Vol.15「溶ける糸」はこちら。
障害者を犯罪者に設定することはかなりむずかしい。“政治的に正しい”ことが日本よりもはるかに強く要求されるアメリカでは、それはかなり高いハードルではないかと思う。この事件の犯人は聴覚障害者。製作者たちがそのハードルをクリアするために持ち出した理屈は、
『この犯人を逮捕することができたのは、彼が障害者だったことによる。しかしこの犯人が犯罪を遂行することができたのは、彼が異能の持ち主だったから』
だと最初は考えていた。
ストーリーはこうだ。補聴器を使っているチェスの世界チャンピオンに、元チャンピオンが復帰して挑む試合が設定された(原題は「最も危険な試合」The Most Dangerous Match。松田優作の映画「最も危険な遊戯」をパクッた……わけじゃなくてギャビン・ライアルの「最も危険なゲーム」をひねったんでしょう)。試合前日にレストランで模擬試合を行ない、とても勝てないと考えたチャンピオンは、ホテルのゴミ処理施設に突き落として元チャンプを殺そうとする……
この、模擬試合が最高。フレンチレストランのテーブルの上に、あらゆるツールをならべてチェスが開始される。第一手は胡椒(黒)。応じて塩(白)。エスカルゴの殻まで持ち出されたその勝負の帰趨は、元チャンプの手でノートに記されている(勝敗は黒と白でしか表記されていない)。つまり彼らチャンピオンは、驚異的な記憶力をもっていることがここで視聴者に提示される。犯人はその記憶力を利用し、コロンボは犯人が聴覚をもっていない人間でしかありえない点に着目した……
耳に障害がある登場人物のミステリといえばドルリー・レーンが有名。エラリー・クイーンの「Yの悲劇」でとった彼の行動と、「最後の悲劇」のエンディングを考えると、聴覚障害者はミステリによくなじむ。しかしわたしはこうも思った。障害者は罪を犯さないのか?みんながみんな善良な被害者なのか?そんな思いこみの方がよほど政治的に正しくないんじゃないか。と、若死にしたローレンス・ハーヴェイの端正な顔を見ながら反省したことではありました。コロンボの、名前のない犬が有形無形の大活躍。そちらもしみじみ。
Vol.17「二つの顔」につづく。