旧約聖書の「創世記」に「生めよ、殖えよ、地に満ちよ」という文があります。「創世記」は神が天地を創ったときの記録ですから、そもそも神はすべての生き物を善と見做し、動植物が世界中に広がることを善しとした訳です。その価値観は大洪水のときに神がノアに対してすべての生き物を箱舟に乗せるように命じたことに通じていて、「創世記」の整合性は見事なまでに保たれています。この価値観を極端に解釈すると、グリーンピースみたいに過剰な動物保護に走ってしまいますが、むしろ現代では、すべての生き物ではなくて人類の存続こそが善であると見做されている気がします。つまり人類=善、人類の存続=善、という図式です。そして人類の尊属のために努力すること=正しいことという図式です。これは本当に正しい図式なのでしょうか?
かつて存在した種がその種を保存しなくなると、その現象を「絶滅」と呼びます。ニュースでよく「絶滅危惧種」という言葉を耳にするとおり、絶滅する動物は数多く、そのほとんどの原因は人類の存在にあります。しかし人類が世界中に分布し繁栄する前にも、たとえば恐竜などの多くの動物が絶滅しています。絶滅することはいわゆる「人工的」な現象ではなく、人類の出現以前から日常的にあった理にかなった現象なのです。進化があり、絶滅があり、そうやって地球の生命史が作られてきたわけで、それは特に善でも悪でもなく、人類がエラそうに食い止めるべき事柄ではありません。絶滅するものは絶滅する。絶滅するものを力づくで抑えることには無理があります。たとえば朱鷺が絶滅しそうだからといって、捕まえてきた朱鷺を狭い空間に閉じ込め、無理やりに交尾させて子孫を残そうとするのは、人類のエゴ以外の何物でもありません。
かつて恐竜が絶滅したように、人類もやがて絶滅するときを迎えます。永遠の存在も永遠の価値観も、そんなふうに考えることができるという観念があるだけで、実際には存在し得ません。「永遠の愛」なんてものがないことは、大人はみんな知っています。人類にも「永遠」は存在しないのです。個々の人間の生がどんなに激しく猛々しくともそのうちに死を孕んでいるように、人類の存在も、その存在自体の中に人類の絶滅を孕んでいます。
栄枯盛衰。人類の誕生はある意味必然で、「地球にとって人類はお邪魔虫でしかない」などという言い方をするつもりは毛頭ありませんが、少なくとも人類の存続と繁栄を盲目的に肯定する立場だけは、これからも否定し続けたいと思っています。