致しないばかりか、他の語源も考えられる様子だ。
 少し時間を頂いて、後ほど考察結果を出したいと思う。穴虫地名、一筋縄ではいかない感じだ。つづく

【作業日誌 9/10】
ウッドデッキ脇芝張り

【今日のじょん】
時々固まってしまったり、訳のわからん行動をする。今朝も散歩を終え、うんPもぽんぽこぽんも終わりさてけーとくちんして入ろうかという時に、ベランダの上でうろうろしていたかと思うとよっこらじょんとへたってしまった。「おいっそんなことしてる場合とちゃうやろ」何でもないようなことが笑えてしまう。P1010081

 

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日置のこと(25) 穴虫-5 9/9

2013-09-09 | インポート

2013.9.9(月)晴れ

 谷川健一さんの名著「日本の地名」は「日和山とアイの風」という文章で始まる。周囲を海に囲まれ、複雑な地形の日本では信じられないほどの多くの種類の風を生み出した。かつての物流の主役であった廻船の動力は風である。安全に目的地まで船荷を運ぶため風をよむことは船頭の最も大切な仕事であったろう。この文章ではある廻船の航海日誌が紹介されている。その日その日の風と航程が記されている。そのなかに次の文がある。

「沢根を出立したのは文化十年四月十九日の昼頃であったが、間もなく、西北西の方向から吹くタカカゼ(シモニシ)のために引き返し、沢根の近くの二見湊へ泊まった。あくる二十日はクダリカゼ(南西風)のために出航できなかった。」
 クダリカゼとは上方から下るときに使う風で、この廻船は佐渡から上方へ向かうもので、この場合出港できなかったということである。同様にシモニシも向かい風な訳である。シモニシは西南西の風というのみで言葉自体の説明はないのだが、シモは下りの意、ニシは西風と思われる。つまり下りに使う西風ということではないだろうか。なんてことはない三省堂国語辞典にも「太陽が沈む方向、西風」とある。
西の語源はニシ(西風)なのである。シが風を表すことは既に書いたが、ニは一体何なのだろう。
 言語学者をもってしても不詳と書かざるを得なかった”ニ”についてわたしが解明することは無理なことだが、想像ぐらいはしてみたい。
”ニ”は西の方角を意味することは間違いが無いが、その語源はアナではないだろうか。アナがニに転訛する少し無理があるようにも思えるが、アナ→ナ→ニという変化が考えられないでもない。
 アナシ、アナゼ、アナジという言葉がある。
近畿以西で使われる言葉で西北西、所によっては西南の風とある。(全国方言辞典)
P1010080

本日の教材

  予期しないおそろしい風。アナは驚いたとき思わず発する語。アナは、今ではアラ(アレハから)などという感動詞。驚くべき風が原義。
 西北西のところが多い。南西風、北北西風、北北東風のことをいう。(語源大辞典)
 風の名前は実は2,000種類以上あるという。すべてを見たわけではないが、数百種の風の名称を調べてみたが、感動詞の付いた名称は1個も見当たらない。どうもこの語源大辞典の説明は怪しい気がする。実はこの辞典は”ニ”は不詳と書いた先生の編になるものである。つづく

【作業日誌 9/9】

草刈り(6-1)

【今日のじょん】実に何日ぶりの晴れの日だろう。人間も気分いいが、じょんだって随分気持ちよさそうだ。なんてったって雨具着なくていいんだもの。いやもう走ること走ること。P1010079
P1010078

 
 

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日置のこと(24) 穴虫-4 9/8

2013-09-08 | 上林地名考

2013.9.8(日)曇り

 丹波国分寺西の穴虫が小川氏の説には少しそぐわないなと思いつつ、本家本元の奈良県香芝市の穴虫の地図を覗いてみる。穴虫は思いもよらぬ大きな地域で、大阪の通勤圏として大規模な住宅の開発が行われていることがわかる。その中で二上山からの尾根の森が切れ切れに残っているところがある。近鉄大阪線二上駅と南大阪線二上山駅の間のやや東寄りの地域だが、その東が穴虫東で西側に穴虫西と書かれている。と言うことはその中が穴虫地名の元々の穴虫があるとも考えられる。その森の中には大坂山口神社という神社があり、森はその神社の森なのだろうか。
 大坂山口神社に穴虫の由来を探るような事項は見つからない。ただ、この南に畑という大きな地域がある。日置の近くには畑があるという記事を書いてきた矢先だったので、近くに日置があるのではと地図を眺める。すると東に4,5Kmあまりに広陵町疋相(ひきそ)というところがある。「知られざる古代」で太陽の道上の日置地名としてあげられているところだ。
P1060796
P1060798

