三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「東京裁判」

2019年08月15日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「東京裁判」を観た。
 http://www.tokyosaiban2019.com

 収穫はたくさんある。ひとつは膨大な資料提供をしてくれたのがアメリカだということ。流石に情報公開の国である。どんな機密情報も30年を経過したら公開するという原則を忠実に守る。日本の官庁が公開する黒塗りの文書とは大違いである。この一点だけでも日本がまだ民主主義国たり得ていないことがわかる。
 もうひとつは玉音放送のすべてを聞くことができたこと。負けた国の元首にしては随分と偉そうな物言いではあるが、当時の天皇は絶対的な権威であったことを考えると、この文言がギリギリだったのかもしれない。
 3つ目は映画館が満席であったこと。若者は見かけなかったが、敗戦の日を翌々日に控えた日にこの映画を見る人がこれほどたくさんいるというのは、戦争に対する問題意識が高まっている証左ではないかと思う。それほど現代の日本はキナ臭いのだ。
 4つ目は東條英機が被告の中で最も愚かであるのが明らかだったこと。他の被告たちが尋問の意図を受け取って堂々と発言しているのに対し、東條は尋問者の揚げ足を取ったり、通訳の日本語がわかりにくいと非難したりする。どこぞの国会での暗愚の宰相が野党の質問をはぐらかしたり下品なヤジを飛ばしたりするのとそっくりである。
 5つ目は、極東国際軍事裁判が極めて特殊な裁判であり、裁判自体の正当性が何に担保されるのかが争われたこと、そして裁判官が戦勝国の法律家ばかりであったことが不公平に当たらないかと法廷内で指摘されたこと。GHQによる一方的な裁判だとばかり思っていたが、法の下の平等、法の不遡及ということについての認識がはっきりしている。
 6つ目は、天皇の戦争責任が否定される法廷であったこと。天皇に戦争責任がなかったことにしたかったのは、天皇の取り巻きや戦時政権ではなく、アメリカの意向であったことが解る。日本人をよく分析して、天皇という権威をそのままに置いておいたほうが日本を統治しやすいと考えた結果であるのは誰もが知っているところだが、東條英機をはじめとした軍官僚たちの中には誰ひとりとして天皇の戦争責任を積極的に否定する者はいなかったのだ。自分が助かるなら場合によっては天皇ひとりに全責任を被せようという肚だったのは明らかである。これもまた、誰ひとりとして責任を取らない自公政権とそっくりだ。

 長時間の映画だが、全く退屈しなかった。それどころか、当時の人々があまりにも普通の人々であり、現在の政治家たちと大差ないことに愕然とした。まさに今の政治家たちも同じように戦争を起こすのではないかと、悪い予感に慄えてしまったのである。


映画「シークレット・スーパースター」

2019年08月15日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「シークレット・スーパースター」を観た。
 http://secret-superstar.com/

 思春期の少年少女の音楽サクセスストーリーの映画はいくつか観た。2015年のイギリス映画「Sing Street」や2015年のフランス映画「La Fammille Belier」(邦題「エール」)などである。しかしイギリスやフランスの子どもたちが遭遇する困難と、インドの田舎の子どもたちが遭遇している困難とでは、かなり質が違うようだ。
 台詞はほぼヒンディ語と思われるが、度々英語が混じる。日本人が英単語を混ぜるように使うのではなく、丸々一文が英語だったりする。愛の告白も英語だ。言語は文化そのものだから、言語が混じるのは文化が混じるということだ。それはいいことだと思う。文化は放っておくと衰退するから、常に変化が必要だが、多文化との交流は変化の引き金になる。インドは多民族国家であり多言語国家だから、文化交流は国内でも盛んである。インド経済が凄まじい発展を遂げているのはそのあたりにも一因があるだろう。
 本作品の主人公インシアは学校へ通える身分だから、カーストは最下位ではなさそうだ。ニカブを着るところを見るとイスラム教の家庭である。父親は日本の家父長制度のように封建主義で暴君ぶりを発揮する。対する母親はどこまでも優しいが、優柔不断で独立心がなく父親の横暴に抵抗できない。インシアをインスゥと呼んで可愛がる。
 ヒンドゥ教ではないのでリーインカーネーションの場面はないが、代々受け継いだ家庭の伝統がある。どちらかと言えば女性の人権を認めないその伝統にインシアは反発し、抜け出そうとしている。そのあたりまでがこの映画の前提として知っておくといいと思う。

