映画「The Boy Who Harnessed the Wind」(邦題「風をつかまえた少年」)を観た。
https://longride.jp/kaze/
恥ずかしながら勉強不足でマラウイという国の存在を知らなかった。映画を見る限りではかなり貧しい国で、毎日同じものばかりを食べている印象である。食べていくだけで精一杯の生活で、両親もこの生活がいい生活だとは思っていない。子供たちには自分たちよりもいい暮らしをしてもらいたい。できれば学校にやって知識を身につけて、世の中の役に立つ人になってほしい。そして収入をたくさん得て、毎日の暮らしに汲々としない幸せな人生を送ってほしい。戦後の日本人の両親の願いも同じようであった。
農業は自然を相手の仕事だから、先が読めない。長雨や台風、津波などの自然災害も恐ろしいし、植物には害虫や病気もある。熱帯気候のマラウイでは乾季には作物を育てられない。必ずしも水さえあれば栽培がうまくいく訳ではないが、本作品は乾季に食糧危機に陥る状況を打開するために奮闘する少年を描く。
主人公ウィリアム・カムクワンバは、小学校は行けたが、授業料を払う義務のある中学校へは、頭金を支払った分だけしか通えない。機械の構造などに詳しく、近所の人からラジオの修理を頼まれるほどである。勉強が好きだが、夜は明かりがないから勉強できない。日本で歌われる「蛍の光」は、夏の夜は蛍の光を頼りに、冬の夜は雪あかりを頼りにして勉強したという出だしだが、電気の供給がなくホタルも雪もないマラウイでは、灯油ランプである。しかし灯油を買う金がなければ夜は闇で勉強などできない。
それでもウィリアムは勉強し、やがて乾季の対策を考え出す。普段から真面目で親の仕事を手伝うウィリアムの必死の頼みは、母親をして父親を説得させる。また、姉はウィリアムのために一大決心をする。日頃の行ないは大事である。わかっていても感動する風車のシーンは本作品のハイライトである。ウィリアムは家族だけでなく、地域の人々から信用されていたのだ。
これより先は当方の私的な意見である。意見というよりも偏見かもしれないが、子供を作ることを是とする人にとっては不愉快な見方なので、予めご注意申し上げる。
ひとりの少年の成功物語はそれなりに評価できるし楽しんで鑑賞できたのだが、観ていてひとつ疑問が残った。これほど貧しいのに、どうして子供を作るのかという疑問である。人間には子供を生む自由と生まない自由がある。貧しくて子供を育てられないなら子供を作らない選択肢もあったはずだ。人間以外の生物は、自己複製のシステムとしての生物だから新たな生命を誕生させようとする。しかし人間だけには子供を生まない選択をする能力と自由がある。
先進国では日本を筆頭に、少子化がはじまっている。生まない自由を行使する人が増えたということだ。子供がいなければいじめられる心配もないし、よその子供をいじめる心配もない。育児ノイローゼもないし教育費もかからない。大人になって殺人を犯したりする心配もない。自分が歳を取って要介護になったときに、子供に負担をかけることもない。子供がいれば沢山の喜びがあるが、ハイリスクハイリターンなのである。
悪魔パーピマンはゴータマに「子のある者は子について喜び、また牛のある者は牛について喜ぶ。人間の執著するもとのものは喜びである。執著するもとのもののない人は実に喜ぶことがない」と言ったが、ゴータマは「子のある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執著するもとのものである。執著するもとのもののない人は、憂うることがない」と答えた。
子供を生むのもよし、生まないのもよし。個人の自由である。ただ子供が与えてくれる喜びだけを考えるのではなく、子供がいることで生じるリスクについても考える必要があるのではないかと思う。女性は子供を2人以上産めなどと人権無視の発言をする阿呆な政治家や教員もいるが、人類の存続や共同体の存続の責務を個人が背負う謂れはない。
人口爆発を続ける途上国では乳幼児が多くの割合で死亡する。餓死する人たちもあれば政府に虐殺される人たちもいる。ボロ布のように失われていくそれらの命のひとつひとつが、アメリカ合州国大統領の命と同じ重さであることをよく考えなければならないと思う。