 


丹波国分寺では牛松山から朝日が出て(左)行者山(右)に沈む。行者山は西にあるのに朝日山と呼ばれていた。そのわけは後ほど。

結局亀岡の二ヶ所の穴虫ではその地名の由来を確信することはできなかった。ただどちらも重要な建物、国府や国分寺の西にあることだ。
 穴、アナと言う言葉が単に西を表す言葉であったらどうだろう。ここまで読んできた太陽の道や日置氏、日神祭祀の本などの中によく東の語源について述べられている。
 東の語源は日向(ひむか)、日の出の方向に由来するというものである。西はどうかというとこちらは曖昧で、澤潔氏は「イニシ(去方)」→西という風に言われている。
イヌは西日本の言い方で行く、去るの意味がある。シと言うのが方向を指すか否かわからないのだけど(太陽が)去る方向という意味にとれないでもない。
 東西を表すのに沖縄語、ウチナーグチは明解である。東はアガリ、西はイリ、つまり太陽が海から上がるのを東、海に入るのを西というのだから。
 「語源大辞典」(堀井令以知編)は日向シ→東でシは風の意味か、としている。これでシの意味がはっきりする。シは風の意(アラシ、コガラシなどもその意味か)でヒガシも元々は風の方向を表すものだったという事である。そうすればニシはどういう意味かというと、シは風の意か、ニについては不詳と書いてある。
 なんだこの辞書は、と怒る方もおられようが、わたしはだからこそこの辞書に信頼を置いている。知らないことを知らないと言う学者はそう居るものではない。たいがいの学者は知らないことは黙ってしまうものだ。つづく

【今日のじょん】連日の雨にじょんもうんざりしているが、実はもっと困ったことがあるのだ。
P1010065



ドッグランどが完成して2日にあやべ市民新聞に広告掲載、6日には取材記事がカラーで掲載されたのだ。本来なら持ちに待ったワンちゃんがワンサカ訪れるはずなんだけど、この雨じゃとても無理、その上雑草だけは恐ろしく蔓延し、なんとも憂鬱。晴れたらみんな来てくれよな。
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日置のこと(23) 穴虫-3  9/7

2013-09-07 | 上林地名考

2013.9.7(土)曇り、雨

 続いて亀岡市河原林町河原尻の穴虫を訪ねる。地図で見ると府道405号線の道中にあるのだが、車で走ってもちっともわからない。国分寺跡の西にあるのを憶えていたので、国分寺跡に行くことにする。
 府道25号線は405号線と並行して走っているが、こちらが昔の街道のような感じである。七福神めぐり散策コースとして整備されている。千歳町国分から道標に従い国分寺跡を目指すが、田んぼの中の道はだんだん狭くなってくる。適当なところで路上駐車して歩くことにする。

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石仏群と塔の礎石。そして西に向かう道、バックは牛松山。

 さて目的の穴虫だが、西に延びる小道があり左手に民家が見えてくる。この辺りが越ヶ坂で、北側はもう穴虫である。緩やかな下り坂となり、府道405号線に出る。
府道を挟んだこの小道の北側が穴虫だが、千代川の穴虫のように太陽の沈む、黄泉の国に続くと言う感じの地形では無い。
P1060795

 