 インド映画の俳優女優はみんな歌が上手い。本作品も例外ではなく、インシアの歌はとても上手である。しかし歌が上手な人はこの世にごまんといる。テレビ東京の「カラオケ☆バトル」を見ていると、日本国内だけでも歌の上手い人が沢山いることがわかる。しかし歌が上手いだけでは売れないし食っていけない。本作品もそのあたりは解っていて、映画音楽としての歌が売れたことになっている。だが肝心のその映画が売れたシーンがない。もう少し時間が伸びてもいいから、その映画が大評判になったシーンがいくつかあれば、映画としてよりリアルになっただろうと思う。
 本作品は歌のうまい女の子が成功するだけの話ではなく、現代インドが抱えるカーストの問題、女性の地位の問題を隠しテーマとして伝えている。先日観た「SIR」(邦題「あなたの名前を呼べたなら」)という映画は、カーストの世襲の問題が正面から扱われていた。21世紀も20年近く経過して、異なる文化と宗教が入り混じったインドにおいても、実質的な女性解放の時代、それにカーストの終焉の時代を迎えたのかもしれない。

 主演のザイラー・ワシームは18歳。性格のいい主人公を楽しそうに演じている。柔らかくて声量のある歌は聞いていてとても気持ちがいい。個人的にはサラ・オレインを思い出した。アーミル・カーンのコメディタッチの演技もおかしくて、150分があっという間だった。


映画「よこがお」

2019年08月15日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「よこがお」を観た。
 https://yokogao-movie.jp

 実存的なリアリズムに満ちた作品である。不条理な世界で人は如何に生きていくのか。世の中の不条理はどのように生み出されるのか。
 主人公はどこにでもいそうな普通の女性である。ただ真面目に仕事をして生きてきた。訪問看護婦として、患者の家族から感謝されることで満足している。にもかかわらず自分の責任とは無関係なことで貶められ、非難され、迫害される。挙げ句に行き場を失い世を恨み、理不尽な仕打ちをした人間への復讐ばかり考える。いつ自殺してもおかしくない状況ばかりがつづいて、観ているのが辛くなる。
 現在のシーンと回想シーンの構成が巧みで、辛い映画なのに引き込まれて見入ってしまう。筒井真理子の演技は見事だ。極く普通の善良な人間が不条理な状況に陥り、自暴自棄の衝動と闘いながら生きる姿をリアルに演じる。

 人間は生きている過程で苦痛を味わい、不安と恐怖を覚えていく。不安も恐怖も知らない子供は声も大きく行動も大胆だ。しかし不安を覚え恐怖を覚え恥ずかしさを覚えると、自己抑制が働いて声は小さくなり行動は慎重になる。理性というやつだ。理性は一定の理念からではなく、恐怖から生まれている。恐怖は想像力の産物だから想像力の豊かな人ほど沢山の恐怖を感じて抑制的になる。つまり頭がよくて気が弱い人ほど理性的なのである。理性の働きは感情の手綱を引くことだから、理性的な人ほどストレスフルになる。
 一方で想像力の貧しい、頭の悪い人は恐怖を感じないまま強気に生きる。子供のときのままに声は大きく行動は大胆である。弱気な人を支配することができる。支配は強気と暴力に裏打ちされる。ガキ大将と同じだ。世の中は子供の社会と変わらない。頭の悪い強気なバカな人間が頭がよくて気の弱い人間たちを支配している。バカのうちで運がよかった人間が成功者となり、運が悪かった人間が犯罪者となる。世のトップにいる人間たちは、最悪の犯罪者と本質的には同じ人間なのだ。
 想像力があって気が弱い人間が心の中まで支配されないようにゴータマは恐怖の克服を説き、心の解放を説いた。しかしゴータマが予言したように人間は未だに解放されていない。それどころか支配層の愚鈍化と増長は猖獗を極め、格差はますます広がっている。加えて人々が寛容さを失い、多様性を認めなくなっている。車の運転の仕方が気に食わないと殴るし、承認欲求が満たされなければ大勢が働くビルに火をつける。

 本作品は我々が狂気の時代に生きていることを教えてくれる。時代が狂気なのではない。人間が狂気を内に秘めた時代なのである。それは地殻の下に広がるマントルみたいに、時折マグマとなって噴火する。誰の身に起きても不思議ではない。真面目だった人がある日突然街で無差別に人を殺さないとも限らない。自暴自棄と暴力への衝動は日常に偏在している。マグマを噴火させずに生きていくためには、他人というよりも自分自身を含む人類に対する寛容さが必要だ。目を閉じて深呼吸をして、そして歩き出す。何も求めまい。