1ドル360円の頃、神戸だか函館だかの夜景が「100万ドルの夜景」として喧伝されていて、100万ドルというと3億6000万円でしたから、子供の私は、夜景の電気代が一晩に3億6000万円もかかるんだと思って、何故か感心しました。
その後値上りして「1000万ドルの夜景」と、いきなり10倍の値段になって、その時はすでに1ドルが360円ではなくなっていたので1000万ドルといっても36億円まではいきませんが、それでも一晩の夜景の電気代が10億円以上もかかる訳でして、「100万ドルの夜景」に比べて3倍の金額ということになります。いくらなんでも電気代がそんなには違わないだろうと思い、そこではじめて「100万ドルの夜景」とか「1000万ドルの夜景」とかいうのは電気代のことではなく、夜景の価値を金額で比喩的に表現したものかもしれないと気付いた訳です。そしてその後何年も、あれは比喩的表現なのだと思っていました。
ところが、最近テレビでライトアップされたサグラダファミリアの映像を見て、ふと「100万ドルの夜景」という言葉を思い出し、そこでネットで検索してみると、どうやら比喩ではなかったみたいで、この言葉が生まれた当時の金額で100万ドル以上の電気代がかかっていたとのこと。「1000万ドル」についても、やはり1000万ドル以上かかっていたようです。そうすると「100万ドルの夜景」という言葉の真意は、この夜景には100万ドルの電気代がかかっているのだすごいだろうという成金趣味の自慢か、こんな夜景に100万ドルもの電気代をかけやがってという批判なのか、あるいは一晩の夜景に100万ドルも費すことができるようになったという戦後復興の感想なのか、またはそれらが入り混じったものなのか判然としませんが、単純に夜景のことを表現したものではないことだけはたしかで、意外に奥深い言葉なのかもしれないと感心したという訳です。
「情けは人のためならず」という言葉の意味もずっと誤解していましたし、「役不足」の反対語が「役者不足」であることも最近知ったばかりです。「100万ドルの夜景」がやっぱり電気代のことだったと知って、まだまだ意味合いを取り違えている言葉が沢山あり、知らないまま死んでいくのだなと思いました。