小径が府道に出会うところ、右手藪の中に地蔵さまがあり、昔からの道だと思われる。このまま西に進むと国分尼寺跡に出るそうだ。

 穴虫周辺は極緩やかな傾斜があって、まばらに樹林も残っているが、その西方はまた田園が広がり、やがて桂川を渡る。その西はまたしても平地が続き、やがて千代川の穴虫の南1Kmあまりのところで山に突き当たる。春秋分の太陽が沈むのは行者山の少し北の肩辺りだろうか。
 後日知ったことなのだが国分寺跡の西450mほどの所に国分尼寺跡が在るそうだ。現在は民家となっており、案内板だけが残っているということだが、その位置は穴虫の西南の端辺りのようだ。いずれ現地を訪ねてみようと思うが、国分寺から見て穴虫が太陽の沈む大穴に続く道で、その先は黄泉の国とするという小川氏の説に従うと国分尼寺が黄泉の国というとんでもない関係になりはしないか。地形的にも太陽が沈むという感じはしない。
 どうもこの河原尻の穴虫は意味が違うような気がする。千代川の穴虫があまりにも小川氏の説にぴったりの地であったから残念な気がする。つづく
P1010064

記念に置いとくほどでも無いので写真に残す。

Img_0762Img_0551



よくこうやって覗いていたなあ、微妙な寝姿も懐かしい。

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日置のこと(22) 穴虫-2 9/6

2013-09-06 | 上林地名考

2013.9.6(金)雨

 一つの穴虫は、亀岡市千代川北ノ庄穴虫である。地図で見ると千々川が山間部に入らんとするまさに穴虫といった感じの場所であり、そこには岩城神社(いわしろじんじゃ)と薬師さんのお堂がある。
 訪問は8月13日、日置や国分寺や西光寺、文覚池など盛りだくさんの訪問をした日である。P1060784



府道25号線蔵宝寺付近から千代川方面を望む。いかにも穴虫という感じだが、その向こうに見える三角錐の山は気になる。

 さてその岩城神社、大己貴命(おおなむちのみこと)が祀ってあれば穴虫のいわれになるかも知れないと思いながら訪れる。残念ながら市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)と大山咋命(おおやまくいのみこと)が祭神であった。市杵島比売命は宗像三女神の一つで、日置の大送神社にも祀られていた。
 いつものように盃状穴を探したり、何か見つからないかと調べるが、盃状穴は見つからなかった。社殿の奥にある石の祠が妙に気になる。何も記載が無く、扉を開けてみたいがそんな勇気も無く気残りのままである。岩城神社は寿永二年(1183年)に創祀されたということだが、それ
以前の神様が祀ってあるのかも知れない。元々は弁財天を祀っていたという話もあるそうだ。
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岩城神社、気になる祠、湯立祭の行われる竈。

 また境内に石造の竈があり、園部町西林の八幡神社にもあったなあと思い出す。偶然にも本日、9月6日に例年湯立祭が行われているそうだ。

 なにしろ この地は、山陰道の通過地点でもあり、丹波国府の推定地でもあるのだ。
P1060777

 


山陰街道は千代川から本梅(ほんめ)に出る。この先右手が穴虫、右手の古屋の所に道標がある。

  丹波国府推定地は千代川町拝田および八木町北屋賀の二ヶ所だが元々千代川にあり北屋賀に移ったという説もある。国道9号線から千代川インターチェンジの西の辺りまでが国府推定地のようで、桑寺廃寺跡や瓦、土器の出土もあるそうだ。付近には国司ヶ森、国司牧、学堂、大門などという地名が残っている。
 穴虫が西に日の落ちる穴に通じる道とすれば、その日を見ている主体はやはり国府なのだろう。P1060770



鳥居からの景色、遠くの稜線は愛宕山の稜線か。かつてはこの下に国府の建物が見えたのかも知れない。

 なお隣のお寺は何処にも表示がなく一体何という寺かわからなかったのだが、近所で訪ねたところ薬師堂ということだった。お堂の中には飾られた大きな地蔵さまがいらしたが、これが薬師さんで、後で調べると石像だそうだ。P1060772

 


立派な石像だ。

  もうひとつ気になることがある。岩城神社の案内板を見ると住所が鳴滝となっており、社寺案内などでは鳴滝42と書かれている。インターネットの地図で穴虫を探すとまさにこの地をさすのだが、近所で穴虫の位置を聞くと、穴虫は聞いたことがあるがどこか知らないと言われた。角川地名大辞典字一覧には穴虫は載っているが鳴滝は載っていない。穴虫は小字で鳴滝は大字なのかも知れない。つづく

