先週の競馬は土曜日のチューリップ賞は1着レーヴディソール、2着ライステラス固定の3連単5点買いがズバッと的中し、日曜日の弥生賞はサダムパテックからの3連単6点買いと馬連のボックスが両方とも的中しました。中山記念から3連勝で、3連単が3回連続で当たるなんてめったにあることではなく、地震でも起きなければいいけどなどと冗談を言っていたら本当に地震が起きてしまいました。
その地震のために3月12日、13日の競馬が中止になりました。まあ、当然でしょうね。茨城があれだけ揺れたら、美浦トレセンの馬たちも落ち着いて入られないでしょうし、こういう状態で競馬を実施するのは非常に危険なので、競馬会の判断は順当です。
天災地変が起こると、新約聖書のヨハネ黙示録を思い出すのは私だけではないでしょう。人々が愛を忘れて自分の利益の追求だけに走ると神の怒りが爆発して災いをもたらすという図式です。もちろん私も神の存在も神の怒りもまったく信じていない無神論者ですが、日本の社会がこれだけ我利我利亡者だらけになると、もしかすると本当に神の怒りかもという気がしてきます。
毎日クレーム対応をしていて4年が過ぎると、対応したクレームの数は3000件をはるかに超えました。中には相当に強烈なモンスターのようなクレーマーもいて、数ヶ月に渡って電話での熾烈なやり取りを続けたこともあります。
共通しているのは、損なわれた自分の利益に対する凄まじい執着です。料理が口に合わなかった、作り直してもらったがやはりおかしい、結局食べずに返金してもらった、返金してもらったが失われた時間は戻ってこないし、不快な思いはいつまでも消えない、どうしてくれるのだ?という程度は当然で、中には自分でシャンパンを鞄にかけたのに、弁償しろと絶叫したり泣き喚いたりする人や、連れの障碍者がレンゲを噛み砕いて口の中が血だらけになると、割れるようなレンゲを置いているのが悪いと、治療費や交通費はもちろんのこと、多額の慰謝料まで請求してくる人もいました。
自分の利益だけにしか興味のない人たちがこれほど増えてしまったのはひとつは小泉改革のせいです。格差を増大させ、すべてを国民の自己責任に帰結させた非人間的な政治。しかしそれは選挙で小泉を圧勝させた国民の責任でもあります。もうひとつはグローバル化という言葉に代表される、日本的な情緒の否定です。終身雇用制度や社内外の個人的な付き合いから生まれる信頼関係がなくなり、評価はすべて金銭的な面で行われるようになりました。
これこれするのは日本だけだ、欧米ではそんなことはしない、という論理があります。欧米のやり方が正しくて日本が間違っているという前提に基づく論理です。なぜ日本が間違っているのかの説明はほぼワンフレーズの簡単なものでしかありません。終身雇用など非合理的だとか、社内外の個人的な付き合いなど馴れ合いにしか過ぎないとか、そういう言い方をしてしまったら、なかなか反論は出来ません。しかし本当は欧米のやり方よりも日本のやり方が優れているかもしれないし、直感的にもそう思うのだけれども、論理的に反駁が難しいので黙ってしまう。すると、欧米型のやり方が社会を蹂躙していくことになります。
その結果、実力主義だかなんだか知りませんが、欧米型の強引なやり方をする人が増えて社会関係に軋轢が生じても誰も何も言いません。言わないけれども組織や社会に修復できないひずみが深く浸透していきます。そして破壊が起きます。それでもまだ、欧米が正しくて日本が間違っているという論理がいまだに大手を振っています。徹底的な成果報酬システムを導入した富士通の失敗を、いまだに誰も学んでいないのです。
聖徳太子の理念は「和をもって尊しとなす」でした。
島国で人と対立していてはうまく生活が出来ない日本人は当然のように人と妥協して和合して、人の機嫌を損ねないようにして生きてきました。自分の権利ばかりを主張する人であふれかえるには、この国は狭すぎるのです。
地震が起きてはじめて、近所の人や地域の人が助けてくれなければ生きていけないことに気がつく人もいるでしょう。飲食店が無料で食料を配っているときに、かつてその飲食店にひどい苦情を言ったことを後悔する人がいるかもしれません。
対価を要求しない無償の行為。無償の行為に感謝されることは人間の喜びのひとつです。しかし最近はそれも難しくなりました。重い荷物を持って坂道を登っているおばあちゃんの荷物を持ってあげようと声をかけると、ギロッと睨まれて「私の荷物に触らないで」と怒られます。人が信じられなくなったからです。それはそうでしょうね、あれだけ振り込み詐欺やその亜流が流行って、それに騙される年寄りが増えれば、人のことを信用できなくなるのも当然です。
なぜそうなったのかと考えると、欧米式の拝金主義に行き当たります。金儲けを至上としていない社会だったら、年寄りを騙して儲けようとする人がこれほど増えなかったでしょうし、年寄りたちも今よりももう少し若い人を信用したかもしれません。
日本社会は、一度地震で壊滅したほうがいいのかもしれません。