三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「Juste la fin du monde」(邦題「たかが世界の終わり」)

2017年02月15日 | 映画・舞台・コンサート

映画「Juste la fin du monde」(邦題「たかが世界の終わり」)を観た。
http://gaga.ne.jp/sekainoowari-xdolan/

 公式サイトや映画.comのストーリー紹介を読むと、───「もうすぐ死ぬ」と家族に伝えるために、12年ぶりに帰郷する人気作家のルイ───と書かれてあるので、知らされた家族の愁嘆場があるんだろうなとなんとなく予測しながら観ていたが、そんな場面はついぞ出てこなかった。
 観終った感想は、よくわからないというのが正直なところだ。この監督は何のためにこの映画を作ったのか、理解しづらい。ひとつの映画を作るのは大変なエネルギーを要するから、それなりの動機があるのは間違いないが、この映画の監督は、テーマを絞るでもなく、誰に焦点を当てるでもなく、ただ家族それぞれの思惑と感情を、表情と会話、それに音楽で淡々と表現しようとする。わかりやすい映画に慣れてしまった観客は戸惑うばかりだ。

 母親は、どうやら理想の家族像みたいなものがあって、美化された思い出とともに、今回の息子の帰郷を楽しく思い出深いものにしたいと思っているようだ。
 兄は、人の会話には茶々を入れるくせに、少しでも自分のことに踏みこんで来られると、怒りの感情を爆発させて、あることないこと怒鳴り散らす。何を言っても同じ反応をするので、この男とコミュニケーションをとるのは至難の業であることがわかる。
 妹は、自分が好きで、他人の気持ちはお構いなし。タトゥーを入れているのはこの女性が自分を飾り、実物以上に見せたい性格であることを表現しているのかもしれない。
 兄嫁はおとなしく、自己主張よりも家族の和を望んでいる女性だが、夫が孤立するのを悲しんでいる。その割に、皆と同じように夫とはまともなコミュニケーションがとれていないようだ。
 そして主人公だ。ゲイの住む地区から引っ越したようだが、若い頃は故郷にホモ相手がいたらしきシーンがある。その相手が死んだと聞かされて、庭に立ち尽して泣く。主人公が感情を見せるのは唯一、そのシーンだけだ。

 結局、家族の会話は少しも噛みあわず、主人公も言いたいことを伝えられないまま、物語は終了する。家を出て行く前のシーンでは、時間を象徴する鳩時計から鳥が飛び出し、壁にぶつかって死ぬが、これを何かの比喩と考えるべきなのかは微妙なところだ。
 時間については、兄嫁が主人公に「いつ?」と聞くシーンがある。フランス語は得意ではないが、多分「Combien temps?」と言っているように聞こえた。「temps」は時間だ。兄嫁が訊きたかったのはデザートを食べにいつ下に降りてくるかということだが、主人公は「いつ?」に反応する。自分はいつ死ぬのか?

 観念論的に言えば、世界は認識している者の認識によって存在していることになる。世界の終わりとは認識の消滅に等しい。自分が死ねば、世界が終わるのだ。
 この映画の世界の終わり(fin du monde)とは、そういう観念論的な考え方なんだろうなとは思う。哲学と世俗の架け橋を映画のシーンにしようとすると、どうしても噛み合わない会話になるのは避けられない。そこまで考えても、やはりよくわからない映画だった。