【作業日誌 9/6】
倉庫作業場の整理
夏野菜整理、秋蒔き準備

【今日のじょん】やっと晴れたかと喜んで散歩に出る。ところが奥の方から雨がやってきて慌てて帰る。以後一日中しびしびと降り続けた。畑も木こりも草刈りも何にもできやしない、イライラがつのる。なんでも明日以降も雨だって、、、。午後少しだけ上がったので畑だけなんとかできた。P1010063



雨がやってくるのがよくわかる

 

 

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日置のこと(21) 穴虫-1 9/5

2013-09-05 | 上林地名考

2013.9.5(木)雨

 「大和の原像」(小川光三著)はいわゆる太陽の道の発見に至る内容で、もっとも感動的な書であった。「雨読」(2913.8.10~12)で既に紹介しているので省するが小川氏の発想力には驚くものがある。多くの読者が三輪山や二上山の不思議に感動しているさなかに、わたしは穴虫峠がいたく気に入った。
 伊勢斎宮に始まる太陽の道は幾多の神社と遺跡を通り、穴虫峠に消える。もちろん更に西に続くのだが、大和から見れば太陽は穴虫峠に落ちるのだ。
 穴虫の由来について、香芝市のホームページでは「穴に伏す低地の地形」ともっともらしいことが書かれているが、小川氏は実に素晴らしい発想をしておられる。

 
 
古代の人々の考えていた宇宙観では、西海に大穴があり、東から出た太陽は天空を横断してこの穴に入り、翌日ふたたび東より現れると信じられていたという。
(中略)とすれば大穴道とは(※事前に大己貴命の語源はオオアナミチではないかと書いている)太陽の落ちる大穴に至る道の意と考えられる。この穴道がアナムチと発音され、やがてアナムシと変化したのが穴虫の語源ではないだろうか。(P56)


 随分斬新な発想で、いわゆる地名の学者には指示されそうにないが、わたしはこの説を信じたい。夢があるとかないとか言うことではなくて、もし穴に伏す低地の地形などという地形地名であったら、もっと数多くある地名となるだろう。確かに深い谷などで穴のような地形は穴谷などという地名が付くことはあるが穴虫というのは無い。
おそらく穴虫なんて地名は他には無いのかもと思っていたところで偶然穴虫地名を見つける事になる。
 太陽の沈む大穴の先は黄泉の国とされ、古墳や御陵、墓地が沢山造成されている。これと同様の状態が、南丹市八木町日置大送神社と美里の西光寺、飯盛山にあるのではと予想を立てた。そのためには古代においては西に当たる園部より、八木町桂川方面が主要な地域でなければならない。
 太陽の落ちるある地域の西の端はそれより西の地域にとっては東の端となるからだ。文化博物館で、丹波国の国府や国分寺跡は亀岡市にあると聞く。
 それで亀岡市付近を地図で調べていて穴虫を見つけたのだ、それも二ヶ所も。P1060764
P1060795



亀岡市にある二ヶ所の穴虫。

【今日のじょん】もう四日間も降り続いただろうか、やっと小康状態となった。上林川の水位も最高値になったので散歩時に河原に下りてみる。一番降ったときにはじょんの居る位置まで来ていたのでさほどという感じだ。P1010060

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日置のこと(20) 畑地名-2 9/4

2013-09-04 | 上林地名考

2013.9.4(水)雨

 高浜町日置(ひき)
 高浜町の日置については同じく青郷内にある小和田が小畑ではないかということを書いたが、もっとストレートに畑が見つかった。日置の東2,5Kmぐらいのところに若狭湾から畑川が南に登っている。やがて牧山の東面に吸収されるのだが、その周囲の細長い地域が畑である。福井県の資料は手持ちが少ないので、畑の詳細はわからないが、地形的には従前に紹介済みの畑と全く同じでこれほどまでの一致に驚いている。次回訪問時にはこの谷に入ってみよう。
Dscn2327




