映画「光」を観た。
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冒頭から結末までひとつの円のように繋がった見事な作品である。
主演の永瀬正敏は去年の映画「64ロクヨン」や「後妻業の女」では物語の鍵を握る重要な役柄を上手に演じていたが、本作品ではさらに一段上の演技に昇華されている印象を受けた。
かつては高い評価を受け、それなりの名声と地位を得たカメラマンが、カメラマンの命とも言うべき視力を失おうとしている。いまは微かに見える視力にすがって、いつまでも見ていたいと願う気持ちがあり、自分は時間を切り取るカメラマンだという自負もある。一方ではまったく見えなくなることへの不安と恐怖がある。非常に難しい役柄だ。
他の登場人物も鋭い洞察力と感性に溢れる役柄ばかりの中で、唯一凡庸な登場人物が相手役の尾崎美佐子で、意図したものかどうか不明だが、プロの中にひとりだけ素人が混ざったような演技をする。最初の打ち合わせのシーンで特にそれが目立った。
劇中映画の監督兼主演役の藤竜也は、大らかで優しい、思索に満ちた役柄で、訪ねてきた美佐子を掌で転がすように応対する。そこにまた美佐子という役柄の軽さが出てしまう。
そういった演技が、映画が進むにつれて彼女の気持ちが変化するのを表現するために必要な演技なのかどうかは評価が分かれるところだが、もしこの見事な映画に僅かな疵があるとすればそこだろう。
しかし美佐子を演じた水崎綾女の演技自体はそれほど悪くない。特に涙を流すシーンは、それぞれのシーンの涙の理由や心情をよく表現できており、美佐子が肩肘を張って仕事を頑張っているプライドだけの女性ではないことがわかる。目に力のある女優さんで、哀しい笑いや嬉しい泣き顔などができるようになれば、もっと演技の幅が広がって、今回の役者陣とも渡り合えるようになるだろう。
映画のハイライトは、カメラマン中森が美佐子に請われて連れて行った山で、これまで大切にしていたローライフレックスの二眼レフを夕陽に向かって投げ捨てるシーンだ。ずっとカメラマンとしての自分にこだわり続けてきたが、見えなくなったいまとなっては、カメラマンとしての生き方を捨て去るしかない。カメラを投げ捨てたのは自分自身にそれを覚悟させるためだ。横にいた美佐子は、捨てたカメラの方向に顔を向けながら黙って佇む中森の表情に、たったいま過去と訣別した男の孤独な魂を見る。そして深く気持ちを揺さぶられる。
冒頭の映画館のシーンの続きがラストにやってくる。美佐子が悩みに悩んだ劇中映画のラストシーンの音声ガイドの言葉だが、ようやくここで結論が出る。劇中映画の終りが映画の終りである。途中でもさんざん涙が流れたのに、この結末にさらに涙が溢れ出る。カンヌ映画祭でスタンディングオベーションが10分も続いた理由がよくわかる。輪を描くようなストーリーと映画のタイトルがひとつになった、忘れ難い印象の作品である。