日置神社は元々三松との境付近に在ったという、日置には春秋分の日没が吉坂峠に、夏至の日没が青葉山に落ちる場所があるが、、。

 篠山市日置(ひおき)
 篠山マラソンのコース上で帰路は峠を下りてきて踏
ん張りどころが日置辺りである。手前に籠坊温泉の案内看板があったように思う。日置の東に国道372号線を挟んで北に畑井、南に畑市の地名があり、真ん中に波々伯部神社(ほうかべじんじゃ)という古い神社がありしかも畑市には蛭子神社がある。日置近隣の畑地名としては間違いないが、今まで見つけてきた畑とは地形的には随分違う。
 日置の西に目をやると、対岸に畑川が見つかり、和田、畑宮、奥畑などの地名が続きやがて畑川は畑山(595m)に遡る。兵庫県の資料も無いので詳細は後ほどとして、これぞ探していた畑である。

 綾部市八津合町日置谷(へきだに)
 さていよいよ地元の日置についてだが、こちらばかりは地図だの辞書だのは必要ない。地元だからわかるのだが、畑という地域は無い。近隣ということで中上林地区の字を拾うと、下から高畑、中畑、大畑、広畑、小畑、奥小畑、畑川、御用畑、高畑、畑尻、木和田とある。畑地名がいかに一般的なものかと感じる。一般的な地名ほどその解読は困難である、様々な意味があるからだ。しかし地元の強みですぐにどの畑地名が本命かわかった。
Img_4299



畑口川、この上の右岸に日置殿町がある。

 畑川(大町)、畑尻(市志)である。つまり上林川最大の支流畑口川(はたぐちがわ)の流域こそ畑なのではないだろうか。
 「上林風土記」(上林風土記編纂会)に次の文章がある。
 
 

 
(前文略)実際にこの合流点の遊里寄りには「畑川」の小字名も残っている。古く「はた」と呼ばれた地域→そこを流れる畑川→合流点の畑(川)口、これ流域全体の呼び名として「畑口」(畑河内)となり、さらに畑口川に転化した様子がうかがえる。(P19)
 また上記の論証として以下の事柄を書いている。
 室尾谷神社について、明治16年の神社明細帳では「畑川」にハタゴとルビをふっている。
 水梨十二者権現の鰐口には「上林畑川内水梨村」とある。
 「丹波負笈録」に、上林谷の内畑河内と云所あり 谷奥北より指込なり 其村数 遊里・清水・虫・辻・水梨・市野瀨・市志七ケ也

 実に明快に畑口について書かれている。遊里から上七ヶ村が畑河内(はたごうち)であり、やがて畑口(はたぐち)川という風に変わっていったのだろう。つまり小字の畑川は川そのものは畑川と呼ばれていて、その源流が市志の畑尻なのではないだろうか。Img_3654
 



畑口川源流の市志集落

  畑口川流域が日置に隣接する畑地名の谷だとすると、実に今まで紹介した日置と畑の関係と一致することに驚く。
 さらに気になることは、遊里に日置殿町の小字があることである。上林の日置は日置谷(八津合町、日置と日置村中)と日置殿町(五津合町)の二ヶ所あることになる。
 一応調査対象とした日置については、すべての地域に畑地名の谷が隣接していることがわかった。立地、地形的なことの他に共通点も見いだしているが、これだけのサンプルで判断できるものではない。ましてや現地を訪ねていないところも多く、調査したい事項も多い。もう少し範囲を広げて調査し、現地も訪ねてみたい。
つづく

【今日のじょん】連日雨が続いているが、断続的に強く降っていて不安な情況である。朝少しあがったので川の様子を見に行く。過去の大雨よりは水位は低いが、向山に土砂崩れを発見する。一時的とはいえ強烈な雨が影響しているようだ。P1010058
P1010057

 

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日置のこと(19) 畑地名-1  9/3

2013-09-03 | 上林地名考

2013.9.3(火)雨 

 近隣の日置を調べていて「畑」という地域が隣接していることに気づいた。今後現地訪問をする際に畑も訪れてみたいと思うが、そのことで何かがわかるというような気はしない。日置の共通点としての畑の紹介をするとともに、考察してみたい。現時点では何もわからないが、偶然と言い切るにはあまりにも不思議な一致が見られるのだ。
 宮津市日置
 宮津市日置(ひおき)の中央部を宮津湾から西に畑川が走っている。畑川沿いに府道617号線が走っており、やがて山間部に入ってゆく。その畑川を取り囲む広大な山間部が畑であり、ちょうど日置の山側の部分に当たる。
 角川地名辞典では近世以降の記録しか載っていないが、成姫大明神、猪隼人城墟(丹哥府志)とある。
 気になるのは成姫で、「ナリは古代朝鮮語で太陽のこと」という「西丹波秘境の旅」の一文を思い出す。日韓辞典で見ると太陽はテ ヤンと発音するが、日はナルのようである。
 日置の妙見山(30m)の真東に舞鶴大浦半島田井から突き出た成生岬がある。「西丹波秘境の旅」では太陽の生まれる、つまり日の出の岬と解されているが、一理ある感がする。春分秋分に日置から観察するとこの岬から日の出があることは確かである。日の入りは鼓ヶ岳(569m)の南の峠やや南に落ちる。また冬至の日の入りは丹波国分寺跡の西にあるピーク(112.8m)の落ちる事となる。妙見山上から目視できそうだが定かでは無い。
 宮津市日置は訪れたことはあっても目的が違っていたので、今度はこれらの確認に畑も合わせて行ってみたい。

 福知山市夜久野町日置(へき)
 日置から福知山方面に3Kmほど進み、井田の交差点から畑川沿いに府道707号線を北上し額田の浄水場の先から豊岡市の境の山稜までの広大な地域が畑である。小畑に聖武天皇勅命、天平年間に行基創建の真言宗恵日山神通寺山円満院がある。(角川日本地名大辞典)また大規模な江戸期の製鉄業跡が在ると書かれている。周囲の状況から見ても古代からの産鉄の地でもありそうだ。
 この地もまだ未訪問だが、日置との位置関係が宮津の場合とよく似ている。
西にそびえる居母山(いもやま730.6m)は芋山に意味で鉱山の山かも知れないし、イモリ山の意味で測量の山かも知れない。
東の山稜には龍ヶ城(645.6m)があり、気になる山名だ。

 南丹市八木町日置(ひき)
 この地は何度も訪れているが、畑について調べているわけではなかった。大送神社(おおくりじんじゃ)が美里の西光寺の真東にあることから、太陽観測の地ではないかと調査している。その大送神社に隣の氷所(ひどころ)にある幡日佐神社(はたひさじんじゃ)との間に嫁入りをする夫婦神事が行われている。幡は秦氏にちなむものかという説もあるようで、畑の地名も残っているかと調べてみた。字として東畑、広畑があるが、位置も不明で、河川名もわからない。やはり現地に行ってみないとわからないかと思っていたところ、氷所と逆の北隣に畑地名が見つかった。
 諸畑という地域で、地名辞典で調べていたところ、明治9年に諸木村と畑中村が合併してできたとある。この畑中村こそ本命の畑ではないだろうか。
P1040430

 


初めて日置を訪れた時の写真。左端が諸畑で、高い山が諸木山か。旧畑中村は写真より左。

 諸畑は諸木山の南麓ということだが、寺院の有り様から日置の北隣の谷が旧諸木村でその北の諸木山に突き上げる谷のところが畑中村のようだ。次回訪問の際に確かめてみたい。なお、気になる山名の龍王ヶ岳(498.7m)は氷所の東の山稜にある。つづくP1060822



日置を撮った写真だが、右方に氷所、龍王ヶ岳のようだ。

【今日のじょん】一晩で胃腸の調子も戻ったかなと思っていたら、昨晩はまるで食事を摂らない。前日は鳴っていなかったお腹も昨晩はグルグル鳴りっぱなしだ。今日は思い切り心配になる。今日食べなかったら医者に行こうかなんて言い出した。
夕飯の時間になると、いつものように枕振り回して催促している。
P1010053



回復したかなっと感じるが、いざご飯やるまでわからない。
 いつものようにイタダキ儀式をして、後は祈る思いだ。そーと横目で見ていたら、完食~、いやはや良かった良かった。P1010054


 


  

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日置のこと(18) 9/2

2013-09-02 | 上林地名考

2013.9.2(月)雨 暗中模索-3

 「西丹波秘境の旅」について書いている際に、その参考文献として「丹波文庫」15号を読んだ。その中に上林の古和木や頭巾山(ときんざん)に関する記事として、小和田が登場する。小和田=古和田=大畑=小畠=木幡=桑田=玖賀・久我であって、元々朝鮮語の海(ばた)を意味するというような説である。説の真偽はともかくとして、日置と畑(はた)が関係があるかも知れないというのが調査の発端である。
 畑地名の研究については別項で書くこととして、日置で太陽観測をしていたとして、春分秋分、冬至、夏至の日の出、日の入りの位置、太陽の軌跡を簡単に知る方法を考えた。
P1010046P1010045


 

ラインは千枚通しで引いたが、油性マーカーでわかりやすくしてみたい。

 一般的には地図上に東西線と角度30度の線を引けばわかることだが、あちこちの日置について調べるとしたら何十枚という地図も要るし、いちいち線を引いていたら大変である。地図ソフトを購入すれば可能かも知れないが、パソコンの画面上で簡単にできる方法として、透明アクリル板にそのような線を引いて画面の上に置けるようにした。画面上の地図はスクロールも拡大縮小もできるので、すこぶる簡便に日の出日の入りの位置が解るのである。例えば上林の日置谷から春秋分に日が落ちるのは蓮ヶ峯(はちがみね、544m)であり、冬至の日の入りは河牟奈備神社のあたりとなる。ただし、日置谷の居住地からは目視できないかも知れない。そんな調子で
順次各地の日置についての太陽の軌跡を調べてみたい。
P1010018

 


一番低いところが河牟奈備神社の大宮の峠である。ここに夕日が沈む様子は、中上林で一番素晴らしい風景になると思う。(大町から)

そしてもっとも必要なことは、現地を訪れることだ。既に南丹市、高浜町の日置は訪れているが、必ず何かが発見できて再度訪問することとなる。夜久野町、篠山市、宮津市の日置も訪れたことはあるが、ただ通っただけであったり他の目的で訪れたものだから、日置そのものの調査として訪ねたい。
 その際は地域地形もさることながら、神社や遺跡、伝承伝説なども収集したい。
 それにしても全国に日置はどのくらいあるのだろう、東日本から北には無いそうだが、上林の周辺だけでもこんなにあるのだから相当な数になるだろう。訪れることはできないけれど、あらゆる手段で調べることはできる。やはり各地の日置について調べることも必要だろう。暗中模索だけれどこれらをやっていくことが、日置についての解明の糸口をつかむことだと思う。この項終わり

【今日のじょん】モモ母さんが亡くなって初めてモモが来じょんした。じょんはいつもかわいがってもらっていたから、「なんやモモ母さんがおらへんやないかい」といぶかしがっている。モモはそれでもきれいにしてもらっているし、ぱくぱく食べて元気そうだ。ガンバレヨ。P1010043

 

 

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谷川健一さん逝く 9/1

2013-09-02 | 日記・エッセイ・コラム

2013.9.1(日)雨

 先日森浩一さん死去の記事を書いたと思ったら(2013.8.25)24日に谷川健一さんが亡くなられた、92才である。考古学者でもっとも尊敬する学者が森さんだとすると、民俗学者でもっとも尊敬する学者は谷川さんであった。
 森さんの著書が一番多いと書いていたが、編集された全集などを入れると谷川さんのものが圧倒的に多い。
  亡くなられた後の新聞論評などが出そろってから本記事を書こうと思っていたのだが、森さんほど掲載されることはなく、読売新聞では8月30日の藤井貞和氏の追悼文だけであった。民俗学というものが考古学に比して一般的でないということだろうか。
P1010042

 


谷川さんに関する記事。

 地名や歴史の研究を始めたころ、最初に読んだのが谷川さんの著書である。「日本の地名」「続・日本の地名」「青銅の神の足跡」「白鳥伝説」など、まずは一般的な著書に飛びついたのだが、地名特に金属に関する事柄に関心があったからだろう。やがて、大島のニソの森などに関心を持ち、「森の神の民俗史」などを読むこととなった。モリに関する研究は中途半端になっているが、奥上林などには名の付いたモリがいくつかあるようだが、人々から忘れ去さられようとしている。古文書を解いたり、遺跡を発掘したりの考古や歴史の人気は高いが、民俗学的なものはあまり誰も興味を示さないものなのだろうか。
P1010007

 


谷川さんの著書

「日本の地名」などは辞書のような感じで手元に置いて参考としているが、もっとも大切にしている本は「金属と地名」という谷川さんが編者として書かれている本である。研究会で発表されたものを編集されているのだが、金属に関する地名の集大成の感がある。
 このように金属地名を主体として谷川さんをとらえていたが、谷川民俗学といえば南島研究である。奄美、沖縄大好き人間のわたしも南島研究の書籍は多く読んでいるが、谷川さんのものが無いのは不思議である。
 もっとも読みたいと思っているのが現在全集で発売中の「民衆史の遺産」である。谷川さんと大和書房の大和岩雄氏の編によるものだが、新刊では高価で手が出ない状態である。現在第4巻まで出ているようだが、全15巻までの発行はどうなるのだろう。
 とまれ森さん、谷川さんの新たな説や著書が出てこないというのは、何かとても不安な気になるものだ。

【今日のじょん】じょんの様子がおかしいなと思ったら、夕べの間に戻していた。固形物があったので早い段階に吐いていたと思われる。ちょうどフィラリアの薬を飲ませた後なので気になる。フロントラインや混合ワクチン、狂犬病予防注射など多くの薬物を投与するが果たして安全なものなのか疑えばキリが無い。自分で選んで食べている草だけは信頼できそうだ。P1010041

 

 

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日置のこと(17) 8/31

2013-09-02 | 上林地名考

2013.8.31(土)雨 暗中模索-2

 宮津の日置の南に難波野(なんばの)があり、高浜町の日置の北方に難波江(なばえ)が存在することは知っていた。偶然にしてはできすぎかと思い他の日置についてみてみるが、そのような地名は見当たらない。

 難波というのは”なには”と呼んで日本書紀に神武天皇の船がこの地にさしかかったとき、波が速かったので、”なみはや”といい、後に”なには”と訛ったとある。波が速いというのはいかにも付会のように思えるが、諸説あり、「波・庭」(なには)つまり「海湾」とする説がもっとも妥当に思える。(古代地名語源辞典)いずれにしても海に面した湾状の地であることから、この二ヶ所の難波地名はそっくり当てはまる。
P1020547

 


難波江は穏やかな湾になっており、地名どおりである。

調査する日置を近隣の五ヶ所としたが、それは次の日置である。
 福井県高浜町日置
 福知山市夜久野町日置
 宮津市日置
 南丹市八木町日置
 篠山市日置、
 いづれも日帰りで調査に行けるところなので対象にしたが、豊岡市日高町日置も可能かも知れない。もちろん綾部市八津合町の日置は調査対象の本命である。
 上記の日置について来る日も来る日も地図と地名辞典を繰っていると妙に共通する地名が出てくる。それは畑(はた)である。
 最初に気づいたのは夜久野町と宮津市の日置である。地図を見ていてどちらも近隣に畑という地域があることに気づいたのである。しかしその時点では別段深く考えることも無かった。
次に高浜町の日置を訪れ、国道27号線を舞鶴方面に走ったところに小和田というところを見つけた。もっとも以前に関屋川周辺を訪れた時気づいていたのだが。
Dscn2331

 


小和田は青葉山の麓、国道27号線青の北にある。写真は日置から青葉山
  小和田が気になったのは上林に古和田姓があり、日置谷にも株があるようだからだ。また、市志に木和田、大唐内に木和田、木和田谷の字があるがこれらはキワダと読むのかも知れない。
つづく

【作業日誌 8/31】
ニンニク植え付け
薪割り
P1010039



九条ネギ、ラッキョウ、ニンニクの植え付け終わる。少し畝が余っているので下仁田などの高級ネギやってみるかな。

【今日のじょん】追悼マーブル写真集
兄妹の中で一番写真写りが良いのはマーブルである。じょんとも写真集に載ったこの日の写真は特に写りがよろしい。(2011.8.29)Img_35871
Img_3591